第三章
朝。眠い。帰りたい。
借りていたDVDの返却日が近づいていたので慌てて三本も映画見ちゃって、寝たのは日の出る直前だったしなぁ。しかも三本とも似たようなヒーローアクションもので、どれがどれだか覚えてない。もう少しチョイスを考えるべきだった。
「ふわぁ~あ」
そりゃあくびも出るってもんだ。よし、授業時間を睡眠に充てることにしよう。
「おはよう、銀さん! すごいあくびだったね」
元気の良い挨拶に振り返る。トレードマークの眼鏡に大き目のベレー帽も見慣れてきて、懐かしさを覚える。
「ああ、信太さんか。おはよ」
「モ・エ・モ・エ」
「はいはい、信太っち。朝からテンション高いッスね」
「銀さんが低すぎるのよ、低血圧?」
「いや、昨日遅くまで映画見てたから、寝たの朝方なんだよね」
「もしかして、エッチなやつ?」
「ちげぇよ、普通の、メジャーな、誰でも知ってるようなアクション映画」
とは言え、ハリウッド映画のお約束として最終決戦に出かける前には必ず濡れ場シーンがあるのだけれど。それだってソフトな朝チュン表現だったしな。エッチじゃない、うん、エッチじゃない。
だいたい洋物の女優は濃すぎてあんまり好みじゃないんだよ、根っからの東洋人だから恋愛物を見てもちっとも心がときめかない。ヒロインならば例えば……。
「ん?」
ベレー帽をかぶった首をちょこんと曲げて萌葱が見上げる。
「いや、帽子似合ってるなーって。信太っちってお洒落さんだよな」
「そうかな、えへへ……そうかなぁ。相変わらず銀さんは上手だなぁ」
あれ? クリーンヒット!? 好感度プラスされたような反応だったぞ。
俺の思い過ごしという可能性が極めて高い、わかってる。わかってはいるが何事もポジティブな方向に曲解してしまうというのが青春の特権なわけで……何かいい感じじゃね??
そんな、なにかこう、キュンキュンした気分をぶち壊すように、背後から声がかかった。
「おうおうおう、朝っぱらから女とイチャつきやがって、邪魔だコラ」
「あん?」
振り返ると目つきの悪いツンツン頭の小男がいた。見なかったことにしよう。
「でさぁ、信太っち」
「え? うん?」
何故かモジモジしている。大角豆に冷やかされて慌てているのか。
「無視すんなコラ」
大角豆はめげない男のようである。いつまで経っても引き下がらないだろうから仕方なく相手してやる。
「ったく、お前も朝からテンション高いな。テンション高い病でも流行ってんのか」
俺は眠い。
「ハッハー、早寝早飯早グソが俺の取り柄よ!」
「品の無いこと言うなよ、朝っぱらから」
胸を張る大角豆と頭を抱える俺。何故かカメラを構える萌葱。またもや報道魂に火が付いたか。
「しっかし、お前ですら朝に挨拶を交わせる可愛い子ちゃんがいるってるのに、俺の周りときたら、ゴリラみたいな……いてっ!」
長めの竹刀袋を背後から降りおろしたのは、ああ、忘れもしない資料準備室で着替えをしてた子!
「ああ、すまない手が滑った」
「痛ぇなこんにゃろ!」
知り合いか?
「やあ、君は着替えを覗いていた雫君、おはよう」
爽やかに微笑んですたすたと歩いて行ってしまう。名も知らぬ剣道少女。
「……覗いたんですか」
疑いの目を向ける萌葱。
「ち、ちがう! たまたまそういうシーンに遭遇してしまったわけで、故意じゃない! だいたいあんなところで着替えをする方が……って、信太っち?」
「メモメモ……また伝説がひとつ、と」
「やめて~!」
「あいつの着替えを覗くなんてお前も命知らずだな」
と、ひきつった表情で大角豆。
「あの子と知り合いなんか? てゆーか、お前が、女の子と!?」
「知り合いというか、まぁ、知らないこともない」
要領を得ない返答。でもさすがに彼女ってことはないだろう……いやわからん、さっきの阿吽のツッコミはただならぬ関係を推測するに十分だ。
「気をつけろよ雫、お前でもアイツには敵わない……かもしれないぞ」
「敵わないってなぁ、俺ぁ女の子とケンカなんかしねーよ」
もちろん、男とだってケンカなんぞしたくはない。もう卒業! ああいうのは中学まででお腹一杯。
「俺はこの学校の知り合いなんてここにいる信太さんくらいだけど……」
「モエモエ、です!」
速攻で訂正を入れてくる萌葱をスルーしつつ。
「お前って意外と情報通なのか?」
「ま、まあな、同じ中学の奴も何人かいるし」
それを聞いた萌葱の瞳が眼鏡の奥でギラリと輝き、取材モードに切り替わる。
「そこんところ詳しく! 何か面白いネタは?」
この押しはすげぇな、と素直に感心する。あの大角豆が圧倒されつつある。
「ネタっていってもなぁ……そうだ、もうひとり要注意人物がいるんだが、まぁ、そのうち嫌でも出会うだろうし、楽しみにしとけってくらいかな」
「つまりヒントはやるから自分の足で稼げと、ライバルとの出会いはドラマチックであれと!」
前のめりの萌葱にさすがの大角豆も引き気味で、
「そ、そういうこった」
逃げるように走っていく大角豆の背中を見送りながら、
「なるほど、東中の狂犬雫銀四郎に匹敵するような人物がさっきの彼女と、そして少なくともあとひとり、いるわけですね。燃えてきましたよ~」
そんな二つ名があったのか! 初耳だ。てゆーかコイツが勝手に命名したようにも思えるが。
「しかしナントカの狂犬って、だいたい名前先行で、登場した途端雑魚化する噛ませ犬ポジションなんだよな……」
「大丈夫です! 自信持ってください、銀さん!」
ぐっと両拳を握って励ましてくれる。何が大丈夫なのかよくわからんが、
「ああ、ま、がんばるわ。ところでさっきの竹刀女、知らない?」
「残念ながら……でも今後の取材ターゲットのひとりとしてマークしました! まずは名前と素性からですね」
「大角豆に聞けばよかったのに……てゆーか、それ聞かれる前にあいつ逃げたよな」
「怪しいですよこれは……ゴシップの匂いがします」
すんすんと鼻を鳴らして確信めいた笑みを浮かべる。
「ま、まあ、がんばってくれよ」
そして俺の武勇伝から目をそらさせてくれ。
「はいっ、ジャーナリスト魂にかけて!」
いまいちジャーナリズムの意味を履き違えているような気もするけども。何かに一所懸命になる姿っていうのは憧れるなぁ。
「そうそう、私は新聞部だけど、銀さんは部活入らないの?」
「部活か……考えもしなかったな」
言われて気が付いた。そうだよな、学園生活には部活というものもあるんだったな。どこかに入って青春を謳歌すべきだろうか?
「なるほど、学園制覇のためには部活などしている暇はない、そういうことですね」
記者モードになって俺の返答を勝手に解釈する萌葱。無いから、そんなこと絶対無いから。
「そんなことしねーよ!」
「でも、大角豆君との対決はちゃんとするんでしょ?」
う……痛いところを。
「俺としては不本意なんだが、あいつがしつこくて……まあ、仕方なく成り行きでってことだ」
「銀さん、同じ中学の私の立場もかかってるんだから、負けないでね」
「立場って、そんな時代錯誤の番長なんかと同類だったらむしろ迷惑だろ」
しかも何か変態的な勝負だし。知れ渡ったら女子の好感度だだ下がりだろうさ。
「私さ……」
突然、いつもと違う、真面目な顔で切り出す萌葱。
「銀さんは知らなかったと思うけど、中学んときはイジメられてたんだよね」
「えっ!?」
マジか……入学式で初めてちゃんとしゃべったくらいだから、そんなこと知る由もなかった。女子のイジメって陰惨って聞くからな。しかしなんで急にそんな告白を? ブラジャー勝負と何か関係が?
「それで学区外のこの高校に……」
「うん、まあ、恥ずかしいけど、それもある……」
そうか、社交的な感じだからイジメなんかとは無縁だと思ってたんだけど、俺と同じように自分を変えようと、努めて明るく振舞っていたのかもしれないな。見た目にも気を使って。
「本当はちょっと怖かったんだ、銀さんのこと。でも話してみたら、噂とは違って普通の人だったし」
うんうん、そうだろうそうだろう。俺は品行方正、普通の学生を目指す真面目な男だからな。すべては誤解なのだ、誤解。
「じゃあ、舐められないようにってのは、つまり?」
「ごめん……高校でもまたあんな目に逢うのはごめんだから、全部自分のため。虎の威を借りるみたいで酷いよね、これじゃイジメられるのも当然かな、ははは」
「バカ言うな」
「え?」
「新しい自分を始めるんだろ?」
「……うん」
「俺だってそうだ、高校に入って環境が変わって、新しい自分を始めようと思っていたんだ。だからおま……信太っちの気持ちもわかる。こんな自分が誰かのために何かが出来るなんて、人助けの一つも出来るなんて、中学時代には考えられなかったことだぜ。俺嬉しいよ」
「ありがとう……でも、中学の時にだって人助けは……」
何かを言いかけてそこで口をつぐみ、うつむく。
「同じ中学のよしみ、だろ?」
ニッと笑って。
「狼は群の仲間を見捨てねぇ」
これは親父に何度も言われたうちの家訓だ。
家訓とか今時下らねえとは思うが、その言葉だけは正しいような気がした。だから座右の銘として刻んだんだ。
「くすっ、なんか銀さんらしいね」
「そうかな?」
「うん、中学の時もそんな感じだった」
そんな感じ、か。萌葱の目に、中学時代の俺はどう映っていたのだろう。聞いてみたいような、知らないままの方がいいような。
◆◆◆
放課後、特にすることも無いのでひとりで校内をブラブラしていた。
朝話題にも出たことだし、部活の見学でもして回ろうかしらん。
部活かぁ、部活ねぇ。部活にでも入って青春してればキャーかっこいい! なんつって彼女の一人や二人出来るかもしれない。しかし、運動部では手を抜くのが難しい。もし間違って超高校級のアスリート登場、なんてことになって騒がれたら正体が全国お茶の間のみなさんの環視の中、白日の下にさらされてしまうかもしれない。それに、なんとなくフェアじゃないよな。
さりとて文化系で特にやりたいこともないし。しいて挙げるなら写真だけれども、スマホで適当に撮ってるだけだしな、本格的なのは敷居が高い。金も無いし。金と言えば食費も稼がなきゃなんないし。くっ……そろそろ何かバイトを探さなきゃいけねぇ。中学ンときから繰り越した所持金は三千円を切っている。いっそ繁華街に出張ってヤンキーでもカツアゲして……いかんいかん、そんなんじゃ真人間からまた遠のいてしまうぜ。
そんな、俺のしみったれた苦悩をよそに、グラウンドではサッカー部の連中が青春の汗を流していた。新入生の体験入部も兼ねて紅白戦をしているらしい。両チームとも十一人には少し足りていないようだ。弱小公立高校らしいともいえる。
「あぶなーい!」
と、声がする方を見ると、大きくゴールを外れたサッカーボールが前の方から歩いてくる女生徒への命中コースを描いている。
まずい、眼鏡に三つ編みオサゲ髪、ご丁寧に本まで胸に抱いて、見るからに文化系といった風貌の女子だ。ぶつかればその場に昏倒、打ち所が悪くて重篤な怪我を負ってしまうかもしれないぞ。
そこまでコンマ1秒で考えた俺は慌てて走り出す。
「とうっ!」
しかし、一歩及ばず、ボールは女の子の側頭部に命中する。ああ、ごめん救えなかったよ文化系地味子ちゃん。せめて倒れるのだけは受け止めよう、と思ったんだけど。
「ふんすっ!」
地味な女生徒は、おさげ髪を揺らしてボールに見事なヘディングを決めていた。
ボールはものすごい勢いでグラウンドに戻っていき、反対側のゴールネットを揺らす。
「…………!?」
俺は予想外の出来事に硬直し、言葉を失う。スペインのラ・リーガ・ディビシオン・プリメーラのゴールシーン集でもこんな見事なシュートは見たことがない。
彼女は何事もなかったかのようにセルフレームの眼鏡をクイッと直してすたすた歩きはじめる。ふと、今更気が付いたとばかりに手を伸ばした姿勢のまま行き場も無く硬直している俺の姿を見て、
「あ……」
目が合う。何故か気まずい空気が流れる。
「…………うん。そうだ」
ぽんっと手を叩いて合点して、よいしょ、とその場にゆっくりと転がる眼鏡子ちゃん。な、何をしてるのかな? 時間差転倒!?
「えーん、痛いですぅ」
と、棒読みで台詞を言って俺の顔をチラッと伺う。
なんだろう、この小芝居は。
「だ……大丈夫かな?」
俺に向かって言っているようなので一応声をかけてみる。
「アタシ、いっつもボサッとしてるから……運動も苦手だし」
ちらっ。だからなんなんだ~! 運動苦手どころか超反応してたでしょアンタ。それどころかヘディング一発で反対側のゴールまで飛ばすって、どんなパワーしてるのよ。
しかし比較的空気を読むタイプの俺は、余計なツッコミを入れずに、
「き、気をつけた方がいいッスよ、部活中にグラウンドの近くを歩く時には」
こうか? こういう反応しておけばいいのか?
ぐっ! っとサムズアップ。良かった、どうやら正解らしい。
「ありがとう、気を使ってくれて。大丈夫だから」
「あ、ああ……」
曖昧に返事をする。
彼女はスッと立ち上がり、スカートの土埃をぱさぱさと払いながら右手を差し出してきた。
「はい、握手」
「はぁ」
きゅっと握った彼女の手は華奢で、とてもあんなヘディングシュートをかますようなパワーがあるとは思えなかった。てゆーか女子の手握っちゃったよ! それも今初めて会った子と!
「よし、これで今日からアタシとキミは友達だ。そして友達は友達が友達を出来なくするようなことに荷担はしない筈だ」
「言ってる意味が分かりませんが」
「つまり……さっきのことは他言無用。キミは、か弱い女子がボールにぶつかって倒れるのを見ただけ。わかった?」
考えてみる。なるほどこの子は俺と同様、余計な噂が広がるのを避けたいと。そういうことだな、きっと。
「オーケー、言わねぇって」
「その言葉、信用するぞ? 友達だから」
「それ以前に俺ぁ、そんな話をする相手もいないわ」
いない? いないかな? 友達かどうかはわからないけれど、萌葱とも委員長とも割と普通に話してるよな。まぁ萌葱とは同じ中学の知り合いが他にいないってだけだし、委員長とは役職的に話さざるを得ない状況だからってだけなんだけど。どんな理由であれ切っ掛けとして利用しない手は無いよな。
あ、なるほど、無理して友達を作ろうと話題を振るよりも、なんかそういう自然な、業務上仕方ないですよね~的なことを切り口にして会話を広げていけばいいのか!
と、俺が会話の秘伝リア充への道第一章に気が付いてほくそ笑んでいることも知らずに、
「なるほどキミはぼっちだったのか。すると……アタシが最初の友達というわけだな!」
急にテンションが変わって瞳がキラキラと輝いてきた。
「え、まぁ、そういうことに……」
「やだ、どうしよう、初めてを奪っちゃった……きゃっ」
「いやそれなんか不穏な台詞だから、やめて」
「友達友達……うん、良し」
ぐっと拳を握り締めて言い聞かせるように彼女は言って。
「またね、友達」
「いやちょっと、友達と言うなら名前くらい」
振り向かずに手を振りながら
「知ってるよ、雫銀四郎だろ。よろしくな~、友達」
行ってしまった……どんだけ名前知られてるんだ俺。ていうかあの子は誰? 名前はおろか何年生かもわからん。
それにしてもまたしても能動的じゃない、受け身の姿勢でコミュニケーションをとってしまったな。自分から話しかけるのはやはり難しい。また萌葱に訓練を手伝ってもらおうかしらん。
うむむむむ……腕組みをしながら渋い顔をしていると、
「あぶなーい!」
声が聞こえたと思う暇もなく後頭部に思いっきり硬球が激突して俺はその場に昏倒した。
「や、野球とサッカーは……別のところで……やれ」
◆◆◆
常南市。
関東平野北部の農村地帯を無理矢理開発して出来た新しい街だ。風光明媚な場所も無ければ観光名所も無い。遠くの方に小ぢんまりとした貧相な山がポツンと見えるのが唯一のランドマークだ。
沈みかけた上弦の月の下、腹を空かせた野良犬のような少年が夜の常南市新興住宅地を徘徊していた。俺のことだ。
実際に空腹であった。バイトするのもめんどくさいので飯代をケチっている反動がここに来て出てきた、今日も昼に購買で買ったメロンパン一個食ったのみで、あとは水だけでしのいでいた。ポケットの中にある、軽くはないが厚みもない財布を握り、恨めしいような情けないような気持ちになる。
「腹が減ったが今ここで食ってしまったらバイトしなきゃいけない日が一日近づいてしまう……とほほ」
今夜もセコく自動販売機の釣銭忘れを漁っているうちに見知らぬところまで来てしまった。ちなみに戦果は二十円である。普通にバイトしろ。
つまり、まだ慣れない街で迷子になった挙句、力尽きてアスファルトに突っ伏しているのだ。ここ、どこ!?
「もしもし、そこのひと……生きてる?」
「へあっ?」
突っ伏した頭の上から女の人の声が聞こえた。
「い、生きてますんで、おかまいなく」
「どこか具合でも?」
「実は腹が減って。下手に動くと体力消耗するし、こうしてじっとしていたのです」
「なるほど、それは合理的ではあるかもしれないけれど、解決のアテもなく先延ばしにしているだけだよね? ふふふ」
笑われた。しかし笑われたということは引かれたわけではなく、どうやら少しウケたらしい。
餓死寸前で笑いが取れるたあ、俺も立派になったもんだ。
「ちょっと、待っててね」
待つも何も、動けないのだから他にしようがない。女の人の足音が遠ざかる。警察とか救急車とか、そういった公共レスキューを呼びに行ってくれたのだろうか。
しかし、もし救急車だったら、払う金無いぞ。そもそも飯食う金がないからこのような事態に陥っているのであり、そんな金あったら飯を食うに決まってる。
ぱたぱたぱた、とアスファルトに伝わってくる駆け足の音。
「良かった、まだいた」
そりゃ居るに決まってる。
「良かったら、どうぞ」
「あ……」
口元にビスケット状の食べ物が差し出される。これは携帯総合栄養食、商品名カロリーメイトか!
「……いいんですか?」
「放っておいて餓死されても寝覚めが悪いんで」
笑いながら彼女は言った。見えないけれども、きっと素敵な笑顔なんだろう。
「では失礼して」
もぐもぐ……突っ伏した姿勢のままカロリーメイトを咀嚼し、嚥下する。
蠕動運動によって胃に運ばれた栄養素が全身にみなぎってくる、気がする。
「助かりました。この御礼はいつか……あの、お名前は」
「ふふ、通りすがりの少女Aです」
少し大人びた感じの声だが、少女、と言うからには10代くらいか。子供でもないということは同年代かもしれない。
「ありがとう、少女Aさん」
体細胞にエネルギーが充填されたので、むくりと起き上がると、見知った顔。
「くすくす、倒れる前にちゃんとご飯食べるのよ、銀さん」
「信太っち!」
「こんばんは、奇遇ね。っていうか、声で気付くでしょ普通。私ガッカリだよ」
「ごめん! 朦朧としていたもんで気付かずに失礼! この礼は必ず」
「いいっていいって、同じ中学のよしみ、でしょ?」
「サンキュー、助かったよ……助かったついでに、ここどこだかわかる?」
「うん、私の家からコンビニに行く途中」
「コンビニっていうことは……えーと、あのコンビニか!」
なるほどある程度の位置は把握した。すこし路地に入るとまったく土地勘がないな。
「残りも食べる?」
「うん、食べる食べる」
「じゃあ、そこのベンチででも」
萌葱の指さす方向に向かうと小ぢんまりとした公園があった。
ゾウだかカバだかわからん謎の生物を模した遊具が置いてある。
この公園には覚えがある。なんだ、こんな近くで迷子になってたのか俺。
「銀さんって独り暮らしだよね? 仕送りとか無いの?」
「いや、あるにはあるけど、食費だけは自分で稼げっていうオヤジの方針でさ」
「ふふっ、面白いお父さんね。でもそれじゃバイトしなくちゃね、いつも私が通りがかるとは限らないし」
「だよなぁ、なるべく楽で給料が高いバイトでもあればいいんだけれども」
「そんな贅沢言って!」
などと楽しく談笑していると、公園に不穏な気配が漂い始める。
獣の勘が良くない空気を察知する。公園の人影はひとりふたり、徐々に増えていく。
ちぇっ、せっかくリア充っぽい良い感じの雰囲気だったのに空気読めない奴らだね、もう。
「ぎ、銀さん……」
「大丈夫、帽子をもっと目深にかぶって顔を隠して」
「う、うん……」
きゅっと帽子を下げてうつむく萌葱。薄暗い公園なので、はっきり見られることもないだろう。
「おうおうおう、見せつけてくれるじゃんかよぉ」
プロレスラー崩れのような体格の、いかにもガラの悪そうな男が声をかけてくる。安い日サロで無理矢理焼いたような小汚い褐色の肌に刈り上げた金髪、同じ色の顎髭。耳には趣味の悪いキンキラのピアス。袖口からのぞくぶっとい腕に何かの文様。身体に絵描いてる暇があったら彼女でも作ればいいのに。
「兄ちゃん、ちょっと小遣いかしてくんね? ついでに女も紹介してくれると嬉しいんだけどよ」
来た。昔ながらの由緒あるカツアゲ。現代において、こんな伝統芸を継承している人間がいると思うと軽い感動すら覚える。
「はぁ……カツアゲするならもっと金持ってそうな奴に当たってくれよ、ゴリポン君」
マジで、俺から巻き上げてもうまい棒数本くらいしか買えないぞ、きっと。
「んだと、スッゾコラー!」
日本語をしゃべっていただきたい。しかし日本の治安はここまで悪化していたのか。と、昨今の社会情勢を嘆きつつ、
「はいはい、帰った帰った、君たち解散!」
しっしっと犬を追い払うような動作をしたのはもちろん逆効果で、
「舐めてんのかてめぇ、俺に喧嘩を売るってことはブラックウルフに敵対することになるんだぜ」
ギャングか族か、どんな中二病的ネーミングだよ。しかし狼という単語を使われるのは少し腹立たしいな。
じゃら……ポケットからコインを取り出す。コストと重量を考えて十円銅貨だ。だがうまい棒1本分だ。そう思うと惜しい気もする。
「じゃあ、これで見逃してくんね? 十円あればうまい棒買えるだろ」
指で摘んだ十円玉を差し出す。
「ああん? 兄ちゃん、ちょいと社会の厳しさって奴を教育してやんねぇといけねぇな、なあ?」
「なるほど、授業料払っておくか」
「おう、それでいいんだよ、わかってんじゃね……えか??」
ぴんっ、と銅貨を指で弾く。直後、正面の街灯が派手な音を立てて割れ、明かりが消える。
ゴリラ男の頬には赤い筋のような切り傷ができていて、たらりと血が滲んでいた。
「な、なにしやがったてめぇ……」
「ごめんごめん、外れちゃったよ。大丈夫、次はちゃんと渡すから」
じゃら……もう一枚取り出して指で弾く。ぴんっ。
「痛ぇッ!」
ゴリラ男が耳を押さえてたじろぐ。左耳にあった趣味の悪いピアスが吹き飛び、引きちぎられた部分から血がしたたる。
「いやごめんごめん、また外れちゃったよ、次こそ、次こそちゃんと渡すよ。額の真ん中がいいか、それとも……」
拳銃の形にした指先をゴリラ男の額から心臓、そして股間の順に向ける。
「……わ、わかった、今日のところはこの辺で勘弁してやるっ……おい、帰るぞ」
ヤンキーどもは一歩一歩、後退りするようにベンチから離れ。一定の距離まで行くと、反転して猛ダッシュで駆け出していった。
「ふう、なんとか平和的にお引き取りいただけたな」
「銀さん! やっぱりすごいです! 噂で聞いてたよりも何十倍もすごいです! あんなにいた怖い人達を簡単に引き下がらせちゃうだなんて」
記者魂が着火したのか、キラキラした目で見上げる萌葱。
しまった……カッコつけたいがために、人間離れしたところを見せてしまった。ど、どうやって言い逃れしようか。
「ほ、ほら、のび太だって射撃の名手だったりするし」
苦しい言い訳をしてみる。
「コインであんなことできるなんて、もしかして銭形平次の生まれ変わりとか!?」
「あー、そう、そうなんだよ、俺ってば子供の頃は銭形に憧れててさあ、コイン投げる練習してたんだよ、こんな感じで」
えい、えい、とスローイングの素振りをしてみせる。
「でもちょっと……マンガみたいなシチュエーションで、ドキドキしちゃいました」
ふたたび俯いて、帽子を目深に引き下げる萌葱。
「そ、そうかな、たはは」
「私でもヒロインに……ううん、そんなことないの」
何かすごいことを聞いてしまったような気がしたが、若さゆえの好都合解釈かも知れないと冷静に判断し、忘れることにする。
「あの、今日のことは」
「もちろん黙ってる」
意外な返事。てっきりスポーツ新聞的なネタにされると思ったのに。
「これは私だけの……ううん、私たちだけの特ダネ、ね?」
「ああ、そう言ってもらうと助かる」
これ以上余計な武勇伝が広がるのは何としてでも避けたい。
それを言うなら萌葱に近づかない、というのが最善策であろうが、今日みたいに偶然出会ってしまったら仕方ない。
「そろそろ帰るか、またあんなのが来たら面倒だし」
「うん」
「送ってくよ」
一応言っておくけど下心はこれっぽっちも無いからな。本当だぞ。
「ううん、大丈夫、すぐそこだし」
「そうか、でも気を付けるんだぞ、変なのが出たら大声出すんだぞ」
「大声出して助けを呼んだら……駆けつけてくれますか?」
「もちろん」
俺と別れた後で何かあったら責任感じちゃうしな、なんであの時無理してでも送っていかなかったと後悔するしな。
「ふふっ、変わってないですね」
「何が?」
「秘密です……じゃまた明日、学校で」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
萌葱が去った後、しばらく公園で聞き耳を立てていたけれど、彼女の救いを求める悲鳴は幸いにして聞こえなかった。
心配しすぎかな。不良に絡まれたせいで気が張り詰めていただけかもしれない。やはり俺はヤンキーを引き付ける電波でも垂れ流しているのか、と惨憺たる気分になる
それから数日、警戒はしていたものの、さしたる火の粉が降りかかる様子は無かった。