思い出コーヒー1つ
肌を刺すような寒さになった冬の街並みは赤や黄色の電飾でキラキラと輝いていた。あと数日もすれば街はクリスマスでお祭り騒ぎだ。そんな中仕事納めに追い込みをかけた男は今日も白い息を吐きながら夜遅く帰路についていた。
男は苦悩していた。正確に言えばその苦悩を乗り越えた先に幸福は待っているのだろう。
その男はもうすぐ婚約の身を迎えるつもりである。少し歯切れが悪いのは、間近に迫るクリスマスで今付き合っている彼女に正式にプロポーズをするのだが、悩みも付き物だからだ。
双方の気持ちはもちろん、両親との挨拶は済ませてある。ただ世の中は何においてもお金が必要なのだと改めて痛感し、その工面をどうしようかと最近では仕事中でも考えるようになっていた。
気がつくと、待ち合わせのカフェに着いた。
「徹くん」
彼女は外で手を擦り合わせて待っていてくれた。
「お待たせ、叶」
今日は仕事終わりに彼女と、夜にしか開かないカフェ、カフェ・ヨルマチでのんびり話そうと約束していたのであった。外観はヨーロッパ調で店内は店主こだわりのアンティークが揃えられており、この街の知る人ぞ知るいわゆる隠れスポットだ。毎夜開店しては暖かいオレンジ色の灯りを照らしているのだった。
「もうすぐクリスマスだね、クリスマスは何か美味しいもの食べに行こう」
そう叶は徹に話しかけながら、目線ではまた違う何かを訴えていた。
「そうだね。美味しい店探してみるよ」
徹には痛いほどわかっていた。彼女は待っている。徹がプロポーズをしてきてくれることを。
叶と付き合ってしばらく経つ。両親もお互いを知っている。そしてクリスマスというイベントがもうすぐ来る。準備はもう整っているも同然だった。ただ徹はまだそのタイミングに間に合っていない。そういう話なのだ。
徹は小腹が空いてるので店の料理をつついていた。相変わらず本当に美味しい。クリスマスのプロポーズもこの思い出の場所にしようと心に決めていた。
冬にしては暖かな陽光が差す昼下がり、徹は実家に帰った。
実家では両親2人が暮らしている。年寄りの2人ではお米が余るからと、同じ市内に1人暮らしをしている徹はお米を貰いにくるようにと言われているのであった。兄弟は姉がいるが2年ほど前に結婚して他県で暮らしている。
「ただいま」
鍵のかかっていない玄関をあけて、奥の部屋に向かう。
「おかえり。徹。お米と一緒に野菜持って帰る?お茶飲んで行ったら」
ソファーに座ってテレビを見ていた母親が徹を見た途端に矢継ぎ早に話しかけてくる。
母親の隣で寡黙な父親はテレビの画面を見ながら「おう」とだけ声をかけてくる。
「じゃあ、お米と玉ねぎ、人参とジャガイモもらってくよ」
そう言って徹は野菜を袋に詰め始めた。
「叶ちゃんとは上手くいってるみたいね。
本当にいい子だから大切にね」
この間の挨拶に来た時、両親はとても驚いただろう。こんなごく平凡な息子がいわゆるお嬢さんと言われるような気立てのいい女性を連れてきたのだから。
叶と知り合ったのは1年前。出会った場所がまさしくカフェ・ヨルマチだった。深夜の客がまばらな時にたまたま同じメニューを頼んだものが、ほぼ同時に2人のテーブルに運ばれてきたのを今でも思い出す。その時お互いの目があって「この料理美味しいですよね」と叶から徹に話しかけてきてくれたのがきっかけだった。
「徹。これ少ないけど足しにしろ」
帰り際に父親が封筒を手渡してきた。
少し厚みのある茶封筒には現金が入っている。両親は息子のこれからのこと、徹と叶の結婚を見据えてくれているのだ。
決して裕福な家庭ではないが、なんとか結婚の資金に充ててほしいと家計の中から捻出してくれたお金だ。
「ありがとう」
徹も申し訳ない気持ちと感謝の気持ちの両方で封筒を受け取りながらも、まだまだ全然足りないと思ってしまう罪悪感を感じていた。
徹は自分のアパートへ帰る途中にある質屋に寄った。中に入ると最近顔馴染みになった中年の男が座っているのであった。
「これくらいですか」
徹はわかってはいたが、査定の結果に愕然とした。自分の身の回りにあるものを色々持ってきて売っても雀の涙にしかならない。
「君、最近よく来るけど本当に困っているのか」
質屋の店主も同情の表情を浮かべている。
お金がないのは徹が怠惰というわけでも、浪費家というわけでもない。先の先祖代々の実家のリフォームや、父親が病気をしたときの補助など出費が嵩んだ時期があったのだ。更に追い討ちをかけたのが、叶の両親に挨拶に行った時だった。叶の両親と徹の3人でいるときに、もし叶との結婚を考えているのであれば条件があると切り出されたのだ。
叶の家は伝統のある由緒正しい家系で大切な1人娘を簡単には嫁にやれないが、叶は徹のことを本気で想っている。
この先叶のことを本当に幸せにする覚悟があるならば、当家の指定した結婚式指輪の準備と、結婚式をあげてほしいということが条件であった。その費用がとてつもなく掛かるのではあるが、徹も本気だったのでその場で約束したのであった。そしてそのプロポーズのタイムリミットがすぐ先にあるクリスマスの日だったのだ。
「本当にお金のためになんでも売る覚悟があるかい?もしあるならとっておきを教える。でも、誰にも言わないと約束してね」
質屋の店主がおもむろに声をかけてくれた。
「はい。もちろんです」
徹は藁にもすがる思いで、質屋の店主から話を聞いた。カフェ・ヨルマチでは冬場に路頭に迷いそうなくらいお金に困った人のための裏メニューがあるのだという。午前0時に注文を聞かれたら思い出コーヒー1つと言う。ただそれだけだった。
その晩徹はそわそわしながら0時少し前にカフェ・ヨルマチに入った。
「ご注文は」
見慣れたウェイトレスが注文をとりに来る。
ちょうど0時だ。
「思い出コーヒー1つ」
徹は質屋の店主に教えてもらった通りの注文をした。
「かしこまりました。奥へどうぞ」
店の奥に通されると中年のどこにでもいそうな女性が座っていた。
「座って。自己紹介とかはいいわ。あなたは夢のために思い出を売る覚悟はある?質問はなしよ。答えるだけ」
徹は質問の意味がわからなかったが、黙って頷くしかなかった。
「よろしい。あなたが大切にしてる思い出を売ると高値で買い取って、それに見合った夢が叶うわ。今のあなたの願いなら、そうねぇ…。両親との思い出を全て売れば叶うわね」
「そんな…!!本当かわからない上に、両親との思い出を売るなんて!!」
その時、徹のスマホの着信がなる。画面には最近お金をせびってくる友だちの名前だ。こんな時に。徹はそう思った。
「試しにその人の思い出を売ってごらんなさい。あまり大切じゃない思い出だから、そう高くは売れないと思うけど。その人の事を強く想ってこれを飲みなさい」
差し出されたのはごく普通のアイスコーヒーだった。疑心暗鬼になりながらも徹は言われた通りに、その友だちを強く思って飲み干した。
スマホの画面を見る。さっきの友だちの名前はあるが、その友だちとの思い出が一切思い出せない。本物だ。徹は確信した。
またスマホが鳴る。次は車のディーラーからだ。しばらく話してから電話を切った。
信じられなかった。売却する車の査定額が思ったより高くついたとの連絡だった。最初の見積もりより多少高く売れる。これで結婚式の資金の足しになる。
「わかったでしょう。その友だちとの思い出を売った分が、あなたの夢の足しになった。さぁ、どうするの?」
「1日だけ考えさせてください」
徹は振り絞るようにして答えた。
「1日だけよ。この事を誰かに、もちろん両親にも相談した途端にこのカフェと私の存在はあなたの中から消えるわ。わかったわね」
この中年の女性には何もかもお見通しだった。本当に現実だったのかと思うほどのあっという間の出来事であったが、徹には考えてる暇はない。翌日、徹はすぐに実家に戻った。
「なんか忘れ物?」
昨日来たばかりの徹がまたすぐ帰ってきて、母親がキョトンとしている。
「少し話したいんだ。父さんも」
いつもとは違う雰囲気の徹を見て、両親と徹は久しぶりに居間で向き合った。
「父さんと母さんはオレが叶と結婚することを心から応援してくれる?」
徹は自分でも何をわかりきったことを聞いているのだろう。バカな質問だと思った。
「当たり前じゃないの」
母親が答えて、父親も頷く。
「変なこと聞くけど、もし、もしだよ、もし仮にオレが幸せになる代わりに父さんと母さんとオレの思い出がなくなったらどうする」
2人は最初ポカンとしていたが、徹の何か差し迫った表情を読み取った。
「そうねえ、徹との思い出がなくなるのはさみしいけど、徹が幸せになるためなら構わないわね。ねぇ、お父さん」
しんみりとした愛情深い顔で母親が答える。
「そうだな。徹、オレたちのことで悩んでることがあるなら心配するな。大丈夫だ」父親も答える。
「ありがとう。じゃあ帰るね。また来るね」
母親が「どうしたの」と声をかけてくれた気がしたが、徹はすぐにその場を立ち去った。本当はもうしばらくゆっくりしていたかったが、外に出て涙が止まらなかった。
父と母は息子である徹の幸せのためなら、本当になんでもする覚悟なのだ。感謝の気持ちと同時に、謝罪の気持ちで涙が止めどなく溢れ出る。近くの公園で人目も憚らず嗚咽した。
翌日はクリスマス当日だった。結局カフェ・ヨルマチに叶を誘った。クリスマスなのにいつもの店であると彼女は不満そうだったが、内心は喜んでいるとすぐにわかった。
楽しい食事の時間を終えて、2人は食後の飲み物を頼むことにした。徹は0時になるのを見計らってウェイトレスを呼んだ。
「ご注文は」
「私は紅茶をお願いします」叶えが答えたあと「思い出コーヒー1つ」と徹は答えた。
叶は不思議そうな顔をしたが、出てきたのがただのアイスコーヒーと知って「寒くないの?」とだけ言った。
徹は覚悟を決めて両親のことを強く、強く、本当に強く想って一気にアイスコーヒーを飲み干した。叶に向き直り口を開いた。
「叶、結婚しよう」
アイスコーヒーを一気に飲んでから突然プロポーズをしてくる徹に少々驚いた叶であったが、少し間を置いてから「よろしくお願いします」と照れながら答えてくれた。徹はその翌日に宝くじを買った。大当たりだった。
徹と両親との一切の思い出は消え去った。結婚式では姉が家族の思い出話をしてくれたが、まったく知らない話で不思議に思った。実家に米を取りに行く事もなくなって、久しぶりに両親と徹が顔を合わせても何を話していいかわからず、お互いにオロオロすることもあった。それでも両親は徹と叶の2人を見ると安心したようにニコニコと笑っていた。
徹は叶との思い出をカフェ・ヨルマチで知り合った時から連綿と紡いでいる。大切な人が祝福してくれている2人のこれからの思い出を決して忘れない。そう思った。
「思い出コーヒー1つ」
「かしこまりました。奥へどうぞ」
今年の冬もまた、カフェ・ヨルマチでは思い出コーヒーが人知れず注文されている。
〜終〜