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歪な砂時計の落ちる先 ―幼馴染のまどろみが終わる時、僕たちは絶望を抱きしめる―  作者: みるとべる
あの夏の残響

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【第36話】不完全な僕らの、重なり合わない本音

 民泊に戻ってからも、肺の奥に形を成さない熱が居座り続けていた。

 人物を捉えたという指先の残響。無意識にシャッターを切らせた沙耶ちゃんの、暴力的なまでの存在感。それらと背中合わせに、陽向への名前のない罪悪感が喉の奥をせり上がってくる。

 一日中レンズを覗き続け、俺の脳内ではF値が極限まで絞り込まれているような感覚があった。あの白濁した水の音に包まれた瞬間、俺は確かに世界と一体化していた。美しいものをすべて奪い去りたいという、あの剥き出しの全能感。

 それを指先で必死に繋ぎ止めようとしても、意識の端からスルスルと音を立てて零れ落ちていく。


「駿、どうかしたのか。撮影しっ放しで疲れが出たのか?」


 悠斗の低い声が、俺の意識を強引に現実に引き戻した。

「……まあ、そんなところ」

 生返事で濁すが、視線はどこか宙を彷徨っている。

 台所からはジビエカレーのスパイスの香りが漂い始めていた。料理好きな陽向は、オーナーの手伝いに喜び勇んで向かっている。

 坂口と陸はカヌーの興奮を冷ますことなく語り続けていた。

 ふと視線をうろつかせると、沙耶ちゃんと目が合う。彼女は弾かれたように肩を揺らし、耳まで赤く染めて視線を逸らした。

 そのあからさまな反応に、悠斗がやれやれといった風に首を振る。俺たち二人の間に何かがあったことを、彼は敏感に悟ったようだった。



 交代で風呂を済ませた、就寝前の静寂。

 悠斗は坂口と夜景を見に行くと連れ立って出ていった。

 部屋に残った俺は、陸と向かい合ってデータの整理を始める。不意にいつかのバーガーノートでの光景を思い出し、背筋に薄寒い感触が走った。


「せーんぱい。今日なんかいいことあったんスか? 主に沙耶さんと」


 ほらきた。絶対タイミング狙ってたぞ、こいつ。


「午前回れなかったところを撮影してきただけだって夕飯の時にも言っただろ」

「それだけじゃないですよね。先輩いつもと様子が違いますから」

「いい写真が色々撮れたから浮かれてただけだよ」


 あの写真のことだけは、絶対に知られるわけにいかない。

 ここに戻って早々に、俺はデータをタブレットに移し、カメラのメモリーからは削除していた。証拠を隠滅するようなその手つきを思い出し、掌に嫌な汗が滲む。


「ほら、カメラ渡すから見ればいい。いい写真かなり撮れたから」

 嘘は言っていない。本当のことをすべて言っていないだけだ。


 陸は無言でカメラを受け取り、モニターを操作し始めた。

「うっわマジだ。いいですね、これ」

 感嘆の声。褒められることは素直に嬉しいが、今の俺には安堵の方が大きい。

 手元にあったジンジャーエールを流し込み、刺激で喉を潤す。なんとか誤魔化しきれたことに胸をなでおろす。


「でも、沙耶さんも様子がおかしかったんですよね。いつにもまして挙動不審だったというか」


 喉に詰まって噎せそうになるのを堪えるのに必死だった。以前もそうだが、こいつ狙ってるとしか思えないだろ。

「疲れたんじゃないか? 俺たちの中で一番体力無いのに頑張ってくれたし」

「いや、あの感じはそういうのじゃないっスね。表情がころころ変わってましたから」

「お前、よく見てんのな」


 呆れ混じりにそう返したが、陸は急にトーンを落とし、真面目な口調に切り替えた。


「そりゃ惚れてますから。あんな可愛くなった彼女を見過ごせるわけありません」


 真っ直ぐな、射抜くような視線。

 俺はもう気づいている。こいつが語尾に「っス」をつけるのは空気を和ませるための振る舞いで、本当はこうして普通に話せるのだということを。


「先輩が言いたくないならそれでいいです。俺は今は部外者で見ているだけですから」

「……何が言いたいんだよ」

「この先、どうにかなる前に沙耶さんが泣くことになっても、それは沙耶さんの責任です。彼女も覚悟の上でしょうから」


 陸は俺の目を真っ直ぐに見据え、言葉を重ねる。


「でも踏み込みすぎて境界線を超えて、そのうえで沙耶さんを傷つけるなら、駿先輩だろうと俺は許しません」


 分かっている。

 選ばないといけない俺と、選ばれなかった陸。

 辛いのがどちらかなんてことは。


「二人が手遅れになる前に、先輩がどちらかを好きになれればいいですね」


 俺は何も言い返すことができなかった。

 温くなった瓶を握りしめたまま、ただ重い沈黙を受け入れることしかできなかった。


◆ 《石田沙耶》


 私の幸せの絶頂は、日々が重なるごとに上書きされ、更新されていく。今日はそれが決定的な事実として、私の魂に刻み込まれたような一日だった。


 水着を買った夏休みの初日、これ以上の幸福はもう望めないかと思っていた。けれど、紡木先輩と駿先輩の間に横たわる不可侵で濃密な時間の深さを目の当たりにして、初めて自分の中に「悔しい」という鋭い感情が芽生えた。

 今のままでも十分に幸せ。けれど、もっと欲張りたい。そう突き動かされた私は、翌日、一度手にした水着を返品し、思い切ってビキニを買い直した。

 我ながら無謀な試みだったとは思う。けれど、それを駿先輩の視界に入れられたことは、皮膚が焼けるような熱を伴う喜びだった。

 それでも、駿先輩の瞳が本当は誰を追っているのか、残酷なほどに分かってしまったから。また悔しさが胸の奥を焦がした。それが、午後の私がなりふり構わず積極的になれたきっかけだったのかもしれない。


 駿先輩はファインダーを覗く時、いつも峻烈な孤独を纏っていて。けれど時折、私をその懐へと招き入れてくれる。そんな「二人」にも満たない、けれど密やかな時間を共有できた瞬間、私の視界は白飛びした。

 あの轟音の中で撮ってくれた先輩の写真は、私の知らない私だった。そこにいていいのだと、存在を全肯定されているような。高鳴る胸をさらに膨張させる、麻薬のような一枚。

 もちろん、先輩に頼み込んでデータは保管してある。それはきっと、私の人生を支える一生の宝物になる。


 坂口先輩が大野先輩と「夜のデート」だと言って出ていった。

 部屋には今、紡木先輩と二人きり。

 紡木先輩は駿先輩への想いを「分からない」と言葉を言っていたけれど、彼を見つめる瞳には、慈愛と情欲が混ざり合った、熱く、深い色が宿っている。それは私には、決して辿り着けない境地。

 そんな紡木先輩と同じ人を見続けることは、甘い嬉しさと、心臓を握り潰されるような怖さの両方を伴っていた。


「沙耶ちゃん、帰ってからずっとそわそわしてたね」


 紡木先輩の言葉に、心臓が跳ねた。心当たりが、ありすぎた。

「そんなに、分かりやすかったですか?」

「うん。辺りをずっとキョロキョロしてたし、たまに駿くんを見ては目を背けたり赤くなったり。可愛かったよ」


 くすりと喉を鳴らして笑う先輩。私はたまらず、吐息を漏らして肩を落とした。

「まだ慣れてないと言いますか、余裕がないと言いますか。……子供ですよね、私」

「今はそれでいいと思うよ。私たちがいる間は、守ってあげられるんだから」


 紡木先輩は優しく微笑み返してくれる。その完成された大人びた佇まいに、私はまた、眩暈がするほどの憧れを抱いてしまう。


「そう言えば、先輩と二人で話すの、初めてですね」

「そうかも。大体璃奈か駿くんが一緒にいたもんね」


 指先が微かに震えるほどの緊張。けれど、先輩の笑顔には、凍えた指を温めるような安心感がある。紡木先輩と坂口先輩は、私の世界の色を根底から変えてくれた。駿先輩のことがあっても、やはり私は、紡木先輩が大好きなのだと思う。


「沙耶ちゃんは、ほんと駿くんが大好きなんだねえ」


 微睡みと優しさに満ちた、うっとりとするような笑顔。その美しさに見惚れてしまい、私は呼吸を忘れた。

「……は、はい」


 返事をするのがやっとだった。向けられた感情の質量に圧倒されてしまう。駿先輩はいつも、こんなに綺麗な人と隣り合っているのだと思うと、自分がひどく矮小な存在に思えてくる。


 でも、もう悔しい思いはしたくない。駿先輩の隣に立つということは、紡木先輩の隣に立つということだから。

 あの液晶に映った自分を思い出し、撮られた瞬間の熱を呼び起こして、勇気を振り絞る。

「最初は、好きでいられるだけで、幸せでした。それ以上を望んでは、いませんでした」


 一つひとつの言葉を、肺の奥から絞り出すように。

「でも今は、それだけでは満足できなくて。形はどうあれ、一緒にいたいと思ってます」


 紡木先輩は真剣な眼差しで、私の覚束ない言葉を、一つも零さず受け止めてくれていた。

「沙耶ちゃんは、眩しいね。私に無いものを、いっぱい持ってて羨ましい」

「そんなことないです」


 羨ましいのは私の方だ。美貌も、性格も、積み上げてきた関係も。すべてを持っている先輩が、私の何を羨むというのだろう。

「ほんとはね、沙耶ちゃんに言ってあげたい。私も駿くんが好きだから渡したくない。私は沙耶ちゃんの恋敵なんだよって」


 先輩の唇から、先ほどまでの柔らかな微笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、ひどく寂しげな苦笑いだ。

「でもね、付き合いが長すぎちゃって、拗れちゃった。駿くんの隣にいたい。それだけは誰にも負けない。けど、それが沙耶ちゃんと同じ気持ちなのか、私には分からないんだ」


 布団に寝そべり、紡木先輩は枕に顔を埋めた。

 その背中は、声もなく泣いているように見えた。


 そこには、私には絶対に理解できない、巨大な断絶があった。

 十六年という歳月をかけて、当たり前のように隣にあった関係が、形を変えて失われていく。そこにある絶望の深さを、最近輪の中に入れてもらったばかりの私が、知ったかぶりをして介入する隙間など、あるはずがない。


「ごめんね、暗い話にしちゃって」


 再び顔を上げた先輩は、いつの間にか笑顔の仮面を付け直して、私に向かって手を合わせた。

「いえ、嬉しいです。先輩が、色々話してくれて」


 本当だ。悩みを理解してあげることも、共感することすら許されない。けれど、私を対等な存在として認めてくれているのだということは、痛いくらいに伝わってきた。だから、これだけは言える。


「私は、陽向先輩も、大好きです。私の想いがもし駿先輩に通じなくても、その相手が陽向先輩なら、私は後悔なんてしません」

「沙耶ちゃん。初めて名前で呼んでくれたね。嬉しい」


 陽向先輩の両腕に包まれる。石鹸の香りと、柔らかな体温。その居心地の良さに、心が蕩けそうになってしまう。けれど、その幸福感を切り裂くように、先輩の声が耳元で響いた。


「今の私はね、駿くんが立派なプロの写真家になるのを見届けるのが目標なんだ。そのためなら、私はどうでもいい。”駿くんが人物写真を撮るために、私のできることをしたい”」


 その言葉に、私の身体が強張る。

 悲しいまでのすれ違い。

 私が駿先輩に撮られたことを、この人はまだ知らない。

 自分のしてきたことに後悔はないけれど、私は自分を抱きしめる陽向先輩に、沈黙を返すことしかできなかった。


34~36話は同一日の出来事なので、タイトル前半を「不完全な僕らの」で統一しております。

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