5
見つめる先の真雪は、黙ったままだ。
困惑した表情を見ていると、こんなに大きく艶っぽくなった姿の真雪に対しても、昔みたいに「可愛いな」なんて思えてくるから不思議だった。
どんどん成長してくる真雪に、どれだけ私は翻弄されてきたことだろう。
たしか、両親の結婚前に紹介された初めての出会いでは、『可愛いかっこいい少年』だなぁと思った。こんな素敵な子が弟になると思うと、こそばゆいような照れる気持ちがあったのは覚えている。それが『可愛い弟』に変わり、いつのまにか「頼もしさ」を感じている自分がいた。『甘え上手な弟』がいつのまにか「さりげない優しさ」で私をフォローしてくれるようになったのはいつだったか。
弟と姉だけの立場で満足できれば……どんなに良かったか。
どうして、特別にドキドキするようになってしまったのか。
忘れようとして、住まいも暮らしもまったく離れて、それなりに好きと思いあえる彼氏とつきあっても、夜を共に越える経験をしても……ときめく心の一番は、真雪に持って行かれたまま。
それでも、いくら一人さびしさを抱えたても、仕事や趣味に打ち込むものを作りながら、離れて真雪を見守っていられれば、それでも良いとまで思えるくらいになっていたのに。
こうして近づけば。
こんなに触れられる近くの場所まで来てしまっては。
私も、もう……我慢、できないよ。
「ねぇ、男がいるだとか、恋人だとか、どうしてそんなこと、言うの?枕営業なんて言葉までだして」
私の真雪にたずねる声が……甘さを含んでいると、自分で思った。
私の持つ、本能が、まるで真雪を撫でまわすように、誘うように、声に媚薬を含ませる。
「ひどいと思うんだけど?」
ツンツンできた方が、実は、まだ良かったんだ。
そんなことを、ふと思った。
女であることをまるで武器にして、声色も、目つきも、この真雪とは違う「女」の身体をさりげなく使って、私は真雪に誘いをかけはじめてしまう。
――……真雪が、私の家に無防備にきちゃうのが、悪いんだからね?
そんなことすら思ってしまう自分が、心のどこかに湧きでてくる。
「真雪?」
名を呼んで、仕留める。
「黙ってちゃ、わからないよ?」
「っ」
私がまた少しにじりよったことで、ソファがギシリと鳴った。
真雪は硬直したように動かない。
「まゆき?」
真雪の困惑顔が可愛くて、私はつい微笑んでしまう。
そして、また一歩。
もう、私と真雪の間にはほとんど隙間はない。
――……さあ、どうするの?
「どうして、そんなひどいこと言うようになっちゃったかな?」
微笑んだままたずねると、真雪は眉を寄せた後、まるで観念するかのように目を伏せた。
「ごめん、姉さん。仕事のことを悪く言ったのは……俺の早とちりだった」
素早く謝罪の言葉を口にする真雪。でも、今の私が聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。
私が知りたいのは、真雪がどうしてそういうことを私に思ったかということ。
真雪が私のことをどう思っているかということ。
真雪が、私という人間をどんな風に感じているかということ。
それらが知りたいの。
真雪の言葉に怒りはしたけど、謝罪が聞きたいんじゃなかった。
「早とちりっていうけど、真雪は私のことを、『女の身体』を使って有利に仕事を進める人間だと思ってたということでしょ?」
柔らかい雰囲気で、でも逃げるのはゆるさないという声音だけは交えて真雪を責める。
真雪はまた黙りこむ。
「違うの?」
私は真雪の伏せた目をのぞきこむようにして、顔を下から近づけた。
その拍子に揺れる真雪の大きな肩。
緊張した表情を見せた瞬間を捕えるように、私は左手を真雪のソファに投げ出された足の腿の上にのせて、上体をさらに真雪に近づけた。
手から伝わる、真雪の体温。それは服越しなのに思ったより、熱くて。
見上げて見つめる真雪の眼差しは、熱を孕んでいて、潤んでいるようにさえみえた。赤みがさした目尻は真雪の動揺をあらわしているかのようで、私はまたその可愛らしさに笑みを深くする。
そんな私をみて、真雪は眉を寄せた。
じわじわと近寄る。
真雪が息を詰める。
私は吐息に甘さをにじませて、真雪の長いまつ毛を感じるほどの至近距離で、ささやいた。
「ひどいこと言った、おしおき」
真雪の左頬にくちづけた。
そのまま唇をゆっくりと頬から耳へと移していく。
耳たぶを、唇で軽くはさんでから、真雪の形の良い耳をなぞるように舐めあげた。
「――っ。や、め、ろ」
真雪は拒む言葉をはきながらも、逃げ出そうとはしない。私は何も真雪を拘束していないのに、身をよじることもしない。
ただ緊張するかのように、身体をこわばらせている。
「真雪」
唇をはなして、もう一度、名を呼んでみた。
すると、真雪は首を横に振った。
「姉さん……。俺をためすなよ」
「ためす?ためしてなんかないよ」
「――……じゃあ、それが、美幸の望みなんだな?」
私の名を呼んで、真雪がギリッと奥歯を噛むような仕草をした。
伏せてこちらを見なかった真雪の目が、射抜くような激しい熱情を持って私を睨む。
今度は、私が真雪の強い視線に射止められて、動けなくなった。
「さっき、警告はしたぞ」
そう言ったかと思うと、私の身体に真雪の腕が伸ばされた。
突然の痛いくらいの抱擁。押し付けられる、男性の胸板。冬なことも忘れる、汗ばむくらいの熱。
続いて私の首筋に押し付けられるのは、真雪の唇。噛むように、まるで食いちぎられるように歯を当てられる。
痛みに、とっさに「やっ」と押しのけようとするけれども、固められてうごけない。吸いつかれて、そのままなんども首筋から鎖骨へと唇が往復する。
「ま、ゆき」
「拒む言葉は聞かない!」
「違うっ。そうじゃなくて」
「何も言うな……そんな口、封じてやる」
身体をしめつけるように抱きしめていた腕から解放されて、今度は両頬を持たれる。
そして、唐突に唇が合わされる。何度か触れあった後、噛みつくように唇が翻弄されはじめる。割られて侵入されて、食べられていく口内。
「んっ」
唇の隙間から、吐息がこぼれるのに、息を吸う間もなくまたねぶられていく。唾液がからまりはじめ、真雪の熱い舌と私の舌が同じ熱さになってゆく。微かな息のあいまに、掠れるような「み、ゆき」「美幸」とまるで恋焦がれくれてると錯覚するように真雪が名前を呼んでくれる。
熱をわけ合って、絡み合って、濡れ合って。
真雪の息の荒さが私の心をこじあけていく。
たくさん、ごまかして過ごしてきた。
欲しくないふりもうまくできなくて、会いたくても会わないように、距離をおいて。
優しくしたいのに、わざと剣呑な態度をとって、そっけなく振る舞って。
真雪のさびしそうな表情も、イライラした表情も、全部受け止めたかったのに、それすら逃げて蓋をしてきた日々。
ただ……こうしたかったの。
こうして、熱をわけあいたかったの。
小さいころは、喜びをわけあった。孤独の寂しさをわけあった。家事の手伝いや約束をわけあって、家族の思いやりをわかちあってきた。
でも、それだけじゃ足りなくなったの。
私は欲深くなってしまって。
家族、姉と弟という二人だけでは、足りなくなってしまった。
もっと。もっと。もっと。
真雪とたくさんのものをわけあいたくなった。
熱を。
欲を。
恋情を。
――……共に歩む未来を、二人でわけあいたくなってしまった。
いま、こうやって唇を絡め合っているのが、こんなに嬉しいなんて。
誰も喜ぶはずがない関係を、真雪を煽って手に入れて、喜ぶ自分はなんて身勝手なんだろう。なのに少しも後悔していない。
嬉しくて、満たされて……。
その時、絡んでいた唇が唐突に突き放された。
濡れた唇が冷気にさらされて冷えていく。
戸惑ってみあげると、真雪の苦しそうな表情があった。
「なんだよ……」
掠れた声が響く。
「なんで泣くんだよ……」
「え……」
自分の頬に触れると、知らず知らずのうちに涙をこぼしていたようだった。
慌てて頬を手の甲ですりあげて、涙をふく。まぎれもない嬉し涙だった。
そんな私を前にして、真雪は、
「ち、くしょうっ」
小声でそんな罵り声をあげたかと思うと、私を抱き寄せていた腕を突き放し、私と距離を置くようにしてそっぽをむいた。
「泣くくらいならっ!泣くほどイヤなら最初から煽るな」
「ちが……この涙は……」
「何が違うんだよ。彼氏に義理立てしたいんなら、唇を寄せてくるな。煽るなよっ。冗談でも、タチが悪すぎるだろっ!俺だって……男なんだ、馬鹿にするなっ」
真雪の言葉に、私はさきほどの誤解を再び感じて、言い返した。
「恋人とか、彼氏とか、そんなのいないって言ってるでしょう?」
私の言葉に、真雪はこちらをギリッと睨みつけるように見た。
「じゃあ、どうしてスペアキーがないんだよ?」
「え?」
「誰かに、合鍵として渡したからだろう?」
低温の冷たいピリピリとした声音ではなされた内容に、私は茫然とした。
――……誰かに、合鍵を渡した?私が、この部屋の……?
私が黙ったのを肯定と受け取ったのか、真雪がため息をついた。
そのため息が、先ほどまでの熱に浮かされたような真雪との口づけの甘い時間を吹き飛ばしていく気がして、私は唇を軽く噛んだ。
「コーヒー飲めないくせに、いい豆があってドリップできる準備もしてあって。ペアマグカップとか、揃った茶碗類とか……。ご丁寧に髭剃りまであったら、さすがに泊まるのは女友達じゃないだろ……」
真雪の続く言葉を、私は痛みと共に聞く。
私が、真雪のことを思って用意していたものたちが、「他の男」のために用意されたものだと、誤解されているってことなんだ。
……合鍵を渡すような人がいるのだと。
さらに、真雪の言葉が続いた。
「枕営業だとか言ったのは、俺の言い過ぎだ。でも、さっきの電話のやりとり、仕事先の人とのやりとりにしては、『デート』だとか『プライベートなつきあい』だとかの言葉も交わしてたから……」
真雪は語尾をぼかした。
私は真雪の言いたかったことを受け取るように、口を開いた。
「つまり、私が仕事関連の人に合鍵を渡して、お泊りさせて仕事を取ってたって誤解したんだ」
「それは悪かった。この部屋に男が泊まれるようにしてあることと、電話の美幸の言葉が重なってカッとなって意地悪な言い方してしまったから…」
「……」
「美幸がそんなことするはずないって、冷静になったらわかるよ」
「……」
「ちゃんと、恋人とかに渡したんだろ、鍵」
真雪のその言葉を聞いたとき、私の中でカシャンと心にヒビが入った気がした。
さっき、真雪をけり上げたときの怒りとは違う……情けなさ。
長く黙りこんだ私を怪訝に思ったのか、真雪が、
「美幸?」
と声をかけてきた。
真雪の深く愛しい声が、今は、情けなくてつらくって、私は咄嗟に、
「もう名前を呼ばないでっ!」
と、突っぱねていた。
真雪は目を見開いた。
「何回も、恋人や彼氏はいないと言っているのにっ!真雪は、私の言葉を信じるより、目の前に並んだことだけで勝手に判断してるよ…。全然私のことば、聞いてないじゃないっ」
私は、真雪の胸をポスっと叩いた。
右の拳。
左の拳。
ぽす、ぽす、ぽすぽすぽす。
私の拳なんて軽く受け止められてしまう広い男の胸板。
叩きながら私はわめく。
「誰のために準備したと思ってるのよ?勝手に押し掛けてきて、勝手に決め付けて、そして、勝手に私を責め立ててる」
私がそう叫んだとき、真雪が私の腕をとった。
「み、ゆき?」
「私を馬鹿にしてるの?たしかにまぎらわしい態度をとってたかもしれないし、私、ツンツンしてた。でも……でも!冗談なんかでキスなんかしないっ!冗談なんかで、義弟を煽ったりしないっっ!私は、そんな男を翻弄するような女じゃないっ」
私がそう叫んだとき、私の腕をつかんでいた真雪の手に力が入ったのがわかった。
「真雪の……あほぅっ!」
そう叫んだ瞬間、私は、ぎゅっと抱きしめられていた。
押し付けられるのは、真雪の胸。先ほどとは比べられないくらいの強いちからでぐいぐいと抱きしめられる。
私は抱擁にごまかされたくなくて、全身で身をよじって逃げ道をさがす。なのに私の身体にまわされる真雪の腕は、ゆるまるどころかぎりぎりと締めつけるよう。
「み、ゆき……」
私をよぶ真雪の声が熱をこもって掠れていて、私はその声に流される自分を知っているから、強く横にふった。
「呼ばないでって言ってるのっ!」
「……ごめん、美幸」
「人のこと……身体をつかって仕事とるだとか、義弟を煽るだけのような女としてきめつけたくせに、ごめんですまないんだからねっ」
身をよじって出来たすきまから、どうにか私は腕をだし、また真雪をぽすぽすと叩く。なのに、またさらにぎゅっと抱きしめられて、私の首元に真雪は顔をうずめてきた。
「俺……誤解してたんだな?」
「しつこいっ!」
「……ね、美幸」
「呼ばないでっ!」
「……もしかしたら、もしかしたらだけど……」
くぐもるような、小さなささやかきが耳をくすぐる。
真雪の響くはずの声が、今は掠れていて頼りないくらいの細さになっている。私は真雪のことを怒っているはずなのに、その声に耳を澄ましてしまう。
だって、結局……どんなに怒ったって、私のことをひどい人間だと決めつけるような誤解したって……それでも、私は真雪のことが好きで許してしまう。
「なに、真雪……はっきりいいなさいよっ」
私は掠れた吐息で言葉を止めてしまった真雪を促した。
真雪が唇を開くのが、髪をくすぐる息でわかった。
私は真雪の言葉をとらえられるように、耳をすます。
その時、耳に響いたのは、
「もしかして……美幸は、俺のこと、好き?」
そんな言葉だった。