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プロローグ・陽向

後悔先に立たず、という言葉がある。

物事が終わってから悔やんでも、もうどうしようもないという意味だ。


でも、物事というのは一人で完結するものじゃない。

誰かの選択が、別の誰かの想いに触れ、その積み重ねで形になる。

だから自分だけが後悔しない生き方を選ぶことも、誰かに後悔を残さないことも、きっと簡単じゃない。


それでも、できるだけ前を向いて生きていきたい。

誰かが笑って、幸せを感じて、その空気に私も少しだけ救われるような日々を。

昔の私は、それがどれほど難しいことなのかを、まだ知らなかった。


私と西村駿くんは家が隣同士で、親同士も仲がいい。

生まれた時期も一ヶ月違いで、物心つく頃から当たり前のように一緒にいた幼馴染だ。


互いの家が忙しいことも多く、どちらかの家で一緒にご飯を食べることも珍しくなかった。

幼稚園も、小学校も同じ。

小学校では入学から卒業まで同じクラス。


出来すぎた偶然だと思われても仕方がないけれど、それで関係がこじれることはなかった。

私たちは、何でも話す片割れのような存在だった。


小学校高学年になる頃、両親の多忙をきっかけに私は家事を覚えた。

西村家が忙しい時には手伝いにも行った。

駿パパや駿ママは娘が欲しかったらしく、とても可愛がってくれて、それが少し誇らしくもあった。


それを見て、駿くんがたまに拗ねることもあったけれど。今思えば、あれは微笑ましいやり取りだったのかもしれない。


中学に入ってから、親友の坂口璃奈に運動不足を指摘され、彼女と一緒に陸上部に入った。

璃奈は八百メートル、私は百メートル。


県大会で上位に入る彼女と違って、私の運動能力はごく普通。

それでも、昨日より〇・一秒でも速くなることを目標に、私は走り続けていた。


ある日の練習終わり、道具を片付けていた時のこと。不注意から、私は足を滑らせて転んでしまった。

昔から、少し注意が散漫になる癖がある。転んだり、壁にぶつかったりして、そのたびに駿くんに助けられてきた。


でも、その日は違った。足首を強く捻ったらしく、立ち上がることができなかった。

しかも周囲に人はいない。痛みと心細さに動けずにいると、声がかかった。

「紡木さん、大丈夫? 立てる?」

同じクラスで、駿くんの親友――大野悠斗くんだった。

私はあまり話したことはなかったけれど、駿くんがいつも一緒にいる相手だ。家で名前を聞くことも多く、自然と覚えていた。

「あ……ちょっと足を捻ったみたいで」

「そっか。じゃあ、肩貸すよ。保健室まで行こう」

そう言われ、私は彼の肩を借りる。私より大きな体に支えられながら歩くのは、駿くん以外では初めてだった。

痛み以外の感情が胸に浮かんだ。でも、それは不快なものではなかった。


保健室には誰もいなかった。大野くんは私を椅子に座らせ、救急箱を持ってきてくれる。

「手当ての仕方は詳しくないけど、湿布と包帯くらいならできるから」

「自分で……いたっ」

動こうとして、足に走った痛みで言葉が途切れた。

「無理しないで。俺がやるから」

そう言って、崩れた体勢を整え、黙々と処置をしてくれる。

湿布を貼り、包帯を巻く手つきは少し不器用だったけれど、真剣だった。

私はその表情から、目が離せなかった。


「痛くない?」

「……大丈夫。ありがとう」

その言葉を口にするのに、少し勇気がいった。

「家の人、迎えに来られそう?」

「まだ仕事中か、帰る途中かも」

「じゃあ、駿呼ぶよ。病院に連れて行ってもらった方がいい」

「……え」

その一言で、胸がざわついた。この時間が終わってしまうような気がして、言葉を失う。

「……ダメだった?」

「ううん! そんなことない。ありがとうございます」

自分でもおかしい反応だったと思う。それでも、大野くんは深く気にしない様子で電話をかけてくれた。

私は璃奈に連絡して荷物を持ってきてもらい、その後、駿くんが迎えに来た。

帰り道、私はずっと上の空だった。足の痛みよりも、胸の奥に残った何かの方が気になっていた。

家に戻り、ベッドに横になって今日の出来事を思い返す。


広い肩。

真剣な表情。

気遣う言葉。


思い出すたび、顔が熱くなり、胸の鼓動が早くなる。


――そうか。たぶん、これが。


病院から通学許可が出た翌日、私は登校し、改めて礼を言おうと大野くんの姿を探した。

駿くんを見つければ、大体は隣にいる。だからすぐに見つかるはずなのに、声をかけることができない。

変に意識してしまって、どうしても足が動いてくれなかった。


そうこうするうちに機会を逸し、数日が経ってしまった。私は悩みに悩んだ末、駿くんに相談することにした。

「駿くん、あのね」

「んー、どうした?」

「私、大野くんのことが好きになったみたい」

駿くんは一瞬だけ私を見て、すっと目を逸らす。少し考え込むような間を置いてから、もう一度こちらを見た。

「……二度見するほど驚く!?」

「いや、するでしょ。陽向はそういうの鈍そうだし、相手が悠斗だって言うから」

「私だって、恋の一つや二つはするよ」

そう言って肩の力を抜くと、駿くんは苦笑して手を振った。

「ごめんごめん。それで、陽向はどうしたいの?」


言葉が詰まる。

付き合うとか、そういったことは何も分からない。

この気持ちを伝えるべきなのかどうかも分からない。

何も分からなかった。


「……わからないの」

「うーん、そっかあ」

困ったように眉をひそめながらも、駿くんは深刻になりすぎない調子で続ける。

「陽向って、恥ずかしがりなだけで男と話せないわけじゃないよね。ならさ、俺が間に入れば話すタイミングくらいは作れるんじゃない?」

私は、俯きかけた顔をぱっと上げた。

「……いいの?」

「もちろん。でも、いきなり二人きりで話せる?」

「……意識しちゃって無理。ここ数日、お礼言おうって頑張ってみたけど、ダメだったの」

「だよね。じゃあ俺も同席して場を作るとして、女子が陽向だけだと肩身狭くない?」

「それなら璃奈誘ってみる!知ってるでしょ? 坂口さん」

「うん、いつも一緒にいる子だよね。いいんじゃないかな」

「でも、口実は?」

「そんなの無くていいよ。同じ陸上部で、同じクラスなんだし。悠斗も理由とか気にするやつじゃないから」

「……なら、お願いしていい?ごめんね、頼っちゃって」

私は何かあるたびに、いつも駿くんに甘えてしまう。悪い癖だとは分かっている。


それでも――私の中で一番頼りになる人は、パパでもママでもなく、いつだって駿くんなのだ。


「いいよ、任せておいて。週末の午後に時間作ればいいかな」

「うん。いつもありがとうね、駿くん」


こうして、私たち四人が集まることになった。やがて仲良しのグループになり、その付き合いは高校まで続いていく。

けれど、それからの私たちの関係は、何も変わっていない。

その距離感が、微睡みのように心地よくて――私は、そこに身を委ねることしかできなかった。

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