手に残ったのは……
「族長ッ、あとすこしで《火》族たちが迎えに参ります」
「若さまッ、《火》神がかならずや助けに参ります!」
「いましばらくのご辛抱を!」
半人半竜のひとりである竜騎兵の背には、完全に人化した幼い少年が息荒く、高熱と身体に負っている激しい痛みを伴いながら、ぐったりとしている姿があった。
竜騎兵は群を抜く速さで、少年を背負ったまま先頭を走っている。
周囲には、竜化した小振りの雄たちが護衛のように疾走している。
「……なさ……い、ごめん……な……さい……」
荒い呼吸のなか、少年は深紅の瞳をゆがませ、泣きじゃくりながらなお呼吸を困難にさせ、ときおり身体中に走る痛みに耐えきれず、苦痛の声と苦悶を浮かべる。
――年のころはヒトの感覚でいえばまだ六歳か、そこら。
竜族は総じて、雄は竜騎士や竜騎兵としての半人半竜、雌は部族の族長を支える女官として成竜で誕生するが、この少年はまだ正真正銘幼い。
幼い姿ではあるが、竜族の一族の一端、ひとりという枠組みで同列にあつかってよい存在ではない。その身は並びない尊き存在なのだ。
幼い人化は、《地》族の族長。
――名を、《地》神。
世界を最初に創世した《祖》、最初の一族の《祖》である竜族の《原始》が持つ強大な自然エネルギーを五つの元素に分けた「竜の五神」のひとりで、《空》、《水》、《風》、《火》につづく最後の《地》として誕生したのだが、その生まれは遅く、「竜の五神」のなかでは末弟のような立ち位置でもあった。
その「竜の五神」――彼らに敵う者なしの一席に座する《地》神だが、いまはほとんど半死半生。
きっと黒曜のように美しい肩に流れる黒髪も、いまは土煙をかぶって灰色にくすみ、幼くても部族の族長として威厳のある戦装束を着用していたが、それも土や自らの血で汚れ、酷く破れている。
それだけでも目に見えて痛いというのに、
「《火》神――、早く戻られてくださいッ、若さまの身体はもう持ちません!」
何よりも大切な《地》族の族長の身体はいま、枯渇しきった大地のように地割れを起こし、足のつま先からぽろぽろと礫のように崩れ始めている。そうやって、片足は足の付け根近くまですでに失われている。
平素の《地》神は、幼くても大地神主神にふさわしい堅牢な身体を持っているのだが、いざ、創成する大陸や大地に何かあれば同調連鎖のように傷を負いやすく、身体中に地割れのようなひびが走り、そして崩れていく。
いまは足をはじめとする下半身だけではなく、自分を背負う竜騎兵に満足にしがみつけないほど手の指もぽろぽろと崩れている。
――ああ、これで何度目だろうか……。
この世界に、「神」として座する竜族が創世する、この世界創世期に大陸をいくつも創成しなければならないというのに、それがいまだ叶わず、「彼」に負けるたびにこの身体は崩れて……。
――すこしも前に進めない。
「ごめ……なさ……い……」
数多の種族、その生命を誕生させるために大陸を創成しなければならないのに、命を守護する定めを持ちながら、それを支える手はぽろぽろと崩れて何も護れず、自分ではもう歩けず、背負われてばかりいるなんて。
――この子どもの崩れゆく身体を止めることができるのは、唯一《火》神の火焔だけ。
おなじ「竜の五神」であり、大地神であり、《地》神の従神である《火》族族長だけが幼い子どもを護ることができるのだが、その《火》神はいま、そばにはいない。
もう何百キロと敗走をつづけてきたが、そろそろ退路が終わる。
《地》族たちの目の先には、この大地の終わり、大陸の端が見えてきた。
そして、敗走をはじめたころの大地の方角を見やると、そのほとんどが大津波に飲まれ、海洋に蹂躙されている。
――そんなときだった。
すでに生気を失った大地に草木が残る余地もないのだが、その枯れ木の枝付近から、小さな、あまりにも小さな生命の波動を感じた。
ほとんど意識を失いかけていた《地》神はそれに、はた、と気がついて、ぐったりとしていた顔をどうにか起こして、あわてて周囲を見やる。
「……いる、この近くに」
《地》神は慎重に気配を探る。
この付近にいる。《地》神が大地主神として、「竜の五神」として護らなければならない、自分が創成した大地で誕生した生命。その波動が近くにある。
「ごめんなさい、この大陸はもう沈みます。あなたたちの住む場所を護れなくて、ごめんなさい……」
《地》神は泣きながら詫び、深紅の瞳をこらす。
早く、早く見つけなければ。
「お願い、どこにいるんですか? 大地主神である俺が言うのはあまりにも情けないけれど、……お願い、一緒に逃げて……」
そして、ようやくのことでその生命の波動を探し当て、《地》神は声を振り絞る。
「誰か、あの枝にある鳥の巣を取って! まだ生きている生命の波動が残っています!」
《地》神は周囲の竜騎兵たちに伝える。
だが竜騎兵たちは、もう数キロもない距離まで迫っている大津波の到達と、枯れ枝に残る鳥の巣の保護までを即時に天秤にかけ、
「若さま、いまは若さまの御身が何よりも重要!」
「鳥の巣はお捨てくださいませ!」
誰もが口々に、あきらめろ、と返答してくる。《地》神はそれに対し、日ごろは気弱な感情を一瞬で沸騰させる。
「俺たちは《地》族です! この大地を創成し、そこに誕生するすべての命を慈しみ、護るのが使命です! その《地》族が護るべき生命を前に、見捨てろだなんて、――二度と言わないでくださいッ!」
幼い子どもが見せるほとんどはじめての激昂に、竜騎兵たちは心底おどろき、そして、なぜか、だからこそ我ら《地》族の族長だと敬愛、尊崇し直し、心底誇りに思い、誰もが小さく微笑んで覚悟を決めた。
竜化している竜騎士に騎乗していた半人半竜の竜騎兵がその背に立ち、幼き《地》族族長の視線の先にある鳥の巣に手を伸ばし、そっと取る。
周囲に親鳥はいないようだが、ふたつの小さな卵を護る巣は、愛情をかけて丹念に作られたのがうかがえる。大柄な竜騎兵では片方の掌に乗せるだけでも小さく、わずかに力がこもれば壊れてしまうほどにも感じられたが、はじめて何かを助けることができた実感が無性に愛しくて涙が浮かんでしまう。
「我らが《地》族族長――《地》神! お見事です」
「このような事態でも、護るべき生命を見つけてくださるとは」
「この大陸を失おうとも、救える生命をこうして手にすることができた喜び。忘れませぬ!」
最期に、《地》族が真に護るべきものとは何かを教えてくれた族長に心底感謝し、周囲の竜騎兵や竜騎士たちはつぎつぎと身体を溶かし、本来の姿である「自然」に返る。
それは竜化でも、人化でもない、大地そのものだった。
「若さま、前方から《火》族の気配がします。ようやく彼らが来てくださいました」
「若さま、どうか、この巣に眠る生命をお護りくださいませ」
言って、彼らは目の前の比較的穏やかな海洋に向けて、一筋の道となる。
けっして安全な足場ではなく、崖のような尾根であったが、《地》神を背負う竜騎兵と、騎乗から下りて、鳥の巣を手にする竜騎士だけが走り逃げるには充分な退路だった。
「――え……?」
背負われたままの《地》神は目を驚愕の大きさに見開く。
ようやくのことで援護に駆けつけた竜化の《火》族たちに掬われるように保護された瞬間、《地》神は翼竜である彼らの背から、完全に大津波に飲まれて海に沈む大陸を見やる。
部族の多くの雄たちの……、竜騎兵や竜騎士たちの犠牲と引き換えに救えたのは、この鳥の巣に眠る小さな生命……。
ふたつの卵だけとは――。