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初夏、或る公園

作者: みちのく丹

 朝食はサラダだった。雑に入れた緑に、クルトンを入れた。


 何かを食べたいと思う時、その食べ物から得られる栄養素が足りていないのを本能的に感じているのだ、と何かで聞いた。朝からサラダだけを欲したこの体は、恐らく何かが不足していてそれを求めたのだ。


 だとすれば、公園に行きたくなった心にも、何かが不足しているのだろうか。


 近所の小さな公園へと行くのは憚られたため、少し遠くの大きめの公園へと足を伸ばした。

 電車で十五分。休日の車内は昨日までの鬱屈とした空気とは程遠い。


 仕事に疲れてしまっていて、気分転換を求めているのだと思う。先週の休みは友人の結婚式とそれに伴う無茶で疲れをとるどころではなかった。


 恐らく二週間分の疲れが精神を蝕んでいるのだろう。


 窓から流れる景色はどこの駅の周辺でも大して変わらない。キラキラした光に照らされていても、何の反応も返さない石だらけの街で、故郷のような自然が顔を出すことはない。探しに行かなければならないのだ。


 「自然」が欲しい。「自然」が欲しい。


 心の中で唱えて、改札を出た。正確には「自然もどき」、「人工自然」だろうが、それでも今すぐに得られるものの中では最適解の公園を目指した。


 子どものはしゃぐ声が聞こえる。泣く声も笑う声も、怒る声すら全て求めていたもののような気がしてふと笑みが零れる。ジャングルジムの見えるベンチに座って、バッグから水筒を取り出した。


 いつものコーヒーではなく紅茶を入れてきたのも、何かが不足しているからかもしれない。


「こんにちは」


 暫く遊具ではしゃぐ子どもたちを眺めていたところに、声をかけられた。


「あなたもお子さんを連れていらっしゃったんですか?」


 見たところ自分よりも若い女性が立っていた。二十五、六と言ったところだろうか、休日用といった化粧に、パステルカラーのトップス。子どもと遊びやすいようにデニムを履いて、靴もスニーカーを履いている。


「いえ」


 子連れの母親でなければこんなところにいるのはおかしいだろう。気まずくなって苦笑いをしながら答えた。


「あ、そうなんですね。お散歩ですか」


 彼女は少し驚いただけで訝しむ様子もなく続けた。


「そんなところです。すいません、不審者みたいですよね」


「いやいや。お隣、いいですか?」


 彼女は、二人掛けというには広いけれど三人掛けというには狭い、自分の座っているベンチを指さした。どうぞ、と答えるとその女性は「ありがとう」なんて言いながら隣に腰かけた。


「休日ですし、天気もいいですもんね」


「そうですね」


 それから、彼女と私はしばらく子どもたちの方を向きながら世間話をした。お互いの仕事の話をして、子どもを見ては「可愛い」なんて言ったり、ハラハラしたりしながら、その後も他愛もない話をした。


 お互いに自己紹介はしなかった。彼女は自分の名前を言わなかったし、私の名前も聞かなかった。私も同様だった。今日一日だけの付き合いだとお互い思ったのだろう。下手に名前を知ってしまって、関わり合いになるのも面倒だったのかもしれない。


 なんとなく、私は頭の中で彼女の名前をエミコさんと定めた。「笑」に「子」でエミコ。笑顔が可愛かっただけという単純な理由で、そう定めた。


 エミコさんは、不動産会社で事務の仕事をしているらしかった。今年で勤務七年目、子どもは五歳ということだったから、大学には行かなかったのだろう。


 高校卒業後すぐに就職して、結婚もして子どもを産む。その人生を想像して、遠い世界の様に思った。不動産会社。どんな雰囲気なのだろう。最近は転職も考えていたために、結婚のことや子どものことよりもそちらの方が気になった。


 特に就きたい職業もなかった――というよりも希望の職業には就けないことが確定していた――私は、大学在学中の就職活動を早々に打ち切った。子どもの頃母を亡くしていたこともあり、病院勤務をしてみたい気持ちもあった。


 病院には独特の雰囲気がある。医師でも看護師でもない私でも、出勤したその瞬間から感じる重たさがあるのだ。業務内容のストレスはそれほどかかっていない。それでも転職を考えるのは、その重たさが苦しいから。


「お子さんは……?」


「いないです。それどころか、結婚もしていなくて」


「あ、そうなんですね。いいですよ、子ども。癒されて」


「そうですね、見てたら何となくそう思います」


 時々こちらに向けて手を振る子どもが、エミコさんの子どもなのだろう。満面の笑みを向けてぶんぶんと両手を大きく振っている。その様子を見ていたエミコさんもつられて笑う。それを見ていたら段々と元気が出てきた。


「結婚は、どうなんでしょうね。して良かったのかな」


 子どもが背を向けたと同時に彼女が漏らした。


「うまくいってないんですか?」


「高校から一緒なんですけど、段々と意見の食い違いが出てきたりして。ってすいません。初対面の方にこんな」


「いえ、どうぞ続けてください」


「そうですか? ……家を買いたい、ってなったんですよ。今の時代、マイホームにこだわることなんてそんなにないと思うんですけど、やっぱり大きな子供部屋があったらいいなっていうのと、大きくなった時のプライバシーが守れたら、って」


「はい」


「そしたら彼、『ほとんど俺の金なんだから、ある程度は好きにさせろ』って言ったんです。もう私何も言えなくて。うちは父が亭主関白だったんですけど、ああこの人も同じなんだ、って思っちゃいました」


 幸い私は職場でも家庭でも、そのような扱いを受けたことはないけれど、友人の話を聞く限り、やはり男女はまだ平等ではないのだと感じたことがある。家庭内での分業形態が変わり、社会に出て働く女性が増えた今、時代錯誤だといくら声が上がっていても、現状は少しずつしか変わっていかない。


「私は家を建てないし、お客さんと書類を交わしたり、内見の手続きをしたりするだけなんですけど、その時ですら旦那さんが奥さんを尊重しているのが見えたりするんですよ。キッチンはこのくらいがいい、玄関もこのくらいの広さがいい、みたいな奥さんのこだわりを一つ一つちゃんと聞いてあげる旦那さんがいると、ああ、いいなあ、って思うんです」


「そうですね。恐らくそれが、『理想』ですね」


 遠い目をしたエミコさんは悲しがる様子も、悔しがる様子もなかった。ただただ遠くを見つめて、諦めた様に笑っている。


「子どもを産んだことを後悔したことはないけど、結婚についてはやっぱり考えちゃう。どうしてあの時すぐに結婚したんだろうって」


「……答えは、出たんですか?」


 質問するようなことではなかったかもしれない。それでも聞きたくなったのは、自分の中の違和感に対する答えになるような気がしたからだ。


 家庭を持って、子どもを産む。それも一つの幸福の形だと思う。現に先週結婚式で見た友人は、幸せそうな顔をしていた。


 私は、多分その幸せを望んでいない。いや、望んでいるのかもしれないけれど、皆と同様の形で望むようなことはしていないように思えた。


「私は多分、「彼」を求めていたわけじゃなかったんです」


「他に、好きな人がいたと?」


 エミコさんは静かに頭を振った。


「いえ。もっとこう、漠然とした何か。そう、安心感、みたいなものを求めていたんだろうなって」


「こんな昼間から公園でする話じゃなかったですね」


「最初からそうですよ」


 息を漏らすように彼女が笑う。


「『男の人の安心感』、それが欲しかったんだと思います。私は、ずっと昔から父が嫌いでした。偉そうで仕事ばかりして、家事は手伝わない。旅行にも連れて行ってもらったことはなかった。そんな家庭で育って、飢えてたんだろうなって今なら思います」


「男性の安心感に?」


「そうです。まぁ、かと言って子どもがいるので離婚する気もないんですけど」


 風が強く吹いてきた。木が風に吹かれてざわざわと鳴る。朝から変わらない天気の中で、段々暑くなってきたのだろう子どもたちはTシャツの袖を捲っていた。


「暑いですね」


 落ちた様子もなくからっと笑いながら、彼女は襟元をつまんでぱたぱたと浮かせていた。


「そうですね」


「変な話してしまって、すいません」


「いえ。なんとなく、自分も似たようなものだなと思ったので」


 朝食のサラダ、横に置いてある紅茶、子どもの声で溢れる公園、そして、昔の想い人。


「……母を、幼い頃に亡くしたんです」


 きょとんとするエミコさんを横目に話し始めた。声が低くならないように、なるべく重たくならないように。


「それは、大変でしたね」


「大変、だったんですかね。いや、大変は大変でしたけど、父のおかげで不自由なく暮らせていたので、そんなに大変ではなかったはずです。ただ、」


「ただ?」


「やっぱり母親が欲しかったって思っているんだなって分かりました」


 幼い頃に母を亡くしてから、いやそれ以前から父に愛されて育ってきた。それを自覚しているし、働きながら私を育ててくれた父を尊敬しているし、彼に感謝している。

それでも恐らく、私は「母性」に飢えていた。


「そういう人を、好きになったんですか?」


「……はい」


「そうなんですね。それは、難しそうだ」


「結局、どうもならなかったですけどね」


 今思えば、初恋は小学校の先生だった。クラス担任の女の先生。諭すように生徒を叱る温和な先生で、他の生徒たちからも好かれていた。そんな中、一人だけ異質な感情で彼女を見ていたのだった。


 その後成長するにつれて、自分は同性が好きなのだと自覚するとともに、違和感が芽生えていった。精神的な欲求と身体的な欲求の齟齬とでも言うのか、異性を求める気持ちも恐らく別次元で存在することにも気づいた。


 その違和感のせいでどうにもうまくいかないことだらけだったのだ。今日、その違和感の理由が明確に見えてきた気がする。


「『母性』かあ」


「足りないものって、やっぱ無意識に求めちゃうものなんですかね」


「どうなんでしょうね。パズルのピースとか、胸にぽっかり穴が開いたとか言いますけど、なんか、うーん」


「しっくりこない?」


「そう、です」


 確かにその二つは、この足りない部分を補うものの例えとして不完全のように思えた。違和感はあるだろうけれど、恐らく代わりに嵌められるものが見つかりそうな気がする。


「……あ」


 思いついたと言わんばかりにエミコさんの表情がぱっと明るくなった。


「『鍵』、とかどうですか」


「鍵?」


「そう、鍵です。部屋の鍵」


 思いついてすぐ話しはじめたのだろう。言葉を整理するように少しずつ、考えながら彼女は話し続けた。


「なんていうか、こう、鍵って鍵穴によって違うじゃないですか」


「そうですね」


「ちゃんと形が合ってないと、開かないものだから、ぴったりだと思うんです」


「なるほど」


 部屋の鍵。納得してしまった自分がいた。


 不足している分だけ鍵穴は複雑化するか、数が増えるのだろう。「安心感」が不足しているなら「安心感」の形の鍵穴が、「母性」が不足しているなら「母性」の形の鍵穴が、その人の領域のドアについている。


「あ、でもピッキングとか、マスターキーとかあるか……」


「いや、それは考えなくていいんじゃないですか。私はかなり納得しましたよ」


「本当ですか」


 現にピッキングのような方法で、個人の領域に踏み込む人間がいる。詐欺師のような、巧妙にその不足を埋められるような表情をして。


 マスターキーを持つ人間は、恐らくいないのではないかと思う。いるのかもしれないけれど、ほんの一握りだろう。どんな不足も埋められる存在を、私たちは恐らく「神様」と呼んでいる。


「お母さん」


「うん?」


 気付けば前の方からエミコさんの子どもがぱたぱたと走って来ていた。その手にはバッタを持っていて、彼女は一瞬顔を顰めたけれどすぐに表情を戻した。


「バッタ! バッタ捕まえた!」


「おー、良かったね」


「うん!」


「でもうちじゃお世話出来ないから、草むらに返してあげてね」


「……分かった!」


 そう言うと彼はすぐにしゃがみ、そっとバッタを草むらへと置いた。バッタはすぐさま跳ねてその場を離れ、先程彼が遊んでいた方向へと草むらの中へと消えていった。


「もう疲れた、帰りたい」


「んー、じゃあ帰ろうか。——すいません、そろそろ失礼します」


「はい、ありがとうございました」


「こちらこそありがとうございます。変な話を聞いていただいて。また、機会があれば」


 深々とお辞儀をして、エミコさんはその場を立ち去った。帰り際に水道で子どもに手を洗わせて、それからその手をハンカチで拭き、手を繋いで道路の方へと歩いて行った。


「さて、と」


 思ったよりも長居をしてしまった。特に予定もないのだが、これほど話し込む予定もなかった。立ち上がって、彼女たちとは反対方向へと歩き出した。


 機会があれば、などと言っていたけれど、恐らく二人とももう二度と会うこともないと分かっている。分かっているから、「変な話」をしたのだ。


 妙に納得させられた鍵の話を思い返してみる。鍵穴にあった鍵でなければ、その扉を開けることはできない。それもそうだが、個人的には開けてもらった後のことまで含めての納得だった。


 開けてもらった鍵を借りて、合鍵を作ることができる。逆に言えば、開けてもらうことが出来なければ、それと同じ形の鍵を作ることはできないのではないか。


 帰り際、彼女の子どもはこちらに手を振り、「さようなら」と言った。明るく元気な、礼儀正しい子だった。


 彼女も彼女で、虫は苦手なのだろうが、その様子をうまく隠しながら対応していたように思う。その後手を洗わせたり、ハンカチで拭いたりする姿も含めて、エミコさんは「お母さん」だった。


 私には恐らく、ああはなれない。


 納得したことに悲しくなるよりも先に、妙に清々しい気持ちがやってきた。抱えていた違和感がなくなったからだろうか。「母親」というものを見たからだろうか。それとも。


 浮いた足取りは家へは向かず、市街地の方へと進んでいた。


 パン、いや、ベーグルが食べたい。


 これからすぐ、雨に降られる季節が来る。今のうちに行きたいところへ行って、食べたいものを食べよう。一人部屋の中で、不足に飢えることのないように。


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