【第33話】聖域を離れた僕らの、不確かな期待の始動
合宿スタートです。
アスファルトが陽炎を上げ、蝉の声が耳の奥を掻きむしるような盛夏の午後。
東ヶ丘から電車を乗り継ぎ、一時間少々。
俺たちは、緑の濃い山々に囲まれた、静かな渓谷へと降り立った。
駅のホームに降りた瞬間に感じたのは、都会のそれとは違う、肺を直接湿らせるような濃密な草木の匂いだ。
駅から民泊までは歩いて十分ほど。照りつける日差しを遮るものもなく、宿に辿り着く頃には、全員が額に汗を滲ませていた。
俺はあらかじめ、他の四人に個別のチャットを送っておいた。
沙耶ちゃんの抱える複雑な家庭事情については一言も触れず、ただ「到着したら、礼儀正しく、丁寧に挨拶をしよう」とだけ。
彼らはその真意を深く問うことなく、ただ短く了解を返してくれた。その適度な距離感が、部長という立場にいる今の俺にはありがたかった。
辿り着いたのは、築年数を経た重厚な平屋の日本家屋だった。
出迎えてくれた沙耶ちゃんの親戚夫妻は、どこか険のある、それでいて彼女を見つめる眼差しにだけは深い情愛を湛えた人たちだった。
「初めまして。写真部部長の西村駿です。この度は、石田さんの紹介でお世話になります」
俺が代表して頭を下げると、他の四人もそれに倣って丁寧に挨拶を交わす。
夫妻の視線が、どこか品定めをするように、けれど心配そうに沙耶ちゃんへと向けられた。
彼女は緊張で肩を強張らせ、ワンピースの裾を強く握りしめている。
かつての「図書室の背景」だった彼女が、どれほど勇気を出してここへ連れてきてくれたか。
俺は一歩前に出て、夫妻の目を真っ直ぐに見据えた。
「今の彼女は、もう一人の世界に閉じこもったりはしません。写真部の、大切な仲間です。……彼女のおかげで、俺たちは最高の夏にできそうです」
沙耶ちゃんの喉が、小さく鳴ったのが分かった。
夫妻の表情がふっと緩む。
隣で、陽向が僅かに視線を落とした。
俺が誰かを守るために言葉を尽くす姿。それが彼女の目にどう映っているのか、今の俺には測りかねた。
◆
荷解きを終え、民泊のすぐ裏手を流れる河原へと繰り出した。
悠斗と坂口が慣れた手つきでバーベキューコンロを組み立て、陸が「盛り上げ担当っス!」と騒ぎながらクーラーボックスから飲み物を出していく。
炭の爆ぜる音と、肉の焼ける重たい脂の匂いが辺りに漂い始めた。
「ほら陸、遊んでないで火加減見ろよ。焦げたらお前の分は無しだぞ」
「そんな殺生な、悠斗先輩! 俺の情熱的なうちわ捌きを見てくださいっス!」
陸がふざけて扇ぐと、火の粉が舞い、坂口が「熱いってば!」と笑いながら彼を小突く。
俺と陽向は、意識的に「適切な距離」を保っていた。
かつてなら、箸を渡すタイミングも、飲み物を差し出す瞬間も、呼吸をするように重なっていた。
けれど今の俺たちは、わざと言葉という不確かなフィルターを通して、互いの意思を確認していた。
「駿くん、野菜焼けたよ。食べる?」
「ああ。サンキュ。……陽向も食べろよ」
「うん、ありがとう。あ、これ。大野くんが『駿には多めに肉を回せ』って」
「あいつ、余計なことを」
差し出された皿を受け取る際、指先が触れそうになり、反射的に僅かな空白が生じる。
交わされる言葉は、あまりに「正しい”友だち”」のそれで。
けれど、視線が重なるたびに、その裏側にある名前の付かない「熱」のようなものが、煙に巻われてどろりと溶け出すのを感じる。
沙耶ちゃんはそんな俺たちの様子に、どこか感じ入るところがありながらも、自らも輪に入ろうと懸命に努めていた。
「駿先輩、このトウモロコシ、すごく甘いです! 先輩も一口どうですか?」
「お、いいな。ん、本当だ。これは当たりだね」
沙耶ちゃんの屈託のない笑顔が、沈殿しそうになる空気をわずかに攪拌してくれる。
夕闇が迫り、河原のせせらぎが夜の冷気を運んでくる頃。
俺たちの体には、バーベキューの煙と、拭いきれない微かな違和感が、薄く層を成して付着していた。
◆
食後、落ち着いた夜の時間。
網戸越しに響く虫の声と、蚊取り線香の匂いが立ち込める広間。
座布団を並べ、小さな照明を囲む俺たちは、合宿の本題である文化祭の展示について語り始めた。
俺は、ノートを広げて全員を見渡した。
「まず、俺から提案させてほしい。今回のコンセプト名は、『あの夏の残響』にしようと思う」
全員の視線が俺のノートに集まる。
「ただ展示して終わりじゃなくて、行ったことのない人でも、展示を周ることで来たことのある既視感を抱ける。そんな空間にしたいんだ」
一旦そこで言葉を切り、具体的な話に移る。
「ブルーシートとアクリル板で水面を再現して、写真は天井からテグスで吊り下げる。来場者が写真の間を縫って歩くことで、旅行気分を味わえる没入型の展示」
俺の言葉に、沙耶ちゃんが深く頷き、言葉を添えた。
「私、この場所の空気を、そのまま学校に持っていきたいと思っていました」
俺の次に写真への気持ちが強い沙耶ちゃんは、俺の考えをすぐに理解できたのだろう。
「歩きながら写真を眺めることで、ここを知らない人にも知ってもらえるような、そんな場所にしたいです」
引き継いでくれた言葉は、俺の考えそのものと言ってもよかった。
「それなら、聴覚も刺激しましょうっス」
陸が身を乗り出す。
「現地で録音した川の音に、あえて遠くの笑い声や、カメラのシャッター音を流したりして。視覚以外にも、リアリティを耳から侵入させたいっスね」
場を和ませる陸だからこその意見に、俺も耳を傾ける。
すると、それまで黙って聞いていた陽向が、視線を落としたままぽつりと呟いた。
「匂いや温度。今、私たちが肌で感じているこの空気を、そのまま再現したい」
「匂い?」
坂口が不思議そうに聞き返す。
「湿った石の匂いをアロマで再現したり、不意に訪れる肌寒さを演出したり。そういう、理屈じゃない感覚で、私たちの想いを伝えたい」
視覚と音、そして匂いと体感。五感すべてを使ってこの場所を再構築する。自分一人では辿り着けなかった発想に、胸が高鳴るのを感じた。
「展示室に入った瞬間に、いつもと違う風景が広がって今日ここに来た感動を味わえる。そんな仕掛けがあれば、もっと伝わると思うから」
陽向の言葉には、他の誰よりも重い「熱」が宿っていた。
陽向なりに、この合宿に対する強い気持ちが感じられた。
「面白いじゃない。予算とシフト管理は任せて。必ず形にしてみせるから」
坂口が力強く頷き、悠斗が「設営の時間も計算しておかないとな」と笑う。
完璧な企画だった。
けれど、完璧であればあるほど、俺の中にかかるプレッシャーが強い圧へと変貌する。
今の俺に、皆の期待に応えられるような写真が撮れるだろうか。
この『あの夏の残響』の主役となるべき、決定的な一枚。それが何かをまだ掴めていない。
会議が終わり、解散する間際。
立ち上がろうとした俺の指先が、偶然、陽向の腕に触れた。
驚くほど熱い体温。
陽向は拒むことも、避けることもせず、ただ熱を帯びた瞳で俺をじっと見つめ返した。その視線の重さに、俺は心臓が跳ねるのを自覚した。
不確かな期待を胸に灯したまま、俺たちの夏が、今ここから静かに動き出そうとしていた。




