【第24話】坂口璃奈: 檻を抜けた二人の、消えない熱量
一番迷惑をかけていた陽向に、再び背中を押してもらえた。
だから、もう私は迷わない。
震える指でメッセージを送り、大野を呼び出した。
私たちの四人の関係が一度壊れた、あの校舎の裏へと。
◆
放課後の校舎裏。
普段は人気のないこの場所で、あの日、陽向に聞かれていたなんて。
偶然だったと彼女は言ったけれど、たとえあの日でなくても、今の私たちがこの気持ちを隠し通せるとは思えない。
大野が動いたあの瞬間から、私たち四人がこうなるのは、きっと最初から決まっていたのだ。
私は怖かった。
四人の関係が壊れることも、陽向と向き合うことができなくなることも。
だから結論を出すことから逃げ続けて、波風を立てないことだけを願っていた。
でも、もう大丈夫。
大野は少し遅れてやってきた。
こうして二人きりで会うのは修学旅行以来だ。教室でも、まともに言葉を交わしていなかった。
彼の顔には隠しきれない緊張の色が浮かんでいる。
それはきっと、今の私も同じ。
「すまない。待たせた」
「ううん、待つのは嫌いじゃないから」
風が吹き、梅雨特有の湿った空気が頬を撫でる。
言葉は色々考えてきたはずなのに、いざ目の前にすると何も思い出せなくなる。
「あ、その……ね」
「ああ」
言葉が詰まり、つい顔が俯いてしまう。
不自然な上目遣い。
こんなのは私のキャラじゃないはずなのに、どうしてこうも弱くなるのか。
でも、もう私を見つめる悠斗の優しい眼差しから、自分を外したくはなかった。
「悠斗」
「うん」
名前を呼ぶ。呼吸を揃える。
もう、離れないように。
「私は陽向が好き。四人でいる時間が、好き」
悠斗がゆっくりと頷く。その表情を逃さないように見つめる。
「悠斗が、好き。悠斗の一番で、ありたい。だから」
顔を上げて、胸を張って。
自分の中で、できる限りの笑顔を見せて。
「これから、付き合って。私だけを、見てほしい」
言えた。
やっと、これまで抱えてきた重い熱を、伝えることができた。
「俺の気持ちは変わらない。中一の頃からずっと。璃奈が好きだ」
笑顔は、十秒も保たなかった。
胸から込み上げてくる愛しさが抑えられなくて、視界が滲んでいく。
「……あり、がとう。今まで、待たせて、ごめん」
涙で前が見えない。こんな顔、見せたくない。
私は悠斗の胸に顔を埋めた。
背中を、大きな手が優しく叩く。
陽向、西村、ごめん。
私、この先何があっても、悠斗を選ぶ。
四人の「特別」を壊してでも、私はこの人の隣にいる「特別」を離さない。
◆
どのくらい泣いていただろうか。
五分? もっと短いかもしれない。
ただ、今までの涙とは違っていた。罪悪感は消えないけれど、嬉しさの方がずっと大きい。
悠斗は黙って、私が泣き止むのを待ってくれた。
私たちがすれ違っていた年月を考えれば、ほんの一瞬の時間だったから。
顔を少し上げると、そこには悠斗の優しい表情があった。
私はそっと目を瞑り、つま先を上げた。
悠斗の顔が、体に伝わる体温が、驚くほど近く、熱かった。
◆
照れくさかったのもあり、ばくばくと煩い心臓を落ち着かせたかったのもあって、場所を近所の喫茶店へと移した。
そこは、地主のお爺さんが趣味で経営しているという、古くて落ち着いたお店だった。
カウンターに並ぶサイフォン。豊かな豆の香り。
こんなに素敵な場所が近くにあるなんて、もっと早く知っていればよかった。
いくつかの品種がメニューに並んでいたけれど、よく分からなかったので私はブレンドにした。
悠斗はキリマンジャロ。
私もこれからは、色々な味を知っていきたいと思った。
「悠斗, 味とか分かるの?」
「あまり。大体缶コーヒーかバーガーノートのブレンドだから、今回挑戦してみたかった。いいお店だしな」
「そうだね。私も普段は砂糖とミルクを入れるけど、今回はブラックにしてみようかな」
「無理しないほうがいいぞ」
「だってさ、ああやってサイフォンで作ってくれてるの見るとワクワクしない?」
「する。分かる」
私たちはしばらく、カウンターの向こうで琥珀色の液体が満ちていくのを眺めていた。
やがて、丁寧に淹れられたコーヒーが運ばれてくる。
お爺さんに「あんまり見られると恥ずかしいよ」と言われて、二人で笑った。
宣言通り、砂糖もミルクも入れずに一口含んでみる。
広がる香りと、想像以上の苦みと酸味。
「……にが」
たまらず砂糖とミルクを混ぜる。
背伸びをしたけれど、まだブラックは早かったみたいだ。
けれど、悠斗は平然とそれを口にしている。
「……苦くないの?」
「ああ、ちょうどいい。好きになれそう。璃奈も飲んでみる?」
「じゃあ、一口だけ」
間接、なんて今さら気にすることじゃない。
一口もらったキリマンジャロは、さっきのブレンドよりは苦みが少なく感じたけれど。
「うん、やっぱ無理かな」
「嗜好なんて変わっていくものなんだから、今はいいんだよ」
「そうだね。中学の頃はコーヒー自体ダメだったし」
「俺は甘いやつなら飲めたな。今はブラックの方が好き」
「こうやってさ、色んなものが変わって、大人になっていくんだね」
「まあ、そうかも」
私は表情を引き締める。コーヒーを一口飲んでから切り出した。
止まっていた針を、自分の手で進めるために。
「私、また陸上を再開しようと思う」
「え, いつから?」
さすがに悠斗も驚きを隠せていない。
「文化祭が終わった後からかな。本格的には大学からって感じになると思う」
「そうか。応援するけど、いきなりだな」
「うん。今までは私が皆に引っ張ってもらってた。だから、今度は私も一人で頑張れるところを見せたいなって」
「いいことだと思う。俺、走ってる璃奈が一番好きだしな」
「そ、そういうことは何度も言わなくていいの」
「本当のことだし」
店内に流れる穏やかな音楽と、コーヒーの香り。
立ち上る湯気の向こう側で、私は最近感じていた懸念を口にする。
「ただ、ね。西村が少し心配。陽向が離れてから、何となくおかしいっていうか」
「俺も最近は一緒にいる機会が減っていてな」
「私たち、陽向を焚き付けたんだし、西村も何とかしてあげたい」
私の言葉に、悠斗が「たち」という言葉に反応した。
「たちってことは、俺が紡木さんと話したことも知ってるのか」
「陽向は悠斗の名前を出さなかったけど、陽向の考えを変えられる人なんて少ないからね」
「それもそうか。ただ、あの二人は良くも悪くも普通じゃないって、よく分かった」
悠斗の言葉には、親友としての諦念に近い理解が混ざっていた。
「そうね。陽向のおかげで私は告白できたから、何とかしてあげたいんだけど」
「俺としては、少しそってしておいてあげたいかな。無責任に見えるかもしれないが」
「まあ、文化祭までは私も写真部にいる予定だから。夏休みに合宿したいって言ってたし」
「そんなのやるんだ。じゃあ聞いてシフト空けてもらわないとな」
「陸が寂しがってるから、もっと顔を出してあげなよ」
悠斗はキリマンジャロの残りを一口、喉に流し込んだ。
カップを置く小さな音が、不思議と心地よく店内に溶ける。
「ゲームはほとんど毎日一緒にやってるぞ」
どこか他人事のような、それでいて彼らしい飾らないトーン。
思わぬ「男同士の付き合い」を暴露され、私は拍子抜けして、ふっと肩の力を抜いた。
「そこは勉強じゃないんだ」
緊張して泣き腫らしたあとの目に、悠斗のそんな無頓着さがどこか救いのように思えた。
これからは、こうして彼が見せる「素」に、何度も呆れたり笑ったりしていくのだろう。
部活の話。期末試験。これからの二人のこと。
コーヒーを飲み終えるまで、たくさん、たくさん話をした。
まだ「恋人」だという実感は少なくて。
けれど隣にある体温は、昨日までとは確実に、何かが違っていた。
これから少しずつ、本当の恋人になっていけばいい。
空になったカップを眺めながら、私はまたこのお店に来ようと、心の中で決めた。




