【第15話】紡木陽向:ヒーローの背中、奈落の体温
朝。
いつもの時間に目が覚める。けれど、耳元で鳴り続けるはずのスマートフォンのアラームは聞こえなかった。
ぼんやりとした頭で、昨日の帰る前の記憶がないから、夜をなんとか思い出す。
アラームをセットする気力すらなく、泥のように眠りに落ちたんだっけ。
体に力が入らない。
昨日のことが。おもいだせない。
鉛のように重い掛け布団を顔まで引き上げ、目を閉じる。
一階のリビングから、ママが私を呼ぶ声がした。
「陽向ー? 朝食できてるけど、どうしたの?」
いつもなら、もう着替えを済ませてリビングに降りている時間だ。
動きたくない。誰にも会いたくない。
階段を上ってくる足音が聞こえ、ドアがノックされた。
「陽向、どうしたの?」
「……ごめん。具合悪いから、今日は学校休むね」
ママの心配そうな声に、億劫さをこらえて返答する。
ドアが開き、ママが顔を覗かせた。
「珍しいわね。風邪? 体温計持ってくる?」
「ううん、たぶん寝たら治る程度だから」
「そう。保険証とお金、そこに置いておくから。必要なら病院へ行くのよ。ママ、仕事だから見てあげられないけど、ごめんね」
「大丈夫。いってらっしゃい」
あーあ。学校サボっちゃった。
◆
しばらくしてリビングへ降りる。
テーブルの上には、すっかり冷え切った朝食が残されていた。
昨日の夕食も食べていなかった気がする。食べたけど味なんてわからない。
お風呂にも入らず寝てしまった。軽くシャワーを浴びた。
部屋に戻り、散らばっていた鞄や服を無機質に片付ける。
頭がずっと、ぼんやりとする。昨日を思いだそうとしても、ざざっとした音が頭に響く。
ふいに、スマートフォンが震えた。
LINEの通知。
そこに表示された二人の名前に、吐き気を催した。
だから、中身も見ずに。スマートフォンを放り投げた。
あれ?
なんで視界が滲んでるんだろ。
そっか。おもいだしちゃった。
誰もいない部屋で、私は声を上げて泣き続けた。
何もしなかった。
一歩踏み込むのが怖くて、璃奈の痛みに気づいてあげられなくて。
「四人の居場所」にしがみついていただけ。
ぜんぶ、全部、駿くんに用意してもらって。私は主役の気分だった。
恋に恋したままで、自分から何も動かなくて。
――そんな私を、彼が、だれが、見てくれるんだ。
私は、ばかだ。
悔しい。五年間のすべてが。
彼に向けてきたすべての時間は、ただの独りよがりな空回りだった。
悲しい、なんて綺麗な言葉も使えない。
ただ、惨めで、悔しくて。私は、わたしが、だいきらいだ。
◆
泣いていただけの、空白の時間が流れた。
ノックの音がした。
泣き疲れて、瞼が腫れ上がって。
でも、こんな顔誰も見ないしどうでもいい。
まだお昼にもなってないのに。
「……入ったよ」
「いつ来たの」
「今」
「ノックくらいしてよ」
「したよ」
「まだ授業中じゃない」
「あーお腹いたい」
「ばか」
「ばかは陽向だろ」
「うん」
「気は済んだ?」
「まだ」
「じゃあ、背中貸す」
「借りる」
駿くんの背中に腕を回し、力を込めてしがみついた。
柔軟剤の匂い。昨日、私が選んであげたやつだ。
その匂いを肺いっぱいに吸い込むと、ようやく自分の形がはっきりしてくる。
「……っ……ふ……ぅ……っ」
駿くんの背中に顔を押し付ける。
すると、さっき枯れたはずの涙がまた溢れ出した。
駿くんのシャツを、指先が白くなるまで握りしめる。
温かい。
駿くんの体温だけが、奈落の底にいる私を繋ぎ止めてくれる唯一の錨だ。
大野くんが璃奈を選んだとか。
五年間が否定されたとか。
そんなのはもう、今はどうでもいい。
私を放っておかない駿くんがいてくれるなら、私は一生、放っておけないほどダメな人間でいようと思った。
駿くんだけは、私を捨てられない。
私を見てくれた、たった一人のたいせつ。
このヒーローを、誰にも渡さない。
ピントなんて一生合わなくていい。
ずっと、ボヤけたままでいいから。
この呪いを、私は愛おしい宝物のように抱きしめた。
◆
微睡みのなか。
駿くんの確かな心拍を感じていた。
私の空っぽな胸に、新しい執着が満ちていく。
気がつくと、温もりが消えていた。
自分が消えた感覚に、全てが絶望に染まる。
「……しゅんくん、どこ!?」
思わず叫んでいた。
「陽向が眠ったから、冷やしタオル持ってきただけだよ。ほら」
「……あ、ありがと」
「……何があったか、聞かないの?」
「わんわん泣きながら、色々言ってたよ」
「うるさいですー……」
「まあ」
「……うん」
「悲しい、じゃなくて『悔しい』なのはビックリした」
「私ね」
「うん」
「そういう相手として、見てすらもらえてなかったのが……悔しかった」
「そっか」
「何もしてこなかったし、当たり前でしょって話なんだけど」
「うん」
「いまさら、何を言っても、たぶん、遅いの」
「そうだね」
「それが、何より悔しい」
「厳しいけど、言っておくよ。陽向」
「うん」
「悠斗は、かなり前から坂口のことが好きだったと思う」
「そう、だね。そんな感じだった」
「陽向が本気だったことは、よく知ってる。でも、悠斗も本気だった」
「うん。普段優しい話し方ばかりの大野くんが、あんなに強く言うの、初めて見た」
「これから、どうしたい?」
「……分からない。今は何も」
「そっか。なら、ゆっくりでいいから考えよ」
「うん。でも、ちょっとの間だけ、学校行きたくないかも」
「大丈夫。担任には季節外れの大風邪引いたって言ってある」
「ほんと、気が利くね」
「おばさん、陽向が休むのは初めてだから、うっかりしたんだろうね。連絡なくて担任が驚いてたから、裏で伝えておいた」
「どうして、そこまで分かるの」
「立場が逆なら、陽向でもできたでしょ」
「……そこまではできないかも」
「まあ陽向も気張ってたし、本物の風邪だと思って家でのんびり休んで」
「駿くん」
「ん?」
「止めないでくれて、ありがとう。後悔は残ったけど、それだけは言える」
「なら、良かった」
「駿くんは、ここにいてくれる?」
「うん。俺はいつも通りでいるよ」
絶望の淵で聞こえた言葉。
うそつき。沙耶ちゃんと、二人で遊びに行ったくせに。
そんな言葉が浮かんで――私はそれを、声には出さずに、笑った。
駿くん。
ずっと、私の側にいて。
”いつも通り”という名の檻のなかで、ずっと、ずっと。
陽向の慟哭と自罰、駿への依存。彼女にとって駿はどのような存在なのか。頑張って書き切れたらと思っております。




