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心ひらく鍵のありか  作者: 朝野とき
零れ落ちる時のありか
9/23

Tuesday 1


 ――……知りたい、と思った。

 でも、「新たなことを知る」ということは、知りたくなかったことをつきつけられる場合もあるんだって気付いた。


 そんな、火曜日の朝。


  

 ***



「仕事、どんなこと希望してるのか……聞かせて欲しいな」 

 

 昨夜、そう聞いたとき、真雪はいくつか希望している会社名を話してくれた。でも、それ以上深く話す前に……話題をさらりとかえてしまった。 


 話したくないのかな、とか。

 私じゃ役に立たないかな、とか。

 少しもやもやしたものの、鍋の湯気の向こうは見えづらくて。

 そして「食べないと、野菜がくたくたに溶ける」と促されて。

 そのまんまになって、食べて、後片付けして、「おやすみ」とつげあって――それぞれの部屋に戻って眠った昨夜。


 そして、今は朝。

 昨日と同じように静かに起きて、物音をたてないように着替えも化粧もすませた。

 静かに静かに自室をでて、そっとリビングにドアを開けようとしたとたん――……。


 パタンと背後から客間のドアが開く音がして、まるで私の身支度を待っていたかのように、真雪の声が背後からした。


「おはよ」


 驚いてとっさに振り返った視線の先にある姿に、私はさらに息をのんだ。

 薄暗い廊下に立つ、長身。

 真雪は黒の細身のスーツを身につけ、いつもは洗いざらしの髪を、軽く整髪料でととのえていた。


 ――……初めて見る、真雪のスーツ姿。


「お、おはよ……」


 かろうじて返事をする。

 廊下に立つ真雪は「うん」と返事しつつ、一緒にリビングへと続くドアをあけた。


 ちらりと、真雪の方を見た。

 細身のスーツは、姿勢がよくてシャープな顎のラインの真雪に、とても似合っていた。

 アパレルメーカーに勤めて、入社しばらくは店舗まわりで紳士物ブランドの店にもついたことがある私の目から見ても、仕立ても顔映りも真雪とよく合っている。


 けれど、その姿を見て、私は自分でも驚くくらい動揺していた。


 初めて見た、真雪のスーツ姿。

 新しい姿。

 でも、私が、うろたえたのは……。

 

 ――……それがどんなに似合っていても、就職活動か社会人1,2年くらいのフレッシュな姿だったから。


 昨日の晩、「仕事、どんなこと希望してるのか……聞かせて欲しいな」って言ったのは、私。「……何も、知らないから。真雪のこと、知りたいなって」って言ったのも私。

 そして訊ねたどおりの就職活動にむかう姿を目の当たりにしてる。

 

 ――……私は、真雪の「就活」の姿を初めて、知ったんだ。

 

 真雪の姿勢良くリビングで暖房のスイッチを入れてくれている後ろ姿。 

 その綺麗なスーツ姿は、まるで後輩の安東君のような若々しい雰囲気で、私を動揺させるには十分だった。


 通勤途中でまわりを見まわしてみても、スーツ姿というのは実年齢というより、スーツを着たときに纏う空気の年齢みたなものがある気がする。

 会社の中でも、不思議と新入社員というのはわかるものだし、制服のある部署で同じ制服をきていても、新しく入ってきた社員というのはその眼差しや雰囲気でわかるもの。

 目の前の真雪は、スーツはぴったりあってる。全然不自然じゃない。

 だけど、私がふだん一緒に仕事している人のような、こなれた感じは当然なくて……。

 そのスーツ姿に、これから切り開いていく『未来』が未開封でつまっているかんじで。

 

 ――……真雪、本当に、年下なんだなぁ。


 それが、実感だった。

 

 こんなこと、まさかスーツ姿の真雪を真正面にしてつきつけられるとは……想像していなかった。

 私は真雪とともにキッチンで朝食の用意をはじめながら……、すごく動揺していた。



 ***



「どうした?」


 テーブルについて、コーヒーカップを手にしている真雪が怪訝な顔で私を見つめた、私はその視線に大いにうろたえる。

 真雪は私のことをまっすぐ見つめるときがあって、ときどきその視線で、私の中身が全部みすかされちゃうんじゃないかと思ってしまう。

 もちろんそれは勝手な想像なんだけど。

 でも、強い視線で見つめてくるのは、たしかだ。

 

「な、なんでもないよ」


 そんな風にこたえながら、私はハーブティをごまかすように飲んで視線を下げた。

 真雪のスーツの袖口から見えるシャツは就職活動らしい白色。野暮ったく見えていいはずのホワイトのワイシャツなのに、真雪のスッとした鋭いラインの手首を美しくくるんでいて、清潔な感じを引き立たせている。

 ネクタイの色は、何の変哲もないブルーとグレーのライン柄。けれど、その変則的なラインの入りは、立体感とその質感からなかなか良い品を選んでいることがわかるし、何よりシャープで知的な真雪の雰囲気によく合っていた。

 

 ――……リクルートスーツとして、いい品、選んでる。


 そんなことを確認しつつ、同時に、「リクルートスーツ」というところに心が何処か沈んだ。


「やっぱりどうした?」


 真雪は私に再度たずねてきた。

 ごまかしずらくなり、私は小さく言った。 


「……なんか、落ちつかないの」


 私がぽつりと本音の半分をこぼすと、テーブル越しの真雪がすっと眉を寄せた。


「落ちつかない?何が?」

「……真雪のスーツ姿」

「似合わない?」


 ふっと真雪が小首をかしげた。

 長い髪を整髪料で自然な感じに流して額を出した真雪は、いつもより大人びて見えた。

 もちろん私の同僚や上司のような、こなれたビジネスマンとまではいかないけれど、成人式にみかけるようなスーツにぎくしゃくしている青年の姿ではない。

 

 ――……カッコいい、よね。

 ――……同じ新卒入社だと、話題になるんだろうなぁ。


 そう思う自分がいて、私は目線をすっとそらした。


「……うまく着こなしてると思う」


 それだけを口にした。

「着こなしている」のが、眩しくて。私の知らない真雪の姿で……。

 そして、若々しくうつって、自分との歳の差、社会人年齢の差に気付いてちょっとうろたえてる……。

 そんな私の戸惑いを説明することはできず、私はそのまま別のことを口にした。


「……その生地もラインも凄くいいね。けっこういろいろ探したの?」

「あぁ、これは院の先輩が紹介してくれた店で作ったんだ。スーツって高いんだな、バイト代がとんだよ」


 真雪はそう言いながら、コーヒーを口にした。


 私は真雪の「院の先輩」という言葉から、昨夜真雪から聞いた進路希望のことを思い出した。

 真雪は工学系の大学院生だ。就職希望も研究職で、文系学士卒の私の就職活動とはアプローチする先もまったく違うようだった。

 私の「こっちにいる間に面接する企業って、どういうところなの?」という質問に、真雪が鍋を囲みつつぽつぽつ名前をあげた企業名は、株価に関して聞いたことがある社名だったものの、正直、いったいどんな会社か私には思い浮かべられなかった。

 しかも教授経由で、すでに個人的に人事の人と連絡をとりあえているとのことで、形としては大学の事務を通して企業にアプローチした体裁を整えつつも、内々に話を進めて、着実に道を固めているらしい。

 私のもうかれこれ6年ほど前になる就活――集団面接をいくつもいくつも半泣きで受けて、個人面接までこぎ付けるのが本当に大変だった私の就職活動とは、ずいぶんかけ離れた話だなぁと思った。

 その就職活動の違いが、大学の知名度による待遇の差なのか、文系・理系の差なのか、目指す企業タイプが違うからなのか、学生時代から遠のいた私には正直わからなかったけれど。

 けれど、たった一つ確実だったのは。

 

 ――真雪よりずいぶん先に社会人になった私だけど、真雪の就活には役に立ちそうもないなぁ。


と、いうこと。

 そして真雪も、まるでその話題を避けるようにすぐに別の話にもっていってしまって……。

 

 ――……それが妙によそよそしくて、真雪の将来の夢とか聞いてみたかった私は、余計に寂しさを感じてしまった昨夜だったはず。


 でも、今こうしてリクルートスーツの真雪を前にすると、世代の差みたいなのを感じてしまって、動揺している私がいる。


「いいアドバイス、もらったね。よく似合ってるよ。……そういえば、替えのワイシャツって何枚かあるの?洗濯するなら、夜までに出すようにしてね、乾燥機まわすから……」


 何気ない風によそおって言葉をかけつつ、自分がどんな風に真雪を見つめたらいいのか戸惑ってしまう。

 

 ――……真雪は、真雪に違いないのはわかってる。

 ――……でも、義姉弟じゃなかったとしても、社会の中で、本当に真雪はまっさらな未来を持ってるんだ……。


 ふっと朝食の皿から目をあげると、カウンターの横に並べている砂時計が目に入った。

 今は沈黙をたもっている砂時計。

 でも、真雪と私との時間は、今もこうしてサラサラと零れ落ちていっているのに――……いっこうに、近づいている気がしなくて。

 義弟と恋人の違い。これって大きいのに、大きいはずなのに。

 どうしたらいいかが、わからなくて、私は目を伏せた。



 ***



 あたりさわりのない会話を交わしながら食事を終えた。食器を片づけるためエプロンをつけながら流し台に立とうとすると、


「手伝う」


 そう言って、真雪も同じようにキッチンの流し台のところに並んで食器布巾に手をのばしてきた。私はあわててその動きを止めようと真雪の肘に手をやった。


「いいよ。スーツ汚れるし……」

「……それなら美幸も通勤着なんだから同じだろ?」


 見上げると、隣で真雪がこちらをじっとみている。

 その瞳に胸がドキドキしはじめて、私はうつむいた。


「私は、エプロンがあるから」


 ちょっと小声になりつつも返事をする。

 その時だった。

 ぐっと身体に腕を回された。


「えっ」


 そのまま、まるで囚われるように、流し台の前で抱きしめられた。

 躊躇しない真雪の腕に、私は驚きとともに戸惑いを覚える。


「ちょっと、真雪」

「……少しだけ」

「な、なに、それ」


 ギュッと腕に力を込められた。

 

「ま、まって、これ以上密着したら、化粧が真雪のスーツにつくからっ」


 私は必死に真雪のスーツから顔をそむけて距離をとろうとした。


「拭けばいいよ」

「ファンデ、とれにくいんだから!白いモヤの染みつくったスーツなんて駄目」


 私が必死にそう言いながら、真雪の腕の中からスーツに顔が触れないよう顔を上にむけると、真雪のこちらを覗き込む様な目と合った。

 私と視線が絡んだ瞬間、真雪の瞳がちょっと目を細めた。そして形の良い唇がゆっくりと言葉を紡いだ。


「じゃ、スーツに顔がつかないようにしたらいいだろ?」

「え?」


 真雪の言葉に私が疑問符を浮かべた時……。

 私の唇に、真雪のあたたかな唇が降ってきた。


「んっ!」

 

 息をのんだ瞬間、強く押しあてられる唇。角度をかえて、すき間なく合わされる唇。擦り合わせるように、啄ばむように、押し当てるように……。

 ――くちびる、だけ。

 舌を交わらせるわけでもないのに、ただ唇同士の触れ合いのキスがさまざまなリズムと形を持って私に落とされる。

 けっしてのみ込まれるような勢いのあるものじゃないのに、私はいつのまにか目を閉じて真雪からのキスを受け入れていた。

 

 それは軽やかでいて甘くて。

 濃厚なキスとは違う、朝のキッチンに合うような小鳥のさえずりのようなキス。

 互いの服の皺を気遣って、寄りそうようにそっと回される腕の中、小さな口づけがなんどもなんども、交わされる。


 しばらく続いた口づけの後、真雪はそっと唇を離した。

 ひんやりとした空気が離れた唇の間を通っていく。

 

 瞬きして見上げた先は、真雪がこちらを見ていた。

 私は照れて目を伏せた。

 真雪のこちらを見透かすようなまっすぐな視線は好きだけど、今は恥ずかしくて目線をはずす。


 そのときふと真雪の首元が視界に入った。

 今のキスのせいかネクタイと襟元が少しずれている。

 私は咄嗟に、手を真雪の首元に伸ばした。

 

「ネクタイ、ずれてる」


 襟に手をやり形をととのえる。

 真雪は突然、襟をなおしはじめた私に動じることもないのか、そのまま静かに立ってくれている。

 私は真雪のネクタイも指先で軽く緩めてから、もういちど絞りなおした。それからシャツとスーツの襟もとを指でなぞってラインを調える。

 綺麗なラインに、私は満足して真雪を見上げた。


「ほんと、いいシャツとネクタイだね。光沢も手触りも……汚したら、もったいないよ」


 私がそういうと、視線の先の真雪は、ちょっと眉を寄せた。私はそんな真雪の唇に気付いて、右手の指を伸ばした。

 指先で唇の端に触れる。真雪の、形の良い唇。


「口紅……うつってる。食器につかないタイプつかってるんだけど、唇にはうつるね」


 私の言葉に、まだ真雪はだまったままだった。

 ただ、じっとこちらを見つめている。私はそのまっすぐな瞳にちょっと微笑み返した。

 微かな色とはいえ、こんなのつけっぱなしで就活の面接に行ったら印象悪すぎる。

 私は指先でそっと真雪の唇にうつったルージュを拭った。


 ――……なんだかリクルートスーツを前にしてると、本当に新入社員や後輩を相手にしてるみたいよね。

 

 内心苦笑しつつ、どこかさびしい気持ちがする。

 着なれた通勤服をきて、新しいスーツ姿の真雪の前に立っていると、その衣服のこなれた感が年齢差を示したものに感じてくる。

 

 私が黙っていると、真雪の唇が小さく動き、何か呟いた。


「――」

「え?ごめん、聞こえない……」


 私が聞き返してもっと真雪の目線を追うようにすると、真雪は軽く首をふった。そして今度はさっきと違い、はっきりと声音が響いた。


「――もう、いいから。食器を洗おう」

「ちょっと真雪?」


 私が真雪の聞こえなかった言葉が気になってもう一度たずねようとすると、さっと真雪は身体の向きをかえ、スーツの上着を脱いでキッチンスポンジを手にとってしまった。

 戸惑う私をよそに、さっさと洗い始めてしまい、私はあわててエプロンを身につけて隣で泡につつまれたお皿をゆすぐ。


 ――……何を言ったんだろう?

 

 ちらちらと隣をうかがうものの、真雪は淡々と食器を洗っている。

 これ以上、聞きなおすのはなんだかしつこいように思えて、私もたずねるのを躊躇してしまい、そのまま二人で食器を片づけたのだった。



 化粧直しをして、出勤時間になり靴をはこうとすると、真雪もコートを着込み鞄を持って玄関にきた。


「一緒に行く」

「早すぎない?」

「まぁね。でも、遅刻するよりいいし」


 真雪は、さっと黒の皮靴をはき、玄関のドアを開ける。私はあわてて靴の留め具をはめ、真雪を追いかけて隣にならんだ。

 エレベーターホールでエレベーターが来るのをまっていると、ふと真雪がつぶやいた。


「なんか、目線がいつもとちがう」

「え?」

 

 私が隣の真雪を見上げると、真雪が私を見ていた。

 

「美幸の……高さが違う」

「あぁ、ヒールのパンプスはいているからね。仕事じゃない日はローヒールが多いから」


 私が頷きながら答えると、真雪はふっと目をそらした。


「日曜、出迎えてくれたときは、スリッパだったけどな」

「……気付いてたんだ?」

「当たり前、まぁ室内用じゃないだけ良かったけど」


 真雪が到着した時、寝起きで慌てて玄関でゴミ出し時に使うスリッパをはいて駆けだしたのを思い出した。

 やっぱり気付いていたんだと思うと、気恥かしい。

 ちょうどエレベーターが来て、中には通勤や通学姿の人が乗り込んでいて、私も真雪もしぜんと口をつぐんで、静かに乗り込んだ。

 

 寒い駅までの道を、あたりさわりのない言葉をかわしながら歩く。

 でも、道すがらのショーウィンドーのガラスにうつる私と真雪の姿をみかけるにつけ、真雪のフレッシュさとくたびれた私の通勤姿が並ぶ違和感に胸が痛かった。

 

 ――……まさに「姉弟」か「上司と部下」くらいにしか見えないんだろうな。

 

 周囲からの目が気になって。

 真雪の横に立つ自分に自信がなくて。


 だから、駅の改札で方向が違うからとホームが別れたとき……さびしいのに、どこかホッとする自分を、どうすることもできなかった。

 


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