第一章
─明日のことは明日心配すればいいのだ。その日の苦労はその日だけで十分。
マタイ書 六章三十四
また今日も。
「信太ぁ、ちょっと貸りるだけじゃんよぉ」
「そんな……この前も3千円貸したのにまだ返してもらって……」
「ああん? ひとを泥棒扱いすんのかアンタは?」
「そういうわけじゃ……」
なんでわたしばっかりこんな目に合うんだろう。わたしが何か悪いことでもしたというの?
理不尽だ。
学校の帰り道、商店街の片隅の路地でわたしはいつものイジメグループに詰め寄られていた。
イジメ行為自体が辛いんじゃない。自分の惨めな姿を客観的に見るのが辛いのだ。早く解放してほしい。
「あの、今は手持ちがなくて」
何とか取り繕ってみたけど、それは相手の新たな加虐アイディアにお墨付きを与えるだけだった。
「ふぅん、じゃあさ、身体で払ってくんね?」
「えっ?」
背後からゾロゾロと、ガラの悪そうなひとたちが集まってくる。
「よう、アンタかい? ヤらしてくれるのって、へへへ」
嘘……なんでこんな……こんなことが自分の身に降りかかるなんて。恐怖で脚が震える。
「洋子がさぁ、いくらでもやらしてくれる娘紹介してくれるって言うからよぉ、どんなビッチかと思えば中々可愛い顔してんじゃん」
見ず知らずの乱暴そうな男に腕を掴まれる。嫌悪感で吐きそうになる。
「嫌です……離して!」
なんでこんな目に……助けて……誰か……。
なんて無駄よね、わかってる。わたしなんか助けてくれるひとがいるはずもない。今だって通りを歩くひとびとは遠巻きに見て見ぬふりをしている。手を振り解こうにもわたしの貧弱な力ではどうすることもできない。もっと、もっと力があれば……。悔しさで涙が零れそう。
「いいねぇその反応。今時珍しいぜ。優しくするからさぁ、なあ?」
もういいか……暗く冷たい感情が自分の中でどんどん大きくなっていく。
嘆息。なんだか全てがどうでもよくなってきたわ。みんな嫌い……みんな死んじゃえ……。
そう、わたしが投げやりな気持ちに包まれそうになったその時、
「見つけたぜ鈴木ィィィィィッッ!」
そう叫ぶ声が、澱んだ空気を切り裂く風のように近づいてくる。鈴木ってこの中の誰かかしら?
「な? 雫!」
目の前の怖そうな男が青ざめている。わたしの腕を掴んでいた手が緩んでいる。このひとが鈴木? 走ってくるのは──そう雫と呼ばれた。確か同じ学校の隣のクラスにいる雫君だ──あまり良い噂は聞かない、ちょっと不良っぽいこのひとたちの同類。そう思ってた。でも。
「てンめぇよくも俺の愛車をパンクさせやがったな!!」
あれ。もしかしてこのひとも虐められてるのかな? わたしもよくやられるんだ。自転車をパンクさせられたり、鞄をゴミ箱に捨てられたり、着替えをびりびりに破られたり。そのたびに黙って耐えていた。事を大きくしたら余計に立場が悪くなる。出来るだけ刺激しないよう、目立たないよう振舞うように心がけてきた。でも、このひとは。
「食らえ三十二文キーック!!」
雫君は五メートルくらい離れたところから勢いをつけてジャンプ。そろえた両足が鈴木とかいうひとの顔面に直撃する。
「のぼぁっ!」
「轟天号の恨み、思い知ったか! あ、弁償してもらわないとな……財布財布っと」
即座に駆け寄り、倒れた鈴木のズボンから財布を抜き出している。なに? なんなのこの男の子? ノックアウト強盗!?
「雫てめぇ……」
別の怖いひとが凄んでいるんだけれども、雫君は飄々とした様子で、
「んだよ、もう用は済んだ。俺に関わるな……えーと、パンク修理代千五百円税込み手数料込みで三千円くらいかな」
どういう計算でそうなるかはよくわからないけれど、たぶん数学が苦手なのね。野口先生を三枚、上着のポケットに突っ込み、財布を元に戻す。律儀なのかアバウトなのかよくわからない性格ね。
「ハイそうですか……なんて言うわけにはいかねぇんだよ。ここで会ったが百年目、地獄を見てもらうぜ」
うわ……ここで会ったが百年目なんていう人間が実在するんだ。
「はぁ……」
と雫君は頭を押さえて嘆息してから、
「まぁいいか、轟天号の恨み、一発だけじゃ気が収まらなかったところだ」
なんだろう轟天号って。もしかして、パンクした自転車の名前かな? 持ち物に名前を付けるってひとも実在するのね。ちょっと可笑しい。
「全員まとめてかかってきな」
不敵に微笑む雫君。余裕を見せてるけど二十人近くいるよ? いくら強くても多勢に無勢じゃない? 気が付くと何だかわたし、さっきまでのことをすっかり忘れて観客気分になってる。胸が高鳴り、心がワクワクしていることに少し驚く。
「舐めやがって……死ねコラ!」
怖いひとたちが一斉に襲い掛かる。ダメよ。無理よ。袋叩きにされて惨めに怪我するだけよ。
でも、わたしが予想した出来事とは逆のことが目の前で起こっていた。
雫君はブレイクダンスさながらの動きで身を屈め、男たちの腕をすり抜ける。しゃがんだ姿勢のまま身体を駒のように半回転させて脚を払い一人目を倒す。立ち上がって一歩踏み出すと一人、腕を振るうとまた一人倒されていく。
「……すごい」
思わず感嘆の声を漏らす。
全身をバネにして踊るように躍動する肉体は野生の獣を思わせる。私は圧倒的な暴力に目を奪われていた。恐怖より先に、その芸術的な動きに魅せられていた。
「はい、ラストっと」
最後まで残って拳を繰り出してきた大男の腕を掴み、自分の身体を巻き付けて回転させる。
「ふぐぁっ!」
ゴキッと骨が折れるか外れるかしたみたいな音がして大男は地面に倒れ伏した。あたた……痛そう。
でもすごい! 本当に全員倒しちゃった。しかも本人は無傷。あまりの出鱈目な強さに夢でも見ているような、非現実的な光景。
「も、もう許さないんだから……」
集団から一歩引いたところから見ていた洋子が鞄から折り畳み式のナイフを取り出す。完全にキレた目をしている。雫君、後ろよ後ろ!
「危ない!」
「!」
ずぶっ。私が叫ぶのも手遅れで、雫君の大腿部に凶刃が吸い込まれていた。
「あははっ、ざまぁみろ。アンタが悪いんだからね、あは、あはは……」
洋子が狂気じみた笑い声をあげている。
そんな……いくらなんでも……ひとを刺すなんて……。
でも、彼はわたしの心配なんてどこ吹く風で、
「ってーなこの野郎ッ」
信じられないことにナイフが刺さったまま大きく足を振り上げる。
「そげぶっ!」
雫君の回し蹴りは洋子の頭にクリーンヒットして、彼女はヒキガエルが潰されたような呻き声を発して吹き飛んだ。
うわぁ、女のひとにも容赦ないんだ……でもちょっとスッキリした! 本当はわたし自身がしなきゃいけなかったんだ。でも勇気も力も無いことを理由に逃げていた。それを一瞬で解決してしまった。感謝と羨望と自責と、様々な感情が渦巻き、わたしは何も言えないでいた。
「ふんっ」
無造作にナイフを引き抜いて放り投げる雫君。ワイルドにも程があるでしょう、あなた。それともやせ我慢して格好つけているのかしら?
「あの……大丈夫ですか? 血が……」
「へーきへーき、唾つけときゃ治るって。ん? アンタもこいつらの仲間? 制服はうちの中学みたいだけど」
「ち、違います違います! 酷いことされそうになったんです!」
ぶんぶんと首を振って否定する。ああわたし、まったく知られていないんだな……仕方ないか。地味だし、同じクラスなわけでもないし。ちょっとショック、かな……。
「なるほど。俺はまた知らぬ間に正義を執行してしまっていたようだな……ふふ、ふはははは」
いえ、どう見ても悪の帝王って感じなんですけど……財布漁ってたし、女の子が失神するほど蹴り飛ばしてたし。
「もう大丈夫さ、今のがトラウマになってアンタの顔を見ただけで恐怖がよみがえるようになってるから、たぶん」
「そ、そうですか……」
感謝するべき、よね……と、わたしがまごまごしていると、二本指を立てた敬礼の形を自分のこめかみの付近に当て、
「困ったことがあったらいつでも呼んでくれよな! じゃ、アディオス!」
ニヤリと微笑み、スッっと指を降って去って行った。
えーと、今のセリフとポーズは特撮ヒーローか何かの真似かしら?
まるで嵐が去ったよう。私はしばらくその場で呆然としていた。
そしてこの一件のあと、雫君の言った通り、卒業するまで私が怖いひとたちに絡まれることは無かった。学校でも虐められなくなった。グループのリーダー格だった洋子が恐怖のトラウマで引きこもりになってしまったからだ。ちょっと気の毒のように思ってしまうのはお人好しすぎるかな。
その間にも、隣町の高校生と喧嘩しただの、暴走族を壊滅させただの、雫君の噂が途切れることは無かった。
気にはなっていたんだけれど、やっぱり怖いし、学校で見かけても遠くから眺めるだけで、結局お礼を言う機会すら作らずに終わってしまった。それだけが、わたしの凡庸で無味乾燥で灰色な中学時代の、たった一つの心残りだった。
◆◆◆
「はぁ?」
俺、雫銀四郎は素っ頓狂な声をあげた。
「だからな、うちは狼男の家系だから」
数えで十六歳になった日、つまりは中学二年の正月、父である雫金造に告げられた。
てっきりお年玉でもくれるのだろうと思って親父の書斎に来てみれば、唐突にも程がある。馬鹿にしてるのか? とも思ったが父親の表情は真剣そのものである。
「お前も薄々感づいていたとは思うが、心当たりは無いか? ケンカが矢鱈強いとか」
そんな馬鹿なこと……と一笑に付すには心当たりがありすぎた。
実は、小さい頃から妙に聴覚と嗅覚に優れていた。怪我をしても妙に治りが早かった。体育の時間はあまりにも自分だけが突出していたため、これは何かいけないことのように思い手を抜いていた。近頃ではなぜか満月の夜に決まって、身体の奥から何かが沸騰するような感覚がするのを不思議に思っていた。
つい先日だって、自転車のタイヤをパンクさせられたのに腹を立て、弁償を迫りに行ったら二十人くらいに取り囲まれたけど余裕だったし、何よりナイフで刺されたはずが翌日には傷も残って無かった。
「…………」
無言が返答になる。
「そうか、やはり身に覚えがあるか。なるほど精通はもう済んでいるようだな」
「なななな、なんてこと言い始めるんだ」
「な~に恥ずかしがることはない。人狼男子の力は精通、初めての射精とともに大人のものとなるのだ」
保健体育の時間に聞いた第二次性徴という奴か? 他の教科はともかく、保健体育の授業だけは真面目に、きわめて真面目に拝聴していた俺である。
「で、初めてのオカズはなんだった?」
「そ、そんなこと言えるかっ!」
学校帰りに拾ったエロマンガです、などと正直に言えるわけもない。
「はっはっは、とにかくめでたいめでたい。今日は赤飯だぞ」
「いらねーっつーの!」
しかも別に今日でもないし。もっと前だし。
思春期の少年に向かってデリカシーのない親父だよな。ふつふつと怒りがわき起こる。いつかブン殴ってやる、クソ親父め。
「じゃあ、オヤジも?」
人間離れした、その……狼男だっていうのか?
「ああ、俺の頃は今みたいに手頃なオカズが無くてなぁ、学校帰りにこっそり拾ったエロ本を……」
親子そろって同じかよ!
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて」
「すまんすまん、父さんは巨乳派だぞ」
「だーかーらー」
ダメだこのオッサン早く何とかしないと……。
「うむ、ここにお前にやろうと思っていたお年玉がある」
自ら振った話の腰を折り、父親は懐から500円硬貨を取り出した。
話の組み立てということをまったく気にしていない。プレゼンが苦手なタイプだよな、きっと。
しかしいまどきお年玉が500円かよ──マンガの本も買えねぇ。
「これを……」
人差し指と親指の間に挟んで500の文字をこちらに向け。
ぺにょ。
特に力も気合いも入れる様子もなく、500円硬貨はゴムのように半分に折れた。
「ぬおっ!?」
演出もなんもかんも無視した下手な手品を見せられているような奇妙な感覚に思わず声を上げる。
「ほれ、お年玉」
と言って親父は半分に折りたたまれたお年玉を放り投げてくる。平成の世に、ケチな父親もいたもんだ。
「ぐぬ……」
強引に力を込めて硬貨を元に戻そうとすると勢い余ってパキンと折れてしまった。無造作に折り曲げた親父とは正反対の不器用さだ。
「まだまだ力の使い方がなっていないな。その調子ではいつか取り返しの付かない結果を招いてしまうかも知れん」
取り返しの付かない……それは、意に反して誰かを傷つけてしまう、もしかしたら命を奪ってしまうかもしれないということに他ならない。
「クソッ……」
親父の言いたいことはよくわかる。自分でも常々危惧していたことだからだ。今までは上手くやっていた。でもそれはたまたま運が良かっただけで、何かのはずみでそれこそ取り返しのつかないことになっていた可能性だって無かったとは言えない。
どうして自分は余計な気を使わなきゃいけない力を持って生まれてしまったのか。そう、恨み言を言いたくもなるが、親父も、爺さんも、ひい爺さんも、似たような苦労をしてきたのだろう。うちの先祖から凶悪な犯罪者が出た話を聞かないところをみると、みな力に溺れたりせず、なんとかやってこれたこともまた想像に難くない。
「大丈夫大丈夫、心配するな」
俺の深刻な表情を察して親父がノーテンキな口調で言う。
「銀行に持っていけば取り替えてもらえるから!」
そっちかよ! てゆーか本当に500円ぽっちなのかよ!
「ハァ」
深く考えても馬鹿らしい。なるようになるか。割れた金属片を指先で弄びながら嘆息する。しかしもう少し色つけてくれたっていいだろ。
「それでだな、ここからが本題なのだが」
「え、今のが前フリ!? すっごく大事な話だった気がするけど?」
親父の脈絡の無さにはもう、突っ込む気力も失せてきた。
「うむ、うちの家訓でな、孤高な狼は独りで生きねばならん、というのがあってだな」
「へぇ」
うちには家訓が多い。だいたいは親父のその場の思い付きで、自分の意見を権威づけて押し通すために家訓などと勿体つけていることがほとんどだ。冷静に考えるとロクでもない男だなコイツぁ。
「高校から……お前は独り暮らしだ」
ビシッと俺を指差して言う。
「マジで?」
「マジマジ」
やった! 憧れの一人暮らしじゃん! 500円ぽっちのお年玉なんかどうでも良くなるくらいビッグな提案だ。
「ただし……」
──はい来た「ただし」そうそう旨い話はありませんよね、わかってますってば。
「最低限の家賃光熱費日用品授業料は出してやるが、食費は自分で稼げ、これが条件だ」
ふむ、それだけならなんとか出来そうだ。余裕じゃねぇか。
「バイトするもよし、托鉢するもよし、山に入って狩るのもよし、おねーちゃんのヒモになるもよし、だ」
「ヒモて、中学生の息子に向かって何言ってんだ」
「ヒモをバカにするなよ銀、あれとて並々ならぬ才能と努力を必要とするのだ。精神的にもタフでなければやっていけぬぞ」
「見てきたようなことを言うな? まさかオヤジ……」
「ひゅ~、ひゅひゅひゅ~」
明後日の方を向いてわざとらしく口笛を吹いている。てゆーか音鳴ってねえし。
「……ま、若気の至りと思って不問にしておく」
物分かりの良い息子なのだ、俺は。
「人生、何事も己の糧になる。勉強勉強また勉強、生涯一学徒であれ!」
「ものは言い様だな」
親の顔が見てみたい。じいちゃんばあちゃんだけど。
「そういうお前はヒモにしてくれるような彼女の三人や四人、まだいないのか?」
「一人もいねーよ。中学生でヒモとかどんだけマセガキだよ」
「ったく、俺の息子だというのに情けない。なんで似なかったのか……」
「そういう発想が出てくる方が情けないわ! なんだよその三ツ股四ツ股当たり前みたいな家風は」
「まあいい、だがこれはお前の将来、そして我が家の未来に繋がる重要な話なのだ」
またまた大きく出ましたよ。
「この世の中にはウチの他にも獣の血を持つ人間がいる」
「へー」
まあ、うちという証拠があるのだから不思議でもないけど。もう突っ込むのにも飽きたし、素直に頷く。
「銀、獣の王たる我が家の跡継ぎにはそれに見合った伴侶が必要だ」
「百獣の王ってライオンじゃねーの」
「そ、そんなことはないぞ、あいつらは暇さえあれば交尾交尾&交尾、しかも狩りは雌の仕事」
「そりゃモロにヒモの話じゃねえか」
「ともかくだ、お前に課せられた使命は嫁探し! 見つけてくるまでこの家の敷居は跨がせん」
強硬な話になってきたな。つーかこの歳で嫁さがしとか、晩婚化進む二十一世紀とは思えん発言だよな。
「何故そこまで話が飛躍する」
「お前ね、常識的に考えて普通の人間がこんな化け物一家に嫁に来ると思うのか?」
確かに……知られたら普通の人間は引くよな。でも、
「そ、そりゃ……愛が……あれば……」
「プー、クスクス。童貞らしいロマンチックな考え方しとるなあ。それも若さか、うむうむ」
何故か満足気味の親父。腕組みしながらニヤニヤと頷く。
「いいんだよ、血の宿命のことを知ってもなお俺のことを愛してくれる彼女を探すんだよ!」
バカにされたような気がした俺は、ムキになって恥ずかしさに輪をかけるような台詞を口走ってしまう。
「くあ~。お前、よく真顔でそんな恥ずかしいこと言えるなあ。ひょっとして流行りの中二病か? 実際中二だけどな」
「う、うるせえよ、ヒモオヤジ」
「はっはっは、若さの暴走もいいだろう、好きにやれ」
自分のことは棚に上げて何言ってんだコイツは。いつかぶっ飛ばしてやる。エディプスの反乱だ。
「しかし獣の血を継いだ女ねえ。どうせ毛深いゴリラみてぇな女ばっかだろ、やなこった」
「まあそう悲観するものでもない。我々は概して人知を越えた魔性の美しさを持っているもんだからな、母さんみたいに」
母ちゃんが魔性の美しさ? 今じゃスリーサイズ全部一緒のドラム缶見てえなオバチャンじゃねーか。昔は美人だった可能性が……ないわ。てゆーか嫁に来た母ちゃんもその、普通の人間とは違うのか。一体なんなんだろう? 猪? 熊?
◆◆◆
そんなわけで、俺は中学の卒業と同時に、家を追い出された。
実は親父に吹き込まれるまでもなく、俺は高校になったら真人間になろうという決心をしていた。
ケンカケンカに明け暮れた中学までの自分にサヨナラし、もっとこう、大人な自分になるんだよ、モテモテの。リア充の。彼女にお弁当作ってもらったり、初デートで三十分前から約束の場所で待機して、待った? 全然、いま来たとこ、っていうイベントをこなして、クリスマスには密着して一本のマフラーで暖をとり、見つめ合う瞳と瞳、そして……。
辛抱たまらん!
ゲームやアニメでさんざん見尽くした憧れのイベントを実体験するんじゃー!!
県立常春高校。ここが俺の新たなるステージよ。
そう、それは今日この日、高校の入学と同時に始まるのだ、雫銀四朗バージョン2.0がよ!
そう一念発起し、意気揚々とボロアパートを出た俺のその希望は、学校にたどり着く前に早くも風前の灯火となっていた。
迷子になっていた金髪ボインアメリカンな観光客に呼び止められ身振り手振りでなんとか道案内をし、横断歩道の手前でいつまでも信号が変わらず難儀していたババァにここは押しボタン式ですよと教えてやり、小学生の喧嘩に乱入して実力行使で和解させたりしているうちに、遅刻ギリギリになっていた。
「やべぇやべぇ、入学式早々重役出勤して目立ちたくねぇ!」
裏道である住宅街をすり抜け、校舎裏のフェンスを飛び越えてセーフ! のはずだったが、バランスを崩して着地に失敗してしまう。
「いてててて……」
ああ、しまったよ、空から降ってくるべきなのは女の子であって、俺じゃない。クッソー、落下型ヒロインとの運命的な出会いは失われてしまった……出鼻をくじかれ、大の字に寝ころんだまま桜の花びら舞う春の空を見上げる。
そのとき、抜けるような青空がにわかに曇り、浮かぶのは白い……パンティ。お子様のようにクマやイチゴがプリントされているわけではなく、レースで縁取られた上品な……て、いかんいかん。
気づかないフリをして即座に立ち上がり、頭を下げる。
「やぁ、これはお騒がせしました」
「あ、あの……大丈夫ですか? まさか人が降ってくるなんて……怪我とかしてませんか」
「大丈夫大丈夫、身体だけは丈夫に出来てるんで、たはは」
ポリポリと頭を掻きながらすっ呆ける。
「あれっ? あなた、雫君じゃない⁉」
知り合いか?
真新しい学校指定の制服に身を包み、ショートヘアーにベレー帽を乗せ、フレームなしの眼鏡をかけた少女が吃驚の声をあげた。ちなみに帽子は制服には含まれていないので彼女風のオシャレなのだろう。公立高校なのでそういうところはわりとアバウトなのだ。
かく言う自分も学ランの下にはその辺で買った赤い長袖Tシャツを着ている。赤は戦隊ものでいえば主役、通常の3倍の速度、みんなで渡れば怖くない、勝手にマイ・ラッキーカラーに設定していた。
「そういうお前は……」
えーと、どなた様でしたっけ……どこかで見た記憶はある。ちゃんと話したことはないけれども確か中学にこんな子がいたような、いなかったような。てゆーかちゃんと話したことのある女子などいないがな。
ははは。乾いた笑いしか浮かばねぇ。
「もしかして、私のこと覚えてない?」
「覚えていることは覚えているのだが……ごめん、話したこと、なかったよね?」
「はぁ、がっかりだなぁ。名前すらも覚えてもらえないくらい興味持たれなかったんだ、私」
「いやごめん、ほんとごめん」
申し訳なくて頭を下げる。誰だって、気付かれないのが一番辛い。もっとも、目立ちすぎるのもそれはそれで辛いものがあるのだが。
「萌葱、信じる太いクサカンムリの萌えるにネギ、で信太萌葱よ。今日からはちゃんと覚えてね?」
漢字の説明までしてくれてありがとう。しかしネギってどういう字書くんだっけ……。
「ああ、ほんとごめん、信太さん。じゃあ俺も知ってると思うけど改めて。雨が下がるの雫に金銀財宝の銀に伊東四朗の四朗で雫銀四郎」
「ぷっ……伊東四朗って」
ウケた。オーケー! バッチグー!
リア充になるにはまず親しみやすさからだからな。これは一晩考えたネタだからな。本当は教室での自己紹介に使おうと思ってたのだが、いい予行演習になったぜ。
それにしても何故だ……誰も知り合いのいないようにわざわざ学区外の高校を選んだというのに、同じ学校に進学していた子がいただなんて。逃げ方が甘かった。どうせやるなら県外のもっと遠くに行くべきだったか。
「しかしなんで雫君がここにいるのよ。まさか、私を追ってきたとか?」
んな訳は無い。名前だってろくすっぽ知らなかったんだからな。とは言え、小柄な身体を真新しい制服で着飾った萌葱は結構可愛かった。いや、結構どころか美少女のカテゴリに入る。中学ンときからこんなだったらいくらアホの俺でも記憶に残るだろう、つまり、垢抜けなかった子が環境の変化を機に思い切ってイメチェンをする。いわゆる高校デビューって奴かな。と、勝手に解釈して納得する。
いいじゃない高校デビュー。俺だってヤンキーは卒業、高校では優等生デビューだ。
とりあえず萌葱の質問には、
「い、家の都合だ」
そうとしか言えない。実際、一人暮らしをしろとの厳命は家の都合に他ならない。敷居を跨ぐなとまで言われて。
「ふーん、私も家の都合っていうか、お父さんがやっと家のローン組めたからね、近くの学校を選んだんだ」
今どき一戸建てを買えるとは父ちゃんがんばったのだろう。うちの家は結構古くからあるので親父が苦労して手に入れたというわけでもない。余所様がこうやって苦労しているというのに我が家の盆暗と来たら、ヒモだなんだとヘラヘラしやがって。
「どうしたの?」
「いや、とある男のことを思い出してちょっと殺意が……ははは」
「雫君ってやっぱり……」
萌葱の顔が曇る。
い、いかん。せっかく見つけた顔見知りから中学時代と変わらぬ凶悪な奴だと思われてしまう。それでなくても昔の俺を知っているなら、いろいろと良からぬ噂を耳にしているかもしれないし。
「殺意っつってもアレだぜ、その、親愛の表現。うん」
「殺したいほど愛してる、ってやつ?」
「いや……あんまり愛したくはないな」
むしろ張り倒したい。
「まあ雫君の愛憎関係に首を突っ込む気はないけどね」
愛憎じゃねぇってばよぉ。
「とりあえず期せずして同じ高校に入ったことだし、中学時代のよしみでさ、仲良くしてやってね」
「こちらこそ」
と言ってからヒトコト付け足す。
「……あの、それじゃあその同じ中学のよしみでひとつ頼みがあるのだが」
「何かな?」
「中学時代のことは、あまりしゃべらないでくれるとありがたい」
俺はこの学校で中学までの自分を、否定はしないまでもそれはそれ、大切な思い出として引き出しの奥に厳重に鍵をかけて隠蔽し、新しい自分を始めるのだ! こんな開幕からその計画が頓挫してしまうのは何とかして避けたい。
それを聞いて萌葱は眼鏡の奥で目を細めて微笑むと、
「くふふ、有名だったもんね、雫君」
やっぱり……頭を抱える。有名は有名でも、おそらく悪い方で有名だったのだ。
中学時代、不幸なことに俺はヤンキーに絡まれやすい体質で、因縁をつけられてはそれを振り払う、つまりは暴力によって撃退していたわけだ。しかしその結果はさらに火の粉を引き寄せ、俺を倒して名を上げようというバカがまたやってきて、同じことの繰り返し。
ラブレターの代わりに決闘状。ホント、無駄な中学時代だったぜ。俺だって女の子とイチャイチャお付き合いしたかった! でも現実は野郎どもとボコスカどつき合い。ああ、思い出すだけで気が滅入る。
「あのさ雫君、こういうことわざを知ってる?」
「どういう?」
嫌な予感しかしない。
「人の口に戸は立てられない、だよ」
ですよねー。知ってました。
「そういえば、雫君……って、呼んでいいのかな?」
「お好きにどうぞ。ただし、銀・銀ちゃん・銀さんなどを推奨」
「なんで?」
「雫って女の子の名前でありそうじゃん。例えば誰かがシズクと呼んで、それを聞いた周りの奴がどんな可愛い子がいるのかなって呼ばれた方を見るじゃん、そしたらさえない男子が立ってましたーじゃ、ガッカリするだろ」
少し考えてから萌葱。
「どういう気の使い方してんのよ……わかった、じゃあ銀さんで」
「じゃあ俺はなんて呼べばいい?」
「そうね、信太っち、もしくはモエモエで」
モエモエって、自分で言うか?
「いきなり慣れ慣れしくてハードル高いな。中学までほとんど喋ったことなかったのに」
「それよそれ、銀さんとあまり話したことなかったからお話ししたいな、って言いたかったのよ、せっかく同じ中学なのに。噂は色々知ってたけどね」
眼鏡の奥でいたずらっぽく瞳が笑う。何度も言うがその噂が問題なんだよなあ。
「信太さん、噂というやつは何かと誇張されるもので、俺ほんと、普通の中学生だったから、マジで」
「モエモエ」
「う……信太っち、さん。噂というと例えば……?」
「ヤンキー三十人病院送り事件とか、有名じゃないですか」
「無いから、そんなこと絶対無理だから」
でも似たようなことはした。
「またまた、謙遜しなくていいってば」
「いや謙遜じゃないし」
確か二十人ちょっとだったはずだ。
「そもそも、そんな噂ばっかり聞いてて、俺のこと怖くないの?」
「うーん、中学の時の印象は怖そうだったけど、女の子のパンツ見て真っ赤になってるようなひとは、あんまり怖くないかな~」
げっ、気づかれてたのかよ。
「あ、あれは不可抗力というやつで……その……すんません」
「くすくす。なるほどね、やっぱりちょっとイメージと違ったかな。ちゃんと話してみないとわからないもんだね」
俺の全身に値踏みするような視線を這わせる萌葱。少しこそばゆい。
「わかってくれた? 俺は伝説の不良でも怖い人でもないから」
「いやいやいや、うちの中学の威厳もかかってるからね。舐められないようにビシッと言っておくよ」
「言わなくていいから! しかし威厳てなあ、うちの中学っつったって、信太さんと俺だけじゃん」
「モエモエ」
あくまでモエモエをプッシュするつもりか!
「信太っちと俺だけじゃん」
プッシュに負けず、妥協点で訂正する。
「だからよ。だから重要なことなのよ、銀さんと私がこの高校における東中の代表なの。がんばろうね!」
真面目な顔をして、決意に満ちた目で俺を見つめ、ぐっと拳を握る萌葱。
ちょっと恥ずかしくて視線をそらせてしまう。
キーンコーン……。予鈴が鳴る。
「やべぇ、入学早々遅刻じゃ洒落になんねぇぞ。確か最初は体育館で入学式だよな。急ごう、信太っち」
「私は別にいいけどな、入学式から女連れで遅刻するのもいい伝説になりそうじゃない?」
「だから俺は伝説なんて作りたくないんだよぉぉ」