第3話:夕食の時間です。夫が私の料理を遠ざけるので嫌がらせかと思ったら、『僕が咀嚼して口移ししたほうが安全では?』と真剣に悩んでいました
その日の夜――アイゼンシュタイン公爵家のダイニングルームは、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれていた。
部屋の中央に鎮座するのは、二十人は座れそうな長大なマホガニーのテーブル。
その端と端に私とギルバートは座っていた。
(⋯⋯すごく遠い)
私は彼方の席に座る夫を盗み見た。
あまりにもテーブルが長すぎて、彼の表情すらよく見えない。声が届くかどうかも怪しいレベルだ。
数時間前、彼は「食事も別々だ」と言い放った。
けれど、あえて私は強引にここへやってきた。
理由は単純だ。前世と同じ轍を踏まないためである。
前世だったら言いつけ通りに部屋で一人、冷めたスープを啜っていた。それが「別邸送り」への道しるべだったと今の私なら分かる。
夫との接点を完全に断ってしまえば、私はただの「居候」になり下がり、その分だけ排除されるリスクが高まる。
仲良くなる必要はないけれど、彼の動向を監視できる距離にはいなければならないのだ。これが私の生存戦略である。
カチャリ、とギルバートがナイフを置く音が響いた。
「⋯⋯リリア」
低い声が広い部屋を渡って届く。
遠目に見ても彼が不機嫌そうに眉をひそめているのがわかった。
「食事は別々だと言ったはずだが」
拒絶の言葉、やっぱり怒っているのだろうか。
私が身構えながら言い訳を考えようとした、その時。
『ザザッ⋯⋯遠い⋯⋯!』
例のノイズと共に、悲痛な叫びが脳内に響き渡った。
『なんでこんなにテーブルが長いんだ! 設計ミスだ! リリアが豆粒みたいにしか見えないじゃないか! ああ、こんなことならオペラグラスを持ってくればよかった。いや、むしろ僕が豆になって彼女の皿に乗るべきか?』
(⋯⋯豆?)
私はポカンとしてしまった。
彼は真顔で私を睨みつけている(ように見える)が、頭の中では自分が豆類に転生する可能性を模索しているらしい。
「妻として、旦那様の健康管理も務めですので」
私は努めて冷静に、もっともらしい理由を口にした。
「同じ食卓を囲ませてくださいませ」
ギルバートは一瞬言葉に詰まったように黙り込み、やがてフイと顔を背けた。
「⋯⋯勝手にしろ」
『やったあああああ! 一緒だ! ディナーだ! 実質デートだ! リリアが僕の健康を気遣ってくれている! もう風邪なんて一生ひかない! いや、看病してもらえるなら今すぐ裸で雪山にダイブして肺炎になりたい!』
彼の背後の窓ガラスが、ピキピキと音を立ててヒビ割れた気がする。
どうやら、私の監視作戦は成功したようだ。
ただし、この騒音に耐えられればの話だが。
◇
やがてメイドたちが前菜のスープを運んできた。
カボチャのポタージュだろうか。甘い香りが漂い、空腹の胃を刺激する。
温かい食事、それだけで今の私には涙が出るほどありがたい。
しかしメイドが私の前に皿を置こうとした、その瞬間。
「待て」
鋭い声が飛んだ。
ギルバートが手を挙げ、メイドを制したのだ。
「そのスープ、こちらへよこせ」
「えっ? ですが、これは奥様の⋯⋯」
「いいからよこせ」
メイドは有無を言わせぬ圧力に怯えながら、私の分のスープをギルバートの目の前へと運ぶ、2つの皿が並んだ。
私の目の前には、空のランチョンマットだけが残される。
(⋯⋯は?)
私は眉をひそめた。
これはどういうこと?
私には食べさせないということ?
「同じ食卓には着かせてやるが、飯抜きだ」という嫌がらせだろうか?
ギルバートは私のスープ皿を引き寄せると、スプーンで一口すくい、まるで鑑定士のような鋭い眼光で凝視し始めた。
そして鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、舌先でほんの少しだけ舐める。
その間、室内の空気は張り詰めていた。
私は怒りで拳を握りしめようとした。
だが聞こえてくる彼の思考は、私の予想を遥かに超えて斜め上の方向へ暴走していた。
『⋯⋯毒はないか? 遅効性の毒物は? 無味無臭の麻痺薬は入っていないか? 料理長は信頼できるが、下働きの者が買収されている可能性はゼロじゃない! リリアの体に一ミリグラムでも毒素を入れるわけにはいかない!』
(⋯⋯毒味かよ!)
過保護にも程がある。
しかし、彼の思考はそこで止まらなかった。
『具材のサイズは適切か? 喉に詰まらせたりしないか? 針のような異物は混入していないか? それに温度だ! 熱すぎないか? もしリリアが猫舌だったら、この温度は凶器になる! 可憐な舌を火傷させてしまう!』
ギルバートは真剣な顔で、スプーンの上のスープを見つめ続けている。
『どうする? 僕がフーフーして冷ますべきか? いや、僕の汚れた息がかかったスープなんて、女神である彼女には汚らわしくて飲めないだろう! 殺菌魔法をかけるか? いや、それだと風味が落ちる!』
ザザッ、とノイズが激しくなる。
『いっそのこと⋯⋯僕が一度口に含んで、咀嚼して、温度と安全を完璧に確認してから、口移しで与えるのが一番安全なのでは!?』
(気持ち悪っ!!!!)
私は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
鳥か、親鳥の給餌か。
美しい顔をして何を考えているんだこの男は。
『⋯⋯いや、だめだ。それはさすがに変態だと思われる。通報案件だ。リリアに軽蔑の目で見られたら僕はショック死する。でも万全を期すなら⋯⋯いや、我慢だ。ここは文明人として振る舞うんだギルバート!』
ギルバート公爵は苦渋の決断を下したようだった。
彼は未練がましそうにスプーンを置くと、ナプキンで口元を拭った。
スッ、とスープ皿が私の方へ差し出された。
「⋯⋯運べ。問題ない」
彼は短く告げると自分自身の食事に取り掛かった。
その動作は優雅そのものだが私は知っている。今の彼が、脳内で「口移しプラン」を必死に却下した直後であることを。
(⋯⋯まあ、安全確認してくれたってことよね。変な思考付きだけど)
メイドが再びスープを運び、目の前に置かれる。私は気を取り直してスプーンを手に取った。
一口、口に運ぶ。
濃厚なカボチャの甘みが口いっぱいに広がる。適温だ。とても美味しい。前世の手作りスープとは比べ物にならない本物の味。
「⋯⋯ありがとうございます」
私は礼を言った。
これは本心だ。毒味をしてくれたこと(変態思考はさておき)と、温かい食事を与えてくれたことに対して。
「とても美味しいです」
ニコリと笑って伝えた瞬間。
ガシャン!!!
ギルバートの手からフォークが滑り落ち、皿にぶつかって派手な音を立てた。
それだけではない。
テーブルの上の水差しの水が、一瞬にしてカチンコチンに凍りつき、氷の膨張に耐えきれずにピシッとヒビが入った。
「!?」
使用人たちが慌てて駆け寄ろうとするが、ギルバートは片手を挙げてそれを制した。
彼は口元をナプキンで強く押さえ、うつむいて震えている。
(怒らせたの!? 美味しいって言っただけなのに!?)
私が戦慄していると、頭の中でファンファーレが鳴り響いた。
『ぶふぉあっ!!(吐血音)』
(吐血した!? 心の中で!?)
『「美味しい」いただきましたあああああ!! 破壊力が凄い! その微笑みだけで一生分の寿命が伸びてる気がする! 唇の動きが可愛い! 咀嚼音が天使の聖歌に聞こえる! 今すぐ専属シェフの給料を3倍にしてやる! いや、いっそ僕がカボチャになって彼女の血肉になりたい!!』
(⋯⋯食材になりたがるのやめてもらっていいですか?)
ギルバートはゆっくりと顔を上げた。
その表情は鉄仮面のように無表情だ。
しかし隠しきれない動揺が物理現象として表れている。
彼の銀髪の先から、冷気による白い靄が立ち上り、耳の先だけが茹でダコのように真っ赤になっていた。
「⋯⋯そうか。ならば、いい」
彼は絞り出すような声で言った。
平静を装っているつもりなのだろうが、テーブルクロスの端が凍りついてパリパリと音を立てている。
私は心の中で大きくため息をついた。
とりあえず、毒殺の心配はなさそうだ。
むしろ、愛が重すぎて胃もたれしそうである。
◇
嵐のような夕食を終え、私は自室に戻るために廊下を歩いていた。
ギルバートは「急用を思い出した」と言って、食事が終わるなり逃げるように執務室へ去っていった。
たぶん、理性の限界が来たのだろう。
「⋯⋯はあ。疲れた」
満腹にはなったけれど精神的な疲労感が半端ない。
これから毎日、あのハイテンションな心の声を聞きながら食事をするのかと思うと、頭が痛くなってくる。
部屋の前まで来た時、ふと気配を感じて振り返った。
廊下の曲がり角――月明かりが差し込む暗がりに、人影があった。
ギルバートだ。
彼は壁に身を隠すようにして立っていた。
そして床の一点――私がさっき歩いてきた廊下のカーペットを、熱っぽい瞳で見つめている。
『⋯⋯ここを⋯⋯リリアが歩いたんだな⋯⋯』
うっとりとした、粘着質な声が聞こえてくる。
『可愛い足跡だ。見えないけど僕には見える。妖精の粉が舞っているようだ。⋯⋯聖地だ。誰も踏ませたくない。この部分だけカーペットを切り取って額縁に入れるべきか? それとも強力な結界を張って永久保存するか? ああ、リリアの残り香だけで今夜は一睡もできそうにない⋯⋯』
(⋯⋯⋯⋯)
私は無言で自室に入り、鍵を三つかけ、さらに椅子をドアノブに噛ませてバリケードを作った。
「⋯⋯前途多難すぎる」
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
当初の予定では、夫の機嫌を取りながらお金を貯めて、円満離婚を目指すはずだった。
しかし、相手は常軌を逸したド級のヤンデレ。
しかも私のことを「女神」だの「聖地」だのと崇めているくせに、自己肯定感が低すぎてまともな会話が成立しない。
「⋯⋯早くお金を貯めよう」
この屋敷には高価なものがたくさんある。
夫の愛(?)を利用して、何とか資金を調達しなければ。
でなければ私の精神が崩壊するか、あるいは彼に物理的に凍らされて「永久保存」されるのがオチだ。
私は固く決意し、泥のように眠りについた。
夢の中でカボチャになったギルバートに追いかけ回されたのは言うまでもない。




