其の壱
電車が到着した。降りてきた何人かの中にも、電車の中にも、かわいい女の子がいないようだ。残念だ、と彼は思った。まだ四時くらいなので、駅はまだ混んでいなく、電車にも空席がいくつある。開いているドアへ歩きながら、今日も終わったなと、彼は心の中で嘆いていた。
「ドアが閉まります。ご注意ください。」
やっぱりいないな、かわいい子とか。周りを見て確かめた後、彼は入ってきたドアの向こう側に立った。いつもの位置だ。顔を窓のほうに向け、見飽きた風景を見ていた。自分が前進しているのではなく、世界が後退していると無理やりに理解することがおもしろいと最近感じたのだ。外のすべてが動いている。早い。もっと。もっと早くなっている。目の前の景色が弾丸のように後ろへ飛んでいる。謎の興奮が湧いてきた。だけど長く持続できなかった。自分が学校から遠ざかっている。可能性も消えている。日がまだ沈んでいないが、今日の物語はもうお終いだと言ってもいい。家に帰っても親と話すことがない。別の誰かに会うこともない。何か面白いこともないだろう。嫌だ。こういうのが嫌いだ。外の風景も嫌だ。大嫌いだ。こっち方向の電車が嫌いだ。毎日毎日こうなる。なんで。なんで私はこうなったの。いつからこうなったの。分からない。
一回電車を乗り換えて、彼は家に着いた。201のドアを開けて、ただいまと言ったら、母さんの声が聞こえた。
「おかえり。今日暑かったよね。」
「まあ。ずっと電車の中だからいいけど。」
「シャワー浴びるだろう。」
「うん。」
「もう温めたからすぐしていいよ。」
「うん。」
シャワーしたら涼しくなって、さっき落ち込んだ気持ちもちょっと解消できた。着替えて自分の机の前に座って、さて今日も勉強するか。一般入試で大学に進学すると決めてから、ちょこちょことその対策を始めた。まだ高2だけど、早いうちに受験勉強を始めたほうがいいと周りの人から言われたので、そうした。本当なのか知らないが、どうせやることないから暇つぶしのためにもやり始めた。面白くないけど、つまらなくもない。
「シャツも汚くなってるかな。襟とか……ほら汚れついてるじゃん。金曜になったら洗おうか。だんだん暑くなってるからよく洗わないと。」
「うん。」
いつもこうだから慣れたけど、母さんがいろいろしてくれて本当にありがたいと彼は思った。自分が幸せな環境にいるはずだが、なぜか今日も楽しくなれない。別の何かが欲しいかもしれない。明日も学校だ。またたくさんの人に会える。何か特別なことが起こるかもしれない。そう思って毎日学校に行くけど、教室に入ってワイワイしているいくつかの集まりを見ると、今日も同じだと感じる。話せる友達がいないのではないが、クラスの中のグループには入りづらい。いつの間にかやつらが仲良くなっていたのも分からない。そのためよく学校であまり話さないで、一日の授業を終えることがある。もちろん女の子と話すのも稀である。で、何も起こらなく、一人で家行きの電車に乗る。
暗闇の中で、一人が走っている。急いでいる。焦っている。頭も振り返らずに一生懸命に走っている。だがどこまで行っても暗くて、一縷の光もない。足が何かに当たったか、地面に転んでしまった。その時、遠くの一点で急に眩しい光が現れた。火の光だ。どんどんその人に近づいている。同時に、鋭い女の笑い声が聞こえてきた。
「ハハハハハハ……なんて無様なんだよ。逃げようとして結局自分で倒れたか。そんなに怖がらなくていいのよ。」
燃える火の塊が近づくにつれて、その人の外観も段々とはっきりとした。見た目は成人男性だが、学校のジャージのような物を着ている。髪の毛があまり多くなく、顔には新しくできた傷がいくつある。
火の塊が男の近くで止まった。そしてさっきの女の声がまた伝わってきた。
「ねえ、君を殺したらいいよね。そう聞いたけど合ってるよね。君を殺したら、そこへ行けるって本当だよね。」
声が火の中から出たようだが、人模様のものが見当たらない。
男は立ち上がった。荒い息をしている。眩しいせいか、男は火の塊に向かって前の地面を見て言った。
「お前らは成功しない…ハァ…ハァ…俺を殺したいなら、やれ。やってみろ。できるなら、やってみろよ。」
「できるならって……君、今まで生きてきたのは自分の実力だと思ってるのか。本当に意味わからない。ちょっと強いパンチできるだけなのに。」
火の塊が変化した。高くなっている。広くなっている。燃えている枝、いや、腕のようなものが生えてきた。人間の形だ。燃えている人間みたいだ。
「もういい。いろんな方法を試してきたけどどれも無理だったわ。またお前に聞いても意味ないだろう。じゃこれを試してみようか。万が一いけたら最高だねえ。」
「お前らは成功しない……俺がお前らを止める。」
男は拳を握り、両手を胸の前へと上げた。拳だこが見える。そして彼が着ているジャージは光を放った。青い光だ。戦う準備ができた。向こうの火の光が段々と明るくなって、急に一瞬眩しくなった。男は目を潰した――来るぞ。男は両腕を胸の前に交わって、青い光の十字に火の拳が当たった。火の人間が止められた右手を戻すと同時に男の右にもう一撃を打った。男は素早くしゃがんで、全身の光をその左腕に、左手に集めて、上に拳を振った。だけどその拳はすぐに相手に止められ、右腕も相手に掴まれた。
青い光がまた男の全身に戻ってきた。ジャージも手もまだ燃えていない。だが両腕がどんどん熱くなってきて、男はその束縛から逃げようとした。しかし相手の力が強く、離れられなかった。
「このまま大人しくいて焼死になれ。さあ君のジャージでどれだけ我慢できるのかな。」
火焔の勢いがもっと激しくなろうとした。男を飲み込もうとした。その時だった。
男のジャージの光が急に明るくなり、やがて身の上に波模様の光になった。そして周りの空間が歪み始めた。光も炎も周囲に吸い込まれるようになった。冷静になった男とは逆に、焦っている女の声が聞こえてきた。
「なんだ、これは……」
「確かに俺はパンチしかできなかった。けど俺は成長する…ジャージの力には無限の可能性が潜めているのだ。」
「くっ…火が周りに……」
「ここでこの空間を移動する術を使うとどうなるのか俺もわからないぞ。けどお前をどこかに閉じ込められるのがいけそうだな。お前のハサミもさすがに効かないよな。」
「空間移動…」
女の声が落ち着いたようだ。
「そうか、こういう術を使えるようになるのは確かにすごい。けど君も同じじゃないの。出ていけないならソウルのガードマンがいなくなるじゃないの。」
「ジャージソウルは出ていける…そして次のジャージマンを見つける。俺らの意思は伝承されるのだ。」
周囲の歪みがどんどん激しくなった。二つの光を闇が無情に引き裂いている。
「そう。可哀そうだね。ジャージマン。」
やがて二人は離れた。それぞれ反対にどこかへ飛ばさせて闇の中に消えた。男は渦巻の中にいるように体のバランスが保てない。今だ。まだ空間が静まっていないうちにソウルを外へと飛ばすのだ。全身の光が左手に集まった。そして彼は周囲の旋風の勢いに沿って、全力でその光を投げ出した。
「行け…次のジャージマンのところに…」
周りの影響を受けなく、その光の玉が闇の中を高速で直進した。暗黒の物は後ろへ飛んでいく。空も。月も。電柱も。201のドアを通り抜け、寝室の中のジャージに入り込んだ。ジャージはエメラルドグリーンの光を放った。それとともに風も生じた。カーテンは舞った。机上の問題集は捲れた。寝ている少年の髪も揺れた。見た目は高校生のようだ。すっかり寝ている。少年はまだ知らない。この静かな夜にある来訪者が来たのを、彼の生活は大きく変わるのを、無限の可能性を彼が獲得したのを。
朝日が昇る。携帯のタイマーが鳴った。
今日も学校だ。
(続く)