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スパイとの楽しい夜

作者: 健野屋文乃
掲載日:2026/09/26

あの夜はハニトラだったのか?

僕はふと思った。


静かな夜道で彼女は、両脇を公安の捜査官に静かに捕まれた。

僕は公安の車からその様子を見ていた。


車内の僕は彼女から見えない筈だけど、感の良い彼女は僕の存在に気づいたみたいだ。そして『あの夜はマジだよ』と無音の口元が語った。

でも、その真偽は不明だ。


車内で僕の隣にいる僕の依頼人の女の捜査官が僕に囁いた。

「君さ、可愛い顔して工作員を武装解除させるの巧いね」

「僕が可愛いかどうかはともかく、司法取引に応じそう?」

「応じるでしょうね」

武装解除に応じた工作員は、司法取引に応じやすい。

そして、公安は組織を一網打尽にするらしい。


女の捜査官は「成功報酬」と呟いて僕のスーツの内ポケットに、文庫本と同じぐらいの重さの札束を入れた。


「これは税金のかからないお金だよ」

と女の捜査官は僕の耳元で囁いた。

少なくとも警察官の言う言葉ではない。


女の捜査官は、連行される工作員を見つめていた。

そんな車内の沈黙の中、

『あの工作員は、文庫本と同じぐらいの重さの価値があるのか?』

僕はそんな事を思考しようとしたが、止めた。

そんな事に意味を見出せなかったから。


「これ次の就職先、行く?」

女の捜査官はメモを渡した。

かなり面倒くさい事案の匂いがした。

「ちょっと疲れたから」

僕が言うと、女の捜査官はそのメモをマジシャンのように、ボッと燃やした。車内が一瞬だけ明るくなった。


その後、公安が組織を一網打尽にしたと言うニュースが流れることはなかった。


      ☆彡



一月後、僕が終電の電車に乗っていると、工作員、いや元工作員と目が合った。僕が目を逸らすと、彼女が僕の隣に座った。


「わたし、誰も知らない国で、別人になるよ」

彼女は言った。司法取引に応じたらしい。

僕は相槌1つ打たなかった。そして、彼女は、

「楽しかったよ」

とだけ告げて、終電を降りて行った。


「僕も楽しかったよ」

終電のドアが閉まった後に、一人呟いた。



完

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