Friday 2
父と母は、ちょうど真雪と私がマンションに帰宅した直後に尋ねてきた。
インターホンの音にスーツ姿の真雪と通勤服姿の私があわててドアを開ける。駅から歩いてきたと言って、白い息を吐いている両親を中に通し、リビングのソファに座ってもらう。
父と母から預かったコートをハンガーにかけていると、そのコートのひんやりとした冷たさが指先に染みた。
「お茶の用意とか、今はいらんよ。話しが終わったら、いただくわ」
真雪がキッチンに立ったのを見て、母が即座に言った。
私と真雪は一瞬目を合わせた。そして互いに軽く頷くようにしてから、両親が座るリビングソファーの向かいにローテーブルを挟む形で床に座った。スツールを持ってくる手もあったけど、目線が両親を見下ろす形になるのが、なぜか今の状況ではいけない気がした。なんとなく、真雪もそう思っていた気がする。
こどものとき、叱られるときに姿勢を正したみたいに、二人で正座していた。
「美幸、仕事切りあげてこれたん?」
「うん……」
「こうやって早く帰ってこれるんやったら、今までも、帰省しようと思えばできたってことやね。ずいぶんと……家を避けてたけど」
母はぐっさりと言ってきた。でも、お茶もいらない、変な挨拶もなし、単刀直入に用件を切りこんでくる容赦の無さがありがたい気もした。
私は膝の上に乗る自らの手をぎゅっと握って、頷いた。
「うん……仕事も忙しくはあったけど、時間は作ろうと思えば作れた。でも、作って来なかった」
「そう。今まで、なかなか帰ってこないから、家が嫌いなんか、何か居心地が悪いんじゃないかと、お父さん、気にしてくれてたんよ」
母の言葉に咄嗟に顔をあげて母を見る。それから母の隣に黙って座る父を見た。シルバーグレーが似合う落ちついた父の姿。眼鏡の向こうの目は私と真雪の方向を向いているようではあったけれど、その瞳が何を見つめているのかまでは、私にはよくわからなかった。
いたたまれなくて、私はまた目を伏せる。
「……心配させてしまって、ごめんなさい。家が嫌いとか、そういうのではなかったの。私が……真雪を意識してしまって、帰らなかったの」
隠していても仕方がないから、口にした。
私の言葉に母が息をついたのがわかった。
「昨日の真雪の電話では、真雪が美幸のことを特別に好きなんやというてたけど……姉として見られないし考えられないってことやったけど、やっぱり美幸もそうなん?」
私が頷くと、母はもう一度ため息をつき、黙った。
帰宅して電源を入れたエアコンの音が響いてきて、私はいたたまれなくなって膝の上で握っていた手をさらに握った。
しばらく黙った後、母が真雪の方に顔を向けた。
「真雪……あんた、就職活動のために、美幸のところに泊まりに来たんちゃうの? 姉と弟って関係壊すために泊まりに美幸のところに行ったんか」
母の声が、そのとき初めて、低く震えた。
そして、その低い震えを抱えた声でさらに続けた。
「……お母さんを……お父さんを、騙したんか」
母の言葉に隣の真雪が一瞬身体を身体を固くしたのが伝わってきて、私は咄嗟に口を開いた。
「ちょっと待って! 真雪が騙すなんて、そんなのっ。それなら私が……」
「美幸、今は真雪に聞いてるんやから、黙っとき」
「……騙したつもりはなかったんだ、母さん。でも、結果的に騙してたことになるのかもしれない」
真雪の言葉がリビングに響いて、部屋がしんっと静まり返った。
「俺も美幸も、ほんの数日前まで、互いの気持ちを知らず、自分の想いが一方的なものだって想ってきたんだ。俺は……このままではどうしようもない、何も告げず忘れることもできなくて、けりを付けるために、ここに泊まらせてもらうことにした。でも、美幸も俺を想ってくれてるってわかって――……」
「わかって、なんやの?」
母の問いかけの言葉は、低く厳しい。
真雪は一度息をのみこんだ。彼のぴりぴりとした緊張が伝わってくるようだった。
「もう、美幸を離したくないと思った。……姉弟という形では、いられないし、陰で想いあっていくなんてのもイヤだって思った」
そこまで言って真雪の言葉が一区切りしたとき、黙っていた父が「真雪」と呼びかけた。そして、言った。
「それは真雪が美幸に気持ちを押し付けているだけではないのか? そんな真雪の勢いに……はっきりいってしまえば、若さゆえの暴走に、美幸が巻き込まれてるわけじゃないのか」
父の問いかけに私は首を横に振った。
「違う……違うの。真雪の勢いに負けたとか、そういうんじゃないよ。私も、私にとっても、真雪しかいないって、ずっと想ってきたの。それがはっきりするまではね、こ、これでも努力したんだよ?他の人とつきあおうとか、忘れようとか。お母さんだって知ってるでしょ、私が学生時代につきあっている人がいたこと……」
視界の端で、真雪の手が一瞬ぴくりと震えた。私は見ないふりをして言葉を続けた。
「でも、つきあってみても、努力してみても駄目だった……駄目だったんだ。心が一緒にいたいって叫ぶのは、真雪だけだったの。結局他の人も傷つけてわかったのは、真雪じゃなきゃいやだってことだった」
私が言い切ると、父は黙ったまま眼鏡を一度はずし、眉間をぐっと抑えた。
その考え込むような仕草に胸が痛くなってくる。
すると母が言った。微かに震えていた。
「……少しは、わかった。……あんたたちの気持ちが、最近生まれて熱があがったようなもんではないことは、わかった。……それで、あんたたちはどうしたいん? これから、どうやっていきたいっていうの? それをはっきり聞かせてみぃ」
言葉をひとつひとつ区切るように訊ねてくる母は私と真雪をぐっと睨むようにして見つめてきた。
その強い視線に私が答えようとしたそのとき、隣で真雪が動いた。
少し座る位置を後退したかとおもうと、おもむろに両手を床についた。
そのひれ伏すような姿勢に私はハッとする。
「真雪!?」
真雪が頭を下げた。
「俺……いや、私と、美幸さんの結婚を許してください」
真雪のはっきりした声が響いた。そして続ける。
「もうすぐ卒業して、就職します。そしたら、ちゃんと籍を入れて、ここじゃなくてもいいから、二人で暮らしたい。夫婦としての斎藤真雪と斎藤美幸になりたい」
真摯な真雪の横顔に私の胸がしめつけられる。私が父と母に目を向けると、父も母もただじっと頭を下げた真雪の黒髪を見つめている。その顔に驚きの表情は見えない。
私はその張り詰めた空気をのみこむようにして、
「わ、わたしからも……お願いします!」
と追いかけるようにして真雪の隣で床に手をつき頭を下げた。
両親にこんな土下座みたいな恰好で何かを願うのは初めてだった。いや、親以外にだってしたことがない。
でも、そうやって身体と言葉で示したとたん、私の中でカッと巡る熱さがあった。
そうだ、私は真雪と一緒にいたくて……一緒にいたい一緒にいたいと願ったり口にしたりするだけで、行動がなかなかできなくて。
そんな私に対して、真雪は父の言うように若さの暴走ってところがあったとしても、こうしてずっと心のもどかしさをなんとか外へ周囲へ動かそうとしてくれていて。
心で願って夢想してるだけじゃだめだって想いながら、昨晩の結城さんとのやりとりを想い起こすようにして顔を伏せた。
私と真雪がお願いしますと言ってから、しばらく部屋が静かになった。
何も返事のない両親。
何か答えてくれるまでは顔をあげない気持ちで伏せていると、今日何度目かわからない母のため息が聞こえた。
「……真雪、美幸」
呼ばれて、私と真雪は同時に返事していた。
そんな私たちの上を、母のお腹の底からしぼりだすような低い声がずっしりと通った。
「……あんたらがその姿勢を取って、そうやって願って……なんの意味があるというん?」
母の厳しい言葉に顔をあげた。
隣の真雪はまだ頭をさげたまま。
私と目があった母は涙をたたえた目をキッと私に向けた。
「美幸、あんたもや。何を勘違いしてるん? 私は言いわけを聞きにきたんでも、許して下さいなんてお願いごと聞きにきてるんとちゃう。あんたらどういう決心しとるんかを、聞いてるんや」
「だから……結婚したいって……それを許してほしいって……」
私がそう言い返すと、母はぐっと目の端をつりあげた。
けれど怒ったような顔なのに、なぜか私はそれが母が怒りというよりも、真剣に……心底真剣に私と真雪を見定めようとしての表情な気がした。
私の中にまでぐっとした力がこめられてゆく気がする。
母はゆっくりと口をひらいた。
「結婚したい、だから許してほしい……? 聞くけどな、私とお父さんが許したら、結婚するん? じゃあ、許さんかったら、別れるっていうんか?」
聞かれて、私は返事ができなくなった。ぐっと唇を噛むと、母は続けた。
「私とお父さんの返事に決断を委ねて甘えるのは、やめや」
力の入った、声だった。
母はゆっくりと、ひとつひとつ区切るようにして、まるで言葉すべてにすべての魂と力を注ぎこむようにして言った。
「結婚するのも、せえへんのも、隠れてつきあうのも、大っぴらにつきあっていくんも、すべて真雪と美幸の決めごとや。お父さんとお母さんが反対したからできない、賛成したからできる……そんな私たちの返事で決めるのはよして」
「お、かあ、さ、ん……」
「親の私たちがどういう思いでいようとも、どんな返事をしようとも、あんたたち……真雪と美幸が貫こうとする行動こそが『ふたりの決心』やろ?それを、聞かせてみいって言うてんの。許して欲しいって願ってきてほしいなんて思ってない!」
母の言葉に息がつまった。けれど、私は首を横にふって、必死に伝えようとして言った。
「結婚を許して欲しいと言ったのは、私も真雪も……お父さんとお母さんにわかって欲しくて……身勝手に結婚したら駄目だと思って……」
私がそういいかけたとたん、母はカっと目を見開く。そして、母は母自身の膝を両手でバンと叩いた。
「美幸、甘えるんもいいかげんにしぃ! 認めて欲しい? わかって欲しい? そんな甘い状況が欲しいんやったら、あんたらも”その程度”の関係で我慢しとけばええやろ!」
「お母さん……」
「あんな、いくら義兄弟といってもな、秘かに好きあってる、ちょっと心で魅かれてる……そういう甘い心がふわふわなってる程度の関係やったら、同情誘えるかもしれんよ? 世間でいう男前の弟やし、まぁそれなりに美幸も綺麗な子や、再婚したときにはすでに小、中学生やったんや、何か互いにこそばゆいような憧れの気持ちが芽生えても仕方ないってくらいやったら、理解もしてもらえるやろう」
母がそこまで言って、いったん大きく息をした。
そして、一度ぎゅっと母は子どもみたいに力一杯目を閉じたかとおもうと、ふたたび目を開いた。浮かぶ涙を断ち切るようにして、言った。
「でも、美幸と真雪が求めてるのは違うんやろ? もっと深い情で……そして、はっきり男と女を意識したもんなんやろ?」
断定されたとき、私の背筋も震えた。隣でまだ顔を伏せたままの真雪が、ごくりと唾をのみこんだのか背筋が揺れた。
「あんたたちが求めてるんは、二人で一緒にいる社会的な立場やろ? 結婚して夫婦という形ふくめた、ずっと共にる”証し”なんやろ。……あんな、そういうのはな、責任っていうのが伴うもんや」
「……お母さん……」
「周囲に甘えて、認めて欲しいって願いまくって、わかってもらえると期待して周囲の顔うかがってなんて、そんな怯えながら保っていける関係と違う! 痛みも、辛さも、無理解もときにさらされても、それでも、この人とやっていくってことや! 私が私であるため、この人がこの人であるために、互いに互いを与えあって責任を負って立ち続けるってことやっ。それは、なまやさしいものだけとちゃう! 重いことも、ようけあるんや!」
母の目から、ぼろぼろと涙があふれ出た。けれど母は拭うこともなく、言った。
「そりぁね、誰だって、みんなに羨ましがれる素敵な夫婦になりたいわ。 夫婦だけちゃう、健やかで賢くて可愛い子どもに恵まれるだとか、親戚、近所ともうまくいくとか、嫁姑も仲良くて尊敬しあえたら素敵やとか……。そんな関係、誰だって手に入れたくてあたりまえや。でも、実際はそうやない。上手くいく関係もあれば、悩んで泣いたり悲しんだり苦しんだり、落ち込んだりしなあかんときかってある。 ときに、仲良くやれてたはずが、誤解を招いてやりとりできないようになってしまう場合だってある! からだかって、病気があって、死があって、哀しい身が切られるような伴侶との別れもある。……伴侶だけやない、親を子を見送らなあかんときだってある。家族になるっていうのは、強くなれる部分もあるけど、弱みを背負うってことでもあるんや」
私は、私の実父のことを思い出した。母は気丈だったけど、いまの父とたしかに仲が良いけれど、母だって私の実父と築いた結婚生活があったということに、今さら思い当たった。
母は喪失の悲しみと恐怖の上で、真雪の父の手をとったのだ。
それに気付いたちょうどそのとき、前に座る父が、そっと母の膝に手を置いたのがわかった。励ますように、寄りそうように。
歳老いた、皺のある父の手が、母を励ましている。
母はその手に自分の手をかさねたかと思うと、いちどぐっと息をのみこんだ。
そしてゆっくり吐き出し言った。
「でもな……それと同時に手離せられへん出会いがあるのも……私はわかっとる。お父さんも、それはわかってるよ」
母の手が父の手を軽く握るのが視界に入る。
死を知っている母が、離婚を知っている父が、再度こどもも連れながら夫婦になったっていうこと。私はずっと周囲の親戚などの無理解に苦しんでいる両親ばかりを気にかけてきた。
でも……父と母の二人の関係の中にも乗り越えたものがあるんだ。
「美幸、真雪。お母さんもお父さんも知ってるつもりや。……誰にも望んでもらえない、理解してもらえない出会いでも、その出会った二人には互いに貴重な出会いっていうものがあるって。……今を逃したら、未来が変わってしまう……だから共にあゆんでいこう……そういう気持ちも、知ってるつもりや!」
母が泣いていた。そして隣の励ますような父も、決して涙をながしていないのに、そのたたずまいに二人で乗り越えてきた何かを感じた。
「だから……本気を聞かせてみぃ!って言うてんの!周囲に認められたい?わかってもらいたい? そんなん無理やろ? 真雪も美幸も、世の中のあんたらの関係に眉をひそめる人、みんなみぃんなに、いちいち説明してまわるんか? わかってほしいって頭さげてまわるんか? ……理解してもらえるラッキーを求めて……周りにペコペコして、顔色うかがって生きるっていうんか!」
母の最後の叫ぶような啖呵に、私は圧倒された。
沈黙が落ちる。
「真雪、美幸」
「……はい」
私は母のさきほどの言葉に震えて返事できない、真雪だけがゆるがない声で返事していた。
そして、隣で顔をふせていた真雪がゆっくりと上体をあげたのがわかった。
「……周囲に認めてもらう、受けいれてもらうっていうのはな、あんたたちが、ちゃんと心にひとつ二人で貫く強い絆をつくってな、顔をあげて生きて、生き抜いて、その結果で周囲が認めてくれたり、受け入れてくれたりするものやろう。希うものと違うやろ」
「はい」
真雪の返事につられて、私も頷く。すると母は私と真雪を交互に見た。そして言った。
「私とお父さんに、ちゃんと話してごらん。……二人は、どうありたいんや」
母の声が凛とリビングに響いたのだった。




