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第四章 崩れゆく境界

 満月の夜だった。


 蒼一郎は千鶴に導かれ、山の中腹にある古い社へと向かった。月明かりが山道を照らし、木々の影が不気味に揺れていた。


 社は、ほとんど朽ちかけていた。柱は傾き、屋根は崩れ、かつて神聖だった場所は、今や荒廃している。


「ここが、境界の最も薄い場所です」


 千鶴は社の前に立った。


「この社は、何百年も前に建てられました。生者と死者が出会う場所として。しかし、時代と共に忘れ去られ……今は、誰も訪れません」


 千鶴は社の中に入った。蒼一郎も後を追った。


 中は暗く、埃が舞っていた。だが、不思議と寒さは感じなかった。むしろ、何か温かいものが、この場所を満たしているように思えた。


「準備をします」


 千鶴は懐から白い布を取り出し、地面に敷いた。その上に、小さな鏡と、幾つかの供物を置いた。米、塩、水、そして酒。


「これは、死者を呼ぶ儀式です」


 千鶴は跪き、両手を合わせた。


「古来、日本では鏡が異界への扉だと信じられてきました。鏡の向こう側に、もう一つの世界がある。そこに、死者の魂が住んでいると」


 蒼一郎も跪いた。心臓が激しく鼓動していた。


 千鶴は静かに祈り始めた。


「この地を守る神々よ、山の神よ、川の神よ、そして祖先の霊たちよ。どうか、今宵、境界を開いてください。彷徨える魂に、この世との繋がりを与えてください」


 千鶴の声が、社の中に響いた。


 そして――。


 鏡が、光り始めた。


 淡い青白い光が、鏡の表面から溢れ出てきた。


 蒼一郎は息を呑んだ。


 鏡の中に、何かが映り始めた。


 それは――戦場だった。


 雪が降りしきる荒野。砲弾が炸裂し、兵士たちが倒れていく。血で染まった雪。凍てついた死体。絶望と恐怖の叫び。


 そして――その中に、一人の兵士がいた。


「兄さん……!」


 蒼一郎は思わず叫んだ。


 鏡の中の兵士が、こちらを向いた。


 それは、紛れもなく蒼一郎の兄だった。


 だが、その顔は疲労と絶望に歪んでいた。目には光がなく、唇は青ざめていた。


「蒼一郎……?」


 兄の声が、遠くから聞こえた。


「兄さん! 兄さん!」


 蒼一郎は鏡に手を伸ばした。だが、鏡の表面は冷たく、触れることはできなかった。


「蒼一郎……なぜ、お前がここに……」


「兄さんに会いたかったんです! ずっと……ずっと……」


 蒼一郎の目から涙が溢れた。


「兄さん、帰ってきてください! もう戦争は終わったんです! 家に帰ってきてください!」


 兄は悲しげに首を横に振った。


「帰れない……俺は、もう死んだんだ……」


「でも、魂は! 魂はまだ……」


「魂も……帰れない……」


 兄の声は、苦しげだった。


「俺は……多くの人を殺した。敵国の兵士を。罪のない民間人を。そして――」


 兄の声が震えた。


「味方の兵士さえ……食料を奪い合って……生き延びるために……」


 蒼一郎は愕然とした。


「兄さん……」


「俺は……人間じゃなくなった。獣になった。戦場で、俺たちは皆、獣になった」


 兄の姿が揺らいだ。


「だから、帰れない。こんな姿で、母さんに会えない。お前に会えない。故郷に……帰れない……」


「そんなこと……!」


 蒼一郎は叫んだ。


「兄さんは悪くない! 悪いのは戦争です! 兄さんを戦場に送った国です! 兄さんは……兄さんは犠牲者なんです!」


 だが、兄は首を横に振り続けた。


「違う……俺は、自分の意志で引き金を引いた。自分の手で、人を殺した。それは……俺の罪だ……」


 その時、千鶴が口を開いた。


「水木蒼様」


 千鶴の声は、静かだが力強かった。


「あなたは、罪を背負っています。確かに、あなたの手は血に染まっています。しかし――」


 千鶴は鏡を見つめた。


「それでも、あなたは救われるべき魂です」


 兄は千鶴を見た。


「俺が……救われる……?」


「ええ。なぜなら、あなたは苦しんでいるからです。罪悪感を感じているからです。それは、あなたがまだ人間性を持っている証拠です」


 千鶴は立ち上がり、鏡に近づいた。


「真の悪とは、罪悪感を感じないことです。暴力を正当化し、自分の行為を省みないこと。しかし、あなたは違う。あなたは、自分の罪を認識し、苦しんでいる」


「でも……それで罪が消えるわけじゃ……」


「消えません」


 千鶴は断言した。


「罪は消えません。あなたが犯した行為は、永遠に記録されます。しかし――」


 千鶴は優しく続けた。


「罪を認識し、悔い、二度と繰り返さないと誓うこと。それが、贖罪の第一歩です」


 千鶴は両手を合わせた。


「仏教では、すべての衆生に仏性があると説きます。どんな罪人であっても、悟りへの道は開かれている。キリスト教では、神の恩寵によって罪が赦されると説きます。そして、この遠野では――」


 千鶴は山々を指差した。


「山神が、すべてを受け入れてくれます。罪も、苦しみも、すべてを包み込んで、浄化してくれる」


 兄の目に、わずかな光が宿った。


「俺は……許されるのか……?」


「許されるかどうかではありません」


 千鶴は言った。


「あなた自身が、自分を許すかどうかです。そして――」


 千鶴は蒼一郎を見た。


「あなたの弟が、あなたを許すかどうかです」


 蒼一郎は鏡の中の兄を見つめた。


 涙で霞む視界の中、兄の苦しみと悲しみが、ありありと見えた。


 そして、蒼一郎は気づいた。


 兄は、ずっと一人で苦しんでいたのだと。


 戦場で、死んでからも、ずっと一人で罪悪感に苛まれていたのだと。


 蒼一郎は、震える声で言った。


「兄さん……僕は、兄さんを恨んでいません。兄さんが何をしたとしても、兄さんは僕の兄さんです」


「蒼一郎……」


「だから……だから、もう苦しまないでください。自分を許してください。そして――」


 蒼一郎は涙を拭った。


「家に、帰ってきてください。魂だけでも、この遠野に。母さんが、待っています。僕も、待っています」


 兄の目から、大粒の涙が流れた。


「蒼一郎……ありがとう……」


 兄の姿が、次第に穏やかになっていった。


 戦場の風景が消え、代わりに――山々の風景が現れた。


 緑豊かな山、清らかな川、そして静かな森。


「俺は……ここへ行けるのか……?」


「ええ」


 千鶴は微笑んだ。


「あなたは、もう十分苦しみました。山神が、あなたを迎えてくれます。そして、いつか――」


 千鶴は空を見上げた。


「いつか、輪廻の輪の中で、再びあなたの弟と出会えるでしょう」


 兄は静かに微笑んだ。


「蒼一郎、お前は強い子だ。これからも、強く生きてくれ」


「兄さん……」


「そして――戦争を、二度と繰り返させないでくれ。俺たちのような犠牲者を、もう出さないでくれ」


「約束します!」


 蒼一郎は叫んだ。


「僕は、戦争の本質を学び、人々に伝えます。なぜ人間は戦うのか、どうすれば平和を保てるのか――それを、一生かけて研究します!」


 兄は満足げに頷いた。


「ありがとう、蒼一郎。お前に会えて……本当に良かった」


 そして、兄の姿が光に包まれた。


 鏡の中の映像が消え、代わりに――山々の風景だけが残った。


 兄は、山へ帰っていった。


 蒼一郎は、その場に崩れ落ちた。


 千鶴は静かに蒼一郎の肩に手を置いた。


「よく頑張りました」


「千鶴さん……ありがとうございます……」


「いいえ。あなた自身の力です。あなたが兄を許したから、兄は救われたのです」


 千鶴は夜空を見上げた。


 満月が、静かに二人を照らしていた。


「人間は、死を知る唯一の生き物です。そして、死者を悼み、記憶し、語り継ぐことができる唯一の生き物です」


 千鶴は続けた。


「それは、祝福であり、同時に呪いでもあります。死の恐怖が人間を苦しめる。しかし、同時に――」


 千鶴は蒼一郎を見た。


「死者との繋がりを保つことが、生者に意味を与えるのです。あなたの兄は、あなたの中に生き続けます。そして、あなたが兄の想いを継ぐ限り、兄は決して消えません」


 蒼一郎は、深く頷いた。


 そして、二人は社を後にした。


 山を下りながら、蒼一郎は心が軽くなっているのを感じた。


 長い間背負っていた重荷が、ようやく下ろせた気がした。


 だが、同時に――新たな使命を背負ったことも感じていた。


 兄の遺言を守り、戦争の悲劇を二度と繰り返させないという使命を。


 それは、重いが、意味のある使命だった。




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