【第28話】 殻に籠もった僕らの、最初の一歩
期末試験が終わった七月中旬。
教室には夏休みを目前にした解放感が満ちていたけれど、俺の耳に届く笑い声はすべて、解像度の低い雑音のようにしか聞こえなかった。
返ってきた答案用紙はバツばかり。
試験勉強もしければ、授業にも身が入らなかった。赤点がなかったことだけが、奇跡に近い。
陽向とは、あの日以来、全く話をしていない。互いに目も合わせていない。
陽向は悪い意味で我が強い。誰かを笑顔にしたいという強い欲求の中に、自分自身は含まれないのだ。
だから何かが起きるとすべて自分のせいだと受け止め、自罰的な振る舞いを行う。
普段なら俺がフォローすることで彼女を繋ぎ止めていたが、今の俺には、その自信も、彼女への接し方も分からなくなってしまっていた。
悠斗や坂口が心配そうに話しかけてくるが、俺はそれらすべてを受け流した。
今の俺にできることは、彼らから距離を取り、自分という空虚な存在を隠すことだけだった。
だが、再開した部活はそうはいかない。部長としての責任が、かろうじて俺をこの場所に繋ぎ止めていた。
部室に陽向が来ることはなくなった。
悠斗や坂口は、陸や石田さんと親しげに話している。
陸と石田さんは、いつの間にか名前で呼び合うほど距離を縮めていた。
俺は、しばらくカメラに触っていない。備品やデータの整理を行い、話を振られたら応対するだけ。
そんな俺を、じっと見つめる視線があることに、俺は気づいていなかった。
◆
翌日の部活中、不意に腕を強く引っ張られた。
視線を上げると、そこには強い光を宿した瞳で俺を射抜く、石田さんが立っていた。
「先輩、撮影に行きましょう」
今の俺には、レンズを覗き込む気力なんて欠片も残っていない。
「悪いけど、今手が離せなくて。一人か陸を連れて」
「いいから。行きましょう」
言葉を遮られ、強引に腕を引かれる。
図書室の背景の一部だった彼女からは想像もつかないほど、その指先は熱く、力強かった。
「それでは、お先に失礼します」
石田さんは俺に鞄を持たせると、自らも帰り支度を済ませ、俺の袖を掴んで歩き出す。
連れて行かれる俺を、悠斗や坂口が呆気に取られて見送っていた。陸だけは、何かを確信したように嬉しそうに口を吊り上げた。
辿り着いたのは、学校から少し離れた河川敷だった。
俺が以前、おすすめの場所として彼女を連れてきた場所。
川面を眺めて物思いにふけっていると、石田さんは無言でスマートフォンを操作し、それから首に下げたカメラの調整を始めた。
観念して、俺は口を開いた。
「えっと。撮影、するんだよね」
「はい、私が。先輩を、撮りたいんです」
いつになく強い意志を覗かせ、彼女がレンズを向けてくる。
「待って。俺、人物写真が撮れないって言ったけど、撮られるのもあまり好きじゃないんだけど」
「一枚だけでいいです。お願いします」
真剣に詰め寄る彼女の瞳に、俺はそれ以上、抗うことができなかった。
「分かった。一枚だけね」
石田さんが少し離れ、日差しの角度を調整し、立ち位置を変える。
レンズの向こうに見える彼女は、いつもと違い、ゾッとするような美しさがあった。
合図もなく、シャッターが切られる。
乾いた音が響き、彼女がデータを確認しながら戻ってきた。
「ありがとうございます。先輩、見て、頂けますか?」
差し出されたモニターに写る自分を見る。
そこには、所在なげに視線を彷徨わせる、情けない顔つきの男が写っていた。
夕暮れに向かう太陽の眩しさだけが、俺の頼りない立ち姿を残酷に浮き彫りにしている。
あまりの惨めさに言葉を失っていると、石田さんの震える声が響いた。
「こんなの、先輩じゃ、ありません」
彼女の目には、いつしか涙が浮かんでいた。
その涙が、今の俺がいかに彼女を失望させているかを物語っていた。
「早く、紡木先輩と仲直りして、いつものかっこいい先輩に、戻ってください」
頬を伝う涙を拭うこともせず、石田さんは真っ直ぐに俺を見て、呟いた。
「私は、ずっと先輩の背中を見て、追いつきたくて。でも、今の先輩は」
それ以上は、言葉にならなかった。
俺は一言「ごめん」と呟き、彼女の頬にハンカチをあてる。
自分の殻に閉じこもり、独りで傷ついたふりをして、俺を慕ってくれる後輩にこんな顔をさせていた。
後悔が、どろりとした重みを持って胸に溜まっていく。
「俺, 陽向と話し合ってみるよ。だから、もう泣かないで」
その言葉を受け、彼女はやっと涙を拭き、ぎゅっと一度目を瞑ってから、弱々しくはにかんだ。
「そう言ってくださると思って、紡木先輩を、呼んであります。もうすぐ、来ると思います」
完全に一本取られた。
彼女は計算や打算でこんなことをしたわけじゃない。
心から俺と陽向のことを想い、このきっかけを強引に作り出したのだ。
「分かった、ありがとう。ちゃんと向き合うから。陽向にも、君にも」
その言葉で元気が出たのか、彼女の微笑みが満開の笑顔に変わった。
その眩しさに、胸を鷲掴みにされたような衝撃を覚える。
「じゃあ、私は失礼します。先輩、頑張ってください」
彼女は頭を下げて、軽やかな足取りで帰っていった。
俺はその背中を、視界から消えるまでずっと追い続けていた。
◆
石田さんのことを考えながら待っていると、陽向が渋々とやってきた。
そこには以前のように溶け合うような距離感はない。
俺たちは、一人ひとりの人間として、初めてこの河川敷で対峙していた。
「や」
「うん」
土手に腰を下ろし、陽向もそれに倣う。
「修学旅行以来だね、外でこうやって二人で会うの」
「そうだね」
ひと呼吸つき、かつての「当たり前」を一度解体する。
「石田さん、どうやって呼び出したの?」
「私が説得しますから、謝ってもらえるチャンスですよ、だって。沙耶ちゃんったらね」
「じゃあ、ごめん」
「軽いなあ」
「陽向がどんな気持ちで毎日頑張ってるか、分かってたんだけどな」
「私こそ、一番つらいのは駿くんだって分かってたのにね」
一度分かたれたものは、もう元には戻らない。
以前の感覚を取り戻そうと呼吸を合わせようとしている時点で、俺たちの関係性は、決定的に変わってしまったのだ。
「俺も、自立しなきゃいけないんだろうね」
「正直言えば、それは寂しい。でも、私がそうさせちゃったんだもんね」
「陽向がいないと、ダメなやつになっちゃってたよ」
「私も、駿くんがいないなんて、考えられない」
「だけど今度はちゃんと、どちらが勝手にじゃなく」
「うん。話し合って、お互い一人の人間になろ」
「陽向のことが大事だから、距離感を見つめ直そう」
「また何度も失敗すると思う。そのくらい、私の中の駿くんは大きいから」
「今度は注意するよ。無視するとか、不自然に距離を取るとかじゃなくて」
「うん。ずっと一緒にいた私たちだけど、まずは”友だち”になろう」
「それと、さ」
「うん」
「石田さんと、ちゃんと向き合おうと思う」
「……そっか。私だけの駿くんじゃなくなっちゃうのは、悔しいな」
「向き合った上で、自分なりの答えを出すよ」
「私も、駿くんの隣にいられるために、頑張るね」
胸の中に、巨大な穴が開いたような喪失感が広がる。
けれど、二人の関係を新しく始めるために、これは必要な儀式だった。
俺たちは、今度こそ”他人”になったのだ。
◆
家に戻り、LINEを開く。
自室の静寂の中で、俺は石田さんの個別チャット画面をタップした。
<駿:時間があるとき、通話してもいいかな?>
すぐに既読がつき、返信がくる。
<沙耶:いま>
通話ボタンを押す。
呼び出し音が数回。しばらく待っても応答がなく、かけ直そうとした時、ようやく声が届いた。
「す、すみません。慌ててしまって。……深呼吸してたら、出るの遅くなってしまいました」
「なんで慌てるのさ」
あんなに強く俺の腕を引いた人が、電話一本でこの反応を見せることに、微かな笑みがこぼれる。
「それで、その。どう、でした?」
「ありがとう。ちゃんと仲直りできたよ」
「……よかった」
安心して漏れ出たような、柔らかな吐息。
「次は、俺の番だね」
「何が、ですか?」
俺は、これまで誰にも、陽向にさえ話したことのない胸の内を、言葉にした。
「俺は、さ。昔から、人に踏み込むのが怖かった」
受話器の向こうで、彼女が呼吸を止める気配がした。
俺の吐露した弱さを、一言も漏らさず受け止めようとしているのが伝わってくる。
「自分と他の人たちとの間に、絶対越えられない壁があって。それが俺の普通だった」
「それ、分かります。私も、そうでしたから」
受話器越しに、彼女の静かな共鳴が伝わってくる。
「今まではそんな俺の隣に陽向がいて、それが当たり前だった。陽向がいてくれたから、普通でいられた」
「そう、なんですね」
受話器の向こうから、彼女が小さく息を呑む気配が伝わってきた。
言葉を探して指先で受話器を強く握りしめるような、微かな摩擦音が静寂を埋める。
「でも、陽向も壁の向こうに行っちゃったんだ。だから、俺はどうしたらいいのか、分からなくなっちゃったんだ」
「……」
「石田さんのおかげで、俺も壁の向こうに足を踏み入れる決心がついたよ。本当にありがとう」
「……え、は、はい!」
弾むような彼女の声。
俺は、一つの決意を伝えるために、言葉を重ねた。
「それで、お願いがあるんだけど」
「何でしょうか」
「もしかしたら、このことで君を傷つけてしまうかもしれない。それでもよかったら、なんだけど」
「……はい」
「俺と、一緒に遊びに行ったり、何でもない時でも話し合えるような、”友だち”になってくれないかな」
「……それが傷つけるって、どういうこと、でしょうか」
これから言うことは、最低な人間のセリフかもしれない。
けれど、嘘を吐いて彼女を繋ぎ止めることだけは、したくなかった。
「俺の中には陽向がいる。大事な存在として切り離せないくらいに」
「そう、ですよね」
「俺は、人を好きになるってどういうことか、まだ知らない。陽向のことが好きなのか分からない。気持ちに名前を付けられない」
受話器の向こう側の沈黙に、俺は深く息を吸い込み、さらに言葉を重ねる。
「でも、沙耶ちゃんのことも、俺の中で大きい存在になってるのは確かなんだ。天秤にかけちゃってる最低なやつだと思う」
「……え」
「だから、傷つけてしまうかもしれない。それでもよかったら、俺と”友だち”になってくれないかな?」
しばらくの沈黙のあと、返ってきたのは、呆れたような溜息だった。
「そんなことは、最初から分かってました。先輩が、紡木先輩を大切にしていることも」
「……そっか」
「それでも、私はこうしています。傷つくことなんて、ありません」
「強いんだね。尊敬する」
「私でよければ……し、駿、せ、先輩と、”お友だち”に、なってください」
「ありがとう, こちらこそ」
俺には恋愛という感情が欠落している。そんな欠陥品が感情の通った写真なんて撮れるはずがない。
手を差し伸べてくれる人たちに、一歩踏み出してちゃんと考えて答えを出したい。
これが誠実かどうかなんて知ったことではない。
彼女たちのことを理解せず、感情を知らないままに与えられた好意を無にしてしまうのは、彼女たちの真心を、ただ踏みにじるだけの行為に思えた。
だから、この俺の行動を誰に詰られようと、後悔はしないと心に誓った。
これにて『反転した砂時計』閉幕となります。
次回から新章『あの夏の残響』が開幕しますので、よろしくお願いします。




