Monday
夜が明けて――……月曜日の朝。
窓から差し込む朝日の中、自室のデスクに置いてあるコスメボックスの小さな鏡で、私は化粧の最終的チェックをした。
――……鏡が小さすぎて、どうも眉とチークのバランスがうまく確認できない。
仕方なく、ベッド横のクローゼット前で、全身鏡で服装のバランスを見る。スカート丈良し。ストッキング電線、ひっかけ無し、OK。
でも、全身鏡では蛍光灯の光をはねかえす位置にあって、化粧の濃さの具合を見るには不適当。やっぱりチークの加減は見えにくい。
ふだんの一人の時は、ノーメークのパジャマのままスープとパンの朝食をすませて、洗面台で化粧もブローもいっぺんに終わらせている。だから、私のベッドが置いてあるこの部屋には、大きな鏡のドレッサーが無い。仕事や書き物をするデスクとベッドと雑貨ボックスがあるだけ。
「でも、真雪がいるもんね……さすがに、今週は洗面台で化粧はできないよね」
私はちょっとため息をついた。
すっぴんは、昨日、湯上りに歯磨きしているときに見られてしまった。でも、すっぴんを見られたからと言って、素顔から化粧を施している過程を見られるのは、恥ずかしいし避けたい。
――……髪も結いにくいし、今日の仕事帰りに、せめて合わせ鏡ができるようにもう少し大き目の鏡を買ってこよう。
そんなことを思いつつ、私は髪を簡単にシュシュでまとめて、自室をそっと出た。
まだ六時半だし、真雪はきっと寝ているだろう。
廊下を挟んで玄関横の真雪の部屋は物音もせず、もう一つの部屋は私の趣味のピアノを置いている部屋で、そこも人影はない。廊下奥のドアをあけると、リビングもひっそりとしていた。
私は少しほっとして、リビングのエアコンの暖房スイッチを入れてから、洗面台の大きな鏡で化粧のバランスをチェックした後、またリビングに戻る。暖房のおかげで冷えていたリビングがじんわりとあたたまっている。
私はエプロンを身につけて、袖も汚れないように軽くまくりあげた。
昨日夕飯をつくるときに一緒に洗っておいたサラダ菜を冷蔵庫から出し、根菜をいくつか出してスープの用意をする。
パンとコーヒーの準備にとりかかろうとしたとき、リビングと廊下が通じる扉が開いた。
とっさに顔を向けると、濃紺ストライプのパジャマ姿の真雪がいた。
寝起きの瞳には、部屋のライトと窓がまぶしいのか、真雪はちょっと眉を寄せる。
黒髪の耳あたりがちょっと寝グセではねているのが、妙に可愛らしくて、そして、これが現実なんだって思う。
――……真雪がこの部屋で寝泊まり、してる。
昨夜、妙な照れと間合いの中でお風呂を順番にすませて歯を磨いたら、
『おやすみっ!』
『おやすみ』
と言って互いに、自分の部屋に戻った私たち。
どんな風に距離を持てばいいのか……照れる。そして、困る。
「……おはよ」
戸惑ってる私の耳に、真雪の声が響いた。
「うん……おはよ」
私と真雪の間に沈黙が落ちる。
自分の心音がどくんどくんと聞こえてくる。
真雪は前髪をかきあげつつ、寝起きの気だるげな視線を私に向けた。
「手伝うよ。……顔洗って着替えてくる」
真雪はそう言うとすっと踵をかえして、洗面台の方へと消えていった。
はぁぁぁ――……。
いっきに力が抜けてきて、私はためてた息を吐く。
真雪の寝起き姿なんて、実家にいたころに見慣れてるはずだけど。それはもっと少年めいていた真雪の姿。
――……あんな存在感と色気を伴って立っていることなんて、なかった。
男の人の寝起き。
二人っきりの部屋の、彼の存在感。
そこに向けられる、自分の気持ち。
「恋愛なんて……どんな風にするんだっけ?」
想いを告げ合って。
口づけも交わした。
でも、その後って……どう、過ごしていけば恋人になるの?
こどもみたいなことを真面目に思って、そんな自分に苦笑した。
***
目の前で朝食後のコーヒーを飲んでいる真雪は、パジャマから着かえたといっても、シャツに綿パーカー、ジーンズという妙に気軽ないでたちだった。
こう見ると、彼が大学院生とはいえ、まだ学生なんだなっていう実感がある。
私は先に朝食をきりあげ、身支度を整えて今日のビジネスバッグの中身を確認しながら、まだテーブルについて真雪に尋ねた。
「就職活動なんでしょ?リクルートスーツ着ないの?」
私がたずねると、真雪はちらっと顔をあげて答える。
「面談は、午後からなんだ。……美幸は、もう出るの?」
「うん。電車、一本乗り遅れるだけで、激混みなの」
「車で行かないんだ?」
「あれは、郊外の店舗回りの時に使うんだけど、普段の出社は電車通勤なの」
定期を見せて微笑むと、真雪はそのパスケースをめずらしくぼんやりした目でそれを見かえした。
「真雪?どうしたの?」
「いや……なんでもないよ。行ってらっしゃい」
飲みかけのコーヒーはテーブルに置いて、私を玄関まで見送りに来てくれる。
それは、私がスカートと同色のパンプスを靴棚から出した時だった。ふっと無防備だった肘を軽くひっぱられた。
――……え?
一瞬とまどった先には、真雪の顔が間近にあって。
すっとかすめるように唇を落とされる。
「ま、ゆ……」
すぐに唇ははなされたものの、戸惑った私は小さく名を呼んだ。真雪は何も答えず、ただ私を支えるようにして、玄関に立たせる。
真雪はちょっと伏せ目がちに微笑んだ。
「美幸の通勤服姿なんて、初めてみた」
「え?」
「……ちゃんと、大人、なんだな」
「真雪?」
真雪は、私の呼びかけにかぶせるようにして、
「電車の時間、大丈夫?」
と、言った。
その言葉に現実に引き戻された私は、顔をあげて時計を見る。すでにいつも出る時間より三分遅れていた。私はあわてて気持ちを引き締めて玄関脇にかけていたオフホワイトのコートを着込む。
ドアを開けると二月の冷えた空気が吹き込んで、一瞬息がつまる。振り返ると、真雪がこちらを見ていた。
「……行ってきます」
私がそう声をかけると、真雪が微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
なんだかちょっと元気がない気もするけれど。真雪も緊張しているのかな?
そんなことを想いつつ、電車の時間も気になる私は、部屋の外へ一歩ふみだしたのだった。
寒い風が吹き抜ける道を通り抜け、人の波の駅をかいくぐり、込み合う電車を過ごして、また駅に降り立つ。
コートを着たってスカートとパンプスの足元は冷える。じんじんして痛いくらいの風がつらいなぁと思いながらオフィスまでの道を歩いていたとき、後ろから名を呼ばれた。
「斎藤先輩!おはようございます!」
声ですぐに私を呼ぶのが安東君ということがわかる。元気な呼びかけ声だ。
振り返るときに、昨日のこともあるので怖めの表情を作った。
「おはよ、安東くん」
「昨日は、ご迷惑をおかけして、すみませんでした!」
スーツ姿の通勤途中の人がたくさん通る道の往来で、ぴしっと背筋を伸ばして立ち止まる安東君に、私はため息をついた。
まわりの人がちらりちらりと視線をよこしつつ通り過ぎるのが、痛い。
「……ちょっと、ここじゃ、目立つよ。会社、いきましょう」
声をかけて、安東君の並んで歩き始める。
安東君は元気な挨拶をしてくれたけど、そのぎこちない歩き方からすると、昨日のことでの私の反応を気にしているようだった。
「携帯電話は受け取れた?」
「はい……。結城さんにも、伊崎課長にもご迷惑をおかけしてしまいましたが、携帯電話はこのとおり」
安東君は首元に手をやり紐を取り出して、その先についた携帯電話をちらりと私に見せた。
「ま、良かったね。伊崎課長はなんて?」
「……『ばかもの』と。あと……」
「なに?」
「斎藤先輩に甘えすぎだと叱られました」
その言葉にふと横を見上げてみると、安東君はしょげた顔をしてちょっと首をうなだれていた。
安東君の雰囲気は、むかし門限破りをしてしまったときの真雪にちょっと似ていた。父さんに『美幸姉さんが心配するのがわからないのか!帰らないお前のことを思って、近所を探しまわってくれたんだぞ』と叱られたときの、真雪のうなだれた横顔。
懐かしくなって、ふっと笑ってしまった。
「斎藤先輩?」
怪訝な顔をされて、私はちょっとごまかすように前を向いた。
「結城さんは別に怒ってなかったでしょ?」
「はい」
「でも、怒ってないからといって、信用が揺らいだのはかわりないの。だから二度目は絶対駄目」
「はいっ!」
私が重ねていうと、安東君は神妙な顔で返事しながら頷いた。
うっかりミスというのはどうしてもあるものだと思う。でも、それは丁寧な確認作業などでカバーできることも多い。
落し物が多いなら、帰る前に、その場を離れる前に振り返って確認すること。
時間にルーズになりやすいなら、アラームを利用したり、こまめに時計をみる習慣をつけること。
ほんの小さなことを重ねていくことで、信用は培って行けるけれど、努力しなければ簡単に失うことにもなったりする。
仕事をするって、凄く大きなプロジェクトを企画したり動かしたりすることだって就職するまで思っていたけれど、実際に働いてわかったのは、本当は小さな毎日の積み重ねで出来ているってことだった。
少なくとも私が今いる企画部は、企画を作る前の段階の、人と人との信頼関係がなければ仕事はもらえないし任せてもらえない。
私は、自分の経験から得たものを、少しでも安東君に伝わるようにと思って口を開いた。
「安東君は、ほがらかだし、元気だし、話上手なんだからね。その特性を活かすためにも、浮ついて見られたり信用落としかねないミスは早めに回収しちゃうこと。いいね?」
オフィスビルについて、一緒にエレベーターを待ちながらそういうと、安東君は「ありがとうございます」と返事した。
その返事を聞いてから、私は安東君の顔をのぞきこむ。
「じゃ、もうこの話は私とは終りね?」
そう言うと、安東君は眉をハの字にしてもう一度言った。
「ありがとうございます…。それから、本当にすみませんでしたっ」
「……もう、いいったら…」
私はため息まじりに答えた。
そのとき、鞄から微かに携帯電話の震えを感じた。
「あ、ごめん、電話みたい」
安東君にそう断って少しロビーのすみに移動して電話をとる。
『美幸?仕事中、ごめん』
耳元からこぼれてくるのは真雪の響く声。
慣れない携帯電話からの真雪の声にちょっとどきどきしつつも、あえて小さく手早くたずねた。
「どうしたの?」
『朝、アイロンを借りるの忘れてた。スーツ着る前に軽くかけたいんだ』
「あぁ、アイロンね……。ピアノの部屋わかる?その入りぐち近くのロッカーの中にアイロン台とかスプレーとかと一緒にいれてあるから」
さっと説明して、「じゃあね」ときろうとすると、
『仕事がんばって』
と、ささやかれて通話がきれた。
耳元で響いた真雪の声が妙に優しく聞こえたから、ちょっと照れて携帯電話を鞄にしまう。
顔をあげると、安東君が少し離れたところで律儀に私のことを待っていた。
「先にオフィス行ってよかったのに。またせちゃったね」
そう声をかけると、
「いや、待ったのは僕の勝手ですから。それより斎藤先輩……もしかして、彼氏できたんですか?」
と、素直に聞かれた。
「あのね、安東君。そういう話、社内で尋ねるだけでも場合によってはセクハラ扱いになるんだよ?私は今見逃してあげるけど、もうやっちゃ駄目だよ~」
私が苦笑してたしなめると、安東君は「すみません。でも、斎藤先輩がフリーかどうかって時々聞かれちゃうんで」と答えてくる。
エレベーターは先ほど一本行ってしまったらしく、ロビーにはいったん人が途切れている。
私はため息ついて言った。
「あんまり、そういう私的なことべらべらいいたくないんだけどなぁ。まぁどっちにしても、社内恋愛とかは、私、ありえないしね。」
エレベーターの表示ランプを見ている私に、隣にたつ安東君もぼそっと言った。
「社内恋愛は僕もパスだなぁ、いろいろ面倒というか気配りが必要そうだし」
そう言った後、「ただ……」と安東君は言葉を続けた。
「なんていうか、今までは斎藤先輩って男の気配ないように感じてたんですけど……さっきの電話とか、昨晩の電話のときとかなんか気配が違ったなぁと思ったんですよね」
思いもしなかった言葉に、私は彼の顔を見た。
「はあ?なぁにそれ。男の勘?」
「う~ん、僕も今のつきあってるカノジョが実は初めてのカノジョなんで、男の勘が鋭いとかじゃないんですけどねぇ。斎藤先輩に関しては、色気っていうのかな?周りを気にする話し方とか、その声音がいつものシャキシャキと違う感じがして」
「……」
よくわからないなぁと思いつつ、エレベーターに乗り込むと、安東君はくすっと笑って言った。
「でも、まぁもし、彼氏持ちになったんなら頑張ってください。斎藤先輩、甘えられなさそうだから」
「……そんなところに気をまわす暇があったら、仕事覚えなさいね、安東君!」
私がちょっと横目でにらみをきかせて突き放すと、安東君は朝一番の緊張感ある表情とはちがった、ちょっと柔らかくあたたかな微笑みで「はい、斎藤先輩」と答えた。
平常通り……その後、仕事をこなしながら、私はちょっと胸が痛かった。
「彼氏ができた」といえばそうだろうけれど、たとえばそれが「義弟」だとわかったら、安東君はどんな表情を見せただろう。
いや、他人は応援してくれたりするのかもしれない。
これが……親だったら?
今、雪まつりを楽しんでいるというお母さんやお父さんだったら、どれだけ表情を曇らせてしまうことになるんだろう。
今までだって何度も考えたことだけど、真雪と現実にその距離を近づけてしまったら、そこに横たわるものの大きさにちょっとすくむ気持ちもあった。
ふっとオフィスの窓から空をみると、まるで雪をはらんだかのような灰色の重い雲が覆いはじめていた。
真雪はこの寒空の中、面接会場に向かっているんだろうか。
――……そういえば、リクルートスーツの姿なんて見たことないな。
ふっと思って、私は苦笑した。
近しいところにいるのに、何にも知らない。
まず、親に伝えることを心配するより、真雪と互いを知り合って近づくところから始めないとね。
そう思って、気持ちを仕事に戻したのだった。
***
昼休みに足を伸ばして雑貨屋で大きめの鏡を買ってきて、帰社時はすぐに自宅に戻れるようにした。
二月に入っても、日が落ちるのはまだまだ早い。
暮れてしまった駅前の道は、朝とは違った冷え込みで電車のあたたかさに慣れてしまった身体が震える。
マンションの最寄駅から、かじかむ手でいちおう真雪にメールをいれてみる。
<もうすぐ家につくからね。美幸>
これだけの言葉のメールを送信するのに、すごく緊張した。
考えてみたら、真雪にメールを書いたこと、なかった。そもそもアドレスだって、お母さん経由で知った気がする。『緊急時に困るでしょ』とかなんとか言われて。
駅前の道を歩き始めたら、すぐにメール着信音が鳴った。
<もう夕飯作ってる。鍋、水炊き。>
これまた端的なメールの返信に苦笑する。
安東君から来るメールは顔文字を使ってあるから、男の子でも顔文字好きな子は使うものだと思ってたけれど、どうやら真雪は使わないタイプのようだ。
「水炊きかぁ、久しぶり」
携帯電話を見つめているうちに、私の口からぽつんと言葉が零れる。
関東に来て、学生時代、バイトや仕事での忘年会や新年会での鍋で水炊きなことがなかった。味噌仕立てか醤油仕立てがほとんど。
一人では鍋もしないし、水炊きなんか久々だなぁと思って、気持ちがあたたかくなる。
土鍋の位置よくわかったなぁと思いつつ、土曜の夜、すみずみまで掃除していて良かったと安堵の息を吐く。
寒かった夜道が、気持ちがあたたかくなっていっきに明るいものに思えてきて、家に向かう足が自然にはやまった。
「ただいま」
マンションの扉を開けると、いつもならひっそりと暗い闇が広がっているのに、今日は明るい照明とあたたかな空気が私をつつんだ。
そして、リビングから顔を出すのは――真雪。
「お帰り。今日は寒かったよな。少しだけど雪がちらついたの気付いた?」
「ううん」
微笑みながら話しかけてくる真雪に、私はコートを脱ぎながら答える。
コートを脱いでも寒くない、人の気配がある部屋。
――……癖になったら、ちょっと怖い。
そんなことを思ってしまうくらい、あたたかな部屋に帰ってくることは幸せすぎることだった。
冷え切った道中のせいで鼻の頭が赤らんでいる自分がふっと玄関ミラーにうつって、私はあわててコートを抱えて、
「ひとまずスーツ、着かえてくるね!」
と言って、自室に駆けこむ。
普段着のジーンズとカットソーに着かえてキッチンに行くと、土鍋がぐつぐつ煮えていた。
「おいしそう。その土鍋、久々に使うよ」
「これってさ、美幸が家を出ていくとき……母さんにもたされたやつだよな」
白ねぎを鍋にいれつつ、真雪が言った。私は手を洗いながらうなづく。
「うん。友達とかと鍋を囲むこともあるでしょうって、持たされた鍋。学生時代は女友達で集まることもあって助かったよ。働き始めると、家で鍋を囲むことはなくなったなぁ」
「やっぱり友達とは外食なんだ?」
「まぁね。学生時代みたいに互いの家に行き合うっていうのは、ほとんどないかな。ただ外食費もかさむときついから、ほどほどにね。残業あって忙しいしね」
鍋がくつくつと煮える。
真雪は卓上コンロに鍋をうつしてくれて、私たちはテーブルについた。
水炊きに合うポン酢やすだちがちゃんと用意されている。もみじおろしの小瓶まである。真雪って、こういうとこ気がきくというか几帳面に揃える人だよなぁと思ってしみじみとする。
なんだろ、気持ちがほんわかするっていうのかな。
私がそれらを眺めていると、真雪が「そういえばさ……」と切り出した。
「土鍋出すときに、棚に気付いたんだけど、美幸って砂時計好きなの?」
真雪はキッチンカウンターの横のガラス棚を指さした。
そこには、砂時計が並んでいる……私が集めていたもので、今、見えるところに7つある。下の方に飾っているのもあわせたら、15個ほど揃っている砂時計
大きさは手のひらくらいのものから、もっと指くらいの小さいものなどさまざま。中の砂も白っぽいものや、黄色や赤のものもある。
きっと真雪もあっけにとられたかもしれない。
真雪の質問に私はうなづいた。
「うん、最初はハーブティーを淹れるときに時間をはかろうと思って一つ買ったんだけど」
ガラスの中でサラサラと砂が落ちていく時計。
それをぼんやり眺めているとなんだかとても気持ち良くて。
「一分計、三分計、五分計って揃えているうちに、落ちる砂の違いとかも面白くなっていろいろたまっていっちゃった。キッチンタイマーの方がアラームで教えてくれるから、時間をはかるには便利なんだけどね。砂時計の方がなんだか心地よくて」
「そうなんだ」
真雪はじっと並ぶ砂時計を見ていた。
しばらくすると、真雪は「一番長いのって、あの大きいやつだよな」と言って指さした。
私は頷いて、ガラス戸からそれを出して真雪に手渡してみた。
真雪は驚いたように目を丸くした。
「両手で支える大きさの砂時計なんて初めて見た。これでどれくらいの時間?」
「これでも、一時間なんだよ」
真雪はそっとテーブルに大きなガラスの砂時計を置いた。サラサラと柔らかな微かな音が響きだす。この一時間の砂時計は、木の枠とガラス、中身は乳白色の砂というシンプルなタイプだ。
真雪はまるで吸いこまれるようにその砂の動きを見つめている。
――……その気持ちはよくわかる。
ずっと絶え間なく零れ落ちてゆく砂は、不思議と目が離せなく魅力があるから。
「一時間見つめてたら、鍋が煮詰まっちゃうよ」
私がちょっと茶化して声をかけた。
真雪ははっとして顔をあげた。
「あぁ、うん。なんだか、吸いこまれるな。砂の動きに」
「でしょ?私もそうなんだけど、でも……食べよ」
私が笑いかけると、真雪は頷く。
そして、砂時計をテーブルからそっとキッチンカウンターに移動させた。
砂はまだ落ち続ける。そう、一時間ずっと。
真雪は、砂時計を置いたあと、こちらを振り返った。
「美幸……」
「うん?」
「今もこうして、時間は過ぎて、零れ落ちていってるんだな」
私が見上げると、真雪の黒い瞳が私を見つめていた。
「一週間の砂の量ってどれくらいなんだろうな、美幸」
「ま、ゆき……」
「俺がこの部屋から実家に戻るまでの時間……もう二日分の砂は落ちてるんだよな」
砂時計の音がサラサラとリビングに響く。
鍋の煮える音だって聞こえているはずなのに、今の私の耳に入ってくるのは……砂時計の零れ落ちる時の音。
「ごめん、俺、何を言ってんだろ」
真雪は苦笑いを浮かべて、席についた。
私はそんな真雪を目で追ったまま、何も言葉が思い浮かばなかった。
ただ時が過ぎて。
真雪と私の時間は始まって、動いているのに。
気持ちもここにあるのに、真雪も私を思ってくれているのに。
……義姉弟から恋人にかわったことを示せる「何か」は、何も無い。
真雪も私も、どこか焦ってる。
そんな想いが自分の中によぎって――……私は目を伏せた。
どうしたらいいかなんて、「恋人のなり方」なんて、あるわけがない。
まして、「義姉弟から恋人への変わり方」なんて答えがあるはずがない。
だから焦る必要はないけれど、時間は過ぎて、一緒に過ごせる期間は決まっていて。
「ね、真雪」
私は焦る気持ちを押さえて、出来るだけ笑みを浮かべて顔を上げた。
「仕事、どんなこと希望してるのか……聞かせて欲しいな」
「え?」
「……何も、知らないから。真雪のこと、知りたいなって」
素直に――……。
できるだけ、素直に、そう思って声をかけた。
私にとって、恋を進めるのは相手のことを知っていくことだと思って。
だから。
だから――……。
鍋の湯気のむこうで、私の言葉で真雪の顔が曇っていたなんて……ほんの少しも想像していなかったのだ。