第五章 新しき世界へ
それから数日後、遠野の村に大きな変化が訪れた。
明治天皇が崩御し、大正の時代が幕を開けたのだ。
村人たちは皆、喪に服した。だが、同時に――新しい時代への期待も、密かに抱いていた。
蒼一郎は、東京に戻る準備をしていた。遠野での調査を終え、大学に戻り、学問を続けなければならない。
だが、この短い滞在で、蒼一郎は多くのことを学んだ。
生と死の境界が、思っているよりも薄いこと。
死者は、生者と繋がり続けていること。
戦争が、どれほど深い傷を残すか。
そして――人間が、死を知るがゆえに苦しみ、しかし同時に、その苦しみから意味を生み出せること。
出発の朝、蒼一郎は千鶴の家を訪ねた。
千鶴は、いつもの白い襷をかけた姿で、蒼一郎を迎えた。
「もう行くのですね」
「はい。大学が始まります。でも――」
蒼一郎は千鶴を見つめた。
「いつか、必ず戻ってきます。そして、この遠野の伝承を、きちんとした形で記録したいと思っています」
「それは良いことです」
千鶴は微笑んだ。
「伝承は、語り継がれなければ消えてしまいます。あなたのような学者が、きちんと記録してくれることは、この土地にとって大きな意味があります」
「千鶴さんは……これからも、この土地で?」
「ええ。私の役割は、ここにあります」
千鶴は山々を見つめた。
「生者と死者を繋ぐこと。それが、私に課せられた使命です」
「一人で……辛くないですか?」
蒼一郎の問いに、千鶴は少し寂しげに笑った。
「辛いです。でも、誰かがやらなければならない。そして――」
千鶴は蒼一郎を見た。
「あなたのような人が、時々訪れてくれる。それだけで、救われます」
蒼一郎は、胸が熱くなった。
「千鶴さん、僕は……」
言葉が続かなかった。
蒼一郎は、この数日間で、千鶴に深い尊敬と――それ以上の感情を抱いていた。
だが、千鶴は遠い存在だった。生者と死者の境界を行き来する彼女は、普通の人間とは違う世界に住んでいる。
「大丈夫です」
千鶴は優しく言った。
「私は、一人ではありません。死者たちが、いつも側にいてくれます。そして――」
千鶴は空を見上げた。
「新しい時代が始まります。大正という新しい時代が。きっと、何かが変わるはずです」
「何が変わると思いますか?」
「わかりません。でも――」
千鶴は蒼一郎を見つめた。
「あなたのような若い人たちが、新しい世界を作っていくのです。戦争のない、死者が安らかに眠れる世界を」
蒼一郎は、深く頷いた。
「約束します。僕は、民俗学を通じて、人々の心の奥底にある平和への願いを明らかにします。そして――」
蒼一郎は拳を握りしめた。
「戦争を正当化する物語ではなく、平和を希求する物語を、語り継いでいきます」
「それが、あなたの使命ですね」
千鶴は微笑んだ。
「では、行ってらっしゃい。そして――元気で」
「千鶴さんも」
蒼一郎は深く一礼した。
そして、背を向けて歩き出した。
だが、数歩進んだところで、振り返った。
「千鶴さん!」
「はい?」
「いつか、必ず戻ってきます! そして――」
蒼一郎は勇気を振り絞って言った。
「そして、もっとたくさん、あなたから学びたいです! 生と死のこと、魂のこと、この世界のことを!」
千鶴は、少し驚いた表情を見せた。
そして――柔らかく微笑んだ。
「待っています。いつでも、この遠野で」
蒼一郎は、その笑顔を胸に刻み込んだ。
そして、村を後にした。
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汽車の中で、蒼一郎は窓の外を眺めていた。
遠野の山々が、次第に遠ざかっていく。
あの山々の中に、兄の魂が眠っている。
そして、多くの戦死者たちの魂も。
蒼一郎は、書生鞄からノートを取り出した。
この数日間で学んだことを、記録し始めた。
座敷わらしの悲しみ。
山神の怒りと癒し。
彷徨える兵士たちの苦しみ。
そして、千鶴という一人の女性の、献身的な生き方。
すべてを書き留めながら、蒼一郎は思った。
人間は、死を知るがゆえに苦しむ。
アーネスト・ベッカーが言ったように、死の不安こそが人間の主要な動機なのかもしれない。
だが、同時に――。
人間は、死者を記憶し、語り継ぐことができる。
それは、人間だけの特権であり、祝福だ。
ハイデガーは言った。「死への存在」こそが、本来的な生き方を可能にすると。
確かに、死を意識することで、生の意味が明確になる。
限られた時間の中で、何を為すべきか。
誰を愛すべきか。
何を次の世代に残すべきか。
そして――。
どうすれば、死者の想いを受け継ぎ、より良い世界を作れるか。
蒼一郎は、ペンを走らせ続けた。
遠野での経験を、学問的な形にまとめ、いつか世に問いたい。
それが、兄への供養であり、千鶴への恩返しであり、未来への責任だと思った。
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大正元年の秋。
東京帝国大学に戻った蒼一郎は、柳田国男先生に遠野での調査結果を報告した。
柳田先生は、蒼一郎の記録を熱心に読み、深く頷いた。
「素晴らしい。君は、単なる民俗の記録を超えて、人間の魂の問題に迫っている」
「ありがとうございます」
「特に、この巫女――遠野千鶴という女性の存在が興味深い。生者と死者を繋ぐ存在として、彼女は古代から続く霊的伝統を体現している」
柳田先生は窓の外を見た。
「日本は今、急速に近代化している。西洋の思想と技術が流入し、古い伝統が失われつつある。しかし――」
柳田先生は蒼一郎を見た。
「だからこそ、君のような若い学者が、これらの伝統を記録し、その意味を問い直さなければならない」
「はい。僕は、これからも遠野に通い、調査を続けたいと思っています」
「良いだろう。そして、いつか一冊の本にまとめなさい。『遠野物語』に続く、新たな記録として」
蒼一郎は、深く頭を下げた。
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その夜、蒼一郎は下宿の部屋で、一人夜空を見上げていた。
東京の空は、遠野ほど星が見えない。
だが、同じ月が輝いていた。
あの月の下で、千鶴は今も、死者たちの声を聞いているのだろうか。
蒼一郎は、窓辺に立ち、静かに誓った。
必ず戻る。遠野に。
そして、千鶴と共に、生と死の境界を探求し続ける。
なぜ人間は戦争をするのか。
なぜ人間は死を恐れるのか。
そして――どうすれば、死者と生者が、共に安らかに生きられる世界を作れるのか。
その答えを見つけるまで、自分の探求は終わらない。
蒼一郎は、ノートを開き、新たなページに書き始めた。
「人間と死――遠野における生死観の研究」
それが、蒼一郎の生涯をかけた研究の、始まりだった。
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遠野では、千鶴が神社の石段を登っていた。
いつもの白い襷をかけ、長い黒髪が月光に揺れていた。
社殿の前に立ち、両手を合わせる。
すると――聞こえた。
無数の死者たちの声が。
だが、以前よりも穏やかになっている。
戦死者たちの魂が、少しずつ癒されている。
それは、蒼一郎が兄の魂を救ったことが、波紋のように広がっているからかもしれない。
一人の生者が、一人の死者を真摯に悼む。
その行為が、他の死者たちにも伝わり、彼らもまた救われていく。
それが、供養の本質なのかもしれない。
千鶴は、夜空を見上げた。
新しい時代が始まった。
大正という時代が、どんな時代になるのかはわからない。
だが、少なくとも――。
蒼一郎のような若者がいる限り、希望はあると千鶴は思った。
学問を通じて、戦争の本質を明らかにし、平和への道を探る若者たちが。
そして、死者を忘れず、その想いを受け継ぐ人々が。
「水木さん」
千鶴は小さく呟いた。
「元気で。そして――また、会いましょう」
風が吹き、木々が揺れた。
まるで、誰かが応えているかのように。
千鶴は微笑み、石段を降り始めた。
明日も、死者の声を聞く日々が続く。
それは重荷だが、同時に――千鶴にとって、意味のある人生だった。
生と死の境界を歩む者として。
人間と神々の間に立つ者として。
遠野千鶴は、これからも、この土地を守り続けるのだ。




