彼のカデンツァ、彼女のアリア
彼が歌った。
彼女が歌った。
二つの音は重なって、夜の海に優しく染みた。
王族の異種族間婚姻は可か?
王子はその夜、宮廷専用の豪華客船の船着場で、何年か前から逢瀬を重ねた彼女を見ながら悩んだ。
「王子?」
「あ――何ですか?」
「ぼんやりなさっていました」
彼女は下半身を海に浸している。その下半身が魚だと知るのは王子のみだ。
人魚――彼女はそう呼ばれる海の民。
「ちょっと、人生の岐路に立たされまして」
不思議がる人魚に、王子は独り言です、と苦笑した。
「――歌いましょうか」
人魚の顔が、ぱっと明るくなる。
王子と人魚は顔を見合わせ、同時に声を上げた。
歌い下手の王子が臆せず、顔色を窺わずに歌えるのは、この人魚の前だけだ。
人魚も、律の外れた声に嫌な顔一つせず、共に歌ってくれる。
初めてここで彼女に会った日、最初は侍女の誰かかと思った。だが、彼女の足を見て仰天した。
翌日、王子は、人魚とは至上の歌声を持つ一族だと本で読んだ。
さらに明くる日の夜。人魚の歌がどれだけのものかをこっそり聴きに行った。
その夜も人魚は港にいた。
その歌は、ただただ、すばらしかった。目に見えそうなほどの楽しさに溢れて。
王子は、もし人魚が本当に至上の歌い手なら指南を仰ごうと思っていたことも忘れて、人魚の前に飛び出して、一緒に歌わせてくれ、と訴えた。
それから人魚に歌い方を教わって、そこそこ聴ける域にはなった。
人魚は王子が上達すれば我が事のように喜んだ。
やっと人魚と合唱した時は至福だった。
波の音をバックに唄う人魚についていくのは苦労したが、曲の終わりは確かに二人の音が完璧に交じり合った。
王子は歌う喜びを知った。これからも人魚とずっと歌いたいと願った。
しかし、今は、それこそが問題なのだ。
合唱をしてはならない。
そんな掟があると知ったのは、王子が成人となる日だった。
何故かと聞くと、この国の男女は「声を重ねる」ことで心を結び、睦み合う仲となり、最後は結ばれる、それが慣習だからだと家臣も騎士も侍女も言った。
では誰とも歌えないのかといえばそうでもなく、三人以上や、同じ曲でも詞を変えればよかったりする。
この掟を王子がそれまで知らずに過ごしたのは、王子が幼くして自身の楽才のなさを知り、歌という歌を避けて生きてきたからだ。
歌うな、とよく諫められたが、まさかそんな掟があろうとは。
そうとも知らず、王子はこの人魚と「声を重ねて」しまった。
人魚は自分をどう思っているだろうか?
嫌われてはいない。だが、婚姻を結ぶ意味で好いてくれているかは分からない。
「王子、三節目はもう少し高くです」
「ああ、申し訳ない」
人魚は肯いて再び歌い始める。王子も続いた。
仮に想いが通じ合ったとして、父王や家臣たちを説得できるか。人魚を妃にして民が納得するか。そもそも人魚は陸で暮らせるのか。
問題は山積みで、ままならない。
二重奏を終えて、王子は人魚を見る。
「あの」
「はい、何ですか?」
「……えーとですね」
「はい」
口を開いたはいいものの、どれを言うべきか分からず、
「……星が綺麗ですね」
「はいっ。そろそろ南に一等星が昇る時期です」
――まだ平民のほうが、今の王子よりマシなことを言える。
この際、「声を重ねた」ことを黙っておこうか。
幸い、自分らの逢瀬を知る者はいない。そうすればあれこれ悩まず、人間の女を妃に――
(……無理ですよ)
見も知らぬ女を、国や政を鑑みて周囲が妻に決定し、儀礼的に合唱する。それは王子にとって耐え難いことだった。
王子は人魚以外と「声を重ねる」気はない。
合奏するなら楽しくやりたい。歌は、心から楽しんでこそだ。音を楽しむ、で「音楽」なのだ。歌い下手にも意地はある。
そして、ふり出しに戻る。
「王子。何かお悩みでもありますか?」
「何故そう思うのです」
「難しい顔をなさっておいでです。言いたいことは、言ってしまったほうがよろしいです」
言いたいこと、か。それが上手く言葉になれば苦労はしない。
「わたくし、何を言われても動じませんから。どうぞお言いになって」
自分が人魚に言いたいこと。言いたいことは伝えたいことで、伝えたいことは王子の気持ち――
そして、王子はやっとそこに思い至る。
王子自身は、人魚と結ばれても何ら文句はない。
それを王子は人魚に伝えてすらいなかった。
「……そんな単純なことだったんですね」
また不思議がる人魚に、王子は静かに告げる。
「あのですね」
「? はい」
「私は、貴女を――――…」