Wednesday
水曜日の朝――。
昨日、二人でピアノの椅子で手をつないで。
ほんの少しだけど、真雪と心が前より通わせられた気がして、今朝の私はちょっと気持ちが浮上していた。
心なしか、真雪もまた声や表情が明るい気がした。
「今日も一緒に駅まで行く?」
私が朝食後にそう呼びかけると、リクルートスーツ姿の真雪が頷いた。
今日はうっすらラインの入ったワイシャツを着ている。
「じゃ、ついでにゴミ出しも手伝ってくれる?」
「もちろん」
真雪がさっと大きなゴミ袋の口をしばってくれる。
今日は古新聞や段ボールなどの古紙回収の日でもあるというと、真雪はさっと古紙回収用の袋に新聞と広告を分別してくれて、玄関口に置いてくれた。
それから私たちはそれぞれ出かける準備を整えると、お互いそれぞれのビジネス鞄を抱えつつ、真雪は重い古紙の束、私は普通ゴミの袋を持って玄関から出た。
「一階のマンション裏側に集積所があるの。大丈夫、重くない?先月分の新聞、古紙回収日勘違いしてて出し忘れてたの。二つの束は重いよね?」
私が問いかけると、ビジネス鞄の脇に抱えながらも器用に二つの古紙束を持つ真雪が小さく笑った。
「俺はもう大人だよ。これくらい持てるよ。美幸の方こそ普通ゴミの袋、大きいけど大丈夫?」
「……うん」
頷きつつ、私はちょっと照れた。心配してくれるさりげない言葉にドキドキする。
それに、二人で出勤しながらゴミ出しをしているのが、なんだか夫婦みたいに思えて照れる。
頬が熱くなるのをごまかしたくて私が先に歩きだすと、真雪は自然に私の隣に立ち歩き始めた。
ゴミを出し終えて、そのまま最寄り駅まで二人で歩く。ニュースの天気予報では今日は比較的あったかいなんて言っていたけれど、私には冷えた空気にしか感じない。
なのに、真雪とぼそぼと話しながら歩く道中、頬が熱くなるのはとまらなかった。
駅につくとそれぞれ乗る電車は違った。
ホームで別れるとき、私は昨晩確認したように、今夜はピアノのレッスンで遅くなると再び伝える。すると真雪は、
「夕飯作って待ってるよ。居候してるんだから」
と笑った。
そこでまた私は照れてしまったのだった。
***
「心ここにあらず、ね?」
そう指摘されて、私は恥ずかしくなって少し目を伏せた。
ピアノの先生である恭子先生は本当に鋭い。
聞く人が聞けば、すぐにばれてしまうのが練習不足というものだ。
私のピアノのレッスンは隔週。レッスン時間は一時間。
つまり二週間の練習ができるはずで、レッスンをはじめてこの3年間で、私のピアノ講師をしてくれている恭子先生は、二週間でどれぐらいの仕上がりをしてくるかよく理解してくれている。
だから、私が一曲目を引き終わった後の恭子先生の第一声に、私は「あぁ、やっぱりばれちゃったか」と思わずにいられなかった。
「練習不足、わかりますよね」
今、私が取り組んでいるシューベルトの即興曲は三連符が軽やかで美しいけれど、私は練習不足だと指がうまく回らなくてすべって弾いてしまう。
何回かミスした箇所を思い出しながら私が肩をすくめると、恭子先生はふふっと微笑を浮かべた。
もうすぐ60代にさしかかる恭子先生は、ゆったりとした大らかな先生だった。
夫婦が開いている音楽教室ビルで防音室二つを使い、旦那様がジャズピアノを、奥様の恭子先生がクラシックを中心に教えてくださっている。日中はこどもや学生が中心のようだけれど、夜に社会人向けのレッスンをしてくれるという希少な教室だった。
「練習不足というより、あなたの気持ちがいつもより音色に集中していない気がしたの。めずらしいなと思って」
恭子先生の言葉は的を射てる。
たしかに、今日の私はいつもより集中力に欠けてる。
家に、真雪を待たせている……そんな気持ちが心にあって。
いつも仕事の気分転換をかねて楽しみにしていてあっという間に終わるピアノレッスンが、長く感じるくらいだった。
「すみません……」
私があやまると、恭子先生はくすくすと笑った。
「あやまらなくていいのよ?社会人のレッスンって、仕事後が多いでしょう?いろんなメンタルの人が集まるんだけど、美幸さんはいつも集中力がきれないから、逆に凄いなぁと思っていたくらいなのよ。注意したわけじゃないから、気にしないでね」
「はい」
「じゃ、この二ページ目からもう一度、弾いてみて。音がプツプツ切れないよう、音の流れに気を配って」
先生の言葉に頷いて、私は気持ちを切り替えて、もう一度弾き始めた。
一時間のレッスンはやはり好調とはいかなかったもののひとまず終えて、ピアノのある防音室を出た。
ちょうど、隣の部屋から同じ時間にレッスンを終えた結城さんが出てくる。
「こんばんは」
私が近付いて挨拶すると、結城さんは目尻の皺を深めて微笑みかえしてくれた。
「先日は、ご迷惑をおかけしました」
安東くんの件をあやまって頭を下げると、結城さんは「いやいや、もう済んだことだから。どうかもうあやまらないで」と言ってくださる。
申し訳なく思いつつも私が顔をあげると、結城さんは微笑んでいた。
「仕事をしているといろいろあるものだけどね、斎藤さんがそんなに責任を感じなくてもいいんだよ」
「……結城さん」
「その責任感の強いお姉さん肌なところが斎藤さんの良いところでもあるんだろうけどね」
結城さんはそう話ながら、廊下を横切り、エレベーターのボタンを押す。
私も結城さんの隣に立った。
「ところで、今日のレッスンの調子はどうだった?今、指導されてる曲はたしかシューベルトの即興曲だったかな?」
結城さんはさらりと話題をかえてくる。
きっと、もう気にするなということなんだろう。こういうところが、結城さんの優しいところだった。
「今日は、あまり調子よくなくって。練習不足や集中力不足でした」
私が苦笑しつつそう答えると、結城さんは目を丸くした。
「斎藤さんにしては、めずらしいね。疲れてる?」
「いえ……。まぁ、たしかに今は新企画の締め切りもあってバタバタしてるんですけど、他にもいろいろと……」
ちょっと語尾をにごす。ちょうどエレベーターが来て乗り込むと、結城さんはこちらを見た。エレベーターには私たち以外誰もいなかったからか、結城さんはそのまま声は少し小さくしつつ、
「悩み事かな?ストレス解消がてら、これから食事に行くかい?」
と、気軽に誘ってくれた。
ときどきこうやってレッスン後に一緒になったときは、ジャズバーに行ったり、生演奏を聞かせるレストランに行ったりしていたので、特別なことではない。
いつもなら喜んで一緒に食事する流れだった。
――……でも、今日は、家に真雪が待ってくれている。
私の心に、脳裏に、真雪の私に向けられるまっすぐな視線がずっとちらついていた。
「すみません、今日は……その、家に待たせている人がいて」
私がそう言って断ると、結城さんは笑みをたたえたあたたかな眼差しを私に向けた。
目が合った瞬間、私は「誰を待たせているの」と聞かれるのではないかと身構えた。
けれど、
「あぁ……そうなんだね。なら、早く帰ってあげなきゃ」
と、結城さんの言葉は、とても優しいものだった。
私が頷くと、結城さんは笑みを深くした。
「待ってくれている人がいるということは、とても嬉しいことだよ。どうか、大事にね」
私がもう一度頷くと、ちょうどエレベータが一階に着いたのだった。
***
家に帰ると、真雪が出迎えてくれた。
昨日と違って明るく暖かい玄関に、胸が熱くなる。玄関先にただよってくるのは、シチューに使うブイヨンの香り。
「いい匂いがする」
そう言うと、真雪が「今日はシチュー。市販のシチューの素使っちゃったけど」と言った。
その暖かな出迎えに、ホッとする気持ちと同時に、真雪が帰ってしまった後の闇が私の脳裏によぎった。胸がきゅっと切なくなった。
……先のことを考えてもしかたないものね……。
そんな風に思いつつ俯きそうになる自分をごまかすようにパンプスを脱いで、家にあがる。
そのとき、出迎えてくれる真雪の表情が朝とは違ってなんだか少し眼差しが暗いことに気づいた。
「真雪……どうした、何かあった?」
「え?」
私の問いかけに、真雪が少し驚いた表情をした。
さらさらの黒髪からのぞく目が私をまじまじと見つめてくる。
「だって、なんだか表情が暗い気がして」
私がそういうと、真雪がちょっと眉を寄せた。それからしばらくして、苦笑いを浮かべた。
「真雪?」
不安になって問いかけると、真雪は長い指先で自分の前髪をさらりとかきあげた。
「美幸ってさ。やっぱり、ときどき鋭いな」
「そう?」
「うん」
頷いたきり、真雪は目を伏せた。
私は心配になって真雪の顔をのぞきこむようにした。
玄関からリビングにかけての廊下の照明は暖色系であわいオレンジ色のきらめきを放っている。その光りの下で真雪の顔をのぞきこむ。けれど、真雪は目をあわせてこないまま、口だけを動かした。
「さっきさ、隣の部屋の人が回覧板を届けに来たんだ」
「隣って、佐伯さん?」
「あぁ……そんな風に名乗ってたかな」
「私が子どもの頃にここに来た時、ちょうど引っ越してきたご夫婦なのよ。回覧板を持って来てくれたのなら、奥さんの方よね」
そう言いながら、私は隣の少々お節介ながらも明るい佐伯のおばさんの顔を思い浮かべる。小学校の時、母が仕事で遅いのに私が家の鍵を忘れたときなど「うちにおいで」と寄せてくれて、こたつで一緒にみかんを食べたりなんかした。お子さんは私より10歳以上年上で、すでに一人暮らしやご結婚なさってて、私はあまり交流したことがない。ご夫婦二人暮らしで、鍵っ子の私を見守ってくれた人達だ。
それゆえに――……。
「真雪、なんか言われちゃった?私の……その彼氏だとか、そういうのに……」
からかわれたとか……。
最後まで言いきれなかった。その前に、真雪が首を横に振ったから。
「いや、そうじゃなくて……。『美幸ちゃんの義弟さんでしょう?』ってさ、すぐに聞かれたよ」
「え……」
「母さんと美幸がこのマンション出るときに、再婚先に息子がいるって聞いてたからって……。美幸を子どもの頃から知ってるから……仲良さそうな姉弟で安心したって」
私は目を見開いた。
真雪が、私の恋人と間違われてる方がましだと思った。もっといえば、私が「男を連れ込んでる」と思われたって、その方がまだましだと思えた。
『仲良さそうな姉弟で安心した』――……その言葉は。
私と真雪がここ数日、すこしずつ変えていこうとした関係をまた義姉弟に戻らせるような言葉だった。
「……やっぱり、世間から見ればそうだよな……」
ぽつりと真雪がそう言った。
私は哀しくなって真雪を見つめる。目を合わせてくれない、彼のふせられた睫毛を。ずっと触れていたいさらさらの黒髪を。
すると真雪は一度唇を軽くかんでから、今度はつらそうに言った。
「でもさ……一番きつかったのは、その人の言葉よりさ……俺自身が、そこで『恋人です』って言えなかったことだ」
「……真雪」
胸がずきずきした。
思わず私は真雪のシャツをつかんだ。すると、真雪がふっと突然私の目をみた。
黒い瞳とかちあう。
「次さ……もし、俺たちの関係を言う機会があったら、恋人ですって、表明していい?」
強い瞳で、決心するような口ぶりでそう問われた。
私はその真雪から出る熱気に気おされるようにして頷いた。
「うん」
私の返事を確認すると、ふっと真雪の固かった表情が緩んだ。
「……良かった。……それから、今日は俺、不甲斐なくてごめん」
私はぶんぶんと首を横にふる。
「何言ってるのよ、と、突然のことだったし……。そ、それに私たちも、そ、その……思い確かめあってまだまだ数日で……」
「ん」
「い、いろいろどうするか……どう伝えて行くか、一緒に考えていこうよ」
私はそういうのが精いっぱいだった。
そんな私に、真雪はすっと腕を回してきた。そして私の肩にこつんと自分のおでこを乗せてきた。
「うん……美幸」
私は真雪にそっと手を回した。
そして、真雪を励ましたくて、静かに彼の背中をさすった。
けれど同時に、自分の心の中に靄がかかっていくのをどうしても止められなかった。
――そっか……。周囲にひとつひとつ理解してもらっていかないといけないんだ……。
それは果てしなく遠い道にも思えてきて。
真雪と想いが通じた時には乗り越えていけるような気がした幾つもの山が、だんだん……だんだん怖いものに思えてきて仕方なくなってきたのだった。




