第二章
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
入学式はだらだらと続く。半分寝ているので誰が何を言っても話半分だ。
壇上には生徒会長と紹介された男子生徒が祝辞を述べている。爽やかなイケメン。うわぁリア充っぽいわ、ムカつくわー。ムカつくけど俺の目指すところはあれなんだよな。よし、俺も俺みたいな奴にムカつかれるような男になるぞー。
ふむ、そうだ! 手っ取り早く生徒会長になってしまうのもいいかもしれないな。真面目そうな優等生美少女を侍らせて──いいなこれ、計画候補として考えておこう、うむ。生徒会長というからには生徒による選挙で選ばれるわけだから、常日頃善行をしてアピールしなくちゃいけないよな。あ、成績も生徒会長にふさわしいものじゃないといけないのか…………無理かもしれん。
ほんの数十秒くらいで計画の破綻が読めてしまった、プランBへ変更しよう。
「ですから、皆さんにはこれからの三年間、悔いの無いよう学園生活を送ることを期待します」
爽やかな笑顔を振りまいて生徒会長は話を終えた。なんかキラキラした画面エフェクトが見えたような気もする。やっぱリア充は一味違うな!
入学式を終え、生徒たちはぞろぞろと教室へ向かう。クラス分け表にあった俺の教室は……1年C組。
ここか、ここが今日から俺の戦場なのだ。よろしく頼むぜ。
席は名前の順で、真ん中あたりの後ろから二番目。特等席である窓際一番後ろは取れなかったけれど、まあ悪くはない。
「銀さん」
「ほわっ!?」
肩を叩かれたのでびっくりして振り向くと、信太さんがヨッって感じで手を上げている。そうか、雫、信太の順か。
「一緒のクラスだね~。良かったぁ、知らない人ばかりだと思ってたから心強いよ」
俺はなんとなく不安だけどな。くれぐれも中学時代の悪行は黙っていてくださいよ。
しばらくすると教室に担任の教師が入ってきた。黒板消しを引き戸の上に挟んでトラップ、などという小学生レベルの悪戯をする生徒はいないようだった。もちろん俺もそんなことはしない。何事も無く、普通に入ってきて黒板にチョークで名前を書き、教卓の前に立つ。
「えー、私が諸君等の担任を受け持つことになった、恋瀬希であります。科目は現代文を担当しております」
クラスに落胆の空気が広がる。そりゃ誰だって若い女の先生、もしくは若いイケメン先生が良かったに決まってる。しかし、イケメンの場合、男子からの信頼を集めるのは難しく、よって総合的に若い女の先生がベストであろう。
しかし教壇の上に立っているのは、出世に失敗したような冴えない初老のおっさんである。可愛らしい名前がかえって憎々しい。
まあ、名前に関してはこの冴えないおっさんに罪はない。
とは言え、下手に熱血教師が担任になった日にはウザいことこの上ないわけで、見るからに枯れきったこのおっさん教師はその点では安心で、平穏な一年が過ごせそうだ。いろいろうるさく言われなさそうだしな。
お色気ムンムン女教師と男子生徒のイケナイ関係というのにも憧れるが、それは保健の先生とかに期待することにしよう。保健室と言えば白衣のお姉さまってのが相場だからな。
おっさんの話をぼんやり聞きながら高校生活初日が終わった。
とは言え入学式とホームルームでの軽い自己紹介とクラス委員決めくらいだったから、本格的に始まるのは明日以降だけれど。
まぁ、そのクラス委員選出で一つ問題が発生したのだが、深く考えないことにしよう。
何より、クラスの面々を見た限り、ヤンキーっぽいのは見当たらなかった。これから高校デビューして急にいきり立つ奴がいないとも限らないが、とりあえずは上々、いらぬ因縁を吹っ掛けられることもなさそうだ。
無理してランク上げた甲斐があったなぁ。俺だって頑張ったんだぜ、受験勉強。地域一番とは言わないまでもそこそこの進学校、そして絶対条件である男女共学。なんとか滑り込めて本当に良かった。盆暗男子校なんか行ってたらまたロクでもない暗い青春を過ごすことになってたぜ.
受験で無理しただけに、勉強についていけるかどうかは不安だが、入ってしまえばこっちのもん、なんとかならぁな。公立高校は余程犯罪的な問題でも起こさない限り、退学も無ければ留年も無い。自動的に三年生、そして卒業って寸法よ。
◆◆◆
あっという間に入学式から数日が過ぎた。ついでに俺の貯金も尽きてきた。そろそろ本格的にバイトでも探して食費を稼がねばならないなぁ。しかし働くのもめんどくさいよなぁ。などと消極性をフルに発揮して問題を棚上げしていた。
学校生活はというと、まだ問題も起こしていないし、目立ってもいない。この調子この調子。
だが友達も出来ない。クラスの中では早くも人間関係が構築されつつある。皆一緒に昼飯食ったり、談笑したりする相手くらいは見つけている。
そういうスキルを身に着けるというのも学校教育の一環であることは俺にも理解できる。しかしそのやり方は授業では教えてくれないにも関わらず、なぜ皆そんな高度なテクニックを駆使できるのだろう。どっか塾みたいなものがあるのか? 俺の知らないところでマニュアルでも出回っているのか? わからん、本当にわからん。
よくよく考えてみれば俺のこれまでの人生、絡まれて喧嘩を売られる、それに反応するの繰り返しで常に受け身だった気がする。なるほど、能動的に自分から他人に関わるという経験がほとんど無いわけだ。
よしよし、そうとわかれば善は急げとアタックあるのみよ。隣の席の男子に話しかけてみよう。名前も覚えてないけど。
「あ……」
ちょっと待て。何を言えば良いんだ? 全くわからん。テレビの話とか? いや初めて会話する人間が相手の趣味も知らずに闇雲に話を振るのは無謀というものではなかろうか。もし全く興味がなかったら相手だってどうやって返していいか迷ってしまうだろう。それどころか嫌いな話を振られたらどうだ?
例えば今年のタイガースは強いッスねぇ、なんて話題を振った相手がジャイアンツファンだったりしたら致命的だ。しかもそれが国内野球じゃなくてメジャーの話と勘違いされて食いつかれでもしたらどうする? ロクに答えることも出来ず、ニワカが知ったかしてんじゃねーよと思われてしまうかもしれない。第一印象から最悪になってしまうではないか……!
困った。実に困った。困った挙句、誰か喧嘩でも吹っ掛けてくれないかな、などと一瞬思ってしまった。それじゃダメだ、何も変わらない。また真人間から、リア充から遠い存在になってしまう。知恵を振り絞れ雫銀四朗、出来る、お前なら出来る! やれば出来る子!
「銀さん!」
「出来る出来るぞ出来るんだ俺には出来る……ぶつぶつ」
「銀さんってば!」
「ああ、信太さんか」
「モエモエ」
「信太っちか」
「どうしたの? 難しい顔して」
おおナイスタイミング。今のところこの学校で唯一話の出来る人間、信太萌葱先生に相談してみることにしよう。社交性に関しては俺の十歩も百歩も先を行く、指導を乞うにはもってこいの人物だ。
「実は、能動的に他人と関わるにはどうやって話しかければいいか苦悩していたのだ」
「能動的に? ……それってナンパのこと?」
「は?」
そういう発想もあるのか! そこまで想像が働かなかったぜ。
「自分からモーションかけるってそういうことじゃなくて?」
「ナンパ……なんと高い目標だろうか……クラスメイトにどうやって話しかければいいか悩んでいるレベルなのに、そんな、めちゃくちゃ難易度高いじゃないか。登山を始めたばかりの素人がアコンカグアに登るようなもんだぜ」
「そこはもっとメジャーな山にしようよ。でも銀さん、私と普通に話してるけど?」
「違うんだ、俺の方から話しかける、その順番が重要で、そして方法がわからないんだ」
「なるほどなるほど。じゃあ、試しに銀さんから話しかけてみてよ」
と、言うと萌葱は椅子に座り直し、文庫本を広げ、ページに視線を落としたまま小声で、どうぞ、と合図をくれる。
よし、訓練スタートだ。ここで能動的に話しかけるわけだな。やってやるぜ。リア充への道だ。
……でもちょっと考えてみろよ。読書に没頭しているところに話しかけてもいいものだろうか?
例えばもし俺が何かとてつもなく面白い小説を読んでいるときに横から話しかけられたとする。怒る。あえてそこは我慢して怒らないとして、本に集中しているわけだから生返事になる。なお話しかけられる。意識が散漫になり、本の内容にも集中できず、話もちゃんと聞いていないという最悪の結果になる。いかん、そうなってしまっては皆が不幸になってしまう。
どうする? 雫銀四朗、お前の力はそんなものか?
ぱらり、ページをめくる萌葱の横顔。斜め下を向いて伏し目になっているので長い睫毛が目立つ。睫毛の下には柔らかそうな頬のライン、そして、ほんの少しつやつやと光るぽってりとした唇。薄くリップを塗っているようだ。さすが高校生ともなれば化粧の一つや二つするもんなんだなあ、と本来の目的を忘れ感心して見ていると。
「ちょ、ちょっと銀さん。あんまり熱心に見ないでよ!」
「え、いや、ごめん。なんか綺麗だなって……」
やべぇ、何言ってんだ俺! つい口が滑ったというか本音がポロッと出てしまったというか。うわ、チョー恥ずかしいこと言ってね?
「え!?」
びっくりしたように眼を見開く萌葱。心なしか顔が赤くなっている。
「その……つい……」
「もう、銀さんったら、やっぱりナンパの練習なんじゃない?」
苦笑して見せる萌葱。
「いや違うんだ、今のは思ったことをそのまま言ってしまっただけで……」
「ぷぷっ、上手いね。そこまで出来ればもう十分実践に使えるよ」
「いやそうじゃなくてですね……」
ああっ、もう、もどかしい!
「大丈夫、出来るよ銀さんならナンパ。私応援してる!」
「あ、ああ……」
誤解されたまま曖昧な返事をした。いやマジであの瞬間、綺麗だと思ったんだけどな……どうせネタだと思われるだろうからこれ以上は口をつぐむ。
しっかし、ほんと、コミュニケーションって難しいなぁ。リア充への道は果てしなく遠い。
◆◆◆
尾鰭のついた噂話が望まぬ災厄を招き寄せるのは世の常である。
「おうおうおう、中学では番張ってたらしいけど、ここじゃそうはいかねぇぜ、雫ちゃんよぉ」
翌日昼休み。なけなしの所持金でパンでも買おうと購買に行く途中、ちびっこくて、目つきの悪い、脱色した髪をツンツンに立てた男に絡まれた。
「いや番とか張ってねえし……」
番てアンタ、二十一世紀の今日耳にするとは予想だにしなかったぜ。
やれやれ、噂を聞きつけたヤンキーに絡まれるという懸念事項がついに起こってしまったか。普通の高校生になるということはなんと困難なことだろう。この場のあしらい方は、今後の高校生活を左右する重要な岐路だということは言い過ぎではなかろう。さて、どうしたものか。
「俺の名はササギオガミ。ちなみにササギというのは大きい角ばった豆と書いて大角豆、オガミは子連れ狼拝一刀の拝だ」
俺の嘆息をよそに、胸を張り親指で自らを示しながら大角豆という小男は勝手に自己紹介を始める。
はいそうですか。どうやら名前が読まれなくて苦労しているらしいことだけはわかった。俺とは別の意味で苗字で苦労しているタイプとみえる。
「どうよ雫ちゃん、タイマンで一年のトップを決めようじゃねぇか」
「は? 藪から棒に何言ってんだ。つか雫ちゃんと呼ぶな」
そう来たか。今時タイマンって古風な奴だな。古き良きヤンキーマンガに影響受け過ぎなんじゃね? こういうのも中二病って言うのかしら。
「俺、そういうの興味ないから、お前がトップでいいよ。なんだっけ……えっと、大角豆君。そういうのは中学で卒業でいいから。俺は高校生になってリア充になるって決めたんだよ」
まあまあ話は最後まで聞け、と手のひらをこちらに向けながら、
「なるほど、噂通りの昼行灯だな。でもやるときはやるんだろ? 知ってるぜ、中学時代の話。高校生のヤンキー四十七人病院送りにしたんだってな」
増えてるし……くっそ、萌葱の奴だな。しかし四十七人は数字としては悪くない。俺ぁ忠臣蔵では断然吉良びいきなんだよ、四十七士を相手に立ち回った上野介家臣の剣客、清水一学みたいでちょっと格好良いかもな。
「そんな奴を前にしたら、男として燃えねぇわけにはいかねぇだろ」
両腕を腰にあて、顎をしゃくって講談調に言い放つ。
それにしてもこの大角豆という男、目つきと髪型が悪そうなだけでちっとも強そうには思えない。タッパだって頭一つ分小さい。なのにこの自信はどこから来るのだ。何かとんでもなく超人的な、例えば一子相伝の拳法とか使うのだろうか?
狼男がいるのだから、他にも超常の存在がいないとも限らない。もしやコイツはライオン男とかトラ男なのかしら……大きさから考えるとネズミ男って感じだけども。
訝しがりながらも、もちろん面倒くさいし、巻き込まれたくもないので断る。
「勝手に燃えてろ、俺は火ヘンの燃えより草カンムリの萌えの方が好きなんだよ」
我ながら上手いこと言った、こっそりほくそ笑んで自画自賛する。
「クックック、そう言うと思ってよ、腕力に頼らない、リア充の高校生らしい勝負方法を考えてきてやったぜ」
不敵に笑う大角豆。なんか最初からずっと自信たっぷりだよなコイツ。
「で? そのリア充っぽいとかいう方法は」
受ける気も無いが一応聞いてみる。
「それはだな……」
その提案を聞き、俺は大角豆拝という男の底の知れなさを思い知ることとなった。
◆◆◆
さらに翌日。
「新聞部です! 聞きましたよ雫銀四郎さん、あの大角豆拝とタイマンするそうですね」
ボイスレコーダーを俺の口元に突きつけて信太萌葱。おそらく大角豆の言ってた四十七人病院送りを広めた張本人である。
「信太……全部お前が蒔いた種だってわかってるのか? ってかなんだよ新聞部って、つーか誰に聞いたんだよ」
大角豆の奴、自分でネタの売り込みに行ったのか?
「モエモエ」
と、訂正を促す萌葱にこう答える。
「信太っち」
報道、なんて書かれた腕章までつけて堂に入っている。頭には入学式の時のベレー帽じゃなくてハンチングだ。似合いすぎだろ。
「ふっふっふ、実は入学式の次の日に速攻で入ってたんだ。これぞ私の天職、燃えるジャーナリスト魂! 楽しいことは読者のみなさんで共有しなくちゃね」
いやそこは真実を報道する使命、とかなんとか言うところでは?
「で、勝負の自信のほどは? 何か対策は? 誰か立会人が居るんですか?」
矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる萌葱。俺の質問は完全無視。
「えと……」
「ほら、盛り上げて盛り上げて、みんな注目してるんだし、記念すべき私の初スクープなんだから、記事にもバシッと気合い入ったところ書かせてよ」
と、ぐいぐいボイスレコーダーを押しつけてくるので、
「わ、私が当選したあかつきには、税金半額所得倍増、列島の端から端まで高速鉄道網を完備させ、すべての人が高速回線でネットワークに接続できるようにしますっ」
「なにテンパって泡沫候補の政見放送みたいなこと言ってるのか……違うでしょ、大角豆君とのタイマン勝負のことよ」
「とは言っても俺、アイツのことほとんど知らないしな。逆に聞くけど何か知ってるか?」
そうね、ササギササギ……スマートフォンをスワイプしながら何か資料を見ている。
「えーと、家族構成は祖母・母・妹の4人家族。父親は別居中とありますね。なにやら浮気がバレて妻に三行半を突きつけられたとか」
すげぇどうでもいい。
「いやそれどうでもいいことだろ。てゆーかプライベートなあんまししゃべっちゃいけないようなことだろ。もっと武勇伝的なことをだな」
自分のことは棚に上げ、やはり武勇伝の噂を元に敵の戦力を推し量ろうとする俺である。
「それならばこれなんかどうです? 雨の日に捨てられた子犬に傘をさしてやっているところを目撃されてますね」
「なんだそのテンプレ通りの不良が実は優しい奴的エピソードは!」
まるで役に立たん。
「えー、たとえベタだとしても、こういうギャップ萌えがウケるコツなのよ?」
ウケるウケないは俺にとってはどうでもいいが、ジャーナリストたる萌葱には重要なことなのだろう。
とはいえ、普通に腕力を競うならば、負けるわけがない。人類を遙かに凌駕した人狼の力。プロの格闘家を連れてきても勝てるわけがない。
しかし、今回の勝負は……。
「ブラジャーを相手の合意の上で確保してきた方が勝ち、両方持って来た場合はカップの大きさで決まる、ですよね」
「はぁ……」
ため息しか出ない。アテもない。待てよ、アテならもしかして、
「一応聞いてみるけど、信太っち、いやさモエモエ」
「お断りします」
即答即断。
「ですよねー」
「報道は中立であらねばならないのです。それに……私はB……」
視線を落とす萌葱。まな板とまでは言わないが、あまり勝負ごとに向いていなさそうな慎ましい胸の膨らみ。
「すまん悪かった」
「あ……今私の胸見て言いましたよね? ね?」
「いやそんなことは……」
視線を逸らす。
「ちょっと銀さんってば!」
さらに視線を逸らす。
しかし俺が言うのもなんだが、あの大角豆って奴も、どう見てもモテたり彼女がいたりするようなタイプに見えないよな、勝機があるのだろうか。まさか母ちゃんのブラジャー持ってくる気じゃないだろうな? などと頭を抱えていると、
「お願いしますッ!!」
でかい声が聞こえるので振り向く。脱色トゲトゲ頭が土下座をしているのが見えた。
ああは……なりたくないよな。
「いやっ、キモっ!」
ガシガシ蹴られて断られている。当然だっつーの。バカかアイツは。
シャッターチャンスとばかりにバシバシとデジカメをフラッシュさせている信太萌葱記者。絵になるなぁ、この一連のシーン。
「どうですか雫さん、対戦相手のあの気合の入れよう。勝算は?」
「はぁ……」
スルーしてぇ。しかし、プライドをかなぐり捨ててまでも勝負にかける奴の本気度は見えた。
困った。あそこまでマジで来られてスルーするのも卑怯者のような気がする。
あと一週間で、ブラジャーくれるような友達または彼女を作るなんて本当に出来るのか?
……無理だ。
すると矢張り土下座作戦しかないのかもしれない。
しかし男と男の番長対決とかリア充とは真逆のベクトルだろう。しかもブラジャーてアンタ、変態的にも程がある。
「はぁ……」
ため息しか出ない俺であった。
◆◆◆
「ここか」
放課後の資料準備室。委員長に言われ、プリントを取りに来た俺は何気なく引き戸を開ける。
「あ……」
驚くべき先客に一瞬声を失う。
そこには着替え中の女子生徒がジャージの上着をコピー機の上に置き、半袖シャツの裾に手をかけていた。
何故!? 部屋を間違えたかとも思い、廊下側の表札を再確認してみるも資料準備室とある。
「ああ、すまない。すぐ終わるからちょっと待っていてくれたまえ」
女子生徒は恥じらう様子もなく、スッとシャツを脱ぐ。
露わになった白い肌が目に眩しい、じゃなくて、
「ちょちょちょちょっと待った!」
「急いでいるのではないのかい?」
「いや、急いでいるけど、目の前で着替えるのは……」
「何かまずかったかな……」
視線を外し、考え込む女子生徒。そこ、そんな考え込むようなことじゃないでしょ。
着替えを覗かれたことなど全く意に介さない。
こういう場合、バカ! エッチ! 変態! とか言って手当たり次第に物を投げつけられる、あるいは暴力行為に及ばれるのが定石の対応なのではなかろうか。むしろいっそのこと、そうしてくれた方が深く考えずにその後の行動が取れるのだが、こう堂々とされると逆にパニックを起こして思考が停止してしまう。
ようやく、自分が外に出ればいいのではないか。そう気が付いて慌てて回れ右して廊下に出て、後ろ手で引き戸を閉める。
「ご、ごゆっくり、終わったら言ってくれ!」
網膜に焼き付けられた光景。白い肌、淡いレモンイエローの下着。高校生ともなるとああいう立派なもの身につけるんだな。そういえば信太萌葱のおパンツは白だったな。落ち着け落ち着け、山手線の駅名でも考えて落ち着きを取り戻すのだ。
こんこん、上野駅を7回通過したあたりで内側からノックの音がした。
「終わったよ」
制服姿の女子生徒が出てくる。何とも言えない良い香りがふわっと広がり、鼻腔をくすぐる。
「邪魔したね、ちょっと更衣室が使えなくてね」
「そ、そうッスか」
先ほどのシーンが重なる。あの、制服の胸の膨らみの下には淡いレモンイエローのブラジャーがあって、白くて綺麗な肌があって。いかんいかん、上野、御徒町、秋葉原、神田、東京……。
「それじゃ雫君、思う存分使いたまえ」
「へ? なんで俺の名前を」
「それは……」
しばし間を置いてからにっこり笑い。
「有名だからな」
矢張り有名なのか。萌葱の流した噂はこんな見ず知らずの子にまで伝わっているのか。一体どんな印象を持たれているのだろう。ガキっぽいバカ? 近寄りがたい乱暴者?
頭を抱える俺に構わず、名も知らぬ女子生徒はポニーテールをゆらゆら揺らしながら去っていった。
生下着姿、初めて見ちゃったな……インターネットではこの程度では話にならない過激画像があふれているけど、やっぱり、直に見るインパクトには適うべくもない。
しかし彼女のあまりの反応の薄さであまり大した出来事ではなかったような錯覚を受ける。普通なのか? 今時の女子高生はあれが普通の反応なのか? わからぬ。もっとロマンチックで嬉し恥ずかしで騒がしいイベントだと思ってたのに、あまりにも淡泊じゃないか。
もやもやした気分のまま、頼まれた資料の山を抱え、俺は教室に戻った。
◆◆◆
「雫銀四郎よ、手が止まっておるぞ」
「え、ああ、うん……」
半分に折ったプリントを数枚重ねてホチキスでぱちんと止める。
「何故俺は楽しい楽しい放課後タイムにこんな雑用をやらされているのだろう」
「それはな、おぬしがクラス副委員だからじゃ」
黙々と作業を続けながらこちらに目も向けずに牛渡柑子が言う。てきぱきとプリントを畳んでいるその細長い指先は白魚のようという形容詞がぴったりだ。
艶やかな栗色のロングヘアを揺らして顔を上げると、少しきつめだが意志の強そうな瞳をキリッとこちらに向けて、
「しかもおぬしは自分の意志でそうなったのじゃからな」
「そう言われたら反論も無い」
「しかしおぬし、噂と違ってなかなか真面目ではないか。てっきり逃げて帰ってしまうと思っておったぞ」
「どんな噂だよ……いや、言わなくていい」
どうせロクでもない噂なのだ。聞かなくてもおおよその見当はつく、出所も特定できる。
「まあ委員選出のときから我輩は信じておったがの」
珍妙なしゃべり方のこのゴージャスな女生徒はクラス委員長である。
入学式の日、ホームルームのクラス委員選出会議で真っ先に立候補し、無投票当選したのだ。そもそも誰がどんな奴か、名前すら覚えていない状態で決めろというのが無理がある。誰も彼もがどうぞどうぞな雰囲気の中、こいつはいったいどういう意図だったのだろうか。
「おぬしはどういうつもりであのあと副委員に立候補したんじゃ?」
質問しようと思っていた矢先、先手を取られる。
「もしや我輩に一目惚れとかかのう」
ニヤニヤと笑みを浮かべて牛渡柑子はそんなことを言う。からかわれているのは俺だってわかる。
「ば、ばか、そんなんじゃなくて……早く帰りたかったんだよ」
委員長となった柑子は手慣れた感じでそのあとの場を仕切り、補佐係である副委員長を募ったが教室は静まり返っていた。当然である。そんなめんどくさい役を率先して引き受けるなどという人間がクラスに二人もいるわけがない。
「誰か、誰かおらんのかの?」
教壇に立ち、そう呼びかける柑子の胆力には驚くが、誰もがうつむいて黙りこくったままだった。
じりじりと重苦しい空気が教室内に蔓延していた。
空気を読みすぎる俺、雫銀四郎はこの空気が耐えられなかった。そこで仕方なく、意志に反してノロノロと手を挙げる。
救世主来たー! という賞賛があったかどうかは定かではないが、重苦しい空気は涼風が吹き抜けたかのようにぱっと晴れたのであった。
「えーと、雫であったか……他に、他にはおらんか?」
いるわけもなく、俺は満場一致で副委員長とあいなったわけである。
浅慮であった。あの場の空気に耐えきれなかった自分を呪う。おかげで楽しい放課後タイムが、めんどくさいプリント製本作業である。
しかしまぁ、こうやって進んで学校行事に参加出来る立場になるということは、俺のリア充計画的にはプラスになるよな。うん。校内での評価を高め、もしかしたら生徒会長に推薦されてしまうかもしれん。壇上に立つ俺に全校生徒(女子限定)の黄色い声援が浴びせられるかもしれん。
「俺はともかく、委員長はどうして立候補を?」
「なんじゃ、名前で呼んでくれんのか」
「う、牛渡さんはどうして立候補を?」
「柑子で良いのじゃが……まあ良い。それはな……」
少し考えてから満面の笑みでこう答える。
「世界征服の第一歩は教室から、じゃな」
「は?」
「冗談じゃ」
ボケたのか? 今のはボケだったのか……マジレスしそうになった自分のノリの悪さ察しの悪さに後悔する。
「どうせ誰もやりたがらんじゃろ。我が輩は別に嫌でもなかったし慣れていたからな。軽い人助けじゃ。のぶれすおぶりーじゅという奴じゃ」
「慣れていたってことは中学でも?」
「うむ、これでも生徒会長をしておったのだよ。誰かが嫌々やらされるのを見るより、自分でやった方が気が楽じゃ」
「ああ、それなんとなくわかるわ」
「で、あろうな。あの場の空気に耐えきれずに挙手をしたのはわかっておる」
天然ボケのようでいてよく見てるんだな。さすが経験者だ。
そんな話をしていたら作業もひと段落ついた。
「終わりじゃな。助かった礼を言う」
「いらないよ、自分で決めたことだからな」
「良し良し、もののふたるものそうでなくてはな」
満足そうに微笑む柑子。なんかこう、領主のお姫様に誉められたような気分になる。もののふかどうかは置いといて。
サムライどころか、じいさんの話ではうちの家系は山で猟や炭焼きをして生計を立てていた一族らしいからな、狼男らしく。
「そうじゃ、雫銀四郎」
「なに?」
「め、メールアドレスを交換しておかぬか?」
「あ、アドレス交換ッスか!?」
思わず声が裏返ってしまう。
え、いいの? マジで? 確かに柑子は変人ではあるが美人だ、そして隠し切れない気品もあるし、どことなく良い奴っぽい。そんなクラスのアイドル級の女の子と! メルアド交換!
いや待てよ、美人なのに変人、近寄りがたい品の良さ。考えてみるとこれはクラスの中で浮いた存在だぜフラグ、がビンビンに立ちまくってるよな。もしかしたら俺と同様、いまだ新しい人間関係に馴染めず、友達が出来ていないのかもしれない。
「なに、クラス委員同士、連絡手段を確保しておいた方がよいじゃろ。……他意はないぞ」
「お、おう、それもそうだな」
スマートフォンを取り出して自分のアドレスを表示させて柑子に見せる。
「ふむふむ…………えぬいーじぇいぴー、と」
慣れぬ手つきで携帯を操作する柑子。もしかしてあんまり使ってないのかな、お嬢様っぽいから今まで持たせてもらえなかったのかもしれない。
「よし、間違ってないかどうか試しに送るぞ……送信、じゃ」
ぴろりんっ──マナーモードにしてあるからそんな音はしないのだが──手にしたスマートフォンがメールを受信する。
「来た来た、それじゃ送信者をアドレス帳に登録して……完了だな」
柑子はそれを聞くなり、ホッとした表情で携帯を仕舞い、鞄を肩に掛けながら、
「うむ、そのメールは削除して良いぞ」
「削除しなくちゃいけないほど容量キツキツでもないぞ」
「いや、削除せよ、絶対。くれぐれも読んだりせぬよう」
指差して言い含めながら教室を出ていく柑子。
そこまで念を押されたら見ないわけにはいかないだろう。スマートフォンの画面、本文には短く「ありがと」とあった。
口で言えばいいのに、実は意外と照れ屋さんなのかもな。
なんとなく充実したような気分で俺は帰途につく。
……はっ! これか? これがリア充っぽい感覚なのか?