【第23話】 名前を失った熱の、不器用な定義
《紡木陽向》
バイトを終えて帰宅する。
ゆったりと湯船に浸かり、疲れた体をストレッチでほぐしても、心の奥に溜まった澱のような重みは消えてくれなかった。
週末に出された宿題を片付けようと机に向かうけれど、ペン先は白紙の上で迷い続けている。
頭をよぎるのは、あの日のカフェで大野くんと交わした会話だ。
「私も、大野くんのところでアルバイトさせてもらえないかな」
突然の提案に、大野くんも驚きを隠せない様子だった。
「そこまでして、なんでバイトをする必要があるんだ?」
バイトの必要性や部活のことを案じる彼に、夏休みまでの短期だからと前置きし、私はあらかじめ用意していた答えを、絞り出すように伝えた。
「自立するため」
一言でまとめるなら、それしかなかった。
「今のままの私は、一人では何もできないダメな人間。それは認めなきゃいけない事実で、けれど、これからもそのままでいるのは、もっとダメなんだ」
「なんで、そう思ったんだ?紡木さんは、今も優しい、いい人だと思うけど」
「駿くんが見えないところで助けてくれてるから、そう見えるだけ。私は何かあるたびに、いつも支えてもらってた」
我ながら卑屈になっている。俯きかけた頭を持ち上げ、大野くんを見据える。
「でも、修学旅行の一件があって、私は自分が駿くんに頼り切りだったって知った。それじゃ、いけないと思ったから」
私の独白を黙って聞いていた大野くんが、ふいに問いかけてきた。
「駿が、それを望んでるとしても?」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、私は反応できなかった。
「これは一つの考え方で、駿に当てはまるかは言い切れないけど。好きな人に頼られたら、大体の男は喜ぶんじゃないかな」
「駿くんと私はそういう関係じゃないよ」
無意識に言葉が跳ね返る。何故みんな、私と彼をそんな風に結びつけたがるんだろう。
けれど大野くんは、逃げ道を塞ぐように静かに続けた。
「今はそうなんだろうな。でも、この先もそうだと言い切れる?」
言い返せなかった。先の未来なんて、今の私にはあまりに不透明すぎて。
「バイトは分かった。今回の件もあって、紡木さんが独り立ちしたいって思うのは当然だし、応援もする。でもさ」
大野くんは組んでいた手をほどき、慈しむような、けれど残酷なほど真実を突く眼差しで私を見た。
「俺が紡木さんの気持ちに気づけなかったのは俺の鈍感さが一番だけど、駿と紡木さんの関係が、あまりに自然で理想だからっていうのもあって」
「それは」
嬉しい、けれどとても悲しい言葉。
「今回の二人の噂も悪いように利用されたけど、ずっと二人を見てきた俺からすれば、いつこうなってもおかしくなかったんだ。たまたま修学旅行って行事があって、周りもそういう雰囲気だったから、表に出たというか」
何も、言えない。大野くんは、普段自分の考えをあまり表に出さない。だからこそ、その言葉には重みがある。
「俺がこれを言うのは残酷なんだって分かってる。俺を嫌ってくれてもいい。ただ、せっかく独り立ちするなら、駿のことを今までと違う角度から見てやってほしい。それでも駿を異性として見れないって言うなら……距離感を変えた方がいい、と思う」
大野くんの言葉は、私の足元を震わせるのに十分な熱を持っていた。
「もし、私が駿くんのことを男の子として好きになれないなら、そばにいないほうがいいってこと?」
声が震えた。駿くんがそばにいない生活。以前、一度だけ頭をよぎったその想像が、鋭い痛みを伴って心臓を突き刺す。
「紡木さんにもし駿じゃない恋人ができたとして、その人は駿のことをどう思うかな。その逆もそう。もし駿に恋人ができたとしたら」
「……私の存在、その人には嫌だよね」
「これは、その。紡木さんが俺に好意を持ってくれたから、言えること。俺は駿と友人を辞めるつもりはないけど、次に紡木さんが誰かに好意を持ったとして、その人が駿をどう思うか」
駿くんを、私から離そうとする。駿くんが嫌われる。
喉まで出かかった言葉は、声にならずに消えた。
「困らせてごめん。でも駿とのこと、いい機会だからさ、ちゃんと考えて欲しいんだ。駿の良さは俺より知ってるだろ?」
「うん、そうだね。……ありがとう」
大野くんの言いたいことは理解できた。
このまま今の距離で居続けることは、きっと許されないのだ。
でも、感情が追いついてこない。私にとって駿くんは、好きとか嫌いとか、そんな言葉を当てはめるのが躊躇われるほど、生活の、体の一部になっていたから。
それなのに。
あの日、ショッピングモールで駿くんが沙耶ちゃんと。他の女の子と一緒にいるのを見た時の、あのモヤモヤとした感情。
そこは私の場所だと言いたくなるような、醜い独占欲。
私は駿くんのことを、一人の男の子として見ているのだろうか。
分からない。
でも、駿くんとあえて距離を置いた今だからこそ、じっくりと考えるべき時なのだ。
一人では、解決できそうになかった。だから、璃奈からも話が聞きたい。
都合が良いかもしれないけど、一人で何もできない私には縋る何かが必要だった。
ついでに、大野くんに言葉でチクチクと突かれた腹いせを、璃奈の背中を押すことでお返ししてもいいだろう。
◆ 《坂口璃奈》
バイトが休みだという陽向に誘われ、久しぶりに二人で街へ出た。
最近、部活の空気が変わり、大野や陽向の出席が減ったことに、私はどこか居心地の悪さを覚えていた。だから、以前のように陽向と過ごせる時間が、何よりも嬉しかった。
あちこちをふらつき、買い物を楽しむ。
普段にはないテンションではしゃぐ私を見て、陽向は少し引いていたけれど、それさえも今の私には愛おしい時間だった。
一通り歩き回ったあと、陽向のバイト先である『バーガーノート』のテーブルに着く。
陽向が従業員用のカードを提示し、少しだけ安くなったコーヒーとポテト。
こういう日常の断片に触れるたび、自分も一歩踏み出したくなる。
椅子に深くもたれかかると、遊んだ後の心地よい疲れが押し寄せてきた。
「璃奈、今日すごいはしゃいでたね」
「それはもう。久しぶりに陽向が誘ってくれたし、鬱憤も溜まってたからねー」
ストローを咥え、少し行儀の悪い音を立ててコーヒーをすする。
「ごめんって。色々考えての行動だったけど、璃奈に一言相談してからの方が良かったね」
「ううん、あんな状況だもん。陽向に余裕が無かったのは分かってるし、私が口を挟んだら余計にこじれるでしょ」
「そうかもだけど、璃奈だったらもっとスマートにできたかなって」
「それは買いかぶりすぎ。私だって四人でいられなくなったのは寂しいけど、こうするしかなかったよねって思うもん」
ポテトをひとつまみして、陽向をじっと見つめる。
落ち着いているように見えて、彼女の視線は所在なげに泳いでいた。
それは、親友である私に「何かを聞いてほしい」という、分かりやすい合図だった。
「それで、何の相談? バイトのこと? それとも新しい人間関係?」
「……なんで分かるの」
「陽向が分かりやすいの」
「そんなにかあ。もっと気をつけないといけないかな」
「分かる人には分かる程度だから大丈夫よ」
照れて俯く陽向。その無垢な可愛らしさを見ていると、何故あの大野が私を選んだのか、時々不思議に思うことさえある。
「んー。確かに相談事なんだけどね。どこから話せばいいか……」
店内に流れる音楽と、人のざわめき。
その曖昧な空気の中に、陽向はぽつりと、本音を落とした。
「私、駿くんのことをどう思ってるのか、分からなくなっちゃった」
「弟みたいな、家族のような人って言ってなかったっけ?」
「そこは何も変わってない。今もそう思ってる。でもね。駿くんに彼女ができたとして、その彼女が私を見てどう思うかなって」
ああ、そうきたか。
沙耶の見違えるような変貌。その原動力が西村にあることは、誰の目にも明らかだ。
いつかは解決しなければならない、二人の間の深い問題。
親友として、少し意地悪かもしれないけれど、逃げ場のない根っこを突いてみることにした。
「そもそもさ。もし大野と上手く行ってたら、西村はどうするつもりだったの?」
「大野くんなら、駿くんと仲いいし大丈夫だと思うけど」
「そうじゃなくて。西村も彼女を作ろうとするよね。今じゃないにしてもさ。……それこそ、沙耶と付き合い出すかもしれない。他に誰かいるかもね」
「うう」
「嫌なの? 自分には彼氏がいるのに」
「嫌、かも」
「束縛しすぎでしょ」
「だって、駿くんのいない生活なんて、考えたことも、ない」
二人が当たり前に一緒にいすぎたからこそ、これまで表面化しなかった問題の根本。
弱っていく陽向の姿を見て、修学旅行中の大野の発言も、すべてが間違っていたわけではなかったと悟った。
「じゃあ、陽向はどうしたいの?」
「……分からない」
「好きか嫌いか無関心。どれかで言うなら?」
「好き。……それ、言わせてるだけじゃん」
「そうだね。でも、今の陽向はそこから始めないとだもん」
「どういうこと?」
「人として好きって気持ちはある。でもその気持ちに名前をつけたくないから逃げたいんでしょ?」
「…… 家族、じゃダメなの?」
「自分でそれじゃダメだって、もう結論出してるよね」
「……うん」
陽向が苦しそうに顔を歪める。胸が痛むけれど、これからの彼女のために、今は言葉を止めない。
「誰にも渡したくないなら、それは恋なんじゃない?」
「でも、私は最近まで大野くんのことが好きだったんだよ」
「それも、今となってはどうかと思う。好きだったのはきっとそう。でも、本当にそれは恋だった?」
「だって、璃奈が告白されたのを見て、すごい落ち込んで、泣き喚いて、それなのに」
嗄れ声で訴える彼女に、私はさらなる一歩を踏み込む。
「そりゃ五年も大事にしてた感情が突然崩れたら、誰だってショックを受けるよ。でも、陽向は一人で立てた?それとも、誰かに助けてもらった?」
その言葉がトドメとなり、陽向は何も言わなくなった。ただ俯き肩を震わせる。
やがて、彼女は顔を覆い、静かに泣き出した。
言い過ぎだとは分かっている。けれど、これは西村の優しさでは解決できない問題。袋小路に閉じ込められた親友を外へ連れ出すには、私が言うしかなかった。
周囲の話し声がこちらへ向くことはなく、私たちの周りだけが、静止したような時間に包まれる。
しばらくして陽向は、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、涙を流しきったあとのように晴れやかだった。
「ありがとう、璃奈。はっきり言ってくれて。私は誰かと一緒にいることに慣れすぎたから。言ってもらえないと気づけないって、よく分かった」
「……それで、答えは出たの?」
「ううん、それはまだ。でも……駿くんとちゃんと向き合って、ちゃんと今までの気持ちに名前をつけようと思う」
その言葉を聞いて、私は心の底から安堵し、「がんばれ」と頷いた。
すると陽向はふと表情を変え、私を指差した。
「……璃奈もだよ」
「え?」
唐突なカウンターに、私は戸惑いを見せてしまう。
「私のせいだって分かってる。でも、いつまでも大野くんを待たせてないで、答えてあげて」
「それは」
「私が大野くんのことを好きじゃなかった……ううん、恋じゃなかったのなら、璃奈に障害なんてないよね」
「そう、だけど」
「私も、自分のこと、がんばるから。璃奈も、頑張れ」
「……もしかして、はじめからそれが言いたかったり?」
「うん。その前に相談はしておきたかったけど、ここまでイジメられるとは思わなかった」
「それはごめんって」
「冗談だよ」
ようやく、陽向にいつもの笑顔が戻った。
やっぱり彼女の笑顔は、私のなかで一番の景色だ。
「分かった。陽向に頑張れって言わせて、私が何もしないんじゃ、呆れられちゃうしね」
「呆れはしないけど、私が取っちゃうかもよ? 今はバイトの頼れる先輩だし」
「それはやめて」
「あはは」
「ありがと、陽向」
大野のことで、こんな冗談を言い合える日が来るなんて思わなかった。
陽向の言う通りだ。もう、私の気持ちにブレーキをかける理由はない。
次は、私の番だ。
リニューアル工事終了致しました。大変お待たせし申し訳ありません。




