ネット小説大賞五キング・オブ・テニス
目次
一、霊能者
二、全日本選手権
三、全豪オープン
四、挫折
五、奇策を編み出す
一、霊能者
「おれの前世は武士だった、と聞かされたんだ。武士の商法って奴で、俺の商売が下手な訳が分かったんだ」
と言って笑った友人の顔を見ながら、天昇寺球六も笑顔を浮かべた。久しぶりに会った高校時代の友人に、渡された名刺に目をやりながら、彼、太田黒雄一が剣道部で活躍していたころを思い出していた。
「ところで、そのお坊さんはどこの寺なんだ?」
「あ、おれの前世を見てくれた人か、実は坊さんじゃないんだ。看板もメニューもない、妙な食いもの屋のおっさんなんだが、霊能力があるらしくて、最初に行ったときに、その時は会社の同僚と一緒だったんだが、おれたちの財布の中身をあてられて、驚いたことがあってな」
「霊視をされたのか?」
「おれは四千円持っていたんだが、同僚は背広を変えてきたので、財布を忘れてきたんだ。二人でビールを二本飲んで、カレーライスを二人とも食べた後、うまいコーヒーがあると聞いていたから、頼んだら『もう帰りなさい』なんてぬかすんだ。おれはムッとしたね。仕方がないもんだから、同僚が金を払って帰ろうとしたところ、金を持っていないことに気がついて、びっくりしたんだ。その同僚がどこかで珍しい店があると聞きこんで、おれを連れてきたのに、財布を忘れてきたことをその時になって気がついたんだな」
「それで、お前の四千円で足りたのか?」
「ビールが二本で千円と、カレーが二人で三千円だった」
「危ないところだったな」
「同僚もはじめての店だったから、食い逃げで訴えられるところだったよ」
と、言って太田黒は笑った。
「カレーが千五百円とは、かなり高級だな」
「メニューも定価も何もないし、店の看板すらない店でな。しかし、カレーは絶品だったよ。なにしろ三日間煮こんで作るというんで、その同僚は三日前に電話したそうだ」
「そんな店は聞いたことがないな」
「なにしろ、コーヒーは一杯八百円もするんだ」
「そんなにうまいのか?」
「うん、これも絶品だな。二人分でコーヒーのカスがお盆一杯出るんだ。そのカスでもう二、三杯コーヒーが取れそうなくらい、良いにおいがするんだからな」
「どんな味がするんだ?」
「どう言えばいいのかな。何しろドロッとしていて、ミルクと砂糖を入れたら、極上のチョコレートとブランデーを、一緒に飲んだような気分になったよ」
「アルコールは入ってないんだろう?」
「そうなんだが、ブランデーを飲んだ時のような気分にさせられるんだ」
「ふーん、その親父は只者じゃないな」
「そうなんだ、おれはこの半年で十回くらい通ったんだが、先月行ったときに、おれの前世が見えるって言い出してな、おれの前世は武士と言うより、野武士か浪人だったそうで、頭の下げ方がなってないから、営業成績が上がらないんだって説教されたよ」
「あっはっは・・・、まるで普段の仕事ぶりを見られているようだな」
「あの爺さんには参ったよ。笑顔の作り方を練習すれば、営業成績も上がるし、ガールフレンドもできるっていわれたよ。あの爺さん、おれに彼女がいないことまで見抜きやがって」
二人は顔を見合わせて笑った。天昇寺球六は再会を約して太田黒と別れたが、球六はぜひその霊能者に会いたいと思った。その霊能者に夢の謎を解いてもらいたい、とつよく願った。珠六は最近ひんぱんにテニスの夢を見ていた。夢の中で、彼はテニスの世界チャンピオンであった。世界各地をまわって、かずかずの大会を制して、輝かしい人生を歩んでいた。美しい妻をつれて、豪華ホテルに泊まって、各地で称賛と歓迎の嵐につつまれて、歓喜の中に日をおくっている夢を、何十回もみる自分が不思議でしかたがなかった。
球六は横浜に生まれて、高校を卒業すると同時に、横浜市役所に就職した。今年で十七年目をむかえる。高校時代の学業成績はごく平凡であったが、スポーツは得意で、陸上競技部に所属して、ハイジャンプで県大会で優勝したことがあった。しかし、テニスは一度もやったことがなかったし、テニスの試合をテレビで見ても、特別感動したこともなかった。それが最近夢を見るようになって、テニスの試合に強い関心を持つようになっていた。
テニスに対する関心は日に日に強まって、先日などはテレビの前で、日本の選手に「もっと走れ、取れる!」とか、「ここは粘るんだ、相手のバックハンドはもう二、三本でミスるぞ」、などと叫んでいる自分に気がついて、われながら驚いたことがあった。
「テニスはずぶしろの俺がどうして、名選手のミスすることが予見できるのだろう」
どう考えても不思議でならなかった。先日友人が言っていた前世と、なにか関わりがあるのだろうか。考えていると矢も楯もたまらなくなって、太田黒の名刺をとりだして、彼がつとめる食品会社に電話をかけた。さいわい、彼は昼は空いているとのことだったので、神田駅で待ち合わせて、その看板のない変な店へ、連れて行ってもらうことにした。
駅前の商店街の裏通りをしばらく歩いたところに、その店はあった。なるほど看板はなく、古びた玄関の脇に「コーヒーあります」と書かれた、名刺大の紙切れが貼り付けられていた。
「これじゃ、誰も気がつかないだろうな」
球六は不思議なものを見るように、紙切れを見つめて呟いた。太田黒は慣れた様子で、玄関を開けて中に入っていった。なかに入ると、コンクリートの床になっていて、せまい通路の左側にカウンターがあって、目つきのするどい六十代と思しき老人が立っていた。老人は黒いガウンを着て、黒いつばのない帽子をかぶっていた。
太田黒は丁寧にあいさつをして通りすぎると、老人はかるく肯いて彼を見送った。球六も何となく頭を下げて彼のあとにつづいた。その時、老人の目が光った。球六の後姿を見送ったあと、老人はなにを思ったか、女性店員の案内で、席に座ろうとしていた太田黒を呼びとめた。太田黒は何事か、といぶかりながらカウンターに戻ると、老人が彼の耳元でささやいた。
「あんたの連れてきた人ね、あの人は並の人じゃない。飯なんか食っている場合じゃない、すぐ二階に上がりなさい」
老人はそれだけ言って、先に立って入口のわきにある急な階段をのぼって行った。太田黒は狐につままれたような表情のまま、球六をうながして老人のあとにつづいた。
「お前はなみの人間じゃないって、マスターが言ってたよ」
「へー、おれほど平凡な人間はいないと思っていたんだが」
「おれも驚いたよ。だけど、マスターの言うことだ、きっとお前はなにか持っているんだ」
二階へあがると、そこは大きな寺院のような、きらびやかな金メッキを施した仏壇がそなえられた、豪華なつくりになっていた。仏壇はよく見ると仏像はなく、一枚の掛軸がかかっていた。部屋には小さな灯りが二つついていたが、全体に薄暗く、目がなれるまでは掛け軸を読むことすらできなかった。老人は二人を絨毯の上にすわらせて、自分は部屋のすみにある長椅子の上にすわった。
「あんたの名前は?」
老人は、球六の顔に目をすえてたずねた。
「天昇寺球六と申します」
「ふむ、年は?」
「三十五才です」
「これから私はトランス(催眠)に入るが、五分ほど待っていなさい。あんたの前世を見てさしあげる」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
球六はごく自然に頭を下げていた。老人は長椅子に横になると、間もなくトランス状態に入った。五分間は球六にとってはながく感じられた。やがて、老人はトランス状態から覚めて、長椅子の上にすわりなおした。
「あんたの前世は、テニスの世界チャンピオンだった。アメリカ人だったな。二十才台で、おしくも飛行機事故で死んだのだ。世界四大タイトルのうち、一つしか取れなかったから、思いが残っている。今世のあんたは、三十五才からでも遅くはないから、明日からテニスをはじめなさい」
球六はそれを聞くと、大きくため息をついた。
「私はテニスというものを、今まで一辺もやったことがないんです。三十五才から始めて、世界チャンピオンになった人なんか、例がないと思います。それに、私は身長が百五十五センチしかないんです。その上、私は球技をやった経験がないんです。せめて野球とか、卓球でもやっていたのなら・・・」
老人は、球六の言葉を遮るように言葉をつづけた。
「常識では考えられない。しかし、他人がテニスをやっているところを見ていれば、前世を思いだして自然に手足がうごくだろう。あとはあんたの工夫次第で、新しいテニスの型ができる。前世のあんたは、子どもの頃からコーチについて、二十台でチャンピオンになったが、今世のあんたはおそく始めるのだから、前世と同じことをやっても無理だ。今まで他人がやったことのない方法を考えて、いろいろと試してみることだ」
老人はこともなげに言い放ったが、テニスのテの字も知らない球六にとって、それは雲をつかむような話でしかなかった。その日から彼は仕事が終わると、ナイターレッスンをやっているインドアテニススクールに、見学に行くことが毎晩の仕事になった。毎晩やってきて、食い入るようにレッスンを見つめる彼を見て、ある日コーチが話しかけてきた。
「テニスがお好きなようですね。スクールにお入りになりませんか。ちょうど明日から期が変わりますが、初級の女性が一人妊娠でやめるので,空きができましたから、よろしかったらどうぞ」
球六はテニスをやりたくてうずうずしていた処だったので、早速手続きをして、道具も取りそろえた。その晩、家に帰った彼は自分の部屋で、買ったばかりのラケットを振ってみた。
「今まで誰もやったことのない、新しい型を工夫してみろ」
と言う老人の言葉を噛みしめていた。みんながやっている両手バックハンドは、すこしきゅうくつな気がする。自分は右利きだが、元は左利きだった。左手もけっこう使えるから、左右両方ともフォアハンドが打てれば、バックハンドは必要なくなる。そうなれば、腕一本分リーチが広くなり、シングルスはだんぜん有利になるはずだ。とはいっても、実際に使えるようになるには時間がかかるだろう。
ボレーは走って行って打つより、ジャンプをすればもっと楽に打てるだろう。彼は高校時代にハイジャンプで、県大会に優勝したことを思い出していた。身長百五十五センチと小柄で、体重五十キロと軽い体で、本当は短距離走をやりたかったのだが、サージェントジャンプで、一メートルちかくを飛ぶジャンプ力を見込まれて、ハイジャンプの選手になった。しかし、百五十五センチしかない世界チャンピオンなんて、例がないのではないだろうか。悩みはつきなかったが、なぜか体中に力がみなぎってくるのが感じられた。
スクールに入ると、あまりうまいのでコーチがおどろいて、一期八回で初級を卒業して、中級をとびこして上級コースに入れられたが、ここも一期八回で終わって、トーナメントコースに入れられた。ここには大会で勝ちたい選手がひしめいていたが、ゲームをやってもだれも相手にならなかった。
それを見ていて、さすがにヘッドコーチもおどろいて、校長に話をし、校長も見にきておどろいてしまった。レッスンの後、ヘッドコーチにともなわれて応接室にあらわれた球六は、校長に初めて会った。校長は五十才台の日焼けした、たくましい体つきの中年男性であった。
「どちらの大学でやっていらしたのですか?」
山岸と名のる校長は、球六がヘッドコーチと並んですわるのを、待ちかねたように口をひらいた。
「いえ、高校を出てすぐ市役所に入りましたので、大学へは行っておりません」
「高校ではテニス部だったのですか?」
山岸はおどろいて、笑顔を消した。
「いえ、陸上部でハイジャンプの選手でした」
「じゃ、テニスはどこで?」
「こちらのスクールで初めてラケットを握りました」
「えっ、まさかそんなことが・・・」
といって、山岸はヘッドコーチの武田に目をむけた。武田は顔をあげて、山岸の顔をまともに見つめた。
「初級コースに一期いらしたのですが、コーチの池上君があきれて私に言ってきたのです。たしかにラケットの握り方から、打ち方まで何もご存じなかったそうです。それが一期八回のレッスンが終わるころは、高校のレギュラー選手なみの技量を発揮されたものですから、あわてて中級をとびこして、上級コースに入っていただいたのですが、すぐに大学のインカレ選手なみの腕に、なってしまわれたのです」
校長は、聞きおわると、ふーっと吐息をもらした。
「天昇寺さんは、天才としか言いようがありませんね」
「私は、じつはある霊能者に見てもらったところ、前世でアメリカのプロのトップ選手だったらしいのです。やりだしたら、だんだんとテニスを思い出してきまして」
校長は大きくうなずいた。
「天才と言われる人は、たいてい前世の記憶がよみがえった人のようですね。あなたが前世で名選手だった、であろうことは納得できました。だけど、三十六才になられたとうかがって残念な気がします。いかに天才でも、三十六才からでは日本チャンピオン位なら、あるいはなれるかもしれませんが、世界レベルでは、どうでしょうか・・・」
武田コーチもうなずいた。二人のすこし失望した様子をみて、球六はおかしかった。スポーツ選手にかぎらず、ほかの芸事でも三十代半ばからでは遅すぎることくらい、本人が一番よく承知していることだからである。
「どこまでやれるか分かりませんが、やるだけやってみようと思います。さいわい健康状態はいいものですから、市や県の大会に出てみて、もし勝ち抜くことができたら、関東や全日本の大会にも出たいと思いますので、ご指導をお願いします」
ていねいに頭を下げる球六を見て、校長はうなずいた。
「個人レッスンはお金がかかりますが」
「どのくらいかかりますか?」
「一時間単位ですけど、コーチがかかりきりで、コートも一面つかいますし、初級の方ですと五千円ですが、あなたのような方は、コーチならだれでもいいという訳には行きませんので、当スクールの一番うまいコーチをあてるとなると、一時間一万円はいただかなくてはならないのです」
「一時間一万円ですか、三時間おねがいすると三万円か。週五日やると十五万円ですね。一カ月で六十万円になりますね。貯金は五十万円くらいはありますが、足りません。私、市役所に勤めているもので、ご承知でしょうが給料が安くて、スクールに入れていただくので精いっぱいの状態ですから、個人レッスンはとても無理ですね」
球六はあきらめ顔で、二人に頭をかるく下げた。校長もうなずいた。
「錦織圭選手は小学生のうちに頭角を現したから、ある会社の財団の援助で、アメリカへ留学できたのですが、それは将来性を見込んでのことで、あなたもせめて二十年早かったら、可能性があったでしょうに・・・」
その時、武田コーチが顔を上げた。
「二十面位コートのある、大きなクラブに入会すれば結構うまい選手がいますし、クラブの掲示板に、各地の大会の募集要項がはってありますから、やってごらんになったらいかがですか」
「テニスクラブの入会金は高いんでしょうね?」
球六はそれが一番問題だ、という表情で口をはさんだ。
「永久会員は高いですが、一年とか二年の短期会員は、数万円で入れるクラブもありますから、探してみたらいかがですか」
「月会費は?」
「一万五千円から二万円くらいのものです」
「ああ、それくらいなら払えます。しかし、スクールの月謝と両方はむりですので、申し訳ありませんが、スクールはやめさせていただきたいのですが・・・」
校長は仕方なくうなずいて、立ち上がった。
「天昇寺さんのご健闘を祈っています。オールジャパンの大会に出場できるといいですね。私は昔、オールジャパンの一回戦で負けましたが、市から市民栄誉賞をもらいました。今でも家に飾ってありますよ」
そういって応接室をでて行った。頭髪に白いものがまじった後姿を見送って、球六はふかぶかと頭を下げた。これで目標がきまった。まずテニスクラブに入れてもらおう。そこには種々の大会の情報があつまっているそうだから、仕事のゆるす範囲でできるかぎり出場してみよう。そう思うと、希望で胸がいっぱいにふくらんできた。
二、全日本選手権
三日後の土曜日に、横浜の郊外に二十二面のコートをもつ「カントリーテニスクラブ」の短期会員に、入会することができた。入ってみると、初心者の球六にはまぶしい位の上手な人が、大勢いるのにおどろかされた。とくに若い男子が、素晴らしいスピードでボールを自在にあやつるのを見て、こんな人たちと一緒にやれるのだろうか、と不安がさきにたつ思いであった。
全体の中で、一番うまいと見込んだ二十代と思しき二人が、シングルスを戦っている八番コートに、目がくぎづけになった。二人の闘いはほぼ互角で、三十分以上も続いていた。晴天にめぐまれて、三月の上旬だというのに、二人は汗みどろになって必死に戦っていた。コートの後ろのベンチにすわって、球六は時がたつのも忘れてコートを凝視しつづけた。
一時間近くかかって、二人の戦いはようやく決着がついた。コートサイドのベンチにすわって汗をぬぐう二人の横顔は、キラキラと輝いているように見えた。つぎの番を待っていた中年の女性の、四人ずれがコートにあらわれると、二人はバッグをかついで並んでコートから出てきた。球六は、この二人のどちらかに相手をたのみたかったが、気後れして声をかけられずに、あとをついて行ったところ、二人は、少し高台になったところにつくられた、クラブハウスに入って行ったので、彼らについて中へ入った。支配人に、あの二人がどの位の実力なのかを聞いてみるつもりだった。支配人は、日焼けした中年のすこし太めの男だった。
「あの二人は、一般の部で県下でも実力者の選手で、中背の人は内山さんと言って、昨年の県チャンピオンで、背のすこしたかい方が吉田さんと言って、ベストフォアに入った選手です」
「そうですか。あの二人に勝てれば、一般の部の神奈川県チャンピオンになれるのですね」
球六の口をついてでた言葉は、無遠慮なものであった。支配人は意表をつかれたように、球六の表情を見つめた。
「どちらのクラブにおいでになられたのですか?」
「クラブは初めてです。地元のテニススクールに、半年ばかりお世話になりました」
支配人はさきほど入会手続きをしたばかりの、新入りの顔をあきれたように見つめた。スクールで半年間テニスをやった程度の初心者が、このクラブに入会したこと自体無謀なことなのに、神奈川県という全国的に見てもトップクラスの県の、チャンピオンに挑もうという向う見ずな男の言に、一瞬軽侮の笑みをうかべて応じたが、そこは商売柄、そつなく受けごたえした。
「希望は大きくもつことが、大成するコツでしょうね」
球六は支配人の軽侮の笑みに気がつかずに、
「あのお二人のどちらかと戦ってみたいのですが、ご紹介願えませんでしょうか?」
と切り出した。
「えっ、本気ですか?」
「ええ、お疲れでなかったらで結構なのですが」
「あの二人は強すぎますから、もう少しゆるい球を打つ人を選んだら、いかがでしょうか?」
「いえ、速い球はこわくないものですから、お話だけでも通していただけませんか?」
「そうですか、キャリア半年の方じゃ、いやがるでしょうけど、まあお願いするだけはしてみますが・・・、しばらくお待ちください」
支配人はしぶしぶ席を立って、ロッカールームへ入って行ったが、しばらくすると戻ってきた。
「ちょっと疲れているから、他の人にかわっていただきたい、と言っていますので、適当なお相手がきたらご紹介しますよ」
と言いおいて、
事務室に入って行ってしまった。球六は仕方なくクラブハウスの外に出て、コート全体を見わたせる位置まで歩いて、ベンチに腰を下ろした。間もなくチャンピオンとパートナーの二人が出てきて、石段を降りて、今度は三番コートに入って行った。そして、間もなく先ほどのシングルスのつづきをやり始めた。
球六は、自分が体よくことわられたことを悟らざるを得なかった。テニス歴半年、と正直に言ったことを後悔し始めていた。テニススクールに半年在籍した程度で、テニスクラブに入ること自体問題なのに、県チャンピオンに試合を申し込むことは無謀だ、と言われても仕方がないと思った。
「こうなったら、自分で相手を探すよりほかに方法がない」
そう思い定めると、石段をおりてコートへ向かった。二十二面のコートを一通り見て回ったが、男女ともにみな相当なレベルであることを認識した。十五番コートで、にぎやかにミックストダブルスをやっている、中年の体格のいい男のプレーを見て、この人に相手をたのむ決心をして、試合がおわるのを待った。
十五分くらいでゲームは終わって、男女四人がにぎやかに談笑しながら、コートから出てきたところへ近寄って、中年男性に声をかけた。
「私、今日から入会したものですが、あなたのプレーが素晴らしかったので、シングルスを教えていただけないか、と思いまして」
中年男はじっと球六を見つめてから
「いいですよ、次にコートが空いたらやりましょう」
と愛想よく言ってくれた。その言葉にほっとして、その四人とつれだってクラブハウスに向かった。
「どちらでテニスをやっていらっしゃったのですか?」
と、中年男は気軽に話しかけてきた。
「申し遅れまして、私、天昇寺と申します。失礼ですが・・・」
と言うと,加茂田です、と軽く会釈した。球六は
「私、職場でちょっとやっていたのですが、相手がいないもので、今日からこちらへ来させていただきました」
と、うそをついた。正直に言うと、又ことわられるだろうと思って、とっさに口をついて出た言葉は職場だった。市役所の職員の間にも、市営コートを使ってサークルが出来ていることを、知っていたからであった。クラブハウスに戻ると、黒板があってコート番号順に、次にプレーする人が自分の名前を書き込んであった。加茂田は黒板を睨んでいたが、二番コートの下に自分の名を書き込み、つぎに球六に字をきいて天昇寺と書きこんだ。
「二番コートはそろそろ終わるころだから、コートのうしろで待ちましょう」
と言って、球六をうながしてふたたび石段を降りはじめた。ベンチにすわって二番コートを見ると、中年の女性がダブルスに興じていたが、となりを見ると、三番コートでは県チャンピオンとそのパートナーが、汗だくになって熱戦をくりひろげていた。
「あの方が県のチャンピオンだそうで」
と、隣にすわった加茂田に問いかけると
「ああ、彼は内山というんだけど、ここ二、三年急速に力をつけてきましてね、去年は関東オープンにも出たんですが、おしくも三回戦で敗れてね。こっち側の男は吉田というんですが、彼のダブルスのパートナーでね、あのペアでダブルスも県選手権をとったんですが、関東オープンは一回戦で負けちゃったんです」
と、饒舌に説明してくれた。加茂田の予想通り二番コートはすぐ空いたので、二人は軽くラリーからはじめて、サーブを数本打ったところで、ゲームを開始することになった。球六はネットプレーもやりたかったが、加茂田に遠慮した。加茂田は先程のミックストダブルスとちがって、格段に速い打球で、最初から球六を振りまわした。彼は足には自信があったので、振り回されることは苦にならなかったが、数本目にはネットに出てきて、ボレーとスマッシュを決める加茂田におどろかされた。あっという間に、ゲームカウント〇―四に追い込まれてしまった。
球六は考えた。一セット以上は連続してプレーすることはできないのが、テニスクラブの規則だと聞かされていたから、このままでは簡単に終わってしまう。0―六で終ったら、加茂田は二度と相手をしてはくれないだろう。ここは相手より先にネットに出て、ボレーとスマッシュを決めなけれならない。そのためには、サーブ・アンド・ボレーをやってみよう。まずファーストサーブをいれなくてはならない。球六の百五十五センチの身長では、強打したらサーブは入りにくい。そこで、少しスピードをおさえて、ファーストサーブを打ち込んだ。
サーブはうまくセンターに入って、加茂田は片手バックハンドのスライスで、ていねいに打ち返してきた。球六はすばやくネットをとって、オープンコートにフォアボレーを打ち込んだ。加茂田はあっけにとられてそのボールを見送った。レシーブゲームでも、球六はレシーブ・アンド・ボレーを決行して、それからはワンサイドゲームになってしまい、結果は六―四であった。試合が終わって二人そろってコートを出ると、そこに隣のコートでプレーをしていた、内山と吉田がならんで立っていた。
「加茂田さん、さすがのベテランの部のチャンピオンも形無しでしたね」
と、内山がにこにこしながら話しかけてきた。
「今日から入会された天昇寺さんだ、内山君に仇をとってもらいたいな」
加茂田は球六をふりかえりながら、内山と吉田に紹介した。
「加茂田さんはベテランの部のチャンピオンなのですか?」
球六は加茂田に質問をした。
「加茂田さんはね」
内山が彼の質問を引きとって説明した。
「去年の五十五才以上の部の、全日本チャンピオンなのですよ。テニス界では知らない人はいない有名人でね」
そう説明されて、球六はあらためて畏敬の目で加茂田を見つめた。加茂田は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「キリンも老ゆれば駑馬にも劣るというやつでね、職場でちょっとやっただけという人にコテンとやられて、恰好がつかないんだよ」
「申し訳ありません。職場で、と申し上げたのは嘘で、本当はテニススクールで半年やっただけなのです。本当のことを申し上げると、相手にされないだろうと心配したもので、すみませんでした」
球六は加茂田にていねいに頭を下げた。
「えっ、スクールで半年って、それまで経験なしですか?」
内山と吉田が異口同音に頓狂な声をあげた。
加茂田は球六をふりかえって
「軟式テニスの御経験は長いんでしょう?」
と話しかけた。
「いえ、軟式もやったことはありません。高校の陸上部でハイジャンプの経験があるだけです」
と真顔で言ったので、三人は顔を見合わせた。
「ズブシロがスクールに半年で、そんなにうまくなった例は、聞いたことがありませんね、本当なんですか?」
加茂田は疑いの目で球六を見つめた。
「本当なんです。実はある霊能者に見てもらったところ、前世でアメリカのテニスのプロだったと言われて、やる気になってスクールに入ったんですけど、スクールのレベルじゃないって、半年で追い出されたんです」
「人間は外国に生まれ変わることもあるんですか?」
若い吉田がたずねた。
「外国に生まれかわることは普通だと思うけど、場合によっては、ほかの星に生まれることだってあるらしいよ」
加茂田がものしり顔に言いそえた。
「加茂田さんはUFO肯定論者だからな」
内山がからかうような言い方をして、加茂田に笑いかけた。
「君たちは信じないかもしれないけど、この地球には異星人がたくさん来ているんだよ」
加茂田が真顔で力説するように言った。
「その話はつぎの機会にして」
内山が話題を引きとった。
「私は学生時代三年間、コーチのバイトに通っていたんですけど、スクールの上級者は三年いても、市の大会で一回戦負けが普通でしたね。天昇寺さんの半年っていうのは、考えられませんねえ。やっぱり前世はプロだった、というのは本当なんですね。ところで、一戦お願いできませんか」
「喜んで。内山さんにお願いしたくて、支配人に頼んだのです。このコートで連続してやることが、許されるんでしょうか?」
「次の人がまだ来ないから、続けてやってもいいんじゃないかな」
内山は加茂田に同意をもとめた。
「いいんじゃないかな」
加茂田はオウム返しにそう言って、目で同意した。球六は加茂田にかるく頭を下げて、内山の後につづいてコートに入った。二人を見送ってから、加茂田は吉田をさそって、後ろのベンチに腰をおろした。
「内山君との勝負は見ものだね。天昇寺さんという人はまさに怪物だよ」
吉田は大きくうなづいて、加茂田の横顔を見た。
「ベテランの部の、日本チャンピオンに勝ったんですからね、只者じゃないですよ」
「おれは四ゼロまでリードして、相手は相当うまいけど決め手をもたないから、楽勝だと思っていたら、そこからサーブ・アンド・ボレー、レシーブ・アンド・ボレーとたたみかけられて、あっという間に六ゲーム取られちゃったんだ。狐につままれたみたいな気分だった。おれとちがって、内山君はまだ若くてパワーがあるから、彼のネットダッシュを許さないと思うんだが、いい勝負だろう」
二人が話をしているうちに、内山と球六の試合が始まった。内山のスピードのあるプレーに対して、球六はトップスピンのつよくかかったストロークにキレを見せて、両者互角のまま三ゲームオールになった。しかし、そこから球六がサーブ・アンド・ボレー、レシーブ・アンド・ボレー、と嵐のような攻勢をしかけて、六―三で勝負がついた。
三月の涼しい陽気の中で内山は大汗をかいて、首にかけたバスタオルで、汗を拭きながらコートから出てきた。あとにつづいた球六は、対照的に汗一つかいていなかった。加茂田、吉田を合わせて、四人つれだってクラブハウスに引きあげたところへ、支配人が近づいてきた。加茂田から話をきいて、支配人は目を丸くした。
「スクールに半年で、内山さんや加茂田さんに勝てる人なんて、とても考えられませんね」
と言いながら、球六にちかづいて
「先ほどはどうも失礼をいたしました」
とていねいにあたまをさげた。球六は笑顔を作ってみせた。
「スクールで半年と正直に申し上げたので、無理はありません。加茂田さんには職場で、とうそをついてお願いしました。そのおかげで内山さんとも対戦できました」
球六も支配人に向かって一礼した。
「上手な方に入っていただくと、クラブの名があがって会員が増えますから、ありがたいのです。スクールに半年で、こんなにうまい方々と対戦できる人は、どこまで上達されるか見当がつきませんね」
そういって、支配人は表にでて行った。彼を見送って、加茂田が提案した。
「次はおれが天昇寺さんと組むから、県チャンピオンの内山・吉田組とダブルスをやろうではないか」
五月の連休中に行われる、一般の部の県選手権のシングルスに、球六はエントリーした。内山は、昨年のチャンピオンであったから第一シードで、吉田は第四シードだった。球六は一回戦からの出場だったが、決勝までわけなく勝ち進んだ。決勝の相手は予想通り内山だった。彼は練習マッチですべて負けているので、この日は覚悟をきめた表情で出てきた。球六はやりなれた相手であるため、緊張感はなくにこやかな表情であらわれた。結果は六―一、六―一で球六の勝ちであった。五十五才以上の部は加茂田が優勝した。つぎは関東オープンである。
関東オープンはその名の通り、プロでも外国籍の人でも出場できる制度をとっている。ただ、日本全国どの県もクローズト制をとっているため、東京オープンに出場して勝ち抜かなくては、関東オープンに出場できない仕組みになっている。六月末からはじまる関東大会にそなえて、球六の猛練習がはじまった。電車とバスを乗りついで通っていた、市役所の往復をジョギングすることにした。自宅からの距離は往復で約四十キロになる。週五日間マラソンをやるようなものであり、それで土日は、テニスクラブで朝から晩まで練習するのである。球六の頭の中には、前世のテニスプロだった時の記憶が、すこしづつ甦りはじめていた。
関東大会の初日はつゆの晴れ間で、三十度をこすむし暑い日だった。この大会は全国から猛者があつまる。ミニオールジャパンと称されるだけあって、会場のどこを見渡してもうまい人ばかりであった。球六は会場の緊迫した空気に、気圧されそうになる自分を叱咤して、一回戦にのぞんだ。相手は日焼けして真っ黒な顔に、白い歯が印象的な沖縄の選手だった。
彼はスタミナに自信があるらしく、球六がいくら振り回しても、活発に走りまわって着実に打ち返してきた。すきを見つけて球六がネットにラッシュをかけると、コーナーをついてパッシングを狙ってきた。この時球六は、高校時代にやっていたハイジャンプを思い出して、思い切って横っ飛びにジャンプしてみた。ラケットの先が一メートル以上伸びて、見事にパッシングショットを捕えていた。
この一打は彼に自信と力をもたらした。届きそうもないボールも、走って行って大きくジャンプをすれば、ことごとく届いてしまうことを発見して、大きな自信につながった。今までせっかくのジャンプ力を、ほとんど活かせていなかったことを反省して、ジャンピングボレー、ジャンピングスマッシュで、文字通り飛躍することができた。決勝まではまったく危なげなく勝ち上がった。
決勝はデ杯選手の神和住利郎選手ときまった。観戦に来ていた内山に、この選手を知っているかとたずねた。
「テニスをやる人で彼の名をしらない人は、まずいないでしょう」
「知らないのは私だけですか・・・」
「何しろあの人はジュニアの時から、年代別の全日本を全てさらってきた人ですから」
「内山さんは戦ったことがありますか?」
「昨年のこの大会の三回戦で〇―六、一―六でやられましたよ」
「どんなところが強かったのですか?」
「サーブもいいし、ストロークやネットプレーも、どこにも穴がないという感じでしたね」
「攻略するには、どう攻めたらいいでしょうか?」
「私にはとても勝てる相手じゃないと思ったもので、あまり勝ち方を考えなかったんですけど、天昇寺さんならいい勝負じゃないんですか」
そう言われて球六は考え込んだ。しばらくして、彼は口を開いた。
「ベースラインを踏まないようにして,前方へ二メートルジャンプして、空中でサーブを打つことは、許されるんでしょうか?」
「ちょっと待って下さいよ。そんなサーブを打つ人は見たことがないけど、あっそうか、女子のアメリカのナブラチロワ選手が、一メートル位跳んでサーブを打った例はありますね。だから二メートル跳んで打ってもいいわけだ」
「そうですか。私は自分にジャンプ力があることを、先日の試合で思い出したのです。今までテニスにジャンプ力を生かせることに、気がつかなかったのです」
「天昇寺さんの試合を見ていて、ジャンプ力のすごさに舌を巻いていました。二メートルも前でサーブをするとなると,トスは先に上げますか、それともジャンプしてから、空中でトスアップしますか?」
「先にあげると、距離感がつかみにくいでしょうから、ジャンプした後の方が、いいんじゃないでしょうか」
「そんなことが出来ますか?」
「ちょっとやってみましょうか」
球六は先に立って、クラブハウスの裏手にあるボードの方へ歩きはじめた。ボードはコートを横半分に切った位置に、
がんじょうな板がはってあり、板の上方にはフェンスが下向きに張りつけてあり、ボールが外に逃げないようになっていた。さいわい誰もいなかったので、ポケットから古いボールを取り出して試してみることにした。やってみると、ジャンプしてからトスアップする方が、正確にボールを捕えることができる事がわかった。
「天昇寺さんのジャンプ力はすごいですね。高さは一メートル位だけど、前方へは二メートルを越していますよ」
内山は驚嘆していた。球六は十回ほど試してみて、ひとりうなずいていた。
「このままネットダッシュして、ボレーをやってみましょう。付け焼刃だけど、強敵を倒すにはやってみるしかないでしょう」
午前十時すぎに決勝戦ははじまった。球六は作戦を胸にひめて数分間の練習にのぞんだ。お互いに手の内を見せない程度の軽いストローク、ネットプレー、サーブが終わって、いよいよ戦いがはじまった。トスに勝った神和住選手はサーブを選んだ。第一ゲームは神和住のサーブがさえて、手堅くキープした。しかし、つぎのゲームは彼が天をあおぐ結果となった。
球六のサーブは時速二百キロ程度で、驚くほどのスピードではなかったが、驚くべきジャンプ力で、ラケットの最高到達点は約四メートル近い高さであり、神和住がレシーブしようとする前に、敵はネットの好位置を占めていたのである。レシーバーは左右どちらへ打っても、敵のボレーの餌食になってしまった。このゲームは四本で終った。
度肝をぬかれた相手は混乱して、次のサービスゲームを落とした。その結果、第一セットは六―一で球六のものとなった。第二セットは、立ち直った神和住の好サーブで三―三までもつれたが、球六のネットプレーがさえて六―三で終り、第三セットと第四セットも六―三で片がついた。
つぎはオールジャパンである。球六のジャンピングサーブは、多くのテニス関係者の注目の的になった。練習の時から、この新人プレーヤーのコートは、人垣ができるようになった。球六は大会期間中に、三十七歳の誕生日を迎えていた。ベテランの部は、三十五才から五才刻みで八十五才までであるが、ベテランの部ではなく、オールジャパンの一般の部に、三十五才からテニスを始めた新人が登場したこと、だけでも話題を呼ぶものであるが、バレーボールか、バスケットボールの選手にしたいほどの跳躍力をもって、サーブとネットプレーに旋風を巻き起こしているのである。
一回戦からマスコミが注目して、テレビはニュースで放映した。天昇寺旋風は一回戦から吹き荒れて、決勝までは順調な試合であった。関東オープンからわずかの間に、球六は新しい武器を手に入れていた。今流行りの両手バックハンドは、少し窮屈だと感じていたので、左手でもフォアハンドを打つことであった。
球六は生まれつき左利きであった。祖母が古い考えで、右利きに直されたのであるが、やってみると、左利きは三十七才になっても立派に生きていた。ストロークだけでなく、サーブもボレー、スマッシュも左手で打てるし、一ケ月の練習で左右が同じように打てるようになっていた。過去の名選手にあまり例のないことではあるが、これが球六流なのだと自分に言いきかせて、オールジャパンに臨んでいた。やってみると、リーチが広がってまことに気分がいい。両手バックの選手は遠くへ走らされると、やむなく片手に変えて、スライスで逃げを打つことが普通であるが、腕一本分リーチが広いので、楽に反撃ができるのである。
サーブも、アドバンテージコートの場合、スライスサーブで相手をコートの外へ、追い出すことが出来るので、威力が何割かふえたようである。決勝戦は石黒修三が相手であった。彼は前年度のチャンピオンで、世界ランク七十二位の名選手である。彼は第一セットは落としたものの、さすがは世界ランカーだけあって、第二セットは球六を左右に振り回して、左サイドを執拗に攻め立てた。
急づくりの左側のフォアハンドは、練習不足から弱さを露呈して、敵のボレーの餌食になるケースが多くて、このセットを落とした。球六はここで考えた。同じことをやっていては負けてしまう。左手フォアハンドは、この大会が終わってから練習し直すとして、第三セットからは長丁場のラリーは避けて、できるだけネットへ出よう。左手はボレーなら右手と同じようにできるだろう。
球六は、トップスピンのつよくかかったストロークを打ちこんで、相手をベースラインの後ろに下がらせると、すかさずネットをとるようにした。石黒は左右ギリギリにパスを打ってきたが、球六は得意のジャンプ力を生かして、右に左に飛び回ってボレーを決めたので、さすがの世界ランカーもなすすべがなかった。石黒は試合後、「天昇寺さんは飛鳥のようだった」と評した。
三、全豪オープン
大会が終了して、シャワーを浴びてロッカールームを出たところに、ワイオネックススポーツの社員が二人待っていた。年配の一人が差し出した名刺を見ると、常務取締役原島源蔵と印刷されていた。
「天昇寺さん,お初にお目にかかります。当社といたしましては、あなた様とテニス用品の契約を、お願いしたいと存じまして、まかり越した次第です。いかがでございましょうか、もしよろしかったら、当社までお越しいただけないものでしょうか?」
球六は予想もしていなかったことで、目を丸くしたが、使用するラケットは、メーカーへのこだわりはなかったので、ついて行くことにした。クラブハウスには内山以下大勢のクラブ員たちと、市役所の同僚たちが待ちかまえていたが、やむなくハウスの前で別れて、ワイオネックスの本社へ連れて行かれた。
本社では、社長以下数名の役員たちの出迎えを受けて大歓迎された。内容はラケットやシューズ、帽子などを提供し、ガットの張替えを、練習と試合を問わず無料で行い、海外の大会でも社員を一人同行させるうえに、年間一千万円の契約金を支払うというものであった。世界ランクが上がり次第、契約金は値上げすることも約束された。
球六は予想もしていなかった事態に、只々当惑するばかりであったが、海外を転戦するとなると、役所を辞めざるを得なくなることをぼんやり考えていた。世界ランク七十二位の選手を、オールジャパンという大舞台で破ったのであるから、海外へとびだしてどこまでやれるか、を試さなくてはならない、とそこまでは考えついた。
しかし、年一千万円の給料で、母の生活費と、海外を飛行機を乗り継いで、ホテルに泊まってやって行かれるだろうか。母一人子一人のまずしい家庭に育った環境で、貯金もあまりない。役所を辞めても、まだ十八年間しか働いていないから、退職金は雀の涙ほどしか出ないだろう。試合に勝てば賞金は出るが、それは勝ち抜いた時の話で、一回戦負けが続いたような場合は、泣く泣く帰国しなくてはならない。帰ってきても職はないし、母を養わなくてはならないのだ。
混乱した頭で考えこんでいたが、ふと気がついた。それは、役所を辞めずに一年間休職させてもらって、一年間勝てなかったら、復職できるよう頼んでみよう。そう思いつくと気が軽くなった。翌日役所の課長に相談してみると、部長と話しあった結果、一年間の休職が認められた。つぎは日本テニス協会の事務所を訪ねて、一年間どの大会を選んで出場すれば良いのかを聞いて、エントリーの仕方を教わった。
最初は、十二月のマイアミオープンからスタートして、オーストラリアに渡って、全豪オープンを目標にシドニーオープンに出て、マイアミとシドニーで、好成績を収めることができれば、全豪への出場が叶うかもしれない。その前に、フロリダのロック・ボラントリーテニスキャンプに、日本テニス協会から紹介状を送ってもらい、十二月のマイアミオープンまでの間、特訓をしてもらうことにした。パスポートの取得からあわただしい準備を経て、フロリダへ出発できたのは、十一月の初旬のことであった。
フロリダのタンパは、沖縄よりやや南に位置するため、十一月に入っても半袖で過ごせるほどの陽気だった。三十万円という、日本のテニススクールでは考えられないような、高額の月謝を払わされて、一ヶ月間特訓を受けることになった。コートは約五十面あり、一面づつフェンスで区切られていて、他のコートからのボールに、邪魔されずにプレーできるようになっていた。コートの傍にモルタルづくりのアパートができていて、二LD?の一室をあたえられた。キャンプ専用のレストランもあり、自炊もできるようにキッチンもついている。
レッスンは生徒一人にコーチが一人ついて、一日三時間のかなりハードなメニューが用意されていた。午前と午後と夜のどれかを選ぶのに対して、球六は、午後二時から五時までの一番暑い時間帯を選んだ。南半球の全豪オープンが、一月下旬のもっとも暑い時期に、行われることに備えたのである。早朝はランニング、午前中はマシーンルームでトレーナーの指示を受けて、柔軟体操と筋力トレーニングを行い、午後のレッスンが終わってから、同僚と練習マッチを行った。
彼はランニング中に、短距離走とジャンプを何回か取り入れた。ジャンプは上方にも前方にも左右へも、できる限り大きく跳ぶことを努力した。日がたつにつれて、だんだん軽く跳べることを発見した。高校時代のハイジャンプの練習では、これほど大きくは跳べなかったのに、三十七才の今、なにか羽が生えたように、体がふわっと浮くのを体感して、うれしくなった。
かなり無理なジャンピングスマッシュが、出来てしまう自分を発見するのに、ながい時間はかからなかった。サーブは跳びあがってから、空中でトスを上げるため、コースを狙うことがた易くなり、威力も確率も一段とましてきた。ファースト、セカンドの両方とも同じスタイルで、同じスピードのボールが打てる球六を見て、コーチたちが誰言うともなしに「バードマン」というニックネームがついた。更に、左右両方ともフォアハンドで打つことも珍しがられて、キャンプ中の人気者になった。
キャンプには世界ランカーも何人か来ていた。トップトゥエンティに入ったばかりの、アメリカ人のボブ・オコーナーとはすぐ親しくなった。ボブは二十四歳の新鋭で,百九十五センチの長身から打ちこむサーブは、二百二十キロをマークしていた。十セット戦ったが、全てボブの勝ちであった。しかし、次第に接戦になってきて、最近の二セットはタイブレークで、それも十二対十四、十六対十八という大接戦であった。若いボブも、この三十七才の新人に一目置くようになっていた。
マイアミオープンは長い歴史をもつ大会で、出場するためには実績が必要だった。球六はオールジャパンの優勝しか実績がないため、世界ランクは四百五十番台にすぎなかったので、出場が危ぶまれたが、さいわい欠場があったので、補欠で出場が許された。ボブは第八シードであった。ボブはレンタカーを借りてきて、球六を同乗させて大会前日にマイアミ入りをした。
マイアミは大西洋に面しているため,タンパよりさらに暖かく、十二月だというのに半袖の観客も多く見られた。海岸には水着姿で日光浴する男女の姿もあり、全米各地からくるリタイヤした老夫婦の、キャンピングカーも数多く見られた。海外旅行の経験のない球六にとって、マイアミは夢の世界であった。ボブの運転する車の助手席に乗って、街並みを見まわしていた球六は、ふと前世でたびたびこの地を訪れていたことを思い出した。
「あの角を曲がるとリンガーホテルがあるんだ。十五階の部屋からは海岸が見えるんだよ」
ボブは驚いて、助手席の球六の横顔を見た。
「なんだ、来たことがあるのか。アメリカへ来たのは初めてだというから、今夜街を案内してやろうと思っていたのに・・・」
「いや、実際は初めてなのだが、前世のことを今突然思い出したんだ。前世と言っても、ボブには何の事だかわからないだろうけど・・・」
「前世ってなんのことだ?」
「どう説明したらいいのか・・・。ボブはリ・インカーネーション(生まれ変わり)という言葉を聞いたことがあるかい?」
「いや、そんな言葉は聞いたことがない。日本人はそんなことを信じているのか?」
「キリスト教は認めていないようだが、仏教は生まれ変わりを説いているんだ。霊能者に見てもらったら、ぼくは前世ではアメリカ人で、プロのトッププレーヤーだったと言われて、三十五才の秋からスクールに入ってテニスを始めたんだ」
「それまでやったことはなかったのか?」
「テニスは、ラケットすら触ったことはなかった。十月のオールジャパンに優勝して、日本中が驚いた。自分でも驚いている位だ」
球六は、英語がすらすらと口から出ることが、信じられない気持ちだった。高校時代にも英語はあまり勉強しなかったし、社会に出てからは、英語の辞書を開いた記憶すらない。ボブは不可解な面持ちで黙り込んでしまったが、しばらくして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「おれは三才の時からオヤジにテニスを仕込まれて、二十年かけて世界のトップトゥエンティ入りしたんだが、球六はたった二年で、俺と同じくらいの腕になった。きっと天才なんだろうな」
マイアミオープンは十二月九日から始まった。第一シードは、世界ランク第二位のアメリカのマッケンゾー、第二シードは、世界第三位のスウェーデンのエドベリーン、という豪華な顔ぶれであった。球六のフォアハンドとバックハンドを、左右の腕でもちかえて、両方ともフォアハンドにしてしまう打法は、過去に例を見ない打法なので、新聞に大きく書かれたし、テレビでも取り上げられて、大きな関心を呼んだ。更にサーブも両方から打ち、空中高く舞い上がって、しかも前方二メートルの位置から打ちこみ、相手がレシーブを打とうとかまえた時は、すでにネットの好位置を占めている、という前例のないプレースタイルは、身長百五十五センチと小柄で、中年の新人ということも手伝って、人気を独占していた。
バードマン球六を一目見ようと、会場は超満員の盛況だった。日本でも映像が映し出されると、全国のテニスフアンがテレビの前で熱狂した。一回戦の相手は世界ランク三十四位の強豪であったが、前世を思い出した球六の前には、敵ではなかった。二回戦から準決勝までは、破竹のいきおいで快進撃をつづけた。ボブは三回戦で伏兵に足元をすくわれて、惜しくも潰え去った。準決勝は第二シードのエドベリーンであった。彼は世界ランク第三位で、昨年の全豪オープンの優勝者でもあった。
エドベリーンは、北欧の貴公子と呼ばれるハンサムボーイで、女性の人気は絶大なものであった。均整の取れた筋肉質の体は、疲れを知らないタフさで世界に君臨している。バードマン球六との対決は大きな話題を呼んで、入場券は早々に売切れて、入れない観客があふれかえる始末で、スタジアムの正面に、大きなスクリーンが設置される珍しい事態になった。エドベリーンの正確無比なストロークが勝つか、バードマンの華麗なネットプレーが制するか、会場の前で賭けをする人々が大勢たむろして、警察も手を焼いた。ボブはコーチ兼マネジャー役を買って出ていた。
「エドベリーンは、ファーストサーブの確率がいつも八十パーセント近いので、あいつのサービスゲームをやぶるのは至難の業だ。俺はあいつと十回くらい戦ったが、一度も勝てなかった。今度やるチャンスがあったら、レシーブで少し冒険だが、ネットへダッシュして勝負をかけようと思っている。球六なら、勝負所でそれをやれば勝てるだろう」
「そうか、ありがとう。勝負所でリターンダッシュをやってみよう」
第一セットはタイブレークで球六が取り、第二セットもタイブレークになったが、エドベリーンがとった。ファイナルセットは、ボブの忠告に従って、リターンダッシュを敢行した。エドベリーンは、正確なストロークで球六のサイドを抜くべく、右に左に速いボールを打ってきたが、球六のジャンプが飛鳥のように跳ねまわって、パッシングを許さなかった。エドベリーンはパスがだめならと、トップスピンのかかったロビングを左右にあげてきたが、球六は左腕でも同じようにスマッシュを打てるので、完封してしまった。
ボブは世界第三位を、完ぺきなネットプレーで破った球六をほめたたえた。
「こうなったら、なんとしてでも優勝しろよ」
と激励した。決勝の相手は第一シードのマッケンゾーだった。彼は身長百八十センチで、アメリカ人の選手の中では小さい方だったが、鞭のようにしなる体から放つサーブはするどく、それに続くネットプレーは破壊力があった。リターンダッシュも巧みで、ベースラインから剛速球を打ちまくる、オーソドックスなプレーヤーを翻弄してきた。ボブが試合前日に忠告してくれた。
「やつより先にネットをとらなくちゃ勝てない。やつのファーストサーブの確率は七十パーセントくらいだから、セカンドサーブは全部たたいて出たらいいんじゃないかな。球六のサーブは二百キロくらいで速くはないけど、セカンドも同じスピードで打てば、やつはネットに出て来られないから、ゲームはせりあいになるだろうけど、勝てると思うんだ」
「思い切ってやってみるよ」
球六は笑顔で答えた。新聞やテレビはバードマン人気を煽り立てたので、アメリカの人気スターのマッケンゾーの影は薄かった。三十五才で初めてラケットを握って、今年三十七才というこの新人はテニス界の奇跡であり、中年の星とよばれて、球六の名は世界中の注目を浴びていた。一流選手はほとんどの人が幼少期から始めて、三十台で引退して行くのが普通であったし、それだけハードなスポーツであったから、四百五十番台のランクから、マイアミオープンの決勝進出は、まさに奇跡としか表現のしようがなかった。
しかも、両方ともフォアハンドというプレーヤーは、長い歴史を持つテニス界では初めてであり、サーブも両方から打ち、高く舞い上がって打つ選手も初めてであった。上にも横にも、小鳥のようにすばしこく飛びまわるネットプレーは、素人目にも華麗であり、見るものをして胸がすーっとする、と言わしめるだけのものがあった。おまけに、球六の身長が飛びぬけて小さい事も、人気を呼ぶ原因の一つであった。アメリカでは、小学生でも球六より身長の高い子供はざらにいる。体の大きな大人が、ポケットモンスターに夢中になるような感覚があった。
決勝戦は超満員であり、テレビの視聴率は記録的なものになった。試合はもつれにもつれて、ファイナルセットに突入した。マケンゾーは審判の判定にたびたびクレームをつけたので、彼がアメリカ人であることを忘れて、日本人の球六の応援の方が多くなってしまった。球六はこの風を捕えた。敵のサーブがコーナーに食い込んだ時以外は、リターンダッシュを試みた。敵の意表をついたこの作戦は、みごとに効を奏して、タイブレークを七―五で振り切った。
この成績で球六のランクは、一挙に百番を割り込んで八十三位に上がった。つぎは一月のシドニーオープンである。球六はボブとともにシドニーに入った。一月の南半球は真夏である。気温は連日三十五度を越して、うだるような暑さであった。マイアミオープンの賞金で、少し懐が温かくなった球六は、朝からぶ厚いステーキを食べて体力を養った。驚いたことに、三十七才の体はみるみる筋肉がついて、体重は五十五キロ、と日本にいたころに比べて五キロも増えてきた。
前世がアメリカ人の、世界チャンピオンであったことを思い出してから、プレーに一段と磨きがかかり、体格まで変わってきたのである。英語もすらすらと口から出るし、冗談も言えるようになってきた。ボブが冗談に「そのうちに目の色が青くなるんじゃないか」、と言ったほどのいちじるしい変化であった。練習マッチで互角だったボブは、わずか二ヶ月の間に足元にも及ばなくなってしまった。この大会には、マッケンゾーもエドベリーンも出場しなかったので、球六は楽に優勝することが出来た。
次は一月末から始まる全豪オープンである。シドニーからかなりの距離があるので、飛行機でメルボルンに入った。
「オーストラリアはいいコメが取れるんだよ」
というボブに連れられて寿司屋に入った球六は、久しぶりに寿司をたらふく食べて満足した。気温は三十八度まで上がって、日本と同じように蒸し暑かった。全豪オープンは四大大会の一つだけに、世界中の名選手が顔をそろえた。第一シードはやはりアメリカのマッケンゾーで、第二シードはスウェーデンのボルグル、第三シードはアメリカのコナーズン、第四シードはスウェーデンのエドベリーンであった。四大大会の試合はすべて五セットマッチで行われる。その昔、タイブレークシステムのなかった時代は、三日がかりで行われた例もあるが、今は数時間以内で決着がついている。
しかし、ハードコートで五時間もの戦いを二週間続けることは、人間の体力の限界である。その上、真夏の炎天下である。気温が三十八度まで上がると、ハードコートの表面温度は六十五度にもなる。すなわち、目玉焼きができあがる温度である。テニスシューズは底が厚くできているが、じっとしていると、足の裏が焦げるような感じを憶える位である。メルボルンは四大大会の中で、最も過酷な大会と言われている。そんな環境にあっても、大会参加者中最年長の三十七才は元気いっぱいであった。
一回戦の相手は、十八歳の新鋭で英国のホープと呼ばれるマーレーであった。ランクは四十九位である。マーレーは、どんなボールにも食い下がってくるファイターだったが、球六の敵ではなかった。二回戦は三十一位のジョコビックである。彼は正確なストロークが持ち味の、ねばり強い選手だったがストレートで下した。その後、決勝まで順調にコマを進めたマッケンゾー、と球六の顔合わせとなった。マッケンゾーはマイアミの雪辱に燃えていた。四回戦でマッケンゾーに敗れたボブが、試合前日の朝耳元でささやいた。
「やつはサーブはもちろん、リターンでも全部ネットダッシュしてくるかもしれない。やつの立ち位置を冷静に見きわめて、足下に落とすボールと、トップスピンのかかったロブを使い分けるんだ。やつは俊敏だけど、ジャンピングスマッシュには限界がある。トップスピンロブを警戒してふかく構えるなら、パッシングショットが効く。今朝は、この練習をしよう」
球六はうなずいた。長身のボブの頭上を越すロブは簡単ではない。ボブはランクを十二位まで上げてきている実力者である。
「足下へ落とすボールは、もっとトップスピンをかけた方がいい。そうすればローボレーが浮いて返ってくる。ハーフボレーにさせればなおいいんだが」
ボブは色々と注文をつけながら、次第に満足げな微笑を浮かべるようになっていった。球六のトップスピンロブはだんだんと凄みをましてきた。
「完璧だ、これならマッケンゾーもお手上げだろう」
練習が終わるとボブが叫んだ。
球六の活躍ぶりは、世界中のテニスファンをテレビの前にくぎづけにしていた。三十七才の新人は「中年の星」と呼ばれ、中年以上の年の人たちの希望のシンボルになっていた。日本の新聞は「鳥人が超人に変身するか」と書き立てて、人気に拍車をかけた。日本からオーストラリアまで、応援にかけつける熱心なファンが急増して、会場の各所に日の丸の旗が見受けられるようになった。とくに若い女性が目立って、華やかな雰囲気を作りだしていた。球六が独身のせいもあるようだった。
決勝戦は十一時からはじまった。マッケンゾーは、準決勝まで一セットも落とさずに勝ち上がってきていて、絶好調と自他ともに認めていた。身長は百八十センチとアメリカ人としてはふつうの体格だが、切れ味のいいサーブと俊敏なネットプレーを武器に、早い勝負を続けてきたため、あまり体力の消耗をしていない。球六もサーブ・アンド・ボレーに徹して、マッケンゾーとサービスキープ合戦を繰りひろげた。そのため、七―六、六―七、七―六、六―七とまれにみる大接戦となり、ついにファイナルセットに突入した。
球六はベンチに座っていて、ふと暑さと疲労を感じた。気温計は摂氏四十度をさしていた。今まで経験したことのない暑さだった。時計は三時半を回っていたが、太陽はじりじりと容赦なく照りつけて、体力を奪って行った。立ちあがって足を上げてみたが、やたらに重く感じた。この体でファイナルセットを戦いきれるだろうか。敵も疲れているだろうけど、二十歳の若さである。球六ははじめて自分の年令を思い知らされた。
この時、主審の「タイム」の声が響いた。重い足を引きずるようにしてコートに立ったが、全身の力が抜けていることを認めざるを得なかった。ここで負けをみとめる訳には行かない。気力を振り絞ってサーブを打ったが、ジャンプ力が落ちて五十センチも飛べていなかった。その足でネットへダッシュしたが、足が思うように動いてくれない。
やっとネットにたどりついたときは、マッケンゾーのレシーブが、左サイドをきれいに抜き去った後であった。あまりにも無様な自分のプレーを自覚して、ここでリタイヤしようかと考えたが、とりあえずこのゲームだけはやってみようと思い直した.しかし、結局サービスゲームは簡単にとられた。コートチェンジをしてから、ふとインジュリータイムをとることに気がついて、トレーナーを呼ぶよう主審に申し出た。
主審はすぐトレーナーを手配してくれた。どこが悪いのかと聞くトレーナーに、「左足の太ももが痛い」とうそをついてコート上に横になった。マッサージが行われている間に、善後策を考えた。その時、目をとじた彼の頭に前世の自分の姿が稲妻のようにひらめいた。
「何も恐れることはない。目を閉じて、敵のサーブを待て。そうすれば、敵のサーブがワイドに来るか、センターに来るのかが、一瞬早くわかるだろう。それをジャンプして、トップでとらえて、ダウン・ザ・ライン(ストレート)に叩き込め!」
球六は声なき声が聞こえたような気がして、立ち上がった。今まで感じたことのない力が、体中にみなぎっていることを漠然と感じていた。コートに立つと、目を閉じてかまえた。マッケンゾーの剛速球を受けるために、今まではベースラインから三メートル下がって構えていたが、それを改めて、ベースラインの内側二メートルの位置に立ったのである。
テレビカメラが、目を閉じたレシーバーを大きく映しだしていた。マッケンゾーはそれを見て一瞬ためらったが、かまわずサーブを打った。サーブはワイドに切れ込んでサイドラインに乗ると、コートの外へ大きくバウンドしかかったが、球六はボールの上がりっぱなをジャンプして捕えた。ボールはダウン・ザ・ラインにとんで、シングルスラインの上に乗った。サーバーは一歩も動けなかった。
解説者は、鷹が空中で小鳥をとらえたような動きだった、と評した。マケンゾーは口をあいて見送ったが、次の瞬間、左手でラケットを握ったまま、右手をガット面に合わせて拍手の動作をしてみせた。相手のサービスゲームをやぶった余裕に加えて、マッサージを受けた弱っている敵に対する、激励の意味があるようであった。つぎも球六は目を閉じてサーブを待った。テレビのアナウンサーが「またもやレシーバーは目を閉じています」と絶叫した。
サーブはセンターぎりぎりに入ってきた。球六は大きく跳躍して、ダウン・ザ・ラインに打ち返した。打球はまたもやシングルスライン上だった。サーバーは一歩も動けずにその場に立ちつくして、ラケットを放り出して、両手を大きく広げてみせた、観客の拍手は鳴りやまなかった。主審はサンキューを三回連呼して、やっと観客はしずまった。球六はしかし冷静だった。頭の中の靄が消えて、晴れ上がった青空のようなすがすがしさを感じていた。
「前世の自分に戻ってしまったようだ。もうこうなったら負ける気がしない。このまま、心のままに打てばいいのだろう」
そう思うと、疲れはいっぺんに吹き飛んでしまって、足は羽が生えたように軽くなった。その後は、観客のだれもが呆れるほどのワンサイドマッチで、新しい全豪チャンピオンが誕生した。試合後のテレビのインタビューで、球六は「前世を思い出したから」とみじかく語った。キリスト教社会には、生まれ変わりの概念はない。しかし、東洋には仏教の影響で輪廻の思想が行きわたっていることは、彼らの多くは理解していたから、そういうものか、と多くの欧米人は理解してくれたらしい。
四、挫折
日本に戻ると空港には、考えられないほどの大勢のファンが出迎えてくれていた。その中に、衣料品のメーカーと電機メーカーの社員が待ちかまえていて、球六を貴賓室に連れ込んで、スポンサー契約を迫った。そのあとには十社を超えるテレビの、コマーシャル契約を迫る会社が待ちかまえていて、目の回るような思いをさせられた。それが済むと、ラケットメーカーの車に乗せられて、都内の高級料亭に連れて行かれた。
そこには、社長以下幹部が数名待ちかまえていた。契約料を年二億円出すという。全豪の賞金が四億円強だったことだけでも、腰が抜けるほどの喜びだったのに、スポンサーだ、コマーシャルだと、一体いくら入ってくるのだろうか。天にも昇る心地というのは、こんな時のことを言うのだろう、と酒の酔いも手伝ってぼんやり考えていた。
その後の発表で、世界ランクがトップテンに入ったことを知った。今年の十月には三十八才になる。一体、何才まで世界で戦えるだろうか。かつて、オーストラリアのケン・ローズウォール選手は、四十一才の時に全米オープンの決勝まで勝ち上がった記録をもち、四十五才まで第一線でたたかいぬいた。自分も四十五才くらいまで世界で戦えるだろうか。
帰りの車の中で球六は熟睡していた。彼が目を覚ましたのは、はげしい衝撃で車が横転した時だった。逆さまになった車からはい出そうとしたときに、はじめて右足にはげしい痛みを感じた。横合いから乗用車に衝突された際に、右足を骨折したらしく、這いだそうにも体が動かなかった。五分ほどで救急車がきて、横浜の総合病院にはこばれた。翌朝痛みどめの薬がきれて、いたくて目を覚ましたところに医師がきて、経過を説明してくれた。
それによると、右足のひざから下が複雑骨折していて、回復には数カ月かかるだろうとのことであった。この説明を聞いて、今年の全仏、全英、全米の三大会への出場を、断念しなければならないことを悟った。かならず回復する、という医師の言葉に来年へのかすかな希望がのこった。当初半年くらいの入院が必要との診断であったが、驚異的な回復力で、二か月後には退院にこぎつけることができた。あとはべつの病院でリハビリの訓練が待ちうけていた。
テレビのコマーシャルは、取り消しになった会社もあったが、二社が球六のプレー中の映像を使って放映してくれた。半年後、球六はフロリダのタンパにあるテニスキャンプに復帰した。季節はいつの間にか夏になっていた。ボブ・オコーナーにまた会えて練習を再開することができ、久しぶりに明るい気分になれた。ボブは世界ランク八位まで上げていて、練習相手として申し分のない実力者になっていた。
休んでいた数カ月の間に球六が考えていたことは、ドロップショットとトップスピンロブを組み合わせた攻撃法であった。ストロークは左右ともフォアハンドであるが、余裕のある時はあえてバックハンドに持ち替えて、バックスピンのかかったドロップショットを打つ作戦を研究していた。彼のドロップショットはしだいに切れ味をましてきて、十二月のマイアミオープンの一回戦では、八球中三球がネット際に落ちた後、ネットを越して、味方のコートに戻ってくるほどの成果を上げた。
トップスピンロブは、キリキリと音を立てるのではないか、と思われるほどに回転がかかって、敵の頭上を高々と越して行き、相手が呆然として見送る場面が、ひんぱんに見られるようになった。絶妙なドロップショットと、猛烈なトップスピンロブが球六の武器に加わって、世界中の選手たちから恐れられるようになった。マイアミオープンの終わるころには、ネットダッシュしてくる相手の足下をつく、トップスピンの強くかかったゆるいボールが加わってきた。
敵はこのボールに手を焼いた。ローボレーを強く打ち返すことは、誰にとっても至難の業だが、ボールの回転が極端なために、普通に押し出したのでは浮き上がってしまい、敵の強打を覚悟しなくてはならない。さすがに、ラリーの途中からネットダッシュをしかける選手は激減した。強サーブを誇る選手が、サーブ・アンド・ボレーをしかけるだけになった。
「ネットを越して戻って行ってしまうドロップショットは、魔法のようだ。歴代の名選手もあんなことはできた例がない」
各国の選手たちは驚異の目で見まもるしかなかった。昨年の全豪チャンピオンの新しい技を研究するために、有力選手のコーチたちが大勢観戦にあつまるようになった。全豪オープンに視点をおいて、球六のドロップショットと、トップスピンロブの攻撃をどう攻略するか、を真剣に考えはじめていた。しかし、誰も名案が浮かばないまま一月の全豪が始まった。
球六はマイアミとシドニーに優勝したものの、一年近く休んでいた間に、ランキングは八十六位まで落ちてしまっていたので、もちろんシードはつかず、第二シードのボルグスの山に入れられた。ボルグスとは順当なら準決勝で当たることになる。ボルグスは全英オープンに五年連続優勝して、意気軒高だとの噂であったが、球六は気にもとめなかった。逆に、ボルグス陣営の方が神経質になって、球六の試合を何回も偵察に来ていた。ボルグスは、ウインブルドン以外のグランドスラム大会は、さほど勝てていなかったせいもある。
両者ともに順当に勝ちあがって、いよいよ準決勝の日がきた。当日は、気温が四十度位になる予想で、朝から強烈な日差しがメルボルンを覆っていた。ボルグスは筋骨隆々の体をいつも白いシャツで包んでいるので、「北欧の白熊」というニックネームがつけられていた。ボブは四回戦で敗れてしまったので、球六のヒッティングパートナー兼コーチ役を、例によって買って出ていた。
「白熊はこの暑さで、三セットくらいは元気がもつだろうが、後半はへばるだろうから、例のドロップショットを連発して体力を奪うことが肝心だ」
とアドバイスした。球六はフォアハンドで打つとみせて、打つ直前にバックハンドに握り替えて、ドロップショットを放つ方法を編み出していた。しかし、バックハンドに握り替えると、敵はドロップショットを察知して、ネットに全力で走ってくるので、すべてが成功するわけではなかった。ボールがネットを越して戻ってくるために、小さなバウンドではなく、ドロップショットにしては大きなバウンドになるため、察知されて逆襲されることもままあった。
もどって行くボールは、ネットにタッチしなければ、オーバーネットしてボールを打つことが、例外的にみとめられている。そのため、対戦相手は、シャツがネットに触れないように、ショートパンツの中に入れるようになった。今まで見られなかった現象である。世界ランク第二位のボルグスも例外ではなかった。試合はもつれにもつれて、ファイナルセットに入った。
午後の太陽は容赦なく照りつけて、気温は四十度に達していた。湿度は七十五パーセントで、じっとしていても汗が流れ落ちるのがわかるほどであった。さすが二十三才と若さをほこるボルグスも、すこし疲れがみえはじめた。気温が四十度に達すると、ハードコートの表面温度は六十七、八度にまで上がる。底の分厚いテニスシューズを履いていても、じっとしていると足の裏が焼けこげるように感じられる。
敵のはげしい息ずかいを見て、球六はここぞとばかりにドロップショットをくり出した。ボルグスは疲れた体にムチ打って懸命に走って、ドロップショットがネットを越さないうちにようやくボールに触った。ボールはドロップショットになって返ってきた。球六はそれをネットに出て待っていた。彼はそれを高々と頭上を越すロブで打ち返した。ボルグスは猛然と走って、ベースライン一杯に入ったボールを、股抜き(後ろを向いたまま股の間から打つショット)で打ち返した。
直線で帰ってきたボールを、球六はストップボレーでネット際に落とした。ボルグスは一息つく間もあたえられずに、ふたたびネットに向かってダッシュしてきた。やっと彼が拾ったボールを、球六はそれを無慈悲にロブで高々と打ち返した。それをボルグスは、空をにらんだきり追うことはなかった。ロブがベースライン一杯に入って、バウンドするのを見届けると、いつも冷静なボルグスに似合わず、ラケットをハードコートにたたきつけた。
このポイントを境に、ボルグスの正確無比なストロークに乱れが出て、球六の勝利となった。決勝は予想通りマッケンゾーが出てきた。決勝戦は一日おいて日曜日であった。今日も三十八度まで上がる予報だった。ボブがロッカールームでささやいた。
「マッケンゾーとはネットの取り合いになるだろう。彼はセカンドサーブでも、ネットダッシュしてくるだろうから、球六もセカンドサーブでもダッシュすべきだろう。左利きの彼のバックハンドは片手打ちだし、パッシングショットはあまり強力ではないから、恐れる必要はないと思う。問題はレシーブの時だ。彼のサーブはファーストが約七十パーセント入るから、レシーブでネットをとることはむずかしい問題だが、ファイナルセットになったような場合は、敵の足元にボールをしずめて、思い切ってネットをとるべきだと思う。勝負所では思い切った方が勝ちだと思うんだが」
球六は素直にうなずいた。ボブは名コーチだと思う。勝負所で勝負できないようでは、勝ち運は逃げてしまうだろう。ボブのアドバイスに感謝して、球六はコートに入った。決勝戦は昨年とおなじく、超満員の観客で熱気が充満していた。午前十一時から試合は始まったが、気温はすでに三十六度に達して、湿度は八十パーセントあった。じっとしていても汗がにじんでくる。
マッケンゾーは一回戦からここまで、すべてストレート勝ちを収めてきていた。二十才の若さは元気いっぱいで,何ものをも恐れない気迫に満ちているように見えた。試合は両者のサーブ・アンド・ボレーからの、ネットプレーの応酬で始まった。グラウンドストロークの打ち合いはほとんどなく、スピーディーな展開に観客は湧いた。マッケンゾーの速いパッシングショットが球六を襲ったが、球六のジャンピングボレーが冴えてパスを許さなかったし、球六のトップスピンロブを、マッケンゾーがタイミングよくジャンプしてスマッシュを決めて、まれにみる好試合になった。
両者はたがいに譲らず、ボブの予想通り試合はファイナルセットに突入した。ハードコートに両者の汗が大量にこぼれ落ちて、ボールボーイはモップで、それをふき取る作業に追われた。若いマッケンゾーはともかく、出場選手中最高齢の、球六の体力を心配する声は解説者だけでなく、世界中のファンに共通するものだった。しかし、球六は信じられないほど元気だった。ファイナルセットに入ると、球六はマッケンゾーの強力なサーブを、ものともせずにリターンすると、ネットに向かってダッシュした。
マッケンゾーが強力なサーブでネットダッシュすると、敵もレシーブでダッシュしてきたのである。マッケンゾーのボレーを、ジャンプしてボレーで打ち返した球六を見て、彼は口を大きく開け、腕をひろげてあきれてみせた。こんなプレーヤーは、見たことも聞いたこともなかったからである。観客は割れんばかりの拍手で、球六の果敢なプレーを称えた。ファイナルセットは、球六のワンサイドマッチで終わった。
日本にもどると、球六は英雄あつかいであった。関係者はもちろん、一般のテニスファンの人波が空港をうずめつくした。一般的には、そろそろ引退を考えるべき三十五才から始めて、三十六才で世界を制し、交通事故による後遺症を克服して、再び世界を制した三十八才は、英雄と呼ばれるのもうなずける。コマーシャルの本数も、テレビ出演の依頼もふえたが、彼はことわりつづけた。練習の時間をさかれることがこまる、という理由からであった。練習と休息と思考のさまたげになることは一切ことわる、という姿勢をつらぬき通していた。
意中の女性と結婚し、横浜の海が見える小高い丘に小さな家を建て、テニスコートを四面造った。クレーコート一面と天然芝のコートを一面と、ハードコート一面にインドアコート一面である。全仏はクレー(土)、全英は天然芝、全米と全豪はハードコートであり、雨天の練習にそなえてインドアも必要であった。球六のトレーニングは朝五時に起きて、ジョギングを十キロと二十メートルダッシュを数十本、ジャンプを数十回繰り返して、テニスの練習は九時から十二時、二時から五時までの六時間であるが、これは一日たりとも欠かさなかった。
ボールパースンは、大学のテニス部員がアルバイトで、交代しながら六人ずつ各大学から派遣されてきていた。練習相手は、デ杯チーム全員が毎日つめかけていた。昼食はインドアコートにテーブルと椅子をならべて、選手とボールパースンを一堂に集めて、全員に豪華な弁当がふるまわれた。夕食は新妻と母親の三人で必ずとり、十時には就寝していたから、テレビ出演もコマーシャルも、入り込む余地がなかったのである。
世界中のトッププレーヤーが、コーチとヒッティングパートナーを雇っているから、球六にもと勧めてくれる人が何人かいたが、彼はことわりつづけた。コーチは前世の自分だと考えるからで、ヒッティングパートナーとしては、デ杯選手たちはまだ未熟ではあったが、彼らを鍛える使命を痛感していたし、国外では大会の参加選手たちが練習相手だったから、必要を感じなかった。
大会も他の選手たちのように、手あたり次第に出場するのではなく、四大大会に支障をきたさないように慎重に考えて、えらんで出場したから、ランキングはトップテンの中で上下していた。ランキングを上げるためには、より多くの大会に出場することが要求されたが、彼はランキングにはこだわりはなかった。海外遠征には、妻と母親をかならず伴っていたから、家庭は円満であった。
次は五月の全仏オープンである。クレーコートの大会であるから、練習のつもりでドイツ、イタリア、スペインなどの主要な大会に出場し、すべての大会に優勝した。そのため、全仏は第三シードに格上げされた。第一シードはアメリカのコナーズンであった。彼は昨年のこの大会に優勝していた。連覇をめざす彼は絶好調で、ワンセットも落とさずに決勝に進出してきた。
球六は難敵に苦労しながらも決勝に駒をそろえた。コナーズンは左利きで、強力なフォアハンドと両手打ちのバックハンドを武器にしていた。球足の遅いクレーコートを得意にしている選手であったから、うかつにネットへ出ることは自滅につながる。考え込んでいる球六にボブがアドバイスをしてくれた。
「彼の弱点は唯一頭のうえだ。スマッシュがどういう訳か弱いから、ネットへ引っ張り出してトップスピンロブを上げることが、最大の攻略法だろう。ただし、足がめっぽう早いから、ネットを越して戻ってくるドロップショットはやめて、ネットぎわに落ちたら三十センチも弾まないような、ドロップショットにした方がいいんじゃないだろうか。ローランギャロスのクレーコートは、バウンドが低いから」
「三十センチも弾まないドロップショットなんか、今まで打てたことがないよ」
「おれもないんだが、球六ならできるかもしれない」
「どうすればいいんだろう」
「コナーズンのストロークは強力だから、こちらのラケットに当たっただけで跳ね返るだろう。そこで当たった瞬間にラケットを引いたら、ボールが死んでしまうだろう」
「確かにボールが死んでしまうから、そうすればいいことは分かるのだが、ベースライン近くでこれをやるのは、言うは易く行なうは難しで・・・、ああそうか、ストップボレーの要領でやればいいんだな?」
「そのためには、ベースラインから下がらずに、深く打ってきたボールをハーフボレーすることだな」
そういうなり、ボブはボールの入った大きなかごを持って立ち上がった。早速練習しようという訳である。コートに立つと、鬼コーチよろしくボブのしごきが始まった。ハーフボレーで打ち返すことはさほど難しくはなかったが、ネット際に落として弾ませないショットは、口で言うほど簡単ではない。しかし、球六の執念は夕方には実って、十本中八本の成功を見るに至った。
決勝戦にのぞんだ球六は、自信満々の表情でスタートを切った。試合は大方の予想通りもつれにもつれて、ついにファイナルセットに突入した。球六は切り札を一本もつかわずにここまで来たが、第五セットは初球から絶妙のドロップショットを放った。コナーズンは、あまりにみごとなドロップショットに、両手を広げて天を仰いだ。
しかし、二度目からは猛然と走ってきて、三十センチほどしか弾まないボールを拾った。球六は待ってました、とばかりに強烈なトップスピンのかかったロブを、彼の頭上に見舞った。さすがのコナーズンもこれを見送って、再び両手を大きく広げざるを得なかった。ドロップショットがすべて成功したわけではなかったが、ファイナルセットはコナーズンに極度の疲労とストレスをもたらして、球六の圧勝でおわった。
一ヶ月足らずの間をおいて、全英オープンが始まった。ウインブルドンの名で親しまれる大会である。決勝には第一シードのボルグスが勝ち残ってきた。わずか二十三才にして、天然芝の王者として、五年間も君臨しつづけてきた男である。決勝進出が決まった夜から、ボブと球六の議論が始まった。
「ボルグスは、充分にドロップショットに対する研究をつんでいるだろうから、別の手を使わなくては確実に勝つことは難しいだろう」
ボブは額にしわを寄せてつぶやいた。
「何かいい方法はあるだろうか?」
「ずーっと考えていたのだが、意識的にネットインは出来ないだろうか、と」
球六は頬にうすい笑みを浮かべて
「それは無理だろう」
と答えた。しかしボブは大まじめだった。
「昔、日本の清水善三という人は、球六と同じくらいの身長で、世界ランク第三位まで上り詰めた人だそうだが、ネットインを狙って打った、ということを祖父に聞いたことがある。祖父は、清水にじかに聞いたわけではなかったそうだが、沢山の試合を見てきて、彼の打球はネットの白帯に当たったボールが、跳ね返ったのを見たことがない、と言っていたんだ。すなわち、白帯を這いあがるようにして、相手コートにもぐずりこむんだ」
「清水善三さんの名前は聞いたことはあるのだが、そんなことができたのか?」
「うむ、できたらしい。そのためには猛烈なトップスピンをかけて、緩いボールを打つ必要があるだろう」
「ボルグスのように、かい?」
「いや、彼のトップスピン打法では、それは出来ない。彼はラケットを上に振りぬいている。しかし、清水善三はボールのトップを捕えて、それを下に向かって振り下ろしたらしい」
「それじゃ、ボールは下へ落ちてしまうじゃないか」
「どうやったかというと、ボールのトップを打つのではなく、ボールのサイドをこすったらしいのだ」
「なるほど、それなら強く打ってもなかなか飛んで行かないだろう。ラケットを下に向かって振り抜かなくては、ボールは収まらないし、白帯に当たれば、相手コートにもぐずりこんで行くかもしれない」
「そのためには、ラケットを下から振りはじめて、トップで捕えたら下に向かって振り抜く。変な恰好だが、ボールの横に回り込んで、半円を描くように振ることになる。どうだ、イメージが描けたか?」
「うーむ」
球六は目を閉じて頭のなかでイメージを描いてみた。
「ま、とにかく練習してみよう」
と答えたが,自信はなかった。翌朝、早朝から猛練習がはじまった。やっては見たものの、白帯をねらって打つこと自体がむずかしいことに直面した。
「清水さんは、こんな難しいことをよく考えだしたものだな」
球六は一時間の練習で、はやくも音を上げてしまった。
「芝生のコートは、ネット際は芝が傷んでいないから、そこにネットインしたゆるいボールが、コロッと落ちたらだれも拾えない。だからこれをやれば、球六がボルグスに代わって、ウインブルドンのチャンピオンになれるんだ」
と言ってボブは励ました。猛練習が日没までつづいた。練習が終わるころには、十本中六本が成功するようになっていた。確信がもてない状態ながら、球六はやってみる気になった。試合当日、球六ははじめからネットインを狙ってみる気になっていた。猛烈なトップスピンがかかっているとは言うものの、ネットを越してしまった場合は、あまりにもスピードがのろいので、敵のチャンスボールになってしまう。
「やっているうちに段々うまくなるだろう」
と楽観的に考えるようにした。しかし、ボルグスのストロークは最初からゆるまなかった。フォアもバックも機械のような正確さで、コートにふかく突き刺さって、すきを見せなかった。球六は一計を案じて、ベースライン一杯のトップスピンロブを打った。ボルグスはベースラインから大きく下がって、中ロブで打ち返した。少しスピードが落ちた瞬間をとらえて、球六はネットインを狙ってサイドスピンを放った。ボールは白帯にあたって、相手コートにもぐずりこんだ。青々とした芝生はボールをふんわりと受けとめた。ボルグスは、ボールを追いかけようとして途中であきらめた。
彼も観衆も、これは球六のラッキーポイントとしか考えなかった。その雰囲気を見て、球六は手を上げて謝りながら、腹の中ではにんまりと笑みを浮かべていた。その後、少しづつネットインの回数がふえて行きはじめた。ボルグスは俊足を飛ばして、ネット際のボールを拾おうと何回もこころみたが、ハードコートなら拾える可能性のあるボールも、芝では無理だった。観衆も回がかさなるにしたがって、球六がネットインを狙っていることに気がつきはじめた。ボルグスの熱狂的なファンは「汚いぞーッ!」と罵声を上げたが、「できるものならやってみればいいじゃないか!」と、やり返す球六ファンの叫び声に、会場は笑いに包まれた。テレビの解説者はアナウンサーの質問に対して、
「ビッグ・ビル・チルデンと、ウインブルドンの決勝を戦った日本の清水善三が、ネットインをたくさん使って、チルデンをマッチポイントの一歩手前まで追いつめたことは知っていますが、あれは百年近くもまえの話で、清水が意識して使ったかどうかは、わかりません。いずれにしても、ルール違反ではありません」
と答えた。プレーヤーは、左右に走らされることはさほど疲れないが、前後に走らされることが最も疲れる。ファイブセットマッチが終わりに近づくにしたがって、ボルグスの疲労が目立ってきた。彼のストロークがすこし鋭さを欠いてきたチャンスに、球六はネットダッシュして、華麗なネットプレーで決着をつけた。
五、奇策を編み出す
七月初めに大会がおわって、次は八月末の全米オープンまで一か月半あるので、球六は家族をともなって帰国することにした。全豪、全仏、全英と三大タイトルを獲得した球六は、日本にもどるとまさに英雄であった。空港の出迎えは未だかつて例をみないほどの大勢で、報道関係者の数も最大であった。家に帰りついても、明日のテレビ出演の依頼や、コマーシャル出演の交渉で、息つく暇もないほどの忙しさであった。
球六は、ラケットメーカーの社員を一人派遣してもらって、すべてのテレビ出演の依頼を、ことわる代理人の役目をまかせた。一時間たりとも、練習と休息の時間を割かれることはこまるのである。帰国翌日の朝九時から練習がはじまった。デ杯チームのメンバーとボールパースンのバイト学生たちは、連日天昇寺家につめかけることになった。報道陣はフェンス越しに撮影することは許されたが、コート内に入ることは許されなかった。
デ杯選手たちは、球六と一緒に練習できることを喜んだ。球六の技術をなんとかして盗もうとするのだが、ジャンプ力と左右両手遣いは、なかなかまねができず、ドロップショットとトップスピンロブは、全員が上達しつつあった。しかし、デビスカップ戦は層のあつい外国勢になかなか追いつかない。シングルス四ポイントにダブルス一ポイントの戦いに、球六一人の活躍では、アメリカやオーストラリアなどのテニス大国には、とうてい追いつかなかった。
球六はデ杯チームに、二十メートルダッシュを一日数十本、ジャンプ力の向上、筋力アップ、柔軟度のアップを毎日課して、自らもトレーニングに励んだ。その間に、選手一人ワンセットづつのシングルスの相手をして、全員を鍛えた。土曜日の夜は、選手たちとバイト学生たちに慰労会を催して、ビールとワインの、豪華な夕食パーティが毎週の常となった。
ある日、球六は練習の後一人で神田の霊能者を訪れた。
「何しに来たのだ?」
と不審そうな目で尋ねるマスターに、
「御相談があって伺いました」
と言って頭を下げる彼を見て、マスターは例の気難しい顔をしたまま同席してくれた。
「実は、いま迷っているんです。つぎの全米オープンの件なのですが、今までは何とか勝てたのですが、今度は何をやったらいいのか、いい策が思いつかなくて・・・」
マスターは球六の顔をじっと見つめていたが、
「強敵がいるんだな、その男はなんていう名前だ?」
と尋ねた。
「強敵は沢山いるのですが、全豪で危うく負けそうになった、アメリカのマッケンゾーの攻略法に迷っています」
と言うと、マスターは宙をにらんでしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「速く振れば、面はゼロになる」
と一言だけ言った。
「それはどういうことなんでしょうか?」
球六は狐につままれたような表情で聞き返した。
「わしにもわからん、わしはテニスをやったことがないからな。しかし、物事の真理はわかる。おまえさんはテニスの専門家だから、このことを考え抜けば、そのうちにきっとわかる時が来るだろう」
そう言われて、球六の悩みが始まった。新撰組の近藤勇は「生きのびたかったら、刀を敵より速く振れ」と、部下に教えたと言われる。自身も極端に短い刀を使っていた。ラケットを短く持てば、速く振れる。面をゼロにするためには、ウエスターングリップに握って、上になった面を使えば、面はゼロになる。しかし、これではボールは飛んで行かない。そこまでは考えたが、そこで思考が止まってしまった。
マスターの言葉が頭から離れない日々が続いたが、ある朝、ハッと気が付いたことがあった。体重移動をして、最大限ラケットを速く振れば、面はゼロでもネットの向こうへ飛んで行くかもしれない。ジョギングを中断して自宅に戻ると、ボールの籠を持ってコートに出た。「速く振れば、面はゼロになる」この言葉を口の中で唱えながら、様々な事を試した。翌日からジョギングをやめて、毎朝五時から一人で黙々と練習に励んだ。一か月がかりで、ようやく納得のゆくサーブが完成した。
「マスターの言っていたことが、ようやくわかった。マッケンゾーに当たったら、ピンチの時はこれをやってみよう」
やがて暑い夏もおわりに近づいて、全米オープンの季節になった。すこし前に渡米した球六一家は、マスターズの大会に参加するべく、ニューヨークのホテルに宿をとった。全米オープンに参加する選手たちは、毎週のように行われる地方大会に参加して、少しでもランキングを上げるために、ポイントを稼ごうとして全米各地をとびまわっていたが、球六は全米オープンのはじまる二週間前の大会を、一つだけ選んでいた。
全米オープンはニューヨーク市の郊外で毎年行われるが、八月末から始まるため、全豪オープンほどではないが、暑さとの戦いでもある。球六は自宅のインドアコートは雨の日以外は使わず、炎天下のハードコートで練習を積んできたから、暑さに対しては十分な自信があった。真っ黒に日焼けした顔をニューヨークの会場に現わした彼は、久しぶりにボブと再会した。ボブは努力の甲斐あって、世界ランク七位と躍進していた。今大会は第八シードにランクされていた。
二人は大会の前日まで、本番さながらの白熱した練習を展開したが、夕方ビールで前途を祝して別れた。全米オープンは、連日三十度以上の暑さの中で行われたが、球六とボブは順調に勝ち上がった。準決勝で、二人は公式にははじめて対戦することになった。お互いに手の内を知り尽くしているため、第一セットからデッドヒートを繰り広げた。
球六はドロップショットを使わず、ボブがネットに詰めてきた時だけ、たまにトップスピンロブを使うだけで、オーソドックスなラリー戦を展開した。しかし、力量の差はうごかず、ストレートで勝負はおわった。決勝の相手は、反対側の山を勝ち上がってきたマッケンゾーときまった。全豪の復讐に燃える彼は、立ち上がりから二百二十キロを超す強烈なサーブをたたき込んで、猛攻をしかけてきた。七十パーセントを越すファーストサーブの確率に、観衆は酔わされた。
コーナーに叩き込まれるサーブに、さすがの球六も見送るシーンが多くみられ、第一セットは七―五でマッケンゾーが取り、第二セットは七―六で球六がとったものの、第三セットはまたもや七―五でとられ、第四セットも四―五と追い込まれた。球六のサーブの番で、練りに練ってきた秘策のアンダーカットサーブを初めて披露した。
最初に、右手のバックハンドのかまえから、向かって左に切れこむアンダーカットサーブを放った。ゆるく飛んだボールはネット際に落ちると、するどく左に鋭角にまがった。二十才の天才児は、俊足を飛ばしてネット際にかけよったが、曲がり方があまりにも鋭すぎて、初めての経験にアッと言って見送った。マッケンゾーは両手を大きく広げて、あきれたという表情を見せた。つぎは左手のバックハンドからのアンダーカットを放った。マッケンゾーは、ネット際にゆるく落ちて、右にするどく切れこむサーブに猛然と飛びついて、コートの外から打ち返した。しかし,そこには球六がネットに出て待ちかまえていた。大きく空いたオープンコートに、球六のみごとなボレーが決まった。
マッケンゾーは主審に向かって、こんなことが許されるのか、というジェスチュアをしてみせたが、主審はとりあわなかった。観客は球六を支持する者、マッケンゾーを揶揄する者などで場内は騒然とした。やがて場内がしずまると、またもや球六は右手のバックハンドで、中段からのサーブを放った。マッケンゾーは左へ大きく曲がることを予測して、先回りしてかまえた。しかし、ボールはまっすぐに、しかもコートをすべるようにするどく通り過ぎてしまった。
下段から打った場合は大きく曲がるが、中段から打った場合は曲がらない。マッケンゾーは下段からと思いこんでいた。「馬鹿にされた」と思い込んだ彼は、思い切りラケットをコートにたたきつけた。ラケットは見事に折れていた。マッケンゾーは主審に向かって叫んだ。
「こんなプレーはテニスじゃない、マジックだ!」
しかし、主審は彼の抗議を無視して、早く次のプレーを始めるようにうながした。アンダーカットサーブは、ルール上認められたものである。いつまでも抗議をつづける彼に、主審は警告を発した。二十五秒ルールにのっとって、プレーを再開しない場合は、退場を命じるというものであった。彼はやむなく新しいラケットを取り出してコートに戻ったが、その後のプレーは、彼にとって最悪のものとなった。感情のコントロールができない若さを露呈してしまった。ファイナルセットはやや落ちつきを取り戻したものの、球六のショットがさえて六―三で終った。
年間グランドスラムを達成して、グランドスラマーとなった球六は、めずらしく帰国の途中でハワイに立ち寄ると言い出して、家族サービスに二週間ハワイに滞在することになった。来年一月の全豪まで、四か月間の長期にわたるブランクがある。とはいっても、その間にデ杯戦や、ジャパンオープンなど重要なイベントが目白押しにあるので、やる気になれば際限がないほどであるが、それには目をつぶることにして、二週間だけテニスから離れる決心をしたのである。
夢のような二週間のバカンスを過ごして、球六一家はホノルルを飛びたったが、日本への帰途、飛行機はハワイの沖合で、原因不明の航空機事故を起こして海中に没した。天昇寺球六、享年三十八才であった。
了