Tuesday 2
気持ちを切り替えて出勤すると、昨日ははやめに帰宅したこともあって、解決すべき案件がすでにデスク上に来ていた。
「おはようございます!今日は朝からいろいろ大変そうですよ~」
安東君の言葉に、「本当ね~」と苦笑交じりに返事しながら、今日の仕事の流れを再確認する。
その作業をしているうちに、私の中で真雪との不安は頭のすみに追いやられていき、いつのまにか仕事に没頭していった。
今日の午前中の仕事はデスクワークと、火曜定例の他部署とのミーティングだった。ミーティングは店舗からあがってきている売り上げデータを元に、バイヤーやショップマネージャーなどの意見交換もしながら来季の商品への提案をまとめていくもの。
私が叩き台になりそうなデータをいくつか見やすいようにまとめていると、伊崎課長が話しかけてきた。
「斎藤、日曜は休み中に迷惑かけて、すまなかったな」
「いえ……」
返事をする私の手元をみて、伊崎課長が口を開いた。
「今日のミーティングの書類か?」
「はい、午後からは店舗回りなんで午前中で終わらせないといけないので、早めに仕上げておこうと思って……」
私が伊崎課長に手渡すと、課長は眼鏡のフレームを少しなおしてから、書類に目をやった。
「そうか午後から店舗回りか。……そういや、ちょっと遠いがKデパートの改装の話、知ってるか」
器用にも書類に目を通しながら伊崎課長は話しを続ける。
「改装ですか?」
「紳士物フロアの改装だな。まぁ、まだずいぶん先だし、我々の今の企画とは関係ないんだが、今でもけっこういい店を揃えているからな。今後の参考のために、改装前にも一度足を運んでおくといい」
その言葉に頷きつつ、「紳士物」という言葉から真雪のことをふっと思い出した。
店舗をのぞくついでに、真雪にネクタイでもプレゼントしようかな。
二月のバレンタインシーズンで、きっと品揃えもいろいろあるだろうし……。
私はふとそう思ったとき、「斎藤」と課長によばれた。気持ちが仕事以外に散ったことに気付き、表情を引き締めなおして、課長に視線を戻す。
「書類の内容、ここの二点は変えた方が見やすいかもな。そういえば、斎藤は、明日は定時帰社の日だろ?」
「はい、昨日も早めに帰ったのにすみません。明日はいつもの通り、ピアノレッスンです」
「あやまることはない、月二回の定時帰社の呼びかけは徹底するように言われてるんだ。それに、そのつながりで安東も私も救われたんだ。もし……結城さんにあったらよろしく伝えてくれ」
伊崎課長はそう言って微笑み、書類に二か所だけ黄色の小さな付箋をはり私に返してくれた。
そして、颯爽と立ち去ってゆく姿をみて、ふっと息をつく。
光沢のあるグレーにピンストライプのスーツをスタイリッシュに着こなした、その伸びた背筋。部下の書類の確認をしつつ、小さな情報を流しこんだ会話、ついでに明日の帰社動向の確認も折りいれる。
働き慣れた人の後ろ姿が、そこにあった。
***
午前のミーティングは無事に終え、
午後からは店舗を見回る仕事。めまぐるしく一日が過ぎる。
店舗の移動で渋滞にも巻き込まれてオフィスに戻る余裕はなく、もちろん伊崎課長が教えてくれたKデパートをのぞくこともできず、店舗先からの直帰となった。
直帰の連絡を課長と他メンバーに携帯で入れてから、電車に乗り込む。
家の最寄駅に降り立つと、寒い風に身ぶるいした。
今日は歩き疲れもあって足が浮腫んで、パンプスが痛い。
リズミカルとは到底いいがたい靴音をさせながら、私は慣れた駅前の道を歩く。
そういえば真雪も今日は少し遅くなると言ってたなと思い、歩きがてら着信とメールを確認したものの、何も入っていなかった。
マンションについて、エントランスに入るときにインターホンを押しても、返答はない。やっぱり真雪はいないんだろう。
それでも、自宅のドアをあける前に、ほんのひと呼吸した。
心のうちにあるのは、期待。
真雪はまだ帰っていない――それはわかっているのに、何処かで、真雪の存在を期待してる。
けれど、玄関ドアの鍵を開ければ、当然のように、静まり返った室内が広がっていた。
しんとした暗い廊下も玄関も、いつも見慣れているはずのもの。
「ただいま……」
静かな玄関に小さく響く私の声。
パチッと自分でつける玄関の電灯のスイッチ音。
歩くと軋む廊下の音。
ドアを開けて広がるリビングとキッチンの、冷え切った空気――……。
それは慣れているはずの、我が家の姿。
もう何年も一人暮らしだったんだから。
――なのに。
「ただいま」
もう一度、自分で一人つぶやいて。
昨夜のあたたかな真雪の「おかえり」という言葉を痛烈に思いだした。
同時に光とぬくもり、夕食の匂いに満ちた部屋を思って――私は苦しくなった。
自分の中に、真雪がいなくて「さびしい」という想いが湧き出てる。
寂しくてぎゅっとバッグの持ち手を握る自分の手が、冷え切っていて。
心に溢れてくる気持ちが止められなくなってくる。
――さびしいけれど。今はまだ良いの。帰ってくるはずなんだもの。
この週末を過ぎたら?
真雪が実家に戻ってしまったら――……。
――……本当に私たちは、これからもつながっていけるの?
――……何も証しするものもない、二人の関係を……どうやって?
新しいスーツと、くたびれた通勤服。
その差は……縮まってくれるの?
溢れだす不安な気持ちが、暗くつめたいリビングの床に広がっていくようだった。
私はぎゅっと唇を噛んだ。
今朝、啄ばむようなキスを何度も落とされた唇。
真雪が触れた……唇。
――……義姉と義弟で、キスはしない、よね。
――……私たち、恋人、なんだよね?
私は、震えそうになる自分の心をのみこんで、スーツを着替えに自分の部屋に戻った。
そうして目の前のことをやりすごしていかないと、焦る自分に引きずり込まれそうだった。
不安から逃げるようにして、わき目もふらず夕食の準備も終える。
それでも真雪の帰宅がまだだったので、私はピアノの練習をすることにした。
真雪が寝泊まりしている客間の隣の部屋に置いているピアノ。
これは、私が就職してから2年間、せっせと貯め、学生時代にもある程度貯めてきたバイト代と合わせて買った、ミニグランドの中古ピアノだった。夜にも弾けるように消音装置をつけて、ヘッドフォンをして音が外に漏れないようにして弾くこともできるようにしている。
ピアノの蓋をあげて、鍵盤に指をおろす。
外部に音が漏れないようにヘッドフォンをしているから、耳にピアノの深い音が大きく響く。
「練習不足、先生にばれちゃうだろうなぁ……」
真雪の到来で練習不足になっているけれど、明日は隔週水曜日でいれているレッスン日だった。
真雪が来ることを母さんから知らされた土曜日から、まったく鍵盤にふれていないから、指もかたくなっているだろう。
指を柔らかくするためにフィンガートレーニングの楽譜を開きながら、なんとなく、ため息が出た。
考えてみると、今までずっと、いくら仕事に疲れてもストレス解消も兼ねて、少しでも毎日鍵盤に触れていた。
なのに、この3日鍵盤に触れてない……。それは、どれだけ自分の心が、真雪が来て緊張の連続だったか、ということを表しているようだった。
――……真雪と一緒にいることが、「普通」になるにはどうしたらいいんだろう?
――……もちろん、その「一緒にいる」ということが義姉弟じゃなくて、恋人として。
答えなんか、ない。
マニュアルなんか、ない。
でも、呼吸するようにそばにいれたらいいのに。
離れる寂しさなんて感じないくらい――……。
私はこぼれる気持ちを拾い上げるようにして、鍵盤にのせた指に力を込めた。
***
――バタン。
ドアが開く気配。
私は突然ピアノ横のドアが開いたことに驚いて、悲鳴に近い声をあげていた
声をあげて肩をゆらした瞬間にヘッドフォンがずれたのか、私の耳にピアノ音以外の人声と足音が響いた。
「どうした?美幸?」
それは、真雪の声。
同時に飛び込むように入ってきたのは、スーツ姿の真雪。
「あ、あ、あれ?真雪……」
「ヘッドフォン?ノック、聞こえなかった?そっか……びっくりさせてごめん」
さっとあやまった真雪は、てきぱきと持っていたコートと鞄を床におき、私の頭からヘッドフォンをはずしてくれた。
頭と耳元が軽くなる。
そうなって、ふっと、自分がピアノを弾くのに没頭していたんだと理解する。
――……真雪が帰ってきて、それに気付かなかったんだ。
心配そうに見つめてくれている真雪と目を合わせていると、だんだん心が落ち着いてきて、私は真雪にあやまった。
「こっちこそ、ごめん……。それから、おかえりなさい。いつも一人で弾いてて、ノック音がわからないくらいの音量で弾いてるって自覚がなかった」
私がヘッドフォンを示して苦笑すると、真雪は軽く首を振った。
「いや、別に……」
真雪はそう言ってから、ふっと笑った。
「ピアノ?懐かしいな、実家にいるころの美幸、よく弾いてたな」
「あ、うん」
私は頷いた。
ピアノの椅子に座ったまま見上げていると、真雪が私の方にすこし上体をかがませてきた。そして横長タイプの背もたれのないピアノ椅子に座る私に、まるで寄りそうように真雪が座ってきた。
自然と密着することになり、真雪の硬い腕が服越しに伝わる。
「ちょっと……狭い」
照れ隠しに私がそう言うと、真雪はくすっと笑った。
「狭いくらいがちょうどいいよ」
「それ、どういう意味……」
「ん?こうしてる言いわけになるだろ?」
真雪は私と触れあっている肩にもっと身を寄せてきた。
触れる真雪のスーツがひんやりとしている。
「冷えてるね……」
「冬だからな」
ピアノの磨いて黒く光っている鏡面にスーツ姿の真雪と私の姿が映る。
普段着に着かえた私と、スーツの真雪。
黒光りした鏡面のおかげで、その年の差はみえなくて。
……まるで「ふつう」の仲の良いカップルのようで。
「昨日、アイロンかりるときに見て……ちょっと驚いた。グランドだし」
「……うん、どうしても弾きたくて。貯金して買ったの。ミニグランドだけどね」
「レッスンとかは?」
真雪がぽつりぽつりとたずねてくる。
静かな会話は、向き合っているんじゃなくて、並んで触れていると私も素直に答えられるようで。
「隔週の水曜日の夜、仕事終えた後に行ってる。明日もあるんだ……ごめん、明日はお月謝渡す日だから休めないから、帰るの遅い」
「それは、俺がいるからって休む必要ないよ……晩御飯くらい、待ってるし」
「うん」
真雪の言葉に、私は頷いた。『……晩御飯くらい、待ってるし』という言葉が、嬉しくて、そしてそれがなくなる来週が、寂しくて。
――……変なの。ずっと一人暮らしで平気だったのに。
私が黙っているのを怪訝に思ったのか、真雪が「どうした?」と肩を寄せ合ったままたずねてきた。
さっきはひんやりしていたスーツの感触が、私と触れあっている間に体温をわけていったのか、あたたまっていく。
私はその感触とあたたかさを心に刻むようにして、目を閉じた。
「なんでも、ない」
私がそう答えると、真雪も「そっか」と深く追求してこない。
触れ合う肩と肩、ぴったりとくっついた互いの片腕が……言葉以上のものを伝えあっているような気がした。
――……離れるのが、寂しい。
そんな風に、私は思っていて。
たぶん、思い上がりじゃなくて、真雪も……そう思ってくれてるような気がした。
触れ合う腕のその先の、私の指先と、真雪の手の甲が触れる。
どちらがということもなく、互いがひきよせあうように、真雪の手が動き、私の手が開き、指から手首を絡ませ合うように手をつないだ。
真雪の長くて大きい男らしい手と、ピアノを弾くために子どもみたいに爪を真一文字に切りそろえた私の指先が絡むと、なんだかどちらが年上なのかわからないように見える。
それが妙に嬉しい様な気恥かしいような気持ちがした。
「指先まで冷え切ってる」
「うん……美幸は、あったかいな」
その言葉を合図にするようにして、互いの指先がぐっと強くからまった。
隙間をすべて追い出すようにつながれる手。
熱を生み出すような絡まった手なのに、私たちはそれ以上……動かなかった。
そして、私たちは長い間、黙ったまま寄りそって手をつないでいた。
静かな静かな、互いの息づかいしかない部屋。
けれどたぶん、私たちは。
見えない砂がさらさらと零れ落ちていく微かな音を――どうしたらいいかわからず、息をつめるようにして聞いていたんだと思う。




