Thursday 2
デスクに戻り、残りの仕事に手をつけた。
最初予定していたものを終えると、土曜日に出勤ということにならないように、早めに先々の資料作成にも目を通しておく。
休憩所での課長のおかげで私の中にあったもやもやしたものが落ちつき、仕事もいつものはやさですすめられるようになり、ほっとした。資料も出来上がったので定時よりプラス残業一時間半ほどして、切りあげることにした。
最後に今日の日報をまとめていると、やはり課長と話した後の方が資料作りにしても効率がよくなっているのがわかって、苦笑してしまう。
心が軽くなった途端、さくさくと作業をこなせるようになる自分の姿に、ふと十年ほど前の真雪の言葉を思い出した。
日報を提出し、帰り支度をしながら脳裏に思い描くのは、私がまだ高校二年生、真雪なんてまだ中一でまったくくたびれてない黒の学ランを着ていた頃。
『……姉さんって、悩んでるときは人生の崖っぷちにいますって顔で座りこんでるのに、心が決まったら行動はやいよな』
彼のまだ声変わり途中のちょっとかすれ気味の声が、十年経っても耳に残っている。
当時私は吹奏楽部に入っていた。そして、真雪からその言葉を言われた日というのは、同じ部活の男の子から帰り道に告白された日。好きだ、つきあって欲しいと言ってくれた男子は、ずっと部活仲間だと思ってきていた同学年だった。
当時の私は、義弟の真雪がとっても大切だった。でも大切な人だけど、それは恋とはまだ違ったと思う。ちょっとずつ少年から青年にかわってる風な真雪に戸惑ったり、ドキッとしたり、可愛く思えたりしても、純粋に弟というか、”こども”と思ってる部分が多くて、私自身の気持ちもまだはっきり定まって無かった。
そもそも私自身も、あの頃、恋愛話に距離をおいていたと思う。それは、真雪のせいというよりも、父と母が子連れ再婚してまだ二、三年にしかたってなくて、結婚当初の親戚や近所からの周囲の視線に傷ついた私の心がまだ癒えてなかったせいだ。
いろんなことに敏感になっていて、人が詮索したり疑ったり、噂したりといった態度を過剰に嫌悪していた。同級生の恋話ですら、もちろん聞きはするけれど、別れたりだとかくっついたりだとか、浮気したりだとか聞くたびに、どこか親戚連中が子連れ再婚の両親のことを陰でこそこそ言っていた姿を思い出してしまって、耳をふさぎたい気持ちを我慢して聞いてるところがあった。
そんな私が、今まで何とも思ってなかった男子と部活後の戸締り当番にあたり、音楽準備室でたまたま二人きりになったときに……真剣な目で真正面から名前を呼ばれ、告白された。
夕暮れ時のオレンジ色の日差しが準備室の小窓から差しこんでいたのを覚えている。あと音楽準備室の楽器庫の独特の匂い。
毎日のように楽器練習に励んで、高校生活でなじんでいった幾つもの風景が、いっきに何か別物になったような一瞬だった。
そして、今思えば高二にしては私があまりに幼稚だったんだろうけれど、当時の私が告白されて最初に思ったのは、「イヤだ」って気持ちだった。照れとかじゃく、何かいつにない二人の間に漂う真剣な雰囲気がとても怖くて……逃げだしたくて。そして、「友達だとは思えない」という言葉に「裏切られた」って思ってしまったのだ。
ずっと仲間と思ってきたのに……どうして!?……と。
驚きと戸惑いで、その時は何も考えられず応えられず、相手も私に即答を求めたりもしなくて、私は逃げるように帰った。初めての経験で、私はもう本当に緊張と困惑で、返事を待たされる相手の男子を思いやる余裕なんてまったくなかったし、そもそも自分の気持ちだってまったくわからなかった。
気が動転してるままに、なんとか家に帰りついて……。
まだ真雪も部活があったのか帰宅してなくて、私はたった一人の自宅のリビングでぼんやり膝を抱えてすわっていた。
そうして、しばらくすると真雪が帰って来たのだった。
「何、姉さん……電気もつけずに座りこんでんの」
片手で器用に詰め襟のホックをはずしながら、真雪がそう言った姿は、今でも鮮明に思い出せる。 ちょっとふてくされたような表情。小学生の頃みたいなフェイスラインじゃなく、シャープになった頬から顎にかけてのライン。私と変わらなくなってしまった身長。そういえば、あの頃、すでに靴のサイズは追いぬかされていた。中学に入って、口調だってどこか粗野な感じになって、声だって変わりはじめていた。
あの時、黙りこんだままの私に、真雪はさらに不審気な顔つきになって言った。
「しかもドアの鍵、空いてた。鍵してないの、不用心だろ。姉さん、いちおう女なんだから、もうちょっと用心しろよ」
「……あ、ごめん」
昔から鍵っ子が板についている私たちにとって、帰宅したら、すぐに内側から玄関の「鍵を閉める」というのはとても大切な事だった。『下校の子どもをねらって、ずっと後をつけてくる変質者がいるかもしれない、そっと侵入してくる窃盗犯がいるかもしれない。だから、家に入ったらすぐにちゃんと内側から鍵をしめようね』――……これは、お互いにまだ出会って無い頃から、そして両親が結婚して義姉弟となってからも、いつも守ってきたことだった。
だからいつだって、私たちは常に家のドアの鍵は閉まっているものと思って、それぞれにマイ・キーを持って自分で家のドアを開けていたのだ。
あやまる私に真雪は鞄と部活用のバッグを床におきながら言った。
「ごめんで済むなら、世の中もっと平和だろ……。で、どうしたの?何、へこんでんの?」
部活仲間からの告白が衝撃的で、心ここにあらずという感じの私の異変にさすがに真雪もおかしいと思ったのかもしれない。
私が座るリビングソファには座らず、床にどっかりと座りこんで、私を見上げてきた。
今も変わらぬ、黒い瞳、ちょっと鋭いような目付き。でもその奥には私への気遣いがあって。その時の私はいつもより話し相手に飢えていたのか、真雪にその日あった出来事を漏らしていた。
「ん……告白されたの。部活仲間に……」
「告白?なにそれ。つきあいたいとか?」
「うん。好きって言って、つきあいたいって」
「……それで?」
「それでって?」
私の返事に、真雪が苛立ったように、「だから、姉さんはなんて返事したんだよ」と早口で言った。
「返事……してない」
「なんだよ、それ」
「だって……」
「そんな態度、相手だって困るだろ」
「そんなこといわれたって……」
真雪の責めるような口調に、私は苛立った。
どうして真雪に責められないといけないの?っていう気持ちと、告白されたときに抱えた胸のもやもや……。そして、私は、あの時抱えていた本音を真雪に言ってしまったのだった。
「どうして真雪に責められなきゃいけないの?だって、突然、好きだとか、付きあって欲しいとか言われても……よくわかんない。せっかくいい仲間って思ってきたのに。気まずい気持ちの方が占めちゃうよ」
「……気まずいって、男の方だってそうだろ」
「どうして真雪、男の方の肩をもつの!もちろん、あの人は悪くないんだってわかってるけど……ただそんなの気持ちぶつけられても……どうしたらいいのかわかんないよ!私だって、裏切られたっていうような気持ちがしてるのに!仲間を一人失ったみたいな気持ちなのに。私があの人のこと男だって意識してこなかったのが……友達と思ってたことが、そんなに悪いことなの?」
私が音楽準備室での一件からずっと心に貯めていたものを言葉にして吐きだしてしまった。
何故だか真雪自身がつらそうな顔を一瞬した。少し眉を寄せて。
でもそれはほんの瞬く間のことで。
すぐにいつものちょっと鋭いような、こちらを見定めるような表情になった。
「でもさ、今は男として思えなくても、時間が経ったら思えるんじゃないの?」
「それこそ、わからないよ。だいたい、つきあったり別れたりとか……父さん母さんみたいに結婚っていう正式なものですらアレコレ言う人いるのに、いやだ……注目されたくないよ。もうそっとしておいて欲しい……」
「じゃあ、質問変えるけどさ、別に……好きな男とかいるわけ?」
「え……」
聞かれて、戸惑った。男女関係に目を向けたくなかった私は、友達にそういうことを聞かれても、適当にやりすごしてきた。
でも、あえて真雪からたずねられると、だあれもいなかった、一人をのぞいて。
好き、と思える子。
目の前の、真剣に尋ねてくれる真雪以外に……いなかった。もちろん男子の中に、優しい人や面白い人、話して楽しいクラスメイトいたけれど、「人」であって、女友達と同列の見方だった。
真雪だけだった――意識するのは。
背筋がぞくっとして、私は真雪のこちらを見とおすような黒い瞳から目をそらした。なにか開けてはいけない蓋に手をかけてしまった気がした。
「い、いないよ。部活と勉強の両立で精一杯だもの……それに、まだ、そういうの興味があんまりない……苦手だし」
「ふぅん……じゃあさ、いま姉さんが言ったことが答えなんじゃないの?さっさと返事しないと相手に悪いだろ。姉さんが戸惑ってるのもわかるけどさ、姉さんが”その気”ないのに宙ぶらりんって、相手に酷くない?」
真雪の言葉が突き刺さる。
そうなのだ。気が動転すると私は即答できなくなる。うろたえて、へたりこんでしまう――……。でも、本当は答えは決まってる。
迷ってるのは、返事のイエスかノーじゃなくて……決まってる返答を、どう伝えるか、それを実行するのがイヤで座りこんでるだけなんだ。
真雪が私の欠点をはっきり指摘しまったように感じて、私はちょっと頬が熱くなるのを感じた。4つも年下の弟の真雪が、私を越えてしまったような錯覚に陥って、なんだか恥ずかしく悔しかったのだ。
でも、同時に真雪の言い分ももっともで、あの男子に返事を待たせる意味がないと、私も思った。
答えは……出てる。
心が決まったと思った。
私は一度ぎゅっと唇を引き結んでそれから、ふぅっと息をついた。そして立ちあがった。
「本当だね、真雪の言うとおりだ。……こんなに駄々っ子みたいにしてても、いけないね」
「……」
「電話してくる……ありがと」
そうして私は、リビングを離れ、隣の部屋に行って告白してくれた子に電話をした。
つきあうとか考えられないこと、部活仲間としか思えないこと――……。相手の好意に応えられないこと、残念そうな声音を聞くのはとても辛いことだったけれど、真雪の言う通りだと思った。
……宙ぶらりんというのは、きっとすごく苦しい。それくらい、当時の私にだって予想できた。
話しの最後に、次の部活からは通常通りなにもなかったように、仲間として過ごそうと言われてホッとした。そうして通話をオフしてふりむくと、ドアのところに学ランは脱いだのか白の制服シャツに黒の制服ズボンの真雪が立っていたのだった。
「ちょっと……人の電話、聞かないでよ。わざわざ移動したのに。失礼でしょ」
私がちょっとしかめっ面を作りつつそう言うと、真雪は言った。
「……姉さんって、悩んでるときは人生の崖っぷちにいますって顔で座りこんでるのに、心が決まったら行動はやいよな」
「え……そ、そうかな」
私が真雪の言葉に驚いて、焦ったように返事すると、真雪はいつになく真剣な顔をした。そしてしばらくして、息をついた。いつにないその深い吐息に、ドキっとした記憶が残っている。
「そうだよ……姉さん、うじうじしてるようで、案外、即決なんだよ。……俺も、時どき、そうなりたいなって思うよ」
そう言い放つと、真雪は身をひるがえして自分の部屋へと戻っていってしまった。聞き慣れない「俺」という言葉に疑問を持つ間もなかった。
***
――……たぶん、あの頃から、私の意識が真雪を「男」として捉え始めたような気がする。真雪はどうだったんだろう。あの時、すでに私のこと意識してたのかな。それとも、まだお姉さんだったのかな……。そんなことすら、私たちは、まだ互いに知らない。
いろいろ思い出している内に、社外に出ていた。
お互いに制服だった思い出の頃から、今はこうして私はヒールのあるパンプスを履き、お化粧もしてて、真雪もスーツに身をつつみ就職活動をする年齢に成長してるんだ。
そして……なによりも、思い出のあの頃は私は恋に目覚めていなかったけれど、今はお互いの気持ちがあって、唇を合わせて、そこから生まれるの熱を知っている……。
夜空を見上げながら、今晩帰ったら真雪にもっとお互いを知りたいんだって話してみよう……ほんのちょっと甘えてみよう、なんて思いつく。
不安なんだって伝えるにしても、真雪のことが知りたくて不安なんだって言えば……ちょっとは絆されて話してくれるかな。
真雪はあの黒い瞳にどんな光りをのせるんだろう。
そんなことをいろいろ想い浮かべながら、まだ冷え込む夜の道を私は駅に向かった。




