Thursday 6
その後、結城さんは真雪と私はお酒や食事を口にしながら、私と真雪の子どもの頃の話や二人のこれからについて話を聞いてくれたりした。そして、日付が変わる前には帰宅しないと、まだ金曜日が残っていて辛いだろうからと、帰りは結城さんが車で私と真雪をマンションまで送ってくれたのだった。
遠くなってゆく結城さんの車の後ろ姿を見送りながら、私は真雪にたずねた。
「緊張した?」
「まあね……。でも、お会いできて良かった。美幸も仕事でつながりのある人に話すのは勇気がいっただろう。美幸、ありがとう」
真雪がそういってくれて、私はホッとした。私の本気度は真雪にも伝わったと感じて、嬉しかった。
すると、真雪が、
「それに……あらためて、ごめん」
と謝って来た。何かと思って真雪の顔を見上げてみると、ちょうど視線が交わる。
マンション前の街灯に照らされた真雪は、少し間をおいた後、私から視線を逸らせ、口を開いた。
「……前、枕営業とか言ったこと。結城さん誠実な人だったし、美幸は人間関係の幅、どんどんひろげていってるんだなって思って、すごく二人に失礼なこと言ったんだなって」
「真雪……」
「今日さ、結城さんと美幸と三人で話していて、前の俺の勘ぐり方……なんか子どもっぽいヤキモチをこじらせたんだなってあらためて感じたんだ」
少ししゅんとうなだれているような表情の真雪に苦笑する。
「あれはお互い説明不足だったよね。……冷えてきたよ、部屋に戻ろう」
そう促すと真雪は頷いて、もう一度「ごめん」と謝り、私とともにマンションのエントランスをくぐったのだった。
***
順番にお風呂を使い、歯磨きもすませて、あとは「おやすみなさい」と言って別々の部屋に戻っていくだけになったとき、真雪が言った。
「……リビングにさ、布団並べて敷いて、寝ようよ」
「え?」
「明後日の土曜日には……俺、実家に帰らないといけないからさ。眠るまでの間、少しでもダラダラしゃべってたいなって」
お互いパジャマ姿の真雪と私は、廊下で見つめ合う。
真雪の提案、それは布団を並べて寝るってことで……。
私の戸惑いがわかったのか、真雪が言った。
「手出ししないつもりだから」
別に私は真雪に手出しされてもかまわないけれど、真雪の中でわりきれないんだろうなと思ったので、私は「うん、いいよ」とだけ返事する。
すると、真雪が嬉しそうにわらった。
その後、私と真雪はごそごそとリビングのローテーブルを部屋のすみに寄せて、それぞれの寝室から運んできた布団を並べて敷いた。
なんとなく並んだ布団に身をすべりこませるのに照れがあった。そんな照れくささをごまかすように、私はそそくさと布団にもぐりこむ。隣で真雪も自分の布団に入る。
「明かり消すね」
リモコンで電灯を消すと、真っ暗になった。
壁時計の針の先の蛍光色だけ闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
しばらく二人とも黙っていた。
目が暗闇に馴染んで来たころ、真雪が言った。
「……昔、こうして布団並べてたことあったよな。父さんと母さんが出張の時」
「うん。真雪ひとりで寝るのいやがるんだもん」
真雪が話しかける声に、私と同じことを思い出していたのだと嬉しくなった。
年に数回だったけれど、父さんと母さんが同時に泊まりの出張となることがあった。そういうとき、真雪が不安そうな顔をするので、客間に布団を並べてしいて「キャンプごっこ」をすることにしたのだ。
枕投げをしたり、布団の上でトランプをしたり、家の電灯をつかわず懐中電灯で過ごしたりなんてすると、すごく喜んだ。それはそうだろう、あのときの真雪はまだ11歳の小学生だった。
そのとき真雪が言ったのだ。
「やっぱり、ひとりじゃないっていいな」
その言葉が心にのこってて、真雪が中学生になって自分から「もういいよ、別に一人で大丈夫」と拒むまで、父さん母さんどちらも帰りが遅い日や出張のときは、キャンプごっこをしたのだ。
「今思うとさ、美幸はいやじゃなかった?」
「どうして」
「だって、あの時美幸は15、6歳だろ。ようは怖がるガキの相手させられてるっていうか……面倒に思わなかったかなって」
私はあの頃のことをぼんやりと思い出した。
「……うーん、真雪がお手伝いサボるのにイライラした覚えはあるんだけど、面倒だとかそういうの感じたことがないんだよね」
そう答えると、真雪が「そっか……」と言った。
「俺さ、ずっと……美幸が俺にそっけなくなったのって、世話かけてる俺が、反抗期というかふてぶてしい態度になったから、怒ったというか……愛想尽かしたんじゃないのかなって思ってたんだ」
「そうなの? あぁ、でも時期的にはそういう感じなのかな。真雪、中2あたりからどんどん無口になったもんね。私が高3あたりから学生時代か……」
真雪の言葉に、私たちがずっとお互いに誤解してきた年月を想った。
それは寂しい気もするし、誤解していたからこそ良かったのかもしれないとも思えた。きっと、お互い十代とか、社会も見えてないときに気持ちを伝えあっていたら、激情で私たちは二人きりで突っ走ったことだろう。
私は出会った頃の真雪や中、高の制服姿の真雪を思い出しながら言った。
「私は……真雪と初めてあったころは、小学生の元気な子って感じで、可愛いなぁと思ってたな。悪戯には本気で腹が立ったけど、でも一緒にいてイヤだと思ったことはないよ。家事だって、真雪は同い年の子たちにくらべたら断然なんでも出来たし、私が世話してるって印象はまったくないの。ただ……」
「ただ?」
真雪がたずねてくることに答えるのは、少し勇気が必要だった。
「ただね、真雪は出会った時は少年だったけど、どんどん成長していくのを目の当たりにして、なんだか気持ちが変わっていく自分がイヤだったの。真雪が嫌なんじゃなくて……私自身が、自分の心が変わるのが、厭らしく感じて怖かった。だから、気持ち整理したくて、家を離れたの」
「いつ頃から俺のこと意識してくれた? ガキじゃなくなった?」
「……どうしてそんなこと聞くの」
私は照れもあってふてくされたようにそう尋ねかえした。すると、真雪が言った。
「知りたい。俺は、いつから美幸の目に男としてうつってたか、知りたいなと思って」
ほんのちょっと暗闇なのに甘い空気が漂ったきがした。視線もなにも交わっていないのに、真雪の声に微かにねだるような色が混じって。
「……男って……。そうだね、真雪が中2に入ったころくらいかな。あれくらいから、真雪がときどき寝起きの朝にもシャワー浴びるようになったでしょ」
「え……」
「あぁ寝ぐせとか汗かいたのとか気にしてるのかな、クラスの女子とかの目が気になるのかな……とか思ったら、どんどん男っぽくなっちゃうんだなぁって思った」
「……」
「真雪?」
私が声をかけると、真雪が隣の布団でごそごそとみじろぎした。返事が無いので、もう一度「真雪?」と問うと、
「……シャワーって。なんか、もう……」
と、くぐもったような呟きが聞こえた。
「真雪どうしたの?」
「……いいの。男の問題」
「なによ、それ。聞いてきたのはそっちなのに……」
私がポスッと隣の真雪の布団を軽くはたくと、その手の手首を真雪に掴まれた。
「ちょっと……」
「美幸が妙なとこに気づくからだろ。それともわかってて言ってるの?」
「わかってるって、何が?」
私が戸惑ったように言うと、真雪が軽くため息をついたのがわかった。
「……いいよわからなくていい、ただ俺は今ので気付いたけど」
「なにを気付いたっていうの?」
「美幸が俺を意識するようになったのは、俺の方が先に美幸を姉さんと思えなくなったからだって」
「何よそれ」
「中2の頃だろ? 口は無口になったり無愛想になったけど……身体からフェロモンが出てたんじゃない? 美幸が好きだって……俺を男として意識して欲しいっていう欲求がダダ漏れてたんだろ。それを美幸が受け取ってくれたんだ、きっと」
真雪が投げやりにそう言ったかとおもうと、つかんでいた私の手首をはなしこんどは手を握ってきた。軽く引かれたかとおもうと、私の手に息がかかる。
自然と真雪のいる方に身体を向ける。布団がずれる衣ずれの音。
真雪が私の指先にそっと口づけた。
闇で表情はみえないのに、真雪はきっと私の方をじっと見てる……そんな気がした。
ドキドキする。
指先が、熱い。
「可愛い指……相変わらず、爪のばしてないんだな」
「ピアノ弾くもの」
「うん……この方がいい。美幸の手らしくて……ずっと触れたかった手なんだ」
「あ……」
真雪が私の右手の人差し指の先をぱくっと口に入れた。
ちゅっと吸われる。
「真雪……」
――……手を出さないって言ったんじゃないの?
続きは言えなかった。私には、手出しされて触れあいたいなって望む気持ちがあるから。きっと、真雪より私の方がいやらしい。
「……指なんて美味しい?」
問いかける自分の声に甘さが混じってるってわかる。指先のねっとりした熱さに魅かれるようにして。
暗くてよかった。私の顔がもし電灯に照らされたら、きっともの欲しげな顔つきをしてるに違いないから。
真雪の唇が私の指をたどり、中指を舐め、薬指を甘く噛み、手のひらに口づけてゆく。
胸がどんどん高鳴る。
脳裏に鮮やかによみがえるのは、真雪の艶やかな形の良い唇、黒くキリっとした瞳。その瞳が私を見つめる瞬間。
頭に思い浮かぶ像と、私の手に熱を与える唇の感触が私を真雪で染めあげてゆく。
私は息を止めて、なんども自分の口から漏れ出そうになる吐息をこらえた。息を、声を吐きだしてしまったら、きっとこのリビングの空気がさらに熱をはらむのがわかったから。
しばらく真雪は私の右手にキスした。そしてすべての指と手のひらと甲を味わったあと、最後に手のひらを頬に当ててぬくもりを分けあった。
私の手のひらから伝わる真雪の頬は思いのほか熱かった。私が息をこらえていたように、真雪も何もいわなかった。
味わいつくした真雪がゆっくりと私の手を私の布団の方へと戻す。
「……美味しかった、美幸」
ぽつりとした呟きなのに、真雪の声は熱を孕んでいた。何かを抑えこむような、こもった声音。
私は自分の布団に戻って来た右手――まさに今、真雪から愛撫された右手――を、ぎゅっと左手で握りしめる。
「うん……真雪、おやすみなさい」
「おやすみ」
もうこれ以上、話してられないことは、お互いにわかっていた。
きっともう、言葉に声に、気持ちや溢れる身体の熱が零れ落ちていってしまうに違いないから。
こどものときみたいな、キャンプごっこはできない。それが時の砂を重ねるということ――……。
私は右手を握る左手にさらに力をいれて、もういちど、「おやすみ」と小さくいって、布団の中にもぐりこんだ。熱かったけれど、そんな火照る身体にさらに布団を巻きつけるようにして真雪に背を向ける。
そうでもしないと、私は自分こそが真雪を汚してしまうのではないかと怖かった。
だけど、隣に真雪がいるということが、たとえようのないほど、嬉しかった。




