第一話 登場の怪盗H
『男性の助手募集! かわいい女の子たちと一緒に働きませんか?』
軽雪が道路に薄く降り積もっている。だが、昼ごろになればすぐに消えてしまうだろう。
とある街の大通りから路地裏に入った所にある、まるで山小屋のような木造平屋建ての家のドアに貼ってある広告を見たレイは、そこで立ち止まった。
「ここで間違いなさそうだな……」
レイは片手に持ったメモ帳の地図をちらっと見ると、ドアノブにかかっている木製の看板を覗きこんだ。『ホームズジュニア探偵事務所』と、消えそうな黒い文字で書かれている。
レイはここへ来るまでずっとうきうきしていたが、顔には決して出さないようにし、そうっとドアを開けた。
「カランカラン」
ドアに取り付けてあるベルを鳴らしながら、レイは背をかがめて家に入った。
「いらっしゃいませ〜」
幼女の声が耳を突き抜けていくのを感じたレイは、顔の筋肉を緩ませて左へ振り向き、自分より三十センチは身長が低い声の主をまじまじと見た。
ミルクチョコレートのようにとろけてしまいそうな茶色の髪を左右に束ねた少女だった。小さい体には少し大きめなエプロンドレスを着ていて、レース付きのカチューシャを頭に付けている。
おおっ、さっそくメイドさん発見!
レイが歩を進める前に、そのメイドさんがトタトタとお人形さんのようなきれいな足を小刻みに動かしながら目の前に詰め寄ってきた。そしてペコっとおじぎをする。
「シャーロックホームズを敬愛する、ホームズジュニア探偵事務所へようこそ! あなたはお客さん? それとも新聞の広告を見てきたんですか?」
小さいメイドさんが、小動物みたいな大きくてくりくりしている目で、レイの全身を好奇心旺盛な子どものようにじろじろ見ている。
かっ、かわいいー! レイは鼻の下が伸びそうになるのを必死で我慢しながら答えた。
「そ、そうなんだ。『助手を募集します』っていう見出しを見てきたんだけど、ホームズさんは今いるかい?」
するとメイドさんは、首を横に振った。左右の髪が、まるで踊っているかのように揺れる。
「今ちょっと怪盗に狙われている人の家に出かけていて、うーん……あと三十分くらいしたら帰ってくるんじゃないかと思います」
「それじゃ、ちょっと待たせてもらってもいいか?」
「はい、それじゃそこに座って待っててください。今お茶を入れますから」
メイドさんは振り向いて、正面にある二つのソファの内の左側の方を指さすと、そのソファの後ろにある台所へ歩いて行った。
レイはお言葉に甘えてそのソファに腰を下ろした。革製でところどころに縫い目が走っている。
レイは、自分の後ろでカチャカチャと食器を動かしているメイドさんを気にしながらも、この事務所内を見回してみた。
掃除が行き届いているらしく、見たところほこり一つ落ちていない。正面には四角くて角が丸いテーブルがあり、その向こうにはレイが座っているのと同じようなソファが置かれている。そのまた向こうには木製の机といすがあって、その机の上には新しそうなノートパソコンが置かれている。
「おまたせしました! 紅茶です」
メイドさんが、白とピンク色のしま模様のティーカップを置いた。なみなみと注がれていて、表面張力でなんとかこぼれずに済んでいるようだ。
「おっとっとっと……」
レイはこぼさないように頑張って口元まで運ぼうとしたが、それは無理な話で、自分のひざ辺りにこぼしてしまった。
「あ、ごめんなさい! あたしちょっと入れすぎちゃって……。今ハンカチ持ってきます!」
メイドさんは台所へ向かい、また戻ってきた。
「キャッ」
メイドさんは、レイの横まで来たときに自分のエプロンを踏んですっ転び、ちょうど前にかがんでカップをテーブルに置いたレイの左側頭部に頭突きをした。ゴツンッと鈍い音が、お互いの頭の中を駆け巡る。
「いってー」「痛いー」
お互い頭を抱えてうなっていたが、メイドさんは石頭らしく、すぐに回復してレイのひざを拭き始める。
「い、いいよ。このズボン古くなってて、もう捨てようと思ってたから」
「だめです! こぼしちゃったのはあたしのせいなんですから」
メイドさんは拭く手を止めようとしない。いや、それはハンカチじゃなくて雑巾だと思うんだが……。
ようやく紅茶を落ち着いて飲めるようになった。すると、雑巾を片づけたメイドさんが、レイの横にちょこんと座ってきた。太ももがくっつきそうなくらい接近している。メイドさんから心地よい匂いがしてくる。まるで果物のような甘酸っぱい香りだ。レイの鼻の穴が自然と膨らむ。メイドさんはふふっと笑みを浮かべた。
「な、なにがおかしいんだ?」
「ええっと、年上の男性とお話するのは久しぶりでうれしくて。……彼女はいるんですか?」
「え、な、何を言って……」
「……みかんちゃん、その人に惚れちゃったの?」
突然、レイとメイドさんとの間に、後ろから別の女の子が現れた。
「うわっ」「キャッ」
レイと、みかんと呼ばれたメイドさんは同時に飛び上がった。みかんが後ろを振り向いてソファの上にひざ立ちする。
「び、びっくりさせないでくださいよキディさん! ちがいます! まずはお友達から始めて……」
「……このお兄ちゃんっ子」
手をばたつかせながら、みかんはニヤニヤしているキディという名の子に抗議を始める。その時、レイはキディを見て息をのんだ。
みかんと同じくらいの身長だが、肩まであるくせ毛の頭の上に、一匹の黒い子ねこが乗っている。子ねこは、暇そうに小さい口を開けてあくびをした。
レイは、ズキュンッとハートを打ち抜かれた。子ねこを頭に乗せているなんて、もう……脳みそがとろけてしまいそうだ。
「あ、あのキディさん、どうして子ねこがそこにいるんだ?」
レイは子ねこを指さした。とたんに子ねこがフーッと牙を出して威嚇する。
「……私、ねこが好きだから」
キディが右手で子ねこを優しくなでた。すると、子ねこはキディの人差し指を甘噛みした。
「大丈夫か? 引き離したほうがいいのか?」
「……こうしておくと安心するの」
その言葉通り、三十秒くらいたつと子ねこはおとなしくなり、噛んでいた彼女の指をペロペロとなめ始めた。
「もしかしてあそこに子ねこのポスターが貼ってあるのって……」
レイはパソコン机の正面に飾られている、この子ねこが毛布の上で丸くなって眠っている一メートル四方の写真をちらっと見た。
「……そう。私の趣味」
キディはポスターを見てうっとりしている。どうやらかなりのねこ好きのようだ。
「ボーンボーン」
入口近くにかかっている茶色の古時計が、午前十時を冷静に伝えている。
「……さあみかんちゃん、時間よ」
キディは一瞬しゃがむとソファを回りこんで、座りなおしていたみかんの横に立った。ふふふっと笑いながらキディが持っているのは、ねこ耳としっぽだ。
まさかそれって……、
「もう勘弁してくださいキディさん! とっても恥ずかしいんですから」
みかんはあわてて立ち上がってレイの前を通り抜け、入口から外へ出ようとする。するとキディが後を追いかけ、みかんの左手首をぎゅっとつかんだ。子ねこが、キディの頭から落ちないように必死にしがみついている。
「……逃がさない。今日は十時から一時間、ねこの格好をする約束でしょ」
「で、でも、今日はお客さんがいるし……」
「……問題ないわ。みかんちゃんはとってもかわいいんだから、絶対似合う」
そう言う事じゃなくて、と抵抗するみかんだが、それもむなしく、彼女はメイドさんねこに変身させられてしまった。
キディは既に鼻息が荒くなっていて、よだれが垂れそうになっている。そしてレイは、まるで催眠術にでもかかったかのようにふらふらっと立ち上がって、みかんの正面に移動した。
キディがみかんの両手をグーにさせ、ねこのおなじみのポーズをとらせている。みかんは、抵抗しても無駄だと分かっているのか、キディの言うがままだ。
「……あら、あなたもみかんの萌え萌え姿を見たいの?」
キディがレイのほうに振り向いて、首をかしげた。レイは恥ずかしそうに、頭を掻く。
「ま、まあな。ところで、この後は何をするんだ?」
「……そんなの、一つしかない」
そう言うと、キディはポケットからデジタルカメラを取り出した。そしてみかんの正面でカメラを構える。
「……みかん、そのまま動かないで」
キディはカシャッとシャッターを押すと、こっちを向いてと指示し、右や左に移動して様々な角度から、顔を真っ赤にしてもじもじしているみかんをカメラに収めていく。
このポーズのままみかんを飾っておきたい。
「……ねえ、写真見てみる?」
「お、おう。見せてくれるのならちょっとだけ」
いやっほう! 待ってました!
「……どうぞ」
キディは、レイにカメラを差し出した。
「どれどれ……」
カメラをいじくると、こちらへにゃんこポーズをとっているみかんの姿が映し出された。
手の角度や足の曲げ具合にかけて全て完ぺきで、はにかんでいる顔がかわいさを一層引き立てている。ほんの少しピントがぼけているのは我慢しよう。レイからしてみれば、美術館で飾られているどんな絵画よりも、美しく輝いているように見えた。
「今度は、オレが写してもいいか?」
レイは以前にカメラマンの助手をした事があるので、撮影技術には自信があった。
「……いいわよ」
キディが物足りなさそうに、カメラを渡すため腕を伸ばした。
「カランカラン」
ちょうどその時、ドアに取り付けられているベルが鳴り、一人の女の子が入ってきた。
みかんは、エサをお預けになっていた犬のように走り出すと、入口の所で止まり、
「いらっしゃいま……あ、ホームズさん」
『ホームズさん』という言葉を聞いてレイは、はっと玄関のほうに顔を向けた。
歳は十五歳くらいだろうか。身長は、レイより二十センチくらい低い。ホームズ帽をかぶってインバネスコートを身にまとっている。まさに、シャーロックホームズの格好そのものだ。お姫様、いや女王様のような堂々としたオーラを放っている。
この山小屋……ではなく事務所の空気を一掃し、ホームズは中へ入ってきて静かにドアを閉める。
「ホームズさーん、助けてくださいよ」
みかんがホームズの右腕にすがりつく。ホームズはそれを優しくほどきながら、
「わたしは、みかんのその姿も好きよ」
とほほ笑んだ。笑顔がとてもまぶしい。まるで女神さまのようだ。
そんなーひどいです、と文句を言うみかんの声を尻目に自分の仕事机に向かうホームズだが、途中で見慣れないお客がいるのに気付き、レイのほうへ振り向いた。
「あなた、依頼人? だったらごめんなさいね。今、怪盗Hがこの街へ来ているようだから、それが済まないと別の仕事はできないの」
「い、いや、実はここで助手を募集していると聞いてきたんだが、ここで働かせてもらえないか?」
目力の強いホームズに圧倒されながらも、レイは気持ちだけ腰を低くして答えた。すると、ホームズは背中まで伸びるつやつやした黒髪を翻し、黙って書斎机へすたすたとまっすぐ歩いて行く。レイもあわててその後を追う。
ホームズは、書斎机の後ろにある本棚の前で立ち止まり、顔を上げて背伸びし、一つの書類に手を伸ばす。
「うっ、くっ……」
ホームズはなんとか書類を取ろうとくちびるをきゅっと結び、目に力が入る。それを横で見ていたレイは、助けてあげればいいのにその様子をじっと見ていた。
小さい子が高い所にあるものを取ろうとして必死に頑張っている姿、これも最高!
それにしても首筋がきれいだなぁ、とレイは思った。確かに、シャープなあごから落ちる細い首のラインは魅力的だし、顔に力が入っているせいか、さっきまで色白だった首が少々赤っぽく染まっている。おそらくちょっと指でふれただけで、生温かい血の流れがトクントクンとはっきり感じられるに違いない。
気がつけば、レイはホームズに三十センチの距離まで接近していた。
「どうしたの? これから面接なんだから、もっとしゃっきりした顔をしなさい」
やっと書類を取れたホームズが、煙たそうにレイを見る。
「あ、ああ。すまない」
あなたに見とれてたなどと言えるわけもなく、レイは書斎机の正面に移動する。
みかんはとっくにねこ耳をとって台所を片づけていて、キディはパソコンを起動させてカメラの画像を取り込んでいる。
ホームズは回転イスに座り、書類をどさっと机に置く。そしてその中から一枚の紙を選び、万年筆もいっしょにレイの前へずいっと差し出した。
「ここに必要事項を書いて」
それだけ言うと、ホームズは立ち上がってみかんに声をかけ、紅茶を持ってくるように頼んだ。半分の量でいいことも付け加える。
レイが万年筆を走らせている間、みかんがティーカップをお盆に乗せて運んできた。手がプルプルと震えていて、危なっかしくてしょうがない。
ホームズは、歩いて行って紅茶を受け取ると、ズズッと飲みながら自分のイスへ戻る。レイは、一通り書き終わって手を置いていた。
「ホームズさん、書いたけどどうしたら……」
レイが全部言い終わらないうちに、ホームズは紙をひったくると、顔をしかめながら自己アピールの欄を棒読みし始めた。
「ええと、『私の名前はレイと言います。十七歳です。身長百七十二センチで、体重は七十キロです。百メートルを十四秒台で走れます。趣味は筋トレです。怪盗を追いかけながら旅をしているホームズさんに憧れていました。手伝いならどんなことでもします。どうか私を雇ってください』……もう終わりなの?」
ホームズはためいきをひとつすると、紙をそっと置いた。
「それで、オレは雇ってもらえるのか?」
レイが、ずいっと詰め寄ってきた。ホームズはそんな彼を、冷たい目でじろっと見る。
「……レイだっけ? あなたもう少しきれいな字は書けないの? まるで黒くて細い毛虫が群がっているみたいじゃない。解読するのに苦労したわ。あと、このわたしに憧れているという言葉はウソね。どうせ『かわいい子と一緒に働きませんか?』っていう新聞の見出しだけを見て来たんでしょ」
何を根拠にそんな事を言ってるんだ、と言おうとしたが、レイはすぐにうぐっと言葉を詰まらせた。
ホームズに憧れているのは本当だ。怪盗の予告状が届いたところへ行っても毎回犯人を捕まえられないのに、決して諦めない強気な姿勢がかっこいいと思う。それに、どんな小さな依頼も引き受け、人々からの支持は高い。
だが、『かわいい子』という言葉につられなかったと言えばウソになる。レイは、年下の小さい女の子を街でみかけるとその子を目で追い、ふらっと足が自然に動いてしまう。つまり、ロリコンなのだ。
「ほらやっぱり。そんな事だと思ったわ。男ってみんなそうなのよ。女の子を見た目で決めようとしたがる。問題は中身よ。性格でしょ」
ホームズは目つきが怖くて近寄りがたい雰囲気を出しているけど、十分かわいいとレイは思う。
「キディが、『男手は絶対必要になる』ってしつこいから仕方なく募集したけど……」とホームズはあきらめの表情を浮かべ、「まあいいわ。とりあえず一週間後の正午にまたここへ来て。結果を知らせるから」
そこまで言うと、ホームズは用は済んだとばかりに、あごで玄関を示す。帰れということらしい。
「そ、それじゃよろしく」
あまりにもつっけんどんなホームズに、レイはおじけづいていた……わけではなかった。
かわいい見た目とはギャップのある、お姉さんっぽい態度の女の子も悪くないなあ。
レイは、体の芯が揉みほぐされているようだった。目がトロンとしている。
レイが事務所を出ると、キディがパソコンをぱたんと閉じてホームズの所へ行き、片手を机に置いた。
「……ねえ、どうだった? 採用するの?」
キディが落ち着いた声でホームズに訊いた。
「あたしは、良かったと思いますよ! 頼りになりそうですし」
みかんが顔をほころばせながら歩いてくる。ホームズは両ひじをつき、あごを手に乗せた。
「そう? なんだか頭が悪そうだし、変な目でこっちを見てた気がするわ」
ホームズは、レイが書いた書類にもう一度目を通し始めた。
一週間後、レイは再び探偵事務所へ足を運んだ。
「おっ、みかんちゃんは今日もメイド服なのか」
中へ入ると、みかんがお盆を持って笑顔で迎えてくれた。どうやらねこ耳メイドは嫌でも、普通のメイドさんなら問題ないらしい。
「昔あたしが住んでいた家にいたお手伝いさんは、全員この恰好をしてましたから。仕事するときはこれを着なくてはいけないのかと思ったんです」
「えっ、きみの家はもしかして金持ちなのか?」
だとしたら、なぜこんなところで働いているのだろう。
「はいそうです。実は……」
「おしゃべりするな。早くこっちへ来い」
奥を見ると、ホームズが机で頬杖をしていて、こちらをギロッと睨んでいる。
「みかんちゃん、ごめんな。ホームズさんに呼ばれたから」
レイは残念そうな顔をしながらホームズのもとへと急ぐ。
「あのね。今何時だと思ってるの? 予定の時間から三十五秒過ぎちゃってるじゃない」
ホームズは、獲物に襲いかかるライオンのように犬歯をむき出しにしている。
あれ? なんでこんなにお怒りなんだろう?
「まあいいじゃないか、ちょっとくらい遅くなっても。今すぐ出かけるわけじゃないんだろう?」
レイが澄ました顔でそう言うと、ホームズがドン! と机を両こぶしで叩いた。
「ふざけんな! 約束の時間に遅れるなんて労働者として失格だ。せっかくお前を採用したのに、またアルバイトの生活に戻すぞ。それでもいいのか?」
「アルバイトってどういうことですか、ホームズさん?」
みかんがその場の空気にオドオドしながら尋ねる。
「ああ。レイは、十五歳で学校を卒業してから、二年間ずっと定職に就けないでいるみたい。履歴書にそう書いてあったわ」
ホームズの言葉を聞いたレイは、一旦膨らんだお餅がしぼんでいくように、気を落とした。そして、ぽつりぽつりと語り始める。
「そうだよ。オレはこれまで色んな仕事をしてきた。でも、続かなかったんだ。だから、ここで今度こそがんばっていこうと誓ったんだ。お願いだから、首をはねることだけはしないでくれ。一生の頼みだ」
レイは、机にガツンッとおでこをぶつけて頭を下げた。
(あ〜あ。机に傷がついちゃったかも)
レイに聞こえないようにそうつぶやいたホームズは、顔を上げなさい、とレイにささやく。
「一生のお願いなんて、後々のためにとっておきなさい。さて、本題に入るわ」ホームズは一呼吸置き、「わたしはレイを雇うことにするわ」
それを聞いたレイは、安心したように肩の力を緩めた。
「一週間あなたを監視してあやしい人物でないことを確認したから、採用することを決めたの。条件はクリアしているし」
「それじゃ、なぜか誰かに見られていたように感じていたのは……」
レイは、少し驚いた顔をした。
「そう。わたしよ。あなたが気付いていたということは、張り込みの技術はまだまだということね」
ホームズは、残念そうに言った。そして、これがあなたの最初の仕事よ、と言って、一メートル四方の紙を机に広げた。それはこの街の地図だった。
「明日の夜、怪盗が狙っているのはこの豪邸にあるお宝よ」
ホームズは、街はずれの丘の上を指さした。透明感のある爪がきれいに切りそろえられている、色白くて細い人差し指だ。
「ああ、ここなら知ってるぞ。この街で一番金持ちの家だろう?」
レイは、思い出したようにうんうんとうなずく。
「そうよ。この国の真ん中を縦に走っている、山脈のふもとの大きな鉱山で大成功した家系なんだけど……」
次にホームズは、一枚の写真を引き出しから出した。レイの横に、キディとみかんが興味深げに寄ってきた。女の子独特の、鼻をくすぐるよい匂いがしてくる。
「これが今回狙われているお宝。十二歳の息子さんが持っているポスト型の貯金箱で、金箔で覆われているの。よく見ると、小さい宝石がたくさん付いているでしょ。一戸建ての住宅が二つ半買えるほどの金額らしいわ……聞いてるの?」
少しぼーっとしていたレイは、ホームズの言葉で正気に戻った。
「あ、ああ。もちろんさ。それで、どうやって怪盗からそのお宝を守るんだ?」
レイが、その写真をじっくりと見ながら訊く。
「それを今から説明するわ。まずは……」
翌日の昼ごろ、ホームズとレイの二人は、街一番の金持ちの家に出向いた。キディは防犯カメラを操作してホームズに情報を伝える係のため、まだここには来ていない。
「それにしても、でかい家だなぁ。中庭もこんなに広いし」
レイはため息をついた。
「どうしたのよ。もしかして、あまりの格の違いに絶望してるの?」
横を歩いているホームズが、バカにしているような目でレイを見る。
「絶望しているわけじゃないけど、このオレとの差はいったい何だろうと思ってさ」
「そんなの決まってるじゃない。あなたの脳細胞の数が足りない事よ」
ホームズはフフフと笑うと、先に歩いて行ってしまった。レイは文句を言いながら後を追いかける。
「あなたがホームズさんの助手ですか? よく来てくれました。私はカネツグと言います」
やたらと大きなドアを開けて中に入ると、ちょびひげを生やしたグレーのスーツ姿のハンサムな当主が待っていて、レイと握手をした。
「これが、私の息子のカネモトです」
そう言ってカネツグは、隣に立っている子どもを紹介した。目が引きつっていて、少々生意気そうな男の子だ。黒いセーターと紺色のジーパンをはいている。
「ホームズさんは怪盗Hの事を研究していらして、その怪盗の命名者でもあるんですよね?」
「ええ、屈辱的な名前のほうが、相手にプレッシャーを与えられるので」
カネツグにホームズが笑いながら答える。
それで……とカネツグが不安そうな顔をする。「どのように怪盗の目をごまかすのですか?」
ホームズはレイに、持たせていたスーツケースをカネツグに見せるよう言った。
「今は金庫にお宝があると思いますが、それをこれに移して中庭に運び、警備するのです」
「でも……それじゃ危険度が高まると思うのですが」
「大丈夫です。このスーツケースの中にはダミーを入れてありますから。本物は引き続き金庫に入れて警備します。あなたがたは、お宝を移す演技をしてください」
なるほど、とカネツグは声を上げたが、すぐに疑問を浮かべた。
「ですが、それでは中での警備が手薄になってしまいますよ」
すると、ホームズはフフッと笑った。
「それこそが狙いなのです。まさか、だれも見張っていない金庫の中にお宝があるなんて、怪盗も思わないでしょう。逆に、なにか仕掛けが施してあるのではないかと不安になってしまいます」
ほほう、とカネツグは納得し、さっそくホームズの言う通りにするように、召使いに指示した。
夜の七時半過ぎ。中庭には、四方八方からライトが照らされているスーツケースがあり、それを警察を含む警備員が取り囲んでいる。その中には、レイも混じっていた。ホームズは、万が一のために屋敷内を見張っているらしい。
「予告の八時まであと三十分か……」
一昔前に流行った腕時計を見ながら、レイはつぶやく。
まったく分かりやすい作戦だな、とレイは思った。こんなに目立たせたら持って行ってくれ、と言ってるものじゃないか。だが、学校のグラウンドの半分くらいの大きさのある中庭を警備員が埋め尽くしている中、どうやって怪盗はやってくるのだろう? まさかミサイルを撃ち込んで全滅させた後、耐圧性のケースを大っぴらに持って帰るわけじゃないだろうな。レイは常識外の想像をし始める。
予告時間まで残り三分となった時、突然スーツケースの中から『ジリリリリ!』という目覚まし時計のものすごい音がし始めた。全警備員が驚いて一斉にケースを見つめた。
二分ほど鳴り続けた後音は止まり、代わりにアナウンスが流れ始めた。
『これは爆弾です。あと一分で爆発します。死にたくなければ速やかに逃げなさい。繰り返します。これは爆弾です。……』
中庭に一瞬沈黙が訪れてすぐ、全員が悲鳴を上げて中庭から逃げ出した。予想外の出来事に、皆動揺している。その中にはレイも一緒だった。
「こんなの聞いてないぞ! どういうことだ?」
皆は前庭まで避難し、時計を見つめる。残り三十秒くらいだ。どれくらいの規模を破壊する爆弾なのか知る由もないので、中には頭を抱えてうずくまっている者もいる。
残り十秒を切った。誰かが「皆這いつくばれ!」と指示したため、全員それに従う。皆冷や汗をかき、恐怖に唇が震えている。
「三、二、一、……」
『ポン!』
……警備員全員が耳を疑った。まるでマジシャンがシルクハットから物を取り出したときにつけるような効果音がしたからだ。皆様子を見に行ってみた。そこにはふたが開いたスーツケースがあり、ハトが二羽うろついていて、辺りには紙吹雪が散らばっている。
騒ぎを聞きつけ、屋敷内にいた従業員が外へ出てきた。レイがケースに近づこうとすると、
『レイ、聞こえる? 緊急事態よ。今すぐ走って前庭へ来て』
ホームズから渡されていた耳に付けている無線から、彼女の緊迫した声が聞こえてきた。
「な、なにかあったのか?」
レイが聞くが、なにも応答がない。どうやらよほどのことがあったみたいだ。
レイは急いでその場を離れるため、全力で走る。その時、
「あっ、誰かが逃げるぞ。変装した怪盗かもしれん。捕まえろ!」
という声が群衆の中から上がったかと思うと、皆がレイをギロッとにらみ、走って追いかけてきた。
「ええっ? オレはなにもしてない! ただホームズさんに呼ばれ……」
言葉をつづける余裕はなかった。全員が一斉にこちらへ走ってくる。
こうなったらもう訳が分からない。とりあえず巻かないと。レイは自慢の脚力で庭を駆け抜ける。
同じころ、カネツグの息子のカネモトは、自分のお宝がある金庫へ向かっていた。
金庫のある部屋には父のカネツグの姿があった。回転イスに足を組んで座っている。
「お父さん! 外が騒がしいよ。もしかしたら怪盗が見つかったのかも」
カネモトは、ちらっと窓の外を見ながら言った。
「そうだな。確かに怪盗は見つかったな」
そう言ってカネツグは立ち上がり、ビッとカネモトに人差し指を突き付けた。
「芝居はやめろ、怪盗。正体は分かってるんだ」
怖い顔をしているカネツグを見たカネモトは、フフッと笑った。それはカネモトの声ではなかった。女性の低めの声だ。
「どうして分かったのです? 変装は完ぺきだったはずですが」
そんなの簡単さ、と笑ったカネツグは、怪盗のジーパンの裾を指さした。
「カネモトは成長期でな、すぐに服が小さくなってしまう。だから今は、裾が長いジーパンは持っていないんだ。つまり、君のように裾をまくる必要はないわけさ」
怪盗はチッと舌打ちをすると、一歩前に歩み寄った。
「とりあえずここに参上したわけです。あまり長居はできないので、さっさとお宝を持って帰りたいのですが、その様子だと簡単に渡してくれそうにありませんね」
怪盗は冷静にそして淡々と言葉を発する。
「当たり前だ。これは愛する我が子に贈った大切な宝物だ。誰がお前のようなコソ泥に渡すか」
「我が子に贈るものだったら、ちゃんとしたお金で買った物のほうが喜ばれるのではないですか?」
金庫室を沈黙が支配した。「どういうことだ?」
「調べましたよ。あなたは政治家にわいろを渡して鉱山の所有者に圧力をかけさせましたね? 安く売り渡さないと家族の命を奪う、とでも雇ったやんちゃな若者で脅したんでしょう。そしてあなたは莫大な財産を手に入れた……」
「そ、そんなのどこに証拠がある? 私は正当な手段で取引しただけだ」
カネツグはギュッとこぶしを握った。怪盗は再びフフッと笑う。
「わたしの仲間に天才ハッカーがいましてね。申し訳ないですが、今あなたの会社に不正アクセスさせていただいています。もう少しで証拠が見つかるでしょう」
クハハハ! とカネツグは笑った。
「そんなはったりにはだまされないぞ! 悪いが君にはここで死んでもらう。世間には正当防衛だったと説明するさ」
と言い放って懐から護身用の銃を取り出そうと右手を突っ込む。
だが、怪盗のほうが速かった。それを察知していたかのように催涙スプレーを構え、カネツグの顔面に吹きかけた。
「グワッ」
カネツグはその場に倒れこんだ。怪盗が銃を回収しながら言う。
「わたしはあなたの悪事を公表するつもりはありません。ただ、その代わりにこのお宝はもらっていきます」
カネツグはおーいと叫んだ。だが誰も来る気配はない。
「今ほとんどの人が、わたしと勘違いされて逃げている人を追いかけています。助けが来るのは、あと三十分くらい先になるでしょう」
怪盗は金庫の前にしゃがむと、迷わずダイヤルを合わせ、ドアを開けて中身を懐にしまった。
「それでは失礼いたします」
怪盗は律儀におじぎをして部屋のドアを閉め、出ていった。
百人ほどの警備員をやっと巻いたレイのもとに、ホームズから連絡がきた。西門のほうへ来い、という。
指定された場所に着いたレイは、この屋敷に来た時に乗った、ホームズ愛用のジープを見つけた。その隣に、暗闇で分からないが、誰かが立っている。近くに寄ると、それはカネモトだった。
「あれ、なんでお坊ちゃんがここにいるんだ? ホームズさんは見なかったかい?」
雲が途切れて月が顔を出した。カネモトは静かに自分の頭に手をかけ、一気に皮膚を剥いだ。
それは皮膚ではなくマスクだった。そしてその月明りの中には、精悍な顔をしたホームズの姿があった。背中まである髪が夜風に揺れて美しい。
何が起きているのか分からないレイに、ホームズは少しだけほほ笑みの表情をつくり、一言だけ言った。
「わたしが、怪盗Hよ」
翌日の新聞には、『怪盗H、お宝奪取』という記事が一面を飾っていた。
「まさか、ホームズさんが怪盗Hだとは思わなかったなぁ。『H』っていうのは『ホームズ』の事だったのか」
事務所のソファで新聞を見ていたレイは、うーんと唸った。
「はい、どうぞ」
みかんが紅茶を持ってきてくれた。その笑顔がとてもきれいだ。この顔がずっと見れたらいいのになぁ、とレイはつぶやく。
「……だったら、私たちと一緒に旅をすればいい」
警戒の声を出している子ねこを乗せてキディが、なんの気配を感じさせずにレイの横に座った。おっ、とレイは驚きの声を出す。
「そうだよな。そうすればいいのか。オレは怪盗グループでもついて行くよ。オレを雇ってくれた恩人がそこにいるからな」
レイは、書類に目を通しているホームズをちらっと見る。
「……それに、せっかく出来た私の同志を手放すのはもったいない」
「同志?」レイはキディの顔を覗き込んだ。
「……あれよ」
キディは、台所を片づけているみかんを指さした。今日もねこ耳メイドさんの格好をさせられて赤面している。
ああ、なるほど……
レイが納得していると、ホームズがやってきてレイの右手をつかんだ。そしてレイの親指を、持ってきた朱肉につける。
「な、なにするん……」
レイが抵抗する前に、ホームズは契約書にグリグリとそれを押し付けた。
「今さら辞めるとは言わせないわ。これからずっとわたしの言う通りにしなさい。今回のような作戦ができると、仕事がしやすくなるしね」
ホームズはフフッと笑って書斎机に戻ろうと背を向ける。
その時、レイはある異変に気付いた。
最初は、ホームズのうなじのあたりにほくろがあるのかと思った。でもそれは八本の足が生えていて、じっとしがみついている。
レイはホームズに声をかけ、
「うなじにクモが付いてるぞ」
と軽い気持ちで教えてあげた。
「えっえっ、うそっ!」
突然、ホームズがペタンと女の子座りをし、体をもぞもぞと動かし始めた。
「ホームズさん? どうした……」
「いやー!」
ホームズは頭にキンキン響いてくるような悲鳴を上げ、首の後ろを触る。ポトン、とクモが落ち、クルッとそのクモは体を丸めた。
「やだやだやだー!」
ホームズは駄々をこねる子どものように、床をゴロゴロと転がる。そして前頭部をガツン! と本棚にぶつけた。そしてそこで止まったホームズは、体を縮みこませてブルブルと震わせる。
「だ、大丈夫か?」
レイはホームズに駆け寄り、肩に手を置く。その時、顔をくしゃくしゃにして涙目になっているホームズが、レイに抱きついてきた。クスンクスンという声まで聞こえる。
予想だにしなかった出来事に、レイは体が硬直して動けなくなった。そして、かろうじて動く両手をホームズの背中に回す。
今のホームズは、とても小さくか弱い、どこにでもいる女の子にしか見えない。レイはホームズの背中を優しくなででやる。
二分後、ホームズは落ち着いたのか、レイから離れた。そして驚愕の表情を浮かべる。
「な、なんであんたがわたしにくっついてるのよ! わ、わたしをどうする気だったの?」
いや、くっついてきたのはホームズさんだろ、とレイが言うと、
「う、うるさい! わたしはただ……ああっ、もうあっち行け!」
とホームズが立ちあがって、近くにある本をめちゃくちゃに投げつけてきた。うわっとレイがあわててよける。レイは、とりあえず外へ避難しようと走って行き、ドアノブに手をかけた。だがペーパーナイフが飛んできてドアにぐさっと刺さった時、レイは思わず尻もちをついた。そして後頭部に本の硬い部分が激突し、レイは目がくらくらして仰向けにぶっ倒れた。みかんがあわててレイに駆け寄る。
レイの、天国であり地獄である生活が始まった。
初めての方、初めまして! この作品に目を止めていただきありがとうございます。なにぶん連載は初めてなので、緊張しています(汗)。短編連作で進んでいく予定なので、これからもずっと読んでもらえればうれしいです!




