Friday 3
「私とお父さんに、ちゃんと話してごらん。……二人は、どうありたいんや」
さっきと違い、母の声音が落ちついていく。
真雪の手が、私を支えるように背中に添えられた。
背中からじんわりとぬくもりが伝わってくる。
いつのまにか大きくなった、真雪の手。力強い指先。手のひら。
あたたかさに涙を堪える私の隣で、真雪がすっと息を吸った。そして言った。
「……俺は、美幸と共に生きたい。……苦しいときは、美幸とわかちあって、嬉しいときは二人で喜びあって。そして、美幸にとって一番頼れる者でありたいし、俺が苦しいときによりどころになるのは美幸なんだ」
真雪がそういうと、母を支えるようにしていた父が言った。
「それは……姉弟では駄目なのか。……男と女でなければ、ならないのか」
真雪が小さく首を横にふるのがわかった。
「父さん……俺さ……俺だって、いろいろ考えたんだ、探し回ったんだ……でも、俺はね」
背中にまわしていた手に少しちからをこめ、真雪は私を引き寄せるようにした。
「俺は……美幸のかわりはいないんだ。こういう言い方は悪いけど、父さんがもしまた離婚してさ……別の人と再婚して別の人が俺の姉やら妹になったって、心魅かれないんだ。結局さ、姉も妹も母親も……父さんの”相手”によって、変わりうるものってことだろ」
「真雪っ」
さすがに父相手に酷いんじゃないかと、私は真雪の方を見上げた。
けれど、真雪の表情は父を苦しめるために言ったんじゃないと、ありありと伝わってくるほどに、真雪の方が苦しげだった。
「でもさ……伴侶は、俺とその相手が手を取りあうものだ。俺と美幸が崩れなければ、他に邪魔されない、強い繋がりだろ?母さんの言うとおりだ。俺は、そういう強い絆を、美幸と作りたい。父さんが作った家族じゃなくて、俺と美幸で家族をつくりたいんだ」
真雪の表情は苦しそうでいて、でもその横顔は綺麗だった。
その痛々しい表情で一人ぼっちにさせたくなくて、私もまた真雪の背に手を回した。
それから真雪の肩に自分の肩をくっつけて、寄りそうようにしながら父と母の方を向いた。
「……父さん、母さん。私、この家族、好きだよ。母さんが父さんのことを私に初めて紹介してくれたとき、”パパ”を忘れたのかって思ったときもあったけど、父さんはパパの写真を飾るのを当然みたいに受け入れてくれたし、お墓参りにも一緒にいってくれたし、命日も忘れずにいてくれるし……。そういうひとつひとつの気遣いのおかげで、たくさん救われてきた。父さんは、私に家族になろうとして頑張ってくれてたんだよね。それで、私もね……良い娘になりたいと思って、頑張ったときもあったんだ、これでも」
父と母が一瞬目を見開いた。
……傷つけたのかもしれないと思った。
そう思ったとたん、我慢していたはずの涙がぽろっと頬を伝ってしまった。一粒落ちたら、次々にとまらなくなり、唇が震え始めた。
私はふるえて思い通りにならない唇をなんとか動かそうとした。
「でも、でも……なぁ、母さん……父さん。真雪には、そういう”がんばり”が必要なかってん」
ふだんでない、母から譲りうけた西の訛りが混じってしまう。
「自分のかたわれみたいに、大事に思っててん……それだけでよかってん。でも、自分も真雪も成長して、男と女ってはっきり線引きできてしまって、その上で真雪と暮らすんには、姉と弟じゃ無理やってん……だから、私、逃げるみたいに、家を出た」
ぼろぼろと涙が零れる。
「でも、本当は、ずっと一緒にいたい。真雪と一緒に生きていきたい。笑って、泣いて、苦しんで、喜んでいきたいって思ってた」
涙と共に、声までが擦れてくる。頭のすみで、化粧崩れるよって変な冷静な声がするのに、止められない。口から、今まで絶えていたものが零れ出るみたいに、甘えたような、こどもみたいな言葉が出て来てしまう。
「まだ、真雪のこと知らないところいっぱいあるねん。ほんとは、ほんとはずっと、ずっと見ていたかった、話し聞いてたかった、成長を見守ってたかった……。もう、離れるのは、いや……いややぁ……」
父と母の前で、さらに、真雪の前で……私は、子どもみたいに泣いてしまった。
そういう自分が、抑え込んできた自分の本音は、こんなに子どもみたいな、ただただ「離れたくない」に凝縮されているということが、すごく恥ずかしい。
でも、それこそが、本当だというのもわかってる。
本当は、ずっと離れたくなかった。
学生のとき、無理して他の男の人とつきあった。相手にも悪いことをしてしまった。結局ふられることになったけれど、そりゃそうだ。相手がくれた真摯な気持ちを、私は誠実に受け止めて返すことができなかったんだから。
涙がとまらず俯く。
背中の真雪の手が私を励ますように、ゆっくりと背を撫でてくれる。
そして真雪は言った。
「美幸もこんなに望んでくれてる。俺は、美幸と生きていく。……反対されても、二人で生きていく」
また部屋のなかはしんと静まり返った。
空調の音だけの部屋、父も母も、隣の真雪も身じろぎもしなくて、私の涙と鼻をすする音だけがときどき響く。
「……それが、本当の気持ちということやな。……離れたくない、ただ、それだけなんやろな」
不思議な、確認するような、それとも遠くを思い出すような……そんなとらえどころのない語調で母が言った。
ふたたび顔をあげると、母はとても疲れた顔をしていた。とても、とても疲れ切った、仕事を家にもちこんで徹夜明けでこなした後のような顔色だった。
そんな顔色のまま母は、父を見た。
父も母の方を向く。
「……父さん……雅冬さんは、どう思う」
「僕? そうだな。君はもう、受け入れているだろう、理解したくなくとも。僕は君が受け入れたなら、それでいいと思っている」
「そう」
私の前で、父と母はそんな風に言葉を交わした。
母は息をついて、今度は私たちを見た。
「……美幸、真雪」
「はい」
「は、い」
私たちを呼びかけた母は、ほんのすこし口元に笑みをたたえた。
「……ほんま、あんたら……あほやなぁ」
ゆるやかな、声。先ほどとは違った声だった。厳しさも、刺々しさも、激情をはらんだものもない、穏やかな声色。
「わざわざ、苦しい道、歩まんでもえぇのに……。私らに言わんと……ずる賢く、隠して、逃げて、嘘ついて、自分らだけでふたりっきりでいちゃついてれば、まだ、そんなん苦しまんでもよかったやろうに……そんな泣きはらした目ぇして、そんな悩みすぎた顔して」
母が息をついた。
「でも、しゃあないな。そういう”あほ”は……わたし、好きやわ。そう育ってくれて……」
父が母の膝をもういちど撫でた。
「嬉しいと、思うよ」
母はそう言って、そして両手で顔を覆った。
――泣いていた。
先ほどの激情で涙を流した姿ではなく、両手の中に顔を押し込めるようにし、声を殺して、泣いていた。震える肩を父がそっと引き寄せている。
寄りそう姿に、胸がつまる。
父がこちらを見た。
眼鏡越しの目。
それは怒りをはらんでいるようにはみえなかった。けれど、笑っているわけでもなかった。
「……話はわかった。僕と母さんは……君たちを見守るだけだ。おそらくこれから先、君たちは様々なものに直面するだろう。普段の生活では斎藤真雪、美幸で生きることに不都合はない。元義姉弟だなんてこと、ふだんはわかりはしない。けれどな、親戚で集まるとき、君たちの同窓生や旧友に会うとき、何よりも、これから君たちに子どもが授かった未来に……折に触れて何度も説明を求められることがでてくるだろう」
父の話す未来に、私は胸が締めつけられた。真雪が私の緊張を捉えたのか、背をさすってくれる。
私は真雪に「大丈夫」と返事するかわりに、私もまた真雪の背をかるくさすった。
父もまた、人生の中であじわってきた世間を知った上で言葉をかけてくれてるんだとわかるから、苦しくてもすべて聞きたい。
「真雪も美幸も、すでに、母さんを傷つけた。けれど、それもな、もともとは僕と母さんが結婚したからこそ、真雪も美幸も”義姉弟”になったんだ。もしも僕と母さんが出会わず、結婚せず、成長した君たちがなにかの縁でただの真雪と美幸で出会っていたなら、普通の恋に落ちて、結婚ですんだことだろう。つまり、義姉弟である環境を作ったのは、父さんと母さんの都合にほかならない」
「父さん!」
「だからね……真雪、美幸は、僕と母さんのことを気に病むことはない」
父が私を見た。
「美幸、僕は君が娘となってくれたこと、嬉しかったよ。よく支えてくれた。僕たち家族を」
「と、う、さん……」
「本当に……本当に、良い娘ができたと……真雪に良い姉が出来たと嬉しかったよ」
父の眼鏡のフレームと頬のすきまから、すっと零れ落ちる涙。たった一粒の煌めきが、私の心を突き刺す。初めて見る、父の涙だった。私は咄嗟に口を開く。
「ご、ごめ…」
「あやまるな、美幸」
父は私のことばをいつになく厳しい声でぴしゃりと遮った。そして、私から視線をはずし、真雪を見つめた。
「真雪、美幸を守るんだぞ。絶対だぞ」
「……はい」
真雪が頷く。その頷きを確認するように見届けると、父は、ふたたび私に目を向けた。
そしてその固い唇を、震わせた。
何か、とても大事な言葉を伝えてくれそうなのに、なぜかそのとき私はすごく怖くなった。
沈黙に恐れて、思わず私の方から「父さん……」と声をかけた。
すると、父は頷いた。
「美幸。よく聞きなさい。……今から、僕は、君を娘だと思わないことにする」
「父さんっ、何言ってんだ」
隣で真雪が声を荒げる。けれど、父は震えるようにして、言葉を私につきつけた。
「……斎藤になる前の――……美幸に戻っていい。真雪の姉ではない君に」
「父さんっ」
「そうして、もう一度、真雪と恋をしなさい」
父の言葉に驚かずにいられなかった。
「真雪、美幸……美幸さん。結婚は急ぐことではない。君たちは、姉と弟ではなく、一人の男と女として、恋をしなおしなさい。……僕には、君らが焦っているように思えるよ。そりゃそうだろう。また離れなければならないと思うから、結婚結婚と思うんだろう。そういう家族の結びつきに関する恐れは、真雪、とくにお前には父さんが離婚し、また再婚するという経験から、きっと味あわせてしまったんだろうと思う」
「父さん……」
「恋をしなさい。きちんと、互いをみつめあって、そして労わりあって、おもいあえる絆を作りなさい。姉と弟という関係から逃げるようにして、その上に重ねるようにして絆をつくるんではなくて、だ。そして、互いに経済的な基盤も生活の基盤も自分達で整えて、二人でなっとくして結婚しなさい。それが、僕の願いだ」
父が一度眼鏡の蔓をすこし持ち上げた。たまる涙を逃すように。
それから、もう一度私と真雪、それぞれをみた。
父の口元に微かな笑みが浮かんだと感じた。
「……そうして、いつか、本当に美幸が、真雪のお嫁さんになり、僕の娘になってくれる日を待っているよ」
「父さん……」
私が思わずそう呼びかけると、父は首を横に振った。「その呼びかけは間違いだよ」という風に。
そして、首を横にふった父は唇を噛み、俯いた。
父も泣いていたようだった。
そんな父の横で、母が両手で顔を覆ったまま、言った。
「……私も、今日から、息子を失うんやな」
ぽつりと零された言葉にはっとなる。
母の方をみると、母の肩が震えていた。
「あんた、ほんま、いっつも穏やかやのに、ここぞという時は、私よりきっついこと言うなぁ……あんたが言ったこと、一昔前でいうと勘当とかいうんやで、ほんまきっつい」
「うん、ごめん。君とはずっと夫婦だよ」
「あほぅ……そんなん、当たり前や」
父と母の声、どちらもが震え、そして私は泣かずにいられなかった。
隣を見上げると、真雪が唇を噛み、顔をそむけていた。
その顔をみて、私の心が張り裂けんばかりに痛む。
だけど。
だけど、それでも、私は真雪と歩みたいと思った。
父と母がこんな状況でも互いによりそっているように、私も真雪とそうでありたいと。
私は父を見る。俯く父とは目線を合わせることができなかったけれど、それでもいい。
どうか気持ちが届きますように。
「……バラバラにして、ごめん。でも、ちゃんと、父さんの娘になるから……待ってて」
私がそう言うと、父は俯いたまま、頷いてくれたのだった。




