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エピローグ 境界を歩み続けて

 大正十年の夏。


 水木蒼一郎は、再び遠野を訪れた。


 あれから九年。蒼一郎は東京帝国大学を卒業し、民俗学者として活動していた。


 遠野には、何度も調査に訪れていた。


 そして――。


 今日、蒼一郎は特別な目的を持って、この地を訪れた。


 千鶴の家の前に立つと、彼女はすでに待っていた。


 相変わらず白い襷をかけた姿で、だが九年前よりも、どこか柔らかな雰囲気を纏っていた。


「お久しぶりです、千鶴さん」


「お久しぶりです、水木さん」


 二人は、まるで昨日別れたかのように、自然に微笑み合った。


「今日は……相談があって来ました」


「相談?」


 蒼一郎は、書生鞄から一冊の本を取り出した。


「これです」


 それは、蒼一郎が書き上げた本だった。


 タイトルは――『境界を歩む者 遠野霊異録』。


「九年かけて、まとめました。あの時の経験、そして何度も遠野に通って学んだこと、すべてを」


 千鶴は本を受け取り、ページを開いた。


 そこには、座敷わらしの物語、山神の物語、彷徨える兵士たちの物語――そして、遠野千鶴という一人の巫女の物語が綴られていた。


「これを……出版したいんです」


 蒼一郎は真剣な表情で言った。


「この物語を、多くの人に読んでもらいたい。戦争の悲劇を忘れないために。そして、生と死について、改めて考えてもらうために」


 千鶴は、ゆっくりとページをめくりながら、静かに言った。


「良い本です。あなたの想いが、ちゃんと伝わってきます」


「では……許可していただけますか? あなたのことを、書くことを」


 千鶴は本を閉じ、蒼一郎を見つめた。


「一つだけ、条件があります」


「何でしょうか?」


 千鶴は微笑んだ。


「私の名前は、変えてください。架空の名前にして」


「なぜですか?」


「私は、特別な存在ではありません。ただ、この土地で代々続いてきた役割を、担っているだけです」


 千鶴は山々を見つめた。


「だから、『遠野の巫女』として、象徴的な存在でいたいのです。個人を超えた、伝統そのものとして」


 蒼一郎は、その言葉の意味を理解した。


「わかりました。では――名前を変えて、出版します」


「ありがとうございます」


 千鶴は本を蒼一郎に返した。


「この本が、多くの人の心に届くことを願っています」


 蒼一郎は本を大切に鞄にしまった。


 そして――。


「千鶴さん。もう一つ、相談があります」


「何でしょうか?」


 蒼一郎は深呼吸をして、言った。


「僕は……この遠野に、住みたいと思っています」


 千鶴は驚いた表情を見せた。


「ここに……?」


「はい。東京での仕事は続けますが、年の半分はここで過ごしたい。そして――」


 蒼一郎は千鶴を見つめた。


「あなたから、もっと多くのことを学びたいんです。生と死について。魂について。この土地の伝統について」


 千鶴は、長い沈黙の後、静かに答えた。


「わかりました。では――私も、あなたに学ばせてください」


「僕に……?」


「ええ。あなたの学問的な視点を。世界の様々な文化や宗教を。そして――」


 千鶴は微笑んだ。


「東京の、新しい世界のことを」


 二人は、互いに頷き合った。


 そして――新たな協力関係が、始まった。


(了)

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