約束 02
「はて、1000年前の約束……」
風の音だけが間を埋める。葉擦れの音だけが返ってきた。トワネはその余韻に耳を傾けるようにまぶたを伏せ、やがて、ぽつりと口を開いた。
「イツ。記憶というのは、どれほど強く刻んだつもりでも、やがては風化していくものです。最初は音が消え、色が薄れ、輪郭が曖昧になり、そして名前を忘れます。でも、それが悪いことだとは思いません。忘れることで、私たちは新しいことを覚えますし――」
まるで講義でもするかのような調子で、トワネは言葉を重ねていった。イツミは「ふんふん」と鼻息を立てながら、真剣そうに耳を傾けていたが、すぐに飽きた表情で一言つぶやいた。
「ふーん……それでそれで?」
急かすような響きに、トワネはどこか達観したような口調で答えた。
「つまり、覚えていないということです」
「がびーーん!!」
がっくりと肩を落とし、両手で頭を抱える。しばらくそのまま凍っていたが、イツミはやがて顔を上げて、すっと指を一本立てた。
「――ヒント、いる? 答えは教えてあげないよーだ」
「聞いたところで、思い出すとは限りませんけどね」
トワネはわざとらしくそっぽを向いた。だが、その目はちらりとイツミの指先を盗み見ている。
「じゃあ、言わなぁーい」
「あっ、待ってください。別に、聞かないとは言ってませんけど? ……ふむ、まあいいでしょう。聞いてあげるのも、姉のつとめですから」
「なんで、おねぇーのがエラそーなのさ!」
ぷんすかと頬を膨らませるイツミに、トワネは無言のまま、眉間を指で押さえた。考え込むようなその仕草には、どこか古びた記憶の奥に触れようとする気配があった。
「……では、ヒントをください」
イツミはいたずらっぽく笑い、
「ヒントそのいち。食べても、なくならない」
トワネは言葉には反応せず、イツミの手元に目をやった。その隣に、もう一本、指が添えられる。
「ヒントそのに。思い出せなくても、ちゃんとある」
間髪を入れず、次の指が立てられる。
「ヒントそのさん。時間がたっても、つづいてる」
三つ目のヒントまで聞いたところで、トワネは思考の癖のように、無意識に髪の端を摘んでいる。順に意味を捉えようとする気配はあるが、表情に明確な反応はない。むしろ、思考が空転していることを、無言が物語っていた。
「……ヒントで余計に分からなくなりました」
「ねぇ! なんでさぁ、もぉーーっ!」
イツミは思いきり地を踏み鳴らし、張り上げた声の終わりにわずかな力の抜けが見えた。
声が途切れるより早く、トワネの仕草がぴたりと止まった。
「――いえ、もしかしたら。思い出す手がかりがあるかもしれません」
囁くような声と同時に、トワネは手をすっと持ち上げた。空気が逆流する。まるで森全体が息を呑んだように、周囲が静まり返る。
ゴゴゴ……ッ。
低く、地面の底から響くような音と共に、小屋がゆっくりと横に滑りはじめた。下草がなぎ倒され、根ごと浮いた木々がひしゃげる。
「わーっ! おねぇー、なにしてんの!?」
イツミは数歩よろけながら後ずさり、宙に浮く土埃にむせた。足元が揺れ、倒れた枝葉がばさばさと地面に散った。
やがて、小屋の動きが止まると同時に、トワネは手を静かに下ろした。舞い上がった粉塵がゆらゆらと陽を遮り、視界が白く濁る。
「実はこの小屋、動かせるようにしてたのですよ。ほら、見てください」
もともと小屋があった場所にぽっかりと空いた空間を指さす。そこには、下へと続く古びた階段が姿を現していた。
「――秘密基地だーっ!」
イツミが目を輝かせる。しかしその横で、気づけばトワネはもう階段を降りていた。取り残された気配に、彼女も急いで駆け出した。
階段はすぐに闇の中へと続いており、手元さえ見えないほどで、視界はほとんど利かない。それでも、二人の足は緩まず、迷いも見えなかった。
トワネは前方で足音を刻みながら降りていく。
――だが、その音が、不意に軋んだ。踏み外したような鈍い乱れが一拍、続けて何か重いものが階段を打ちながら、弾み、崩れ、跳ね、落ちていく。
そして最後に、腹の底へ響くようなドスン、という鈍い音が闇の奥でくぐもった。
「ありゃ……何してんだ、あははは! ――わぁ!?」
思わず笑ったイツミも、同じく階段に足を滑らせてしまい、まるで転がる玉のように弾かれながら、最後は地面にうつぶせのトワネに勢いよく激突した。
「ぐぇっ!」
トワネの小さな呻き声が重なり、ようやく二人の転落は止まった。そこは先ほどまでの暗闇とは対照的に、かすかに白い光を放つ扉が、静かに佇んでいる空間だった。
「ふう……。邪魔ですよ、イツ」
トワネは潰されたまま、顔だけを横に向けて呟いた。
イツミはおかしそうに笑った。
「おねぇー、階段の降り方、すっかり忘れてたんじゃーん」
「む……イツだって、同じように落ちたでしょう」
「ちっがいまーす、イツはジャンプしただけでぇーす!」
子どもじみた言い分に、トワネは目を細めるだけで、すぐに視線が光る扉へと向いた。トワネはひょいと立ち上がり、ゆっくりと扉に手をかざす。
幾重にも施された封印の符が溶けるかのように、一枚また一枚と剥がれ落ち、やがて扉が音もなく、すうっと開いていくのが見えた。
「ずいぶん長い間、封印しっぱなしでしたね。いつからか、ここは物置にして、そのままにしていたんです。何か手がかりになるものがあるかもしれません」
扉の向こうには、ぼんやりと明かりの灯る広々とした空間が存在していた。あちこちに古びた箱や本、道具の類が積み重なったり散らばっていて、一見すると足の踏み場もままならない。
「うへぇ……物置ってゆーより、ゴミ箱ってかんじぃー」