Saturday
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土曜日の朝。
いつもよりゆっくりな時間に起きて、フレンチトーストの準備をしていると、廊下を歩く気配がした。
「おはよ」
起きてきた真雪はパジャマじゃなかった。こちらに来たときの服を身に着けていた。
真雪が来た日曜日から、一週間。
たった七日で、いろんなことがあった。ずっと自分の心の中だけで抱えてきた気持ちが、形になって、表に出てきて、自分だけのものではなくなった。あまりに濃密だった毎日。
「どうした、美幸?」
「パジャマじゃないな、と思って」
「うん。……朝ごはん食べたらさ、少しの時間だけど、どこか出かけないか」
「どこかって?」
「公園でも、買い物でも、ランチでも」
真雪の言葉に思わず吹きだしてしまう。
「朝ごはん食べたすぐなのに、ランチなの? 変なの」
「いいんだよ、何処でも。全部、口実なんだから。……出かけたいだけ。帰る前に、二人で、街をあるいてみたいんだ」
率直に言われて、私も同じようなことを考えていたから、嬉しくなる。真雪が実家に帰ってしまうまでの短い時間、二人で並んで歩いてみたいなって。
「うん。行く」
私の返事に真雪がほっとしたように笑った。
***
マンションの扉を開けると、二月の冷たい風が吹き抜けた。
快晴で太陽が出ているというのに、外気にさらす頬がきゅっと冷える寒さ。マフラーとコートを着こみ、一瞬悩んだけど、手袋もつけた。
真雪は、ここに来たときの黒のブルゾンに深みのある赤のマフラーだけの防寒で、寒そうな顔もしていない。
マンションを出て、私と真雪は並んで歩き始めた。
「大きな公園があるの。池もあって、夏場なんかは芝生も綺麗で、ピクニックしてる家族連れも多いんだけど……この時期はどうかな。そこでもいい?」
私の言葉に頷いてくれる真雪。
ふたりでゆっくりと歩調を合わせながら歩いていく。
ずっと足を運んでいなかった公園への道を、記憶をたぐりよせるようにして歩いていると、自然と昔のことが思い出された。
私はいつのまにか隣の真雪に語りかけていた。
「その公園ね……まだ子どもの頃ね、元気だった父に母と三人で行ったこともあるんだ。両親、仕事に忙しかったから、頻繁ではなかったけど……でも、思い出に残ってる。おにぎり作るの手伝ったこととか、母の甘い卵焼きのこととか。パパの飛ばした紙飛行機がいっぱい飛び過ぎて池に落ちちゃったこととか」
「親父さん、紙飛行機つくるの上手かったんだ?」
「……うん、上手だったよ」
答えながら、私は気付いた。
……真雪に、亡くなった父である「パパ」とのはっきりした思い出を語るのは、初めてに近いってことに。
今までずっと真雪と私は、互いの「以前の」家族についてあえて話題にすることはなかった。命日だとかお墓参りで話題に触れても、決して思い出語りはしなかった。無意識に話題を選別してた。
「美幸?」
黙った私を不思議に思ったのか、真雪が呼ぶ。
咄嗟に私は「ううん」と首を横に振って、なんでもないと続けようとした。けれどふと止める。なんでもなくは、無い、のかもしれない……初めてそう思った。
私は隣の真雪を見上げた。
「どうした?」
「亡くなった父とのこととか、話すことなかったなぁと思って。……こうやって話題にだしても、いいんだよね?」
たずねると、真雪は一瞬驚いたような顔をした。けれど、すぐにとても穏やかに微笑んだ。
私がびっくりするくらいの、優しげな表情で。
「もちろん。知りたい。美幸の子どもの頃のこと、聞かせてよ」
「あえて聞かれると、とっさに思いつかないけどね」
「うん。おいおいでいいから、聞きたい。美幸ってさ、ガキの頃の俺が父親が離婚して、俺を生んだ人が俺に会いたがらないってこと知ってから、ぜったい自分の子どもの頃の話題だしたことないものな」
「そういうつもりはないけど……」
「無意識に俺をかばってくれてたんだろうなって思うよ。寂しさ抑えきれない俺もガキだったんだけど」
真雪はそう言ってから、ふいに私の右手を取った。
手袋の上からそっと包まれる。
「なんか今、俺、すごく嬉しい」
「どうしたの、突然」
「美幸のいつのまにか俺を守ろうとする”姉意識”を、一つ越えられた気がしたから」
わけがわからず真雪を見つめていると、真雪はぐいっと私の手を引っ張った。
「美幸はやさしいから。先回りして、いろんな気遣いしてくれるだろ。気を回して、守ろうとしてくれて。父さんが再婚して美幸が”お姉さん”になってから、俺は、その優しさをいっぱいもらったよ。嬉しかったし、楽しかったし、あたたかだった。でも、それがだんだん歯がゆくもなっていった」
「真雪……」
真雪がちょっと目を伏せた。その伏せられた長いまつげの下の真雪の頬が、照れるみたいにほんのり赤いことに気づいた。
真雪がふいに私に目を向けた。
視線がかちあい、真雪の眼差しが私を射抜く。
「もう、弟じゃないから。……俺だって美幸を守りたいなって、聞き役になりたいなって思ったっていいだろ?」
そんな風に言われて、いっきに頬が熱くなった。どう答えていいのかわからなくて、頷くので精一杯。
すると真雪は「じゃ、了解の印」と言ったかと思うと、私の右手からするりと手袋を引き抜いた。驚くまもなく、真雪は即座に大きな左手で私の手を包み込んでくる。
手を繋いでまた歩き始める。
右手が熱くて……こんなに冷たい風に晒されてるのに、真雪とつなぐ手の部分だけ熱くて、汗をかいてしまいそうで、なんだか恥ずかしかった。
公園に着くと、寒さのせいか人がまばらだった。芝生の広場で、小学生が数人バトミントンをしていたり、縄とびをしている。
記憶にある噴水はなくなっていって、トイレなどの建物も綺麗になっていた。でも思い出の紙飛行機が落ちた池は、変わらずに水をたたえていた。
ジャージ姿でジョギングをしている人やジョギングしている人が、遊歩道を時折通り過ぎていく。
真雪と池の周りをのんびり歩いた後、陽があたるベンチに二人で座った。
「けっこう歩いたね。寒かったのに、身体がぽかぽかしてきた」
「うん。美幸は疲れてない?」
「大丈夫」
座ると自然に真雪と手が離れる。
二人でぼんやりと、目の前に広がる芝生、遠くで遊んでいるこどもたち、散歩して通り過ぎてゆく人を眺める。
「私達、恋人同士に見えるかな」
「見えるんじゃないかな。……でも、ここを通りすぎて行く人は、俺たちのことなんて気にしてないんだろうな」
「そうだね。そういうものだよね」
また私たちは黙った。
いやな沈黙ではなくて、ただ、二人で座って並んでいられることを味わっていた。
鳥が木々に集まり、また飛んで行く。空に飛行機雲がのびてゆく。
「真雪、本当に家を出るの?」
「うん。卒業までの一年だけ借りるのは、敷金礼金とか考えるともったいないんだろうけど……。前々から考えてて、いちおう当てがあってさ。俺の通ってる学校近くにあまりに古すぎて人気がないアパートがあるんだ。友達が住んでるんだけど、そこなら礼金敷金無しで家賃も格安で入れる」
「そっかぁ。でも、古アパートに真雪が住む姿、想像つかないなぁ」
「そう? 俺はけっこう床がギシギシ言ってるような古い家の方が好きなんだ。普段から新しいものより古いものがいいし、便利よりちょっと不便な方がホッとするし。そのアパートも不人気だけどさ、俺はけっこう友達とくだらないことで朝まで飲んだこともあったりして、男だけで気楽でよかった」
真雪が言った言葉に、私は首をかしげた。
「男だけの方が気楽?」
「え……あ、うん。ほら、女の子がいる飲み会になると、誰と誰がつきあうつきあわないだとか、恋愛に話になることが多くて。そういうメンツで集まるようになると男の方も誰が可愛いとか、どの子が好みとかって話しになりやすいだろ」
「あぁ、まぁ、そうかもね」
たしかに学生時代っていうのは、仕事を介して同僚で飲むってこともないから、異性でいると自然と恋愛傾向になることはあったなぁと思い出す。
「そういう話の方向になると、俺、話題にのらないというか、のれなかったから。どっかで、みんながワイワイ恋愛の話に花咲かせてみてるのを、俺には遠い世界なんだなって薄い膜の向こうを眺めてる感じだった」
真雪がほんの少し目を伏せて黙った。
離していた手が、再び真雪の手に包まれる。
「でもさ、そうやって距離おいてるのが、周りにはクールに見えたらしくて。……冷めてるとか、手慣れてるとか誤解されたりもした。本当は冷めてたことも一度だってないし、手慣れてもないんだけど」
私が真雪の手を握り返すようにして指先に力を入れると、真雪がちょっとこちらを見て微笑んだ。
「美幸も、俺が女性慣れしてるって、思った?」
思わぬ質問に、私は戸惑う。だけど、今まで何度か交わしたキスを思い出して、素直にこたえることにした。
「うん。ちょっと女慣れしてるって思ってた。キス、上手いし」
そう答えると、今度は真雪の方が目を丸くして明らかに驚いた顔をした。
そして次の瞬間には、真雪の顔が明らかに赤くなった。でも、少し眉を寄せて複雑そうな顔になっている。
「美幸」
「え、な、なに!?」
「……なんでもない」
「なんでもないって顔、してないよ?」
私がそう尋ねると、真雪が私の手をぎゅっと掴んできた。そうしてしばらく黙ったあと、真雪ははぁっと息をついた。呆れるような困ったような、そんな吐息。
「俺はさ……美幸がキスが上手いかどうかなんて……わかんないんだけど」
「え?」
「もう、意味わかんなくていいよ。俺、はったりきかせるの得意だし」
拗ねたようにそう言ったかと思うと、真雪は握っていた私の手を持ち上げて、その甲に口づけた。
「どっちにしろ離さないから」
そう宣言されて、私は、
「私だって離すつもりないよ」
と答えると、真雪は「美幸らしいな」って言って笑った。
日の光のもとで、こうして手をつないで笑い合っているのが、奇跡みたいに思えた。
***
その後家に帰って、昼食にパスタを食べた。
真雪は食べ終えると、荷づくりをさっと終えてしまった。
あまりのあっけなさに、車で駅まで送ると言ったら、断られた。
「離れがたくなるし、見送られたら、こんどは美幸がちゃんと家に戻ったか心配になるから」
そんな風に言って、飄々と真雪は、大きな黒色のボストンバックを持ち上げる。
わかっていたけれど、もうっちょっとのんびりしていっても……と言いかけて、でも「もうちょっと」がどこまでなのか、私自身がきっと切りあげることができないのが想像できて、次の言葉がでなくなった。
何も言えなくなって玄関に立ちつくす私に、真雪が微笑みかける。
「……じゃあ、行く。俺が出た後、泣くなよ」
「無理」
「即答だな」
苦笑しながら靴に足を滑り込ませる真雪。
私はそれを見て、「ちょっと待って!」と止めた。そして慌てて転びそうになりながら、リビングに駆け戻り、目当てのものを手にして、また玄関に駆け戻った。
「こ、これ……持って行って!」
真雪の手に押し付ける。
「これって……砂時計?」
「そう、砂時計。お気に入りなの……色違いで、もう一個持ってるの。片方、持ってて」
真雪が手のひらに砂時計を乗せる。ガラスの中におさめられた、砂。ガラスを支える木製の飾りは、真雪に渡したものはダークブラウン。もうひとつの色違いはナチュラルブラウンだ。
「離れてても……同じ時を刻んでるんだからね」
「うん」
「しゅ、就職内定決まったら、すぐに連絡して」
「もちろん」
「メ、メールするからね。電話も!」
「うん……会いにくるよ」
真雪のことばに頷く。
頷いた瞬間、目から零れ落ちそうになるのを瞬きして散らした。
「わ、私だって、会いに行くわよっ!」
「うん。……じゃあ、また」
俯いた私の視線の先。
真雪が完全に靴を履いた。履いてしまった。
一歩一歩踏み出していく。
俯いた顔をあげることができない。真雪の背を見ることができない。
見たいのに。見送りたいのに。
顔をあげて背中をみてしまったら、零れ落ちるものが止められなくなりそうで。思わず、背中にしがみついてしまいそうで、あえて顔をあげなかった。
真雪がドアを開いた。
ひゅっと冷たい風が入る。
頬を一瞬で冷やす風を受けて、私は思わず叫んだ。
「い……行ってらっしゃいっ!」
「うん。行ってきます、美幸」
真雪の声がして、すぐにドアの閉まる音がして、風が止まった。
すべての音が止んだ。
私は、一人になった。
真雪の気配が消えた部屋の中に立ちつくす。
真雪といた一週間の時の砂は、すべて落ちてしまったのだ。
しばらくしてから、私は重いからだをひきずるようにしながらリビングに戻った。真雪に押し付けた砂時計の対のなるものを手にとる。
目に映る砂時計の形がぼやけ、二重に見える。
私は砂時計をひっくり返してテーブルに置く。動き始める砂。さらさらと絶えることなく落ちてゆく。
それから私はなんどもひっくり返し続けた――頬を伝い床にぽたぽたと落ちるものが止むまで。
いつか、時の砂が零れていくのを穏やかに二人で眺める日を想い描いて--……。
砂が零れていくのをぼやけた視界の中で見つめ続けたのだった。




