第三章 彷徨える兵士たち
猟師を村に連れ戻した翌日、蒼一郎は千鶴に導かれて、村外れの墓地を訪れた。
墓石が並ぶ丘の上から、遠野の村が一望できた。萱葺きの屋根が点在し、その向こうには山々が連なっている。穏やかな風景だった。だが、その平和の下には、数え切れない物語が眠っている。
「ここに、戦死者たちの墓があります」
千鶴は墓石の一つを指差した。
そこには、若い兵士の名前が刻まれていた。享年二十三。日露戦争で戦死。
「彼らの魂は、今どこにいるのでしょうか」
蒼一郎が呟くと、千鶴は静かに答えた。
「それは、誰にもわかりません。靖国に祀られているのかもしれない。山に眠っているのかもしれない。あるいは――」
千鶴は村を見下ろした。
「まだ、この村を彷徨っているのかもしれません」
その時、蒼一郎は気づいた。墓地の片隅に、一人の男が立っているのを。
軍服を着た若い兵士だった。だが、その姿はどこか霞んでいて、輪郭が曖昧だった。
「千鶴さん……あれは……」
千鶴も兵士に気づいた。彼女は静かに近づいていった。蒼一郎も後を追った。
兵士は、自分の墓石の前に立っていた。じっと、石に刻まれた自分の名前を見つめている。
「あなたは……」
千鶴が声をかけると、兵士はゆっくりと振り向いた。
若い顔だった。二十代前半だろうか。だが、その目には深い疲労と悲しみが宿っていた。
「俺は……死んだのか……?」
兵士の声は、まるで遠くから聞こえるようだった。
「ええ。三年前、旅順で」
千鶴の言葉に、兵士は頷いた。
「そうか……やはり、死んだのか……」
兵士は自分の手を見た。半透明で、光を透かしている。
「なぜ、俺はまだここにいるんだ……? なぜ、成仏できない……?」
「あなたは、何か心残りがあるのではないですか?」
千鶴の問いに、兵士は苦しげに答えた。
「心残り……そうだ、たくさんある……」
兵士は遠くを見つめた。
「俺は……戦いたくなかった。でも、徴兵された。お国のためだと言われた。天皇陛下のためだと。だから、戦った」
兵士の声は震えていた。
「でも……戦場は地獄だった。寒さ、飢え、病気。そして――殺し合い」
兵士は両手で顔を覆った。
「俺は、人を殺した。何人も。敵国の兵士だと言われたが……同じ人間だった。家族がいて、故郷があって、生きたいと思っていた人間を……」
蒼一郎は、胸が締め付けられる思いだった。
兄もまた、同じ思いを抱えて死んだのだろうか。
「あなたは、罪悪感に苦しんでいるのですね」
千鶴の言葉に、兵士は頷いた。
「俺は……地獄に落ちるべきだ。人を殺した罪で。でも、俺はまだここにいる。この村を彷徨っている。なぜだ……?」
「あなたは、迷っているのです」
千鶴は優しく言った。
「自分の死を受け入れられず、罪悪感に囚われ、行き場を失っている」
「どうすれば……成仏できる……?」
兵士の声には、切実さが滲んでいた。
千鶴は少し考えてから、答えた。
「まず、自分を許すことです」
「自分を……許す……?」
「ええ。あなたは、自分の意志で戦争に行ったわけではありません。国家という大きな力に巻き込まれ、生き延びるために戦わざるを得なかった。それは、あなたの罪ではありません」
兵士は首を横に振った。
「でも、俺は殺した……」
「殺したのはあなたではなく、戦争です」
千鶴の言葉は、強かった。
「戦争という暴力のシステムが、人々を殺人者に変える。個人の道徳や良心を超えた、構造的な暴力です」
蒼一郎は、千鶴の言葉に深い洞察を感じた。
確かに、戦争における殺人は、通常の殺人とは異なる。国家が命じ、社会が賞賛し、道徳的責任が曖昧になる。スタンレー・ミルグラムの服従実験が示したように、人間は権威に服従する時、自分の行為の責任を感じなくなる。アルバート・バンデューラの道徳的離脱理論が説明するように、様々なメカニズムによって、人は罪悪感なく暴力を振るえるようになる。
だが、それでも――。
戦争が終わった後、多くの兵士が罪悪感に苦しむ。それは、人間が本質的に暴力を嫌うことの証明なのかもしれない。
「あなたは、優しい人です」
千鶴は兵士に言った。
「罪悪感を感じるということは、良心を持っているということです。あなたは、心から平和を望んでいた。それを忘れないでください」
兵士の目から、涙が流れた。半透明の涙が、地面に落ちて消えた。
「俺は……どこへ行けばいい……?」
「山へ行きなさい」
千鶴は山々を指差した。
「あそこで、他の魂たちと共に眠るのです。山神が、あなたを受け入れてくれます」
「でも……俺みたいな罪人を……」
「山神は、すべてを受け入れます。罪も、悲しみも、すべてを包み込んで、浄化してくれます」
千鶴は兵士に近づき、その半透明の手に触れた。
「あなたは、もう十分苦しみました。自分を許し、安らかに眠ってください」
兵士は長い沈黙の後、静かに頷いた。
「ありがとう……」
兵士の姿が、次第に薄れていった。
そして――風に溶けるように、消えた。
蒼一郎は、その光景を呆然と見つめていた。
「成仏……したんですか?」
「ええ。彼は、山へ向かいました」
千鶴は空を見上げた。
「これで、一人救われました。しかし――」
千鶴の表情が曇った。
「まだ、多くの魂が彷徨っています」
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その夜、蒼一郎は宿で一人、考え込んでいた。
今日見た兵士の姿が、脳裏から離れなかった。
兄もまた、同じように苦しんでいるのだろうか。戦場での行為を悔い、罪悪感に囚われているのだろうか。
蒼一郎は書生鞄から、兄の遺品を取り出した。
軍服のボタン。戦場から送られてきた、わずかな形見だった。
このボタンを握りしめ、蒼一郎は何度も泣いた。
兄は、なぜ死ななければならなかったのか。
お国のため、と言われた。天皇陛下のため、と。
だが、それは本当に兄の望みだったのか。
蒼一郎は、民俗学を学ぶ中で、様々な戦争論に触れてきた。
トゥキディデスは言った。戦争の原因は「恐怖、名誉、利益」だと。
クラウゼヴィッツは言った。「戦争は政治の他の手段による継続」だと。
ミアシャイマーは言った。大国は権力の最大化を求め、それが戦争を生むのだと。
だが、それらの理論は、個々の兵士の苦しみを説明してくれない。
戦場で死んでいった若者たちの、恐怖と絶望を。
生き残った者たちの、罪悪感と悲しみを。
そして、残された家族の、癒えない傷を。
蒼一郎は窓の外を見た。
闇の中に、山々のシルエットが浮かんでいた。
あそこに、兄の魂はいるのだろうか。
それとも、まだ満州の大地を彷徨っているのだろうか。
その時、ドアをノックする音がした。
「水木さん、起きていますか?」
千鶴の声だった。蒼一郎は慌ててドアを開けた。
「千鶴さん……こんな夜中に……」
「すみません。でも、どうしてもお話ししたいことがあって」
千鶴は深刻な表情をしていた。
「何か……あったんですか?」
「ええ。今夜、また死者の声を聞きました。そして――」
千鶴は蒼一郎を見つめた。
「あなたのお兄さんの声も、聞こえました」
蒼一郎は息を呑んだ。
「兄の……声が……?」
「ええ。彼は、この遠野にいます。そして――あなたを探しています」
蒼一郎の心臓が激しく鼓動した。
「どこに……どこにいるんですか!」
「落ち着いてください」
千鶴は蒼一郎の肩に手を置いた。
「彼は、まだ現世への執着が強すぎて、姿を現せません。しかし、明日の夜――満月の晩に、境界が最も薄くなります。その時、彼に会えるかもしれません」
「本当ですか……?」
「ええ。ただし――」
千鶴の表情が険しくなった。
「彼に会うということは、彼の苦しみを直視することでもあります。覚悟はできていますか?」
蒼一郎は迷わず答えた。
「できています。僕は、兄に会いたい。たとえ、どんな姿であろうと」
千鶴は静かに頷いた。
「わかりました。では、明日の晩、山の中腹にある古い社で会いましょう。そこが、境界の最も薄い場所です」
「ありがとうございます、千鶴さん」
蒼一郎は深く頭を下げた。
千鶴は去り際に、一言だけ言った。
「水木さん。死者に会うということは、自分自身の死とも向き合うということです。人間は、死を知る唯一の動物です。その知識がもたらす恐怖と、それでも生きることの意味――それを、明日、あなたは知ることになるでしょう」
そして、千鶴は闇の中に消えた。
蒼一郎は、長い夜を一睡もせずに過ごした。
明日、兄に会える。
その期待と恐怖が、入り混じっていた。




