表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者によって「純文学」という名前をつけられた作品たち

野辺

作者: 檸檬 絵郎

一、温泉


 湯けむりが夜風に煽られて、私の顔へと吹きつける。まるで霧に包まれた、見知らぬ渓谷を歩いているようだ。

 湯の跳ねる音がした。私は、夢を見ているような、ぼうっとした状態の自分に気がつき、慌てて、昼間、現実に美術館で観てきた絵のことを考える。

 黒田清輝くろだせいきの『野辺のべ』。

 女性が草のうえへ寝転がって、左手に持った小さな花を見つめている。女性の顔は、憂いに満ちていて、花を見つめる眼の、白眼の脇の紅いところが、何ともいえず、美しかった。

 この絵が描かれたのは、西暦一九○七年、明治四○年のことなのだが、そのことを知ったのは、今回の旅行の後だった。温泉の湯けむりは、私の抵抗を逆手にとって、さらなる空想へと私を導いていったのだが、その空想の物語は、この絵よりも後の時代のものということになる。




二、空想


 春の午後、西に傾きかけた陽の光が、芳子よしこの肌を刺すように照らしていた。風は、芳子の従順なのをいいことに、薄明かりのなかを飛び回って人を苛つかせる蝿のように、芳子の耳へ吹きつけたり、首筋へ触れたりを繰り返す。

 芳子は、自分の甘い考えを呪っていた。まちへ出るときは、真昼のような、きらびやかで精気の溢れるものを見たくて仕方なかったが、帰ってきて思うことは、くたびれた黄昏のような、また、味気なく乾いた土埃のようなものが、妙に愛おしく感じられるということだった。

 昨日、ここへ着いて、幼馴染みの結婚話を母から聞いた。父は、もともと無口な性格ではあったが、「疲れただろう」というその一言以外の言葉は、頭に残らなかった。嬉しいのか、嬉しくないのか、気遣っているのか、そうでもないのか、何を考えているのかはかりかねる妙な表情が、彼の言葉を娘の頭からさらっていってしまう。

 顔を左へ向けると、小さな花が咲いているのを見つけた。相変わらず、しつこく風が吹きつけてくる。腕を伸ばして、花に触れる。細い茎を指で捻り、ずいを断つ。容赦なく染みてくる故郷の大気に身を任せ、芳子は花を見つめた。



 芳子が市へ出て、一年が経った頃、並木の桜の花が終わり、青々とした葉桜になっている時季だったが、ちょうどその葉桜の並木道を芳子と並んで歩いていたのが、博之ひろゆきだった。毎朝、停車場で顔を合わせるうち、博之のほうから挨拶をするようになった。その日は、たまたま帰りも一緒になったようなので、二人で歩いて帰った。妙にゆっくり歩く人だな、というのが、芳子の博之に対して抱いた、そのときの印象だった。

 それが、たまたまでなかったことは、後で知った。彼は、華やかな桜の退いた時季を選んで、わざわざ芳子を誘ったのだった。岸田國士きしだくにおの戯曲に、縁談のある男女が、日暮れ時の葉桜の並木を歩くという話が語られている。博之は、岸田國士の短編を好んで読んでいた。


 休日、互いの都合がつくと、博之が芳子の部屋へ来て、何をするでもなく、一緒の時を過ごした。初めのうちは、本当に何をするでもなくであったのが、いつ頃からか、戯曲の読み合わせが始まった。岸田國士だ。

 芳子はともかく、博之も、芝居に関しては無知で、実は観たことさえほとんどなかったのだが、どういうわけか、彼は芝居が巧かった。芳子は、いまだに覚えている。「お芝居が好きなの?」と訊ねたときに、彼の見せたぽかんとした表情。「なぜ?」と訊き返す、処女おとめのような混じりけのない疑問の瞳。彼が本を感心そうに見つめて、「お芝居の本だなんて、知らなかった」と言ったときには、危うく信じてしまいそうになり、恥ずかしくなった芳子は、彼の背中をしたたか打った。

 戯曲を読んでいると、外の音がよく聴こえる。芳子の部屋は、通りに面したアパートの二階なのだが、ちょうどよいところで鳥の羽音が聴こえたり、夏であれば、蝉の声が止んだり、また、鐘が鳴って、余所の子供の駆けてゆくのが聴こえたりすると、二人で顔を見合わせて、笑う。そんなことをして休日を過ごすのが、芳子にはとても幸福なことに感じられた。


 秋。それも、しなびた葉が落ち、冬の迫る晩秋。

 芳子と博之は、夫婦の役を読むことが多かったが、このときは違った。

『チロルの秋』

 博之は、この話を気に入っていたのだが、設定が「晩秋」のため、その時季を待っていたのだった。ただし、忘れていたのか、気にかけなかったのか、時刻は劇中とは異なり、午後、秋の陽の傾きかけた頃だった。

 第一次世界大戦が終わり、二年が経った秋。場所は、チロル・アルプス(オーストリアとイタリアの国境近く)にある、ホテルの食堂。博之は、日本人の宿泊客、アマノを、芳子は、国も過去も、自分の身の上を話したがらない宿泊客、ステラを読む。特に気をつけるべきは、この女性が喪服を着ているということと、二年もの間、「思い出」を抱えながら、一人で旅をしていたということ。一人で旅をしていたのはアマノも同じだ。 

 アマノは、二人がそれぞれ抱える過去の思い出を「夢」と名づけ、ステラにある提案を持ちかける。



   アマノ   [……]旅人同志の心は、約束に縛られない友情で

   結びつけられるものです。

    また握れるかどうか、わからない、そう思いながら握る手に、

   旅らしい自由な力が籠るんじゃないでしょうか……(間)

    このチロルの山奥で、お互に身の上話さえしたことのない二

   人が……

    二度と再び会わないという誓いを立てた上で、

    久しく別れていた恋人のような一夜を明かしてみたら……

    どんなに、面白いでしょう。(間)

    よう御座んすか……

    あなたは、夢を見ておいでになる……

    もう一人、夢を見ている男がいる……

    二人の夢が、重なりあう……

    ただ、それだけ……(間)

   [……]

   ステラ  それじゃ、飯事ままごとね……

    お芝居ね……。

            (岸田國士『チロルの秋』より、原文旧仮名)



   アマノ   あなたが愛していらっしゃる男が、僕だとします。

   ステラ   あなたが愛しておいでになる女が、あたし……?

   アマノ   僕とあなたとではない……

    あなたの恋人と、あなた……

    僕の恋人と、僕……

    とが、今、ここにいるわけです。

   ステラ  (笑いながら)それから……?

                       (先に同じ)



「夢ごっこ」が始まり、ステラはアマノを相手に、「夢」と称した自身の思い出を見る。その夢は、目の前の男、現実のアマノにさまされそうになるが……。(この二文は引用にあらず)



   アマノ  (苦笑しながら)眼が覚めた時です、遊び相手が欲

   しくなるのは。

   ステラ  あなたも、せっかくの夢をさまさないようになさい。

                       (先に同じ)



 ステラの夢、過去……。時代背景や登場する地名などから、いろいろと推測することはできる。しかしそれは、実際に科白せりふを読むときには、芳子自身にとって、それほど大切なこととは思えなかった。きらきらとした、それこそ夢のような言葉をアマノへかけながら、彼を演じる博之の顔をちらちらと窺っていた。

 芳子は幸福だった。

 読み終えると、ちょうど外で、母親が子供の名前を呼ぶ声が響いた。空はだいぶ、紅く染まってきていた。



 思い出……。

 摘み取られた花を見て、芳子は小さく呟いた。

 きらびやかな、精気の溢れるようなものは、今は要らない。ただ、黄昏や、土埃のようなものに身を委ねていたかった。

 今思えば、戯曲の読み合わせをしていたとき、相手のほうでも同じことをしていたのかもしれない。役の仮面を利用すること……。芳子が自然にそうしていたことを、相手はより明確な意志を持ってやっていたのではないか。

「また握れるかどうか、わからない、そう思いながら握る手に……」

「目が覚めた時です、遊び相手が欲しくなるのは……」

 それは、芝居などではなかった。あの人自身の、率直なところだった。

 そして本当に、あの人は、自分の夢へと戻っていってしまった……。


 春の午後、相変わらず陽の光は、芳子の肌を刺すように照らしていた。風は、蝿のように肌へと触れる。芳子はそれに身を任せ、長いこと、横になっていた。

 春の陽が沈むには、時間がかかった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] おお、また違った檸檬さまが見れた。 純文学みたい。確かに。描写が丁寧ですね。 作品とよく向き合っている気がします。 四季それぞれの匂いが香ってきたきそうで、とても素敵でした。 最後の仮…
[良い点] 好きなやつだ、これ。 言葉がとても美しい。 夢を見ているかのような、二人の重なりあった時。 なのに、彼は夢へと戻る。 父親の「疲れただろう」の一言が、とても耳に残りました。
[良い点] とてもとても好みの作品だと思いました。 黄昏のような土埃のようなものを愛おしく思う雰囲気、好きです。 戯曲に沿ってあえて葉桜の並木道を歩くという行動、二人で戯曲の読み合わせをするという休日…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ