【第40話】幼馴染の僕らに、さよならを告げる口づけ
「明日、デートしよう」
「……うん。……うん?」
「スポッチャ行くから、動きやすい服装で十時に駅前集合な。それじゃ」
「……うん?」
一方的に約束を取り付け、サッシを閉める。
閉ざしたガラスの向こうから「おーい」と遅れて届いた声を無視して、俺はカーテンを引いた。
部のグループチャットに「明日は私用で休む。部室の使用は自由」とだけ打ち込み、悠斗と坂口には個別に「ありがとう」と短く送る。
やるべきことは終わった。
俺は深く息を吐き、明日に備えて目を閉じた。
◆ 《紡木 陽向》
今の私の頭の中には、いくつもの感嘆符と疑問符が乱舞している。
なんて勝手なやつ。こっちの都合も、心の準備も、全部置き去りにして。
けれど、窓越しに見た最後の駿くんの顔は、どこかあどけなく、幼い頃の面影を宿していた。
心臓が、喉の奥を叩くように強く脈打つ。
「急にデートだなんて言われても、女の子は困るんだからね」
クローゼットの鏡に向かって、誰にともなく毒づく。
映し出された自分の顔は、他所様にはとても見せられないほど、だらしなく緩んでいた。
この夏、胸に溜まっていた泥のような澱が、たった数秒の強引な誘いだけで、嘘のように溶けていく。
期待という名の熱が、指先まで痺れさせていた。
◆ 《西村 駿》
約束の十五分前。陽向は俺の姿を見つけると、小走りで近づいてきた。
ダークブラウンのボブを低い位置でゆるく結び、淡いピンクのTシャツにベージュのハイウエストショートパンツ。
見慣れたはずの幼馴染。
けれど、その活発な装いが、真夏の光に弾けて眩しく映る。
「遊びに行くなら家からでも良かったじゃない」
「それじゃデートっぽくないだろ。雰囲気も大事なんだよ」
「そ、それはそうだけど」
「暑くないか? ほら、ハンカチ」
「ありがと。自分のあるけど、せっかくだから借りちゃう」
「今日はとことん勝負するぞ。トータルで負けたらソフトクリーム奢りな」
「駿くん、いつもより子供っぽいよ」
「そういう気分なんだよ。昨日は楽しみで寝付きが良くなかった」
「何それ。……私もだけど」
「それじゃ、行くか」
「うん」
「陽向」
「んー?」
「水着もだけど、そういう活発な格好も……可愛いぞ」
「あ、ありがとう。珍しいね、褒めてくれるなんて」
「普段が一番だから、わざわざ言わなかっただけだ」
「……ふ、ふーん」
◆ 《紡木 陽向》
「1on1するぞ!」
「駿くん、バスケなんてできたっけ?」
「二人なんだから、入ったもの勝ちでいいだろ。俺からいくよ」
「いきなり始めないで! って、すぐシュート……ずるい! あ、でも外した」
「入ると思ったんだけどな」
「よし、先に取れた! それ!」
「へったくそ」
「うるさいですー」
「ドリブルってこんな難しかったっけ」
「それじゃ『あんたがたどこさ』だよ。悲しいね、駿くん」
「じゃあ、陽向やってみろよ」
「じゃあ、シュート。……今度は入った!」
「今のドリブルする流れだよね? 仕切り直していくぞ」
「駿くん、それダブルドリブルだよ」
◆ 《西村 駿》
「あーもう! ゲームならバナナとか色々できるのに!」
「俺は前に負けた恨みを忘れてないぞ」
「やー! ぶつかってくるのやめて! 本物だと怖いって!」
「陽向、遅すぎ。子供にも抜かれてるぞ」
「だって! 早いの! 怖い!」
「これ、邪魔するまでもないな。ほら、しっかりハンドル握って、アクセル踏んで」
「これ以上早くするの無理!」
「大きい乗り物だと大丈夫なのに、なんでこういうのは体感速度が上がるんだろうな」
「そんなの考える余裕ないよー!」
◆ 《紡木 陽向》
「……ねえ、駿くん。さっきから一回も入ってないよ」
「分かってる。台が傾いてるんじゃないか?」
「そんなわけないでしょ。ほら、次は私。……えい」
「あ、おい。……入った」
「よし! 駿くん、キューの持ち方が硬いんだよ。もっと力抜かないと」
「台の癖を読んでるだけだ。次は外さない」
「はいはい。そう言ってさっきから手前の球にすら当たってないでしょ。カメラ持ってない時の駿くんって、案外どんくさいよね」
「うるさいな。ほら、どいて。次は九番を狙う」
「えー、あんな難しいの狙わないでよ。大人しく手前を入れなよ」
「いいから見てろ。……あ」
「あーあ、白い球だけ穴に落ちちゃった。下手くそ。はい、交代」
「下手じゃないし。キューが折れてるんだし」
「今の駿くん、すっごいかっこ悪かったよ。じゃあ、これで終わりね。……えい」
「まじか。今の、クッションに跳ね返させて九番入れたの、プロじゃない?」
「いや、このくらいは普通にできるでしょ。とにかく私の勝ち!」
◆ 《西村 駿》
「陽向、先にサーブ打っていいぞ」
「いいの? 負けても知らないよ。それ!」
「あ、おい。今のは台の角に当たっただろ。ずるいぞ」
「カドも台のうち。駿くん、反応鈍いよ。ほら、次いくよ」
「分かってる。次はちゃんと返す」
「はい、返した。ほら、もっと右。あ、今の取れないんだ」
「今の、わざと曲げただろ。ラケットの端にしか当たらなかったぞ」
「そういう打ち方なの」
「偶然をやってやった感出して言うな。次は本気でいくぞ。ほら、取ってみろ」
「わ、強烈。でも、返せるよ。えい」
「あ、ネットに当たって……。今の入るのかよ」
「ふふ、運も実力のうち。私の勝ち!」
「……というか、これ何点先取でやってたんだ? 誰も数えてないだろ」
「え、駿くん数えてなかったの? 私も忘れてた」
◆ 《紡木 陽向》
「ここ、初めて来た。ネットで調べたの?」
「うん。元フレンチのシェフやってた人が、レストランをやりたくて開いたんだって」
「値段も手頃だね」
「日替わりランチが肉と魚のワンプレートで両方、コーヒー付きで千円。これどうなの?」
「私たちが気軽に来れるほどじゃないけど、会社勤めの人が週に一、二回ならって感じかな」
「内装も落ち着いてて、俺たちだと少し背伸びしてますって見えるかもな」
「たまにはいいじゃん。私はこういうとこ好きだよ。よく見つけたね」
「デートなら、ファミレスじゃないところがいいんだろ?」
「……不意打ちでそういうこと言うの、禁止」
◆ 《西村 駿》
食事を終え、涼みがてらショッピングモールをぶらついてからの帰り道。
予定では食事で終わるはずだった。けれど、久しぶりすぎる二人の空気に名残惜しさを感じ、どちらからともなく足を遅らせ、帰ることを拒んでいた。
「今日は楽しかったー。駿くん、誘ってくれてありがとうね」
「いや」
「急に口数が減ったね。久しぶりの運動で疲れた?」
「それもあるんだけどな」
陽向が相手でも、いや、陽向だからこそ、喉が渇くほど緊張する。
遊んでいる時は夢中だったが、今は隣で饒舌に笑う陽向が、眩しくて直視できない。
この感情を自覚してから、心拍が不自然なほど高いまま収まらない。
この空気のまま、ずっと歩き続けたい。けれど、言わなければならないことがあった。
「ごめんな」
「んー? 何が?」
「つまらなかっただろ。この夏休み」
「……うん。今までで、最低の夏休みだった」
幼稚園の頃から、長期休暇はずっと隣にいた。別行動の日でも食事は一緒で、顔を合わせない、話さない日なんて存在しなかった。
それが当たり前すぎて、俺たちはその異常さに気づかなかった。
陽向にとって、他の女性を優先され、心配していた人物写真も自分以外の被写体で解決され、置き去りにされた日々。それはどれほどの苦痛だっただろう。
もし立場が逆だったら、俺はきっと以前のように陽向に当たり散らしていたかもしれない。
「今日で、少しは取り戻せたかな」
「まだ、足りない。でもね、最悪だった夏休みのおかげで、気づけたこともあったんだよ。それだけは、感謝かな」
二人の歩幅が、重なるように狭まっていく。
「どんなこと?」
「うーん、教えてもいいんだけどね」
陽向が一歩、踏み込んでくる。見つめてくる瞳は、潤んだ熱を帯びていた。
「でも、上手く……言えないかもしれないから」
視線を逸らすことができない。その熱量に、足が地面に縫い付けられて、動けない。
「だから、ね」
陽向の両手が、そっと俺の肩に乗った。
至近距離。汗と柑橘の入り混じった甘い匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
こんなに間近で、ひなちゃんの顔を見るのは、いつぶりだろう。
十秒。幸せに、包まれる。
二十秒。これまでの、十六年の想いが唇の柔らかさで伝わってくる。
三十秒?もう、分からない――ひなちゃんが、はなれる。
「これで、足りたよ。それで、私たちの十六年の、終わり」
体温の上がったひなちゃんの、真っ赤な顔。
重なった唇の温もりが、脳を白く塗りつぶしていく。
消えてほしくないと願う端から、柔らかな感触が離れていく。
「しゅんくん、今まで、ありがとう」
動けなくなった僕を置き去りにして、ひなちゃんは、白く弾ける眩い陽炎の向こうへと走り去った。
途中の視点切り替えは演出ではなく、私のお遊びです。すみません。
残り十話、よろしくお願いします。




