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心ひらく鍵のありか  作者: 朝野とき
零れ落ちる時のありか
12/23

Thursday 1

「どうした、めずらしいじゃないか、ここで飲み物を飲んでるなんて」


 そう声をかけられ、私は顔をあげた。

 ベンチに一人で座っている私に声をかけたのは、伊崎課長。

 上着を脱いだワイシャツとネクタイという姿で、立っていた。

 

「課長も休憩ですか」

「あぁ、俺は外回り連中が戻ってくる前に、ここで缶コーヒー買っておくのが日課なんだ」


 くすっと笑いながら、伊崎課長は私に横顔をみせながら自販機にお金を投入していく。慣れた様子で迷いなくボタンを押すと、缶が落ちる音が休憩所の狭いスペースに響いた。


 ちょうど午後三時を過ぎる頃、外回りがなく自分のデスクで書類仕事だった私は、ビル内の自販機とベンチが置かれている休憩所に来ていたのだ。コーヒーや紅茶が飲めない私は、通勤のときにはほうじ茶を入れたマグ水筒持参なので、社内の自販機はほとんど使ったことがなかった。でも、今日は気分をかえたくてこちらに来た。

 急ぎの書類が仕上がってしまうと、どうしても昨夜の真雪のつらそうな表情が頭にチラついてしまった。そうして集中力が切れ、一度真雪のことを思い出してしまうと、いっきに昨晩の真雪の言葉が頭の中をリフレインしはじめてしまったのだ。

 『一番きつかったのは、その人の言葉よりさ……俺自身が、そこで『恋人です』って言えなかったことだ』――……まるで心の呻きのような言葉。

 胸がしめつけられて、次の作業に集中できなくなってしまった。それで、少し別の場所で気持ちを切り替えようと、気分転換にここに来たのだった。


 自販機から上半身をかがめ缶を取りだした伊崎課長は、私の前に立ったまま缶のプルトップを開けた。

 その姿をぼんやり見上げていると、伊崎課長はちょっと眉を寄せた。


「……やっぱり、今日の斎藤、勢いに欠けるよな。……前の安東のケータイの件で、結城さんとは大丈夫だったか?」

「え、あ……はい。結城さんはさっぱりした方なので……」

「それなら良いが。斎藤、あまり一人で抱え込むなよ」

 

 思わぬ課長の言葉に私はまじまじと課長を見てしまった。すると、課長は缶に口をつけつつ、


「斎藤は頑張り屋なのは長所だが……ちょっとひとりで背負いこみすぎるからな」


 と呟いた。

 私が課長の言葉に返事できずにいると、課長は困ったように笑った。


「一人で解決しようとするな。周りに相談したり、愚痴ったりするのを面倒くさがるな」

「課長……」


 私の表情が情けなかったのだろうか――……課長は、缶を手にしたまま私の隣に座った。拳三つ分くらいの間を空けて。


「斎藤、入社して五年ほどだろう。この五年、辞めていく奴だっている中、お前は残業も厭わず、ただひたすらにがむしゃらに仕事こなすとこがあっただろう。脇目もふらずというか、さ」


 課長の言葉に私は少し俯き、今まで飲んでいたコーンスープの飲み口の暗い穴を見つめた。

 ――がむしゃらに働いていたのは……真雪のことを考えたくなかったからだ。これからもずっと女一人で働いて自立して、将来、顔を見せに帰ることがあっても、真雪が家を出るまではぜったい実家暮らしに舞い戻るなんてことがないように――……真雪と顔を合わせることがないようにと、心を奮い立たせて仕事にのめりこんできたのだ。

 

「若いのに仕事中毒なのもなぁと思ってたが、案外、ピアノのレッスンに通ってるだとか、毎月貯金してボーナスも貯めてピアノ買っただとか言うから、まぁそういう目標のためにがむしゃらなのかなと思ってた」

「……」

「それはいいんだけどさ、そろそろ入社五年にもなってきたら、今みたいに若手に教えることもでてくるし、あと数年すれば、チームリーダーや課長職とかも視野に入ってくるだろう。そうしたら、やはり、全部一人で背負いこむ形では切りぬていけない」


 私はぎゅっと缶を持つ手に力を込めた。


「別に私生活をベラベラ話せと言ってるわけじゃないんだ。ただ、長く働いていれば、家族やら自分やらが不調だったりなんらかの問題を抱えたりして、仕事と私生活との両立が重く苦しくなる時期というのもあるものだ。そういうときは、小出しでいいから辛さや深刻な状況を相談するなりした方がいい、潰れる前にな。それが結局は周囲のためにもつながる」


 そんな風に言い切った伊崎課長は、缶を煽った。それから軽く息をついた。

 

「斎藤には一度、言っておこうと思っていたんだ。自分一人で抱え込むんじゃなく、周囲に仕事をふったり、任せたり、頼ることも大切だとな……まぁ、そろそろ斎藤にもプロジェクトのまとめ役頼んでもいい頃かなぁと課長連中でも話題にあがっているからさ。任す前に、こうして話したかったわけ」


 最後は軽い口調でおどけたように言った伊崎課長に、私は頷きを返した。

 そうしながらも、私は顔をあげて課長の顔を見ることができなかった。

 私の心の中で、本当に頼りがいのある上司に恵まれたと思う反面、こんな風に気にかけてくれる課長だって、私が「義弟」と結婚すると伝えたら理解してくれないかもしれない……と、冷めたことを考える自分もいたからだ。


 ……やっぱり、今の私、心が荒んでる。マイナス思考になってるというか……。


 せっかく想いが通じ合ったのに、真雪と二人、出口のない部屋でうろうろしているようなもの。

 そんな風に思うくらいに閉塞感があった。

 私はやるせない気持ちになり、つい口を開いた。


「伊崎課長……」

「なんだ?」

「私が周囲にも相談した方がいいというのはわかりました。でも逆に……相談してもらえるようになるには、どうしたらいいでしょうか……」

「え?」


 伊崎課長は不思議そうに訊ね返した。私は自分の心にひろがっている靄をどうにかしたくて、ぐっと肩に力を入れ、課長の方に顔を向け、視線を合わせた。


「……私、会社では……安東くんにしても他の人にしても、けっこう頼ってもらえたりすると思うんです。たしかにそれで一人で抱えこむときもありますけど、それでも、私は頼ってもらえて嬉しいと思ってます」


 そこで言葉を切った。

 私の脳裏に浮かぶのは、もの憂げな表情の真雪。就職活動について尋ねても、幾つか受けている企業の名をあげると、あとは話題をそらせようとする真雪の姿だった。


「でも、なんというか……私生活では、私、頼ってもらえない……悩みとか話してもらえてない気がするんです。頭脳も能力も未来も輝いてるような相手に、ちょっとでいいから頼られたりするようになるには、どうしたらいいんでしょうか」


 私はそこまで言って息をついた。

 すると、話を最後まで聞いてくれた伊崎課長は缶コーヒーを煽るようにして飲み干した。それから少し間をおいてから、ゆったりとした口調で言った。


「そういう時はな、お前自身が自分のことを話しているのか振り返ってみるといい」

「え?」


 私の戸惑うような返事に伊崎課長は微笑んだ。


「斎藤は熱心だ。聞いてやりたい、知りたいと思って、相手に訊ねるばかりで自分の懐を開け忘れているかもしれないぞ。営業の基本は、名乗る時はまず自分からだろう?」

「はい」

「無口な相手には、まず自分の想いから話してみるべきだろうな」


 伊崎課長に私は驚きを隠せなかった。まさに、今の自分を言い当てられた気がした。

 ――……たしかに、私は真雪の様子や表情をうかがってばかりいて……私自身のことを伝えようとしてなかった。

 「真雪のことが好き」そう伝えたら、全部ぜんぶ伝えられた気になっていた。

 真雪も私を好きと言ってくれたから、それでもう二人で乗り越えられる気になっていたのだ。

 私が唖然とした顔で伊崎課長を見つめていたからだろうか。伊崎課長は笑みを苦笑いに変化させつつ言った。


「悩んでるんだったら、悩み中だってことを。うまく言葉にできないなら、うまく言葉にできないんだってことを、話してくれなくて不安なら、どうして不安なのかってこと、相手に素直に話すだけで、ずいぶんと誤解やすれ違いをなくせるものだぞ?もちろん全部とは言わないが」

「そう……ですね」


 かろうじて私は返事した。

 課長の「誤解」や「すれ違い」という言葉も胸にグサッとくる。数日前に、私の行動がこちらに来たばかりの真雪に誤解されて、彼氏持ちと思われ、挙句の果てに「枕営業」だなんて言葉まで出てくることになったのだ。

 だからこそ「好き」って伝えたら、それが今まで貯め込んだものだったから、その隠していた想いさえ吐き出してしまえば……誤解やすれ違いは消え去るものと思ってた。


「自分の気持ちや想いを素直に話すのって、案外難しくて……」


 私がぼそっと言ったら、課長は「そんなもんだろ」と明るく言い放ち、立ちあがった。課長の動きを目で追うと、課長はそのまま自販機の横のごみ入れに缶を入れる。ごみ入れの中には空き缶がいろいろ貯まっていたのか、缶のぶつかりあう音がにぶく聞こえた。


「斎藤が、仕事場で安東や私に率直な物言いをできるのは、仕事や作業という仲介する”モノ”があるからだ。でも、今、斎藤が話してくれた”相談”っていうのは、そういう仲介するものがない、飾りのない素の自分を伝えあうってことだろ?それは難しいさ……大人であればあるほど、社会が見えてくれば見えてくるほど、他者に対して素直でいるっていうのは難しい」

「そうですか……課長でも?」

「もちろん。私だって、自分のことが歯がゆい時が何度もある。私くらいになると、あきらめも混じって、悩むことすらなくなりつつあるけどな」


 課長は最後の方は独り言のように呟いて、そして浅く笑った。

 そんな課長を見上げていると、課長は腕時計を見た。


「……あぁ、もう時間だ。私は戻る。斎藤は?」

「あ、私はこれを飲みきったら、デスクに戻ります」

「では、お先に」


 課長はさらりとそう言うと、私に背を向けて廊下を歩き始めた。

 けれど、数歩すすみ立ち止まった。

 見つめていた背中がくるりと向きをかえ、課長の理知的な眼差しが再び私に向けられた。


「そうだ斎藤。言い忘れたが、さっき言ったような仕事や共通の趣味だとかそういう仲介するもの無しに、ただ”素を見せて”話したいと思える相手というのは、とても……本当にとても貴重な存在だ。――……大事にしろよ」 


 課長はそう言い終えると瞬く間に向きをかえ、私の返事を待たずにすたすたと廊下を去ってしまった。

 あまりに素早く消え去った課長の姿、私はただ見送るだけだった。

 あたたかい言葉をくれたのに、お礼の言葉ひとつ返せなかった自分の不甲斐ない唇に缶を押し当てた。

 缶をかたむけると、口内になまぬるくなったコーンスープが流れ込んでくる。ごくりと飲み込んで、漏れ出てくる呟き。

 

「気持ち……今の気持ち。やっぱり……不安、ってことかなぁ」


 自分の中にある、真雪との二人の将来への不安、真雪自身が将来の夢を話してくれない不安。……私が年上ということへの、不安……。

 心に並べ始めたら、いっぱい溢れてきそうだった。


 ずっとずっと長年、一方通行だと思ってきた間は、一人で悩めば済んだ。真雪に男として魅力を感じ、彼の優しさやちょっとわがままなところや、筋を通そうとしすぎて案外要領の悪いところが愛しくて。でも「駄目なこと」って思ってたから、ツンツンして逃げ回ってたら時を過ごせた。

 でも、こうして気持ちが通じたら……真雪からあの熱の籠った視線を向けられたら、私を女としてみてくれてるってわかるから――余計に、これから溢れだしてしまいそうになる互いの気持ちを、いったいどうしていったらいいのって、今まで経験したことないような不安やもどかしさで胸がいっぱいで。

 二人で乗り越えて行きたいって思ってる。それは変わらない。だけど、どうやって……って、気持ちがグルグルして……。

 だから、課長がくれた言葉は、きっと大きなヒント。

 真雪の心は知りたがっても、私の心は知ってもらってなかったし、これからどうやって周囲に伝えて行くかも話しあえてなかった。まず、そこから、だよね。

 手の中で冷えて行くスープを飲み切った空き缶を握りしめる。


「……こんな不安だらけの私の気持ち、弱い私を見せて……真雪、呆れちゃうだけだったりして……」

 

 声になるかならないかの小さな呟きが漏れでる。

 だけど、歩み始めなければ、こうやってグルグルともどかしいままになってしまう――……。普通の男女だったら、もどかしくたって時とともに恋人として馴染んでいくのかもしれないけれど、私と真雪は自分達がしっかりしなければ、まわりは……「義姉弟」としかみなさないんだから。

 だから、まず、私と真雪がちゃんとわかりあわなければ……。

 

「課長、ありがとうございます」

 

 私は言いそびれたお礼の言葉をそっと口にして、ベンチから立ち上がったのだった。






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