16.彼のためにできること
あの出来事を目撃した翌日、テリズ川から遺体が上がったなどという話は聞かなかった。この城から森を抜けて馬車で一刻ほどかかる街まで買い出しに行った料理人が、街で誘拐事件が相次いでいるという物騒な話は持って来たようだけれど。
「よくよく考えたら生きている人間のはずはないのよ。この城に入る込むことなんて不可能だもの。出入り口の門はひとつしかないし、そこにはいつも警備兵が二人は立っていると聞くし。城はぐるりと城壁で囲まれているし、定期的に見回りの警備兵が城壁を歩いて回っているし。そこから内部に入り込むなんてことまず不可能だわ。長いリュートブルグ古城の歴史の中でも、盗人に入られたことは一度もないようだし」
そのこともこの本に書いてあった。
この本は歴代の家令が記したものだった。主がなくなってもこの城を管理する家令は存在し続けていたようだ。今から三十年ほど前までのことは書かれていた。
「今度会ったらお話してみたいわ。幽霊に会えることなんて滅多にないから」
そんなことを言えば、大概の人は奇妙な顔つきになってブリジットを変人扱いしただろう。それを知っているから、こんなことは滅多なことでは口に出さない。しかし彼にならば……身体を自由に動かせた頃のクロードにこんなことを言ったら一笑に付されただろうが、今はなにも言わずに聞いてくれる。
「この本の中に使用人が何度も幽霊に遭遇したという話が書いてあるの。図書室に出る子供の霊、地下のワイン倉にいる青年の霊、夜ごと城壁を歩く兵士の霊。いわく付きの城だからそんな話が多いのかもしれないわね。……あなたの部屋にはデュパール侯爵の霊が出るらしいわ。寝ていると、足元に不意に気配を感じて恐る恐ると目を開けると、青ざめた表情の侯爵が立っている、と」
そんなとりとめない話をしていると、不意に風向きが東よりから北向きに変わった。湿り気を含んだ風に感じる。もうすぐ雨が降るかもしれない。
「……寒くなってきたわね、ひざ掛けを……」
そう言いつつ、車椅子の後方についている籠からひざ掛けを出してクロードのひざにかけた。
そして風が入らないようにと車椅子の前にしゃがみ込んで、ひざ掛けを整えているとき、クロードの踵が目に入った。
「……ちょっとごめんなさい」
感覚はないだろうから、触ってもなにも感じないだろうと思ったが、念のために断ってから彼の足を手で持ってよくよく見てみた。
「寝ていることと座っていることが多いからかしら、踵の部分がうっ血しているわ。それに足首がとても硬い……」
それは寝たきり座りきりだった自分にも心当たりがある症状だった。
ずっと寝たきりだと背中の方に血液が溜まりうっ血して肌が赤紫色になる。人はどうやら寝たり座ったり立ったりすることが当然で、それが損なわれると身体によくない影響が現れるらしい。
そして足首が固いのは、動かしていないからだろう。
ブリジットもひと月ほど寝込んで起き上がろうとしたときに、まず腕に力を込めることができず、立ち上がった途端によろけてまた座り込んでしまったことがある。
このままずっと寝ていたらきっと動けなくなってしまうと思い、それからは熱があってだるくてもできるだけ部屋の中を歩くようにした。
クロードはもう半年は自分の意志で身体を動かせない状態だという。頭に受けた衝撃で身体は動かせなくなっただろうが、身体の機能は失われていないはずだ。そこまで衰えさせていいのかという思いが胸を過ぎる。このままではクロードはこうして座っていることすらもできなくなってしまうかもしれない。筋肉が衰え、骨と皮だけになって……と考えると堪らなくなってしまった。
「あの……私はあなたの妻とはいえ、本当は恐れ多いことなのでしょうけれど」
そう言い訳しながら、クロードの足を持ち上げて、ゆっくりとさすった。
「私の侍女が、こうしてときどき足をさすったり揉んだりしてくれたの。身体を巡る血の流れが悪くなると、ますます身体の具合が悪くなると言って。その侍女は遠い国の出身で、その国では体の中の血の巡りや水の巡りをとても大切に考えているんですって」
そんなことを言いながら足をしばらく揉んだ後、踵に手を添えてゆっくりと足首を回してみた。
「痛くない……? と聞いても分からないわよね……。痛くないようにゆっくり動かしているつもりだけれど」
もし万一、クロードが意識を取り戻して立ち上がる……なんてことなんてないだろうけれど、一日でも苦しまずに生きている時間を延ばせるのならばやれることはやってあげたいと考えた。妻としてやれることは、こんなことくらいしかない。
「ふくらはぎも、さすってもいいかしら?」
ふくらはぎも赤紫色になっていた。寝ている時間が長いからだろう。ここに血が溜まっているとしたら、外からの刺激でそれを流してあげればその赤紫色はおさまるだろうか。
「もしかして痛んでいたらごめんなさい。ゆっくりとやるようにするから」
きっと一日二日では改善しないだろう。十日、一ヶ月……そのくらいの時間をかけていけばこの痛々しい赤みは引いてくれるだろうか。
そう思いながらふくらはぎをさすり、ふと頭を上げてクロードの顔を見つめる。彼の顔にはなんの表情も映っていない。
「いいの、時間はたっぷりあるから……」
思わず独りごちた言葉は虚しく響いた。
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