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「は?真雪がここに来る?なんで!」
一人暮らしにしては広すぎる3LDKのマンションに、私の声だけが甲高く響く。ヒステリックな声を、今まさに自分が出してることがすごくイヤなのに、止められない。
それに反して、私が握る受話器からは……のんびりした、母の声。
『真雪くん、就職試験の面接で東京に行くっていうから、美幸のところに泊まったらええよって言っといたん。宿泊代浮くやろ?部屋はあまってるんやし、ええやん』
「なっ……。女の一人暮らしに、男を泊めさせる手配してどうすんのよ、母さん!」
『男ってなぁ……。あんな綺麗でカッコいい子、女性に困ってないやろし。年上、しかも義理とはいえ姉のあんたに、わざわざ手出しすることないやろ。そんなこと気にする方が失礼や』
「……」
『まあ、そういうことやから、明日の日曜の午後には、真雪くんそっちに着くと思うわ。私も父さんと明日から北海道へ雪まつりを見に行くから、何かあったら連絡はケイタイにちょうだいね。美幸もツンツンせんと、姉弟仲良くしいや~』
明るい声でそう言って、一方的に電話は切れた。
ツーツーツーと音がなる受話器を持って、私はリビングで立ちつくす。
……姉のあなたにわざわざ手出ししない!?
そんなの、わかってるわよ。
女に不自由してない義弟なことぐらい、重々承知。
それで胸を痛める日を重ねてきたんだもの……。
母さんは思い違いをしてる。
「真雪が手を出してきたらどうしよう」って、私は思ってるんじゃない。
私が……真雪に手を出されたいと思ってるから、重症なんだ……。
今までは何もなく、12年前に単なる親の再婚で成り立った姉弟としてすごしてきた。大学も途中から編入試験で地元を離れ、就職もそのまま実家を離れたままこの東京で。極力、実家によりつかないようにして接触を減らしながら、今まで来た。
男らしく成長した真雪を直視できなくて、顔を合わせても表面的に会話するだけ。
まさにツンツンした態度で応じるか、こそこそと逃げるようにしてきた。
それが、このマンションに数日とはいえ、二人っきりになるなんて。
――……思いあまって、誘っちゃったらどうしよう?
喜んじゃいけないのに、真雪が来ることを楽しみにしはじめている心がどんどん膨らんでくる。
……だから、怖いのに。
……でも、嬉しい。
なんにもなく、淡々と過ぎていってほしいと願いながらも、でも何か胸がときめく浅ましい自分は、確実にいる。いつもの帰省時と同じようにツンツンかコソコソな態度で応じてしまうだろうけれど……わかってるけど、気持ちがどきどきするのは止められない。
もう、母さんのばか!
父さんも……せ、せめて止めてくださいよ!
それにそれにそれに、
ここに泊まることを了承した、真雪の……あほぅっ!
そう心でなじりつつも、今日が土曜日で良かったとか、真雪の好きなコーヒー豆を買いにいかなきゃとか、魚料理好きだったからスーパーじゃなく魚屋寄って……と算段しながら、美容室の予約するためにケータイのアドレスを開いたのだった。
***
――……
――……
サティのジムノペディ、一番好きな曲……耳元で鳴ってる。
え?
ケイタイのたった一人にしか設定していない着信メロディに、飛び起きた。
……え、寝てた!?
慌てて通話にすると、
『姉さん?』
「あ、うわっ、あうぅぅぅわ!?」
『……人の言葉、しゃべって』
耳元から流れる、久しぶりに聞く深く響く声。
電話で話したことなんて、ほとんどないから、この間近に聞こえる声はあまりに貴重すぎる!
『姉さん?』
もう一度、呼ばれた。
ずっと聞いていたいけど、そんな馬鹿なことできるわけなくて、呼吸を整えた。
心で呪文を唱える。
そっけなく……そっけなく……そっけなく……。
「なに、真雪。もう着いた?駅の出口どこ?」
たぶん、大丈夫。
意識して出す、仕事で後輩にレクチャーするときみたいな声。『義弟が来ることになって、迷惑してるのよ。でも、まぁ受け入れてあげるわ』的な大人のお姉さんの「かぶり物」をかぶって。
迎えにいくつもりで、実は昨晩から肌身はなさず持っていてしまった車の鍵をぎゅっと握る。
すると、耳元でちょっと笑うような声がした。
『もう、マンションに来てる。エントランスの扉、開けてもらえる?』
「えっ」
私は真雪の言葉に驚いて、立ち上がる。
来てる?来てるの!?
バタバタとゴミ捨ての日に履くスリッパをひっかけて家の鍵だけつかみ、玄関ドアをあけて廊下を走る。隣の若いご夫婦とすれちがうけれど、きちんと挨拶もできずに会釈だけで通り過ぎてしまう。
息をつきながらエレベーターをみると、まだ上階で動いている。私は廊下をつっきって、非常階段を駆け降りた。
真雪が……来てる!
真雪が……!!
カツカツカツと階段を降り切って、エントランスホールに続く非常階段口の重いドアを押し開けて、管理人室と玄関ポストのコーナーを横切る。
エントランスホールの透明ガラスの生け垣の向こうに……。
2月の寒空の下でも綺麗に背筋が伸ばされた、広い背中が見えた。
黒髪がサラサラと風に揺れている。
……真雪。
真雪だ。
彼の背中を確認して…気持ちがストンと落ちついた途端。
私ははっとして、自分の足元を見た。
スリッパ。スカートは生地がやわらかかかったおかげで、皺にはなってないみたい。
管理人室のガラスに淡くうつる自分の影は、今までうたた寝していたせいで昨日美容院で整えてもらった肩まである髪も乱れ気味になってる。
自分の手には握られたケイタイ。
おそるおそる耳に当てると、通話は切れてる……良かった。
軽く息をついてから、私は手首にはめてたシュシュでさっと髪を耳の横で結った。
深呼吸を一度してから、顔をあげた。
スリッパだけど、規則ただしい靴音を響かせながら丁寧に歩く。
ガラスに近づくとエントランスの自動ドアが開いて、二月の冷えた風が吹き込んだ。一瞬、ぶるっと震えたものの、火照った頬のクールダウンにはちょうどいいかもしれないと考える。
大きな黒のボストンバックを足元に置いていた真雪が、ドアの開く音でこちらを向いた。
黒の少し鋭い硬質な瞳は、まっすぐに私を見る。
射抜く視線に、私は歩みかけていた足が止まる。
ちょうどその時、風のせいで真雪の長めの前髪が少し目にかかり、真雪は目をしかめた。
その一瞬……視線がはずれた時に、私は彼から目をそらして、いっきに近づいた。
こんなに寒いというのに、濃いグレーのシャツにブルゾンを羽織っただけの軽装。首にはワインレッドのマフラーが、彼の黒っぽい衣装の中で唯一目を引く色。その赤が妙に艶っぽく真雪を彩っていた。
見上げるほど高い背は、私が小柄なせいか余計に高く感じる。
話をするために目を合わせようとすると、意識的に上を向かないといけなくて、ちょっと覚悟がいった。
でも、自分からサラッと挨拶しないと、会話の主導権が握れなくなる……それは、心臓に悪い。
「久しぶり」
何気ない振りをよそおって、口を開いた。
年末年始、仕事を理由に帰省しなかった。正月明けの土日、ちょうど真雪が友達とスキーに行っていると母がもらしていた日をわざとねらって、実家の両親だけに顔を見せに行った。
だから考えてみると、真雪の生身の姿をみるのは去年の夏ぶりなのだ。
「エントランスのインターホン押したんだけど」
寒空の下待たせてしまったというのに、寒そうでもない落ちついた男らしい低い声が響く。
真雪……の声。
声変わりを終えたときに、「あぁ、もう一緒に暮らすのは無理だ」と私に真雪が男だと完全に意識させた……声だった。
「ごめん、寝てた」
ふふっと、意識して笑ってこたえた。
――……あんたの来訪なんて、気にしてなかったから、寝ちゃってたのよ。
そんなフリを装って。
本当は……昨日から緊張して、そわそわして落ち着かなくてお泊りセットやらタオルやら食材やらいろいろ準備して、来客用の部屋はもちろん、キッチンの冷蔵庫の裏、カトラリーの一本一本を磨きあげるまで掃除してしまって。疲れていたのに、ほとんど寝つけなくて。
今朝になって、さすがに眠気と疲労がいっきにきてソファに座りこんでいるうちにうたたねしてしまったんだけど。
「寒いから、中に入りましょ」
私はさらっと言って、真雪に背を向けた。
できるだけ私の顔の火照りに気付かれないうちに。
「……合鍵もらえって、母さんが。美幸のところにスペアがあるはずだからって」
背後からの声。
困った風でも、責める風でもない。
淡々とした――……。
合鍵?
その言葉に振り返る。
「一日泊まるだけなのに、合鍵が必要?」
私は咄嗟にたずねる。
ちょっとつきつめる言い方になってしまった。
「姉さんは仕事あるし、不便だろ?それに一週間くらいいるつもりだし」
真雪の言葉に私はまた、目を開く。
「一週間?一泊じゃないの?」
「うん、聞いてない?それに……」
真雪はいったん言葉を止めて、私をじっと見た。
「母さんは、就職がこちらで決まったら、このマンションに住めばって言ってたけど?」
「は?私はどうしろと?」
「姉さんはどうもしないでしょ。母さんは、美幸と一緒に住めば家事も分担できるし、美幸にとっても一人暮らしよりも安全だろうしいいんじゃないかって」
私はあまりの驚きに次の言葉が出ない。
ヒュッと風が吹き抜けて、私と真雪の間に枯葉が通った。
鼻が冷たい。手がかじかむ。
なのに、頬と胸が熱い。
真雪の黒の目が何も通さない漆黒に見える。
「真雪は……それでいいの?」
私の言葉が震えるけれど、真雪は首をかしげる。
「それでって?就活のために突然一週間迷惑かけることになって…悪いとはおもってる。こちらで住むかどうかってことは……大学院の修士課程終えてからの話で、来年の話だし」
「そ、そうね」
動揺しつつ、冷静さを装いたくて、声を少し落として返事する。
真雪の顔を見ていられなくて、また真雪に背を向けた。
その時、ふわりと肩に何かが巻かれた。とっさに見ると、さきほどまで真雪の首に巻かれていたはずのワインレッドのマフラー。
真雪の大きな節張った男らしい手が背後から伸びてきて、私の首元でくるっと器用にマフラーを結び、また何もなかったように離れていく。
スースー冷えていた首がいっきにぬくもった。マフラーから嗅ぎ慣れない柑橘系のコロンの香りがする。
「外まで来て出迎えてくれるなら、何か羽織ってこればいいのに」
後ろから聞こえる声に、私はうつむいた。マフラーがあたたかいのが、真雪のぬくもりが残っているからだと思うと、あたためられている首元がよけいに熱くなる感じがした。
呼吸をするだけで真雪の香りが私を満たしてしまうようで、口を開いて言葉をはっすることがうまくできない。
どう対応したらいいかわからない。
……心臓がドクドク鳴ってる。炎を抱えてしまったかのように熱くてたまらない。
黙ったまま背をむけていると、
「合鍵、欲しい。まずは、この一週間でいいからさ」
再度、真雪は言った。
『欲しい』という言葉に、どきんと胸がさらにはねる。
真雪が欲しがるなら……なんでもあげたい。
合鍵だって。なんだって。たとえそれが、単に便利に使うだけのものであっても――……。
でも。
私は、ギュッと目をつぶって意識を立てなおす。
いまここで鍵を渡してしまったら……。
私は自分の歯止めが利かなくなる。
待って。
もう少し待って。
「姉さん」としての距離がちゃんと保てるように……そう、春までには整えるから、今は――……。
私は振り返った。
「ごめん、もうスペアないんだ……」
嘘をついた。
以前母さんが使ってたスペアキーは、私が預かってる。
でも、今はそれは無いことにしたい……。
声を高くして、真雪の顔を覗き込む。
「一週間でしょ?私は早朝に家を出て、帰宅は日付かわるくらいになるし、鍵、渡しておくから。ちょっと不自由だけど我慢して?」
「もう、ない?合鍵が?」
すこし険しくなった声音とともに、真雪の眉が顰められた。
「うん……ないの。鍵は……正式にこっちで住むことがきまったときに、ちゃんと新しく作ればいいでしょう?」
「……」
「ね?」
頼むように真雪の顔を見つめると、真雪の瞳はまるでこちらの真意をたしかめるかのように目を細めた。
まるで狩りで獲物をしとめるときに、標準を合わせるかのようなピリピリとした視線に私は立ちすくむ。
合鍵があることも、迷惑そうなふりをすることも、そういう嘘を塗り固めた自分の奥底にある私の…真雪への想いを見透かされそうで怖い。
でも……負けちゃいけない。
いま、真雪の弟のペースにのまれたら、真雪が「弟」として「姉」の私に頼ったり、優しくしたり、甘えたりしていることも……全部、私自身に…女として私に向けられてるような錯覚をもっちゃうから。
それくらい、私は愚かになりかねないから……。
私は手に握っていた家の鍵を、カチャリと真雪の前にかざした。
「これ、私が使ってる鍵。貸しておくから……」
そっけなく。未練が残らないように。
迷惑がるように……ごめん、真雪。
イヤな「姉さん」でごめんね。
甘えさせてあげたいけど……線引きが、うまくできないの。ごめん。
真雪はしばらく、赤のレザーのキーホルダーが付いた私の鍵を見ていたけれど、それをすっと大きな手で受け取った。
彼の手にすっぽりとはまる、鍵。
私はその鍵を見つめて、自分と真雪の間に見えない線を引くように、言葉を放った。
「……真雪が実家に戻る時に、返してね」