スパイとの楽しい夜
あの夜はハニトラだったのか?
僕はふと思った。
静かな夜道で彼女は、両脇を公安の捜査官に静かに捕まれた。
僕は公安の車からその様子を見ていた。
車内の僕は彼女から見えない筈だけど、感の良い彼女は僕の存在に気づいたみたいだ。そして『あの夜はマジだよ』と無音の口元が語った。
でも、その真偽は不明だ。
車内で僕の隣にいる僕の依頼人の女の捜査官が僕に囁いた。
「君さ、可愛い顔して工作員を武装解除させるの巧いね」
「僕が可愛いかどうかはともかく、司法取引に応じそう?」
「応じるでしょうね」
武装解除に応じた工作員は、司法取引に応じやすい。
そして、公安は組織を一網打尽にするらしい。
女の捜査官は「成功報酬」と呟いて僕のスーツの内ポケットに、文庫本と同じぐらいの重さの札束を入れた。
「これは税金のかからないお金だよ」
と女の捜査官は僕の耳元で囁いた。
少なくとも警察官の言う言葉ではない。
女の捜査官は、連行される工作員を見つめていた。
そんな車内の沈黙の中、
『あの工作員は、文庫本と同じぐらいの重さの価値があるのか?』
僕はそんな事を思考しようとしたが、止めた。
そんな事に意味を見出せなかったから。
「これ次の就職先、行く?」
女の捜査官はメモを渡した。
かなり面倒くさい事案の匂いがした。
「ちょっと疲れたから」
僕が言うと、女の捜査官はそのメモをマジシャンのように、ボッと燃やした。車内が一瞬だけ明るくなった。
その後、公安が組織を一網打尽にしたと言うニュースが流れることはなかった。
☆彡
一月後、僕が終電の電車に乗っていると、工作員、いや元工作員と目が合った。僕が目を逸らすと、彼女が僕の隣に座った。
「わたし、誰も知らない国で、別人になるよ」
彼女は言った。司法取引に応じたらしい。
僕は相槌1つ打たなかった。そして、彼女は、
「楽しかったよ」
とだけ告げて、終電を降りて行った。
「僕も楽しかったよ」
終電のドアが閉まった後に、一人呟いた。
完




