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25/25

第25話:「愛のない結婚だ」と冷遇する夫から逃げるために死に戻りましたが、今では世界一愛してくれる夫と可愛い子供に囲まれて、騒がしくも幸せに暮らしています

 あれから数年の月日が流れた。


 アイゼンシュタイン公爵邸の主寝室に柔らかな朝の光が差し込んでいる。


 私は鏡台の前で髪を梳かしていた。

 鏡に映るのは二十二歳になった私、リリア・アイゼンシュタインの姿だ。


 かつて死に戻りをした直後の不安と恐怖に怯えていた少女の面影はもうない。


 少しだけ大人びた表情と穏やかな自信が今の私を作っていた。


「⋯⋯ふふ、今日もいい天気」


 窓の外には抜けるような青空が広がっている。


 かつては「氷の公爵の呪われた屋敷」と呼ばれ、一年中どんよりとした空気が漂っていた場所とは、まるで別の世界のようだ。


 庭には色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥たちがさえずっている。


 平和な朝。

 優雅な一日の始まり。


 ――ドタドタドタドタッ!!!


 廊下の方からそんな静寂を打ち破るような、小怪獣の足音が響いてきた。


「ママーーーッ!!」


 バン! と勢いよく扉が開く。

 飛び込んできたのは三歳になる男の子だった。

 キラキラと輝く銀色の髪に宝石のようなサファイアブルーの瞳。


 夫であるギルバートをそのまま小さくして愛想の良さを百倍くらい足したような容姿。


 私たちの愛息子、レオンだ。


「レオン! おはよう」


「ママ! おはよー!」


 レオンは弾丸のように私に向かって突進してきた。

 私はブラシを置いて、両手を広げて受け止める。


 ドスン!


 勢いよく抱きつかれ、私は椅子ごと少し後ろに下がった。

 三歳にしては、なかなかの力強さだ。将来は騎士団長になること間違いなしかもしれない。


「ふふ、元気ねぇ。パパは?」


「パパはねー、おそい!」


 レオンが私の胸に顔をスリスリと擦り付けて甘える。

 その直後、廊下から少し疲れた様子の長身の男が入ってきた。


「⋯⋯こら、レオン。ママに乗っかるなと言っただろう」


 ギルバート・フォン・アイゼンシュタイン公爵。


 歳月を経てその美貌には大人の色気が加わり、さらに磨きがかかっている。


 かつての鉄仮面のような冷徹さは鳴りを潜め、今はどこか柔らかな雰囲気を纏っていた。


 ⋯⋯ただし、今は眉間に深い皺が刻まれているけれど。


「いいじゃん! ママだもん!」


「だめだ。ママは重いのが嫌いなんだ」


「うそだー! ママ、ぼくのことすきだもん!」


 レオンはベーッと舌を出すと、さらに強く私にへばりついた。


 その瞬間――ピキッ。


 部屋の空気が一瞬で張り詰めた。室温が体感で二度ほど下がる。

 ギルバートの背後から目に見えない冷気がゆらりと立ち上った。


「⋯⋯レオン」


 低く、地を這うような声で「氷の公爵」と呼ばれた男の片鱗が顔を出す。


「そこは私の場所だ。⋯⋯どきなさい」


 三歳児相手に本気で大人気ないことを言っている。


 レオンはキョトンとして、それからプイッと顔を背けた。


「やーだ! パパのいじわる! ママはぼくの!」


「貴様⋯⋯ッ!」


 ギルバートのこめかみに青筋が浮かぶ。

 彼の顔は無表情を保とうと努力しているが、心の中では火山が大噴火を起こしていた。


 キィィィィィン⋯⋯!!(恒例のノイズ音)


『許さん! たとえ我が子でも許さん! そこは! リリアのその柔らかい場所は! 僕だけの聖域だ! なんでそんなにグリグリするんだ! 柔らかさを堪能しているのか!? このエロガキめ!』


(⋯⋯発想が酷い)


 私は苦笑した。相変わらず彼の心の声は以前にも増して鮮明に、大音量で聞こえてくる。


『リリアの匂いを嗅いでいる! 僕だって朝一番に嗅ぎたいのに! なんで僕の遺伝子を受け継いでいるくせに、僕より要領がいいんだ! 前世で徳を積みすぎだろこの野郎!』


 ギルバートは拳を震わせている。


『もう三歳だぞ? 甘えすぎだ! 男なら剣を持って戦場に出るべきだ! そうだ、自立だ! 早く自立しろ! 寮に入れよう! 全寮制のスパルタ学校に入学させよう! いや、明日から騎士団の雪山合宿に放り込んでこようか!?』


(⋯⋯虐待はやめてください)


 このままだと本気で息子を雪山に連れて行きかねないので、私は仲裁に入ることにした。


「はいはい、二人ともストップ」


 私はレオンの頭を優しく撫でて、彼を床に下ろした。


「レオン、パパにおはようは?」


「⋯⋯パパ、おはよ」


「うん、えらいわね。あっちでおもちゃで遊んでらっしゃい」


「はーい!」


 レオンはパタパタと部屋の隅へ走っていった。玩具を用意したメイドが構っている。


 そして、私は拗ねて氷像のように固まっている夫に向き直った。


「ギルバート様」


「⋯⋯なんだ」


「まだ三歳ですよ。本気で嫉妬しないの」


「嫉妬などしていない。⋯⋯教育的指導だ」


 彼は顔を背ける。耳が赤い。

 私は背伸びをして、彼のかたくなな頬にチュッとキスをした。


「!」


「私は、貴方のものよ。⋯⋯ね?」


 その一言で彼の魔力暴走(意図的)はピタリと止まった。

 室温が一気に春の陽気に戻る。


『ふあぁぁぁ⋯⋯リリアのキス⋯⋯。染みる⋯⋯。荒んだ心に女神の慈悲が染み渡る⋯⋯』


 彼の心の中が一瞬でお花畑になった。

 単純で、扱いやすい夫だ。


『可愛い。やっぱりリリアが一番だ。レオンには悪いが、ママは僕のものだ。⋯⋯まあ、あいつも僕とリリアの愛の結晶だから、可愛くないわけではないんだけど⋯⋯。でも聖域への侵入は断固阻止する!』


 彼は咳払いを一つして、私を抱きしめ返した。


「⋯⋯愛している、リリア」


「ええ。知っていますわ」


 私たちは朝の光の中で、穏やかに微笑み合った。

 レオンが積み木を崩す音が、BGMのように響いていた。



 その日の午後、私たちは庭に面した広いバルコニーで、ティータイムを楽しんでいた。


 眼下の庭園では、レオンが元気に走り回っている。

 使用人や護衛たちが、笑顔でその相手をしていた。


「⋯⋯キャハハ! まてー!」


「若様、お早いですな!」


 平和な光景、かつて使用人たちが恐怖に震え、誰も寄り付かなかった庭園とは大違いだ。


 今ではギルバートが通っても誰も逃げないし、むしろ「旦那様、今日のネクタイはお似合いですね」なんて気軽に声をかけてくる。


「⋯⋯幸せだな」


 ティーカップを置き、ギルバートがポツリと呟いた。

 彼は目を細めて走り回る息子と美しい庭を眺めている。


「ええ。⋯⋯本当に」


 私は頷いた。


「昔は⋯⋯こんな日が来るなんて、想像もできませんでした」


 北の別邸で、寒さと孤独に震えながら死んだとき。「愛のない結婚だ」と絶望し、誰も私を愛していないと信じ込んでいた。


 そして死に戻った直後も⋯⋯夫から逃げることばかり考えて、お金を貯めて、南の島へ行くことだけを夢見ていた。


「もし、あの時⋯⋯貴方の心の声が聞こえていなかったら」


 私は自分の胸に手を当てた。


「私はきっと、貴方の不器用な愛に気づけずに、またすれ違ってしまっていたでしょうね」


 ギルバートが、テーブルの上で私の手をそっと包み込んだ。

 その手は、カイロのように温かい。

 もう、氷のように冷たくなることはない。


「⋯⋯私の方こそ」


 彼は静かに言った。


「君が、僕を変えてくれたんだ」


「私が?」


「ああ。⋯⋯君があの日、地下牢の僕にキャンディをくれた時から。そして氷のように冷たかった僕に、何度もぶつかって溶かしてくれたから」


 彼の青い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。


「君がいたから僕は『化け物』から『人間』になれた。⋯⋯君が僕に体温と心と生きる意味をくれたんだ」


 心の声ではない。

 彼自身の口から紡がれる、飾らない言葉。

 それはどんな詩よりも美しく、私の胸を打った。


「ありがとう、リリア。⋯⋯生まれ変わっても、何度世界が繰り返しても、僕はまた必ず君を見つけるよ」


 それは彼が命を賭して時間を巻き戻した、あの奇跡の証明だった。

 過去も、現在も、そして未来も。

 彼の魂は私を愛するためだけに存在しているのだ。


「⋯⋯もう」


 私の視界が潤んだ。

 こんなに真っ直ぐな愛を向けられて、泣かないなんて無理だ。


「私もよ、ギルバート」


 私は涙を拭い、彼に微笑みかけた。


「貴方が何度私を見つけてくれても⋯⋯私は何度でも、貴方を好きになるわ」


 私たちは自然に惹かれ合うように顔を近づけた。


 夕日が差し込み、バルコニーをオレンジ色に染め上げる。


 庭からは息子の笑い声と風に揺れる花々の香り。

 全てが完璧なハッピーエンドの絵面。


 私たちの唇が、触れ合う――その瞬間。


 ドッゴォォォォォォォォォォン!!!!!


 脳内で盛大な爆発音が響き渡った。


『んんんんんんんんんんっ!!!!』


 鼓膜が破れそうな大絶叫。


『最高! 最高だ! リリアの唇が甘い! フルーツ味? いやこれは桃源郷の果実の味だ! 柔らかい! 温かい! 心臓が跳ねすぎて肋骨が折れそうだ! いやもう折れてるかもしれない!』


(⋯⋯っ!)


 私はキスの最中なのに、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


 ムードもへったくれもない。

 さっきまでの感動的な空気はどこへ行ったのよ。


『愛してる! 好きだ! 大好きだ! 愛してる以上の言葉がないのが悔しい! 辞書を作ろう! 「リリア」という単語を「宇宙一の愛」と定義しよう!』


 彼の思考は加速していく。


『このまま時間を止めて永久保存したい! いや、止めたらもったいない! もっと愛し合わなきゃ! レオンも大きくなってきたし、そろそろ第二子、第三子を作るべきか!? 女の子ならリリアに似て天使になるに決まってる!』


『よし、今夜だ! 今夜決行だ! 会議? キャンセルだ! 夜会? 欠席だ! 今夜は僕とリリアの愛の建国記念日だああああああああ!!!』


 ギルバートは唇を離すととろけるような顔で私を見ていた。

 その顔は、夕日のせいだけではなく、興奮で真っ赤に染まっている。


「⋯⋯リリア」


 彼は甘く名前を呼んだ。

 でも私には聞こえている。その裏にある台風のような情熱(と煩悩)が。


(⋯⋯うるさい)


 私は心の中で呟いた。

 本当に、うるさい人。

 暑苦しくて、重くて、騒がしい。


(⋯⋯でも)


 私は彼の胸に頭を預けた。

 トクン、トクンと、力強く打つ心臓の音。

 そして脳内に響き続ける愛の絶叫。


 これが私が選んだ未来。

 凍えるような静寂ではなく、耳を塞ぎたくなるほど騒がしくて、火傷しそうなほど温かい場所。


(これが、世界で一番幸せな『音』だわ)


 私は彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。


「愛しています、ギルバート。⋯⋯貴方のその、騒がしい心の声も含めて、全部」


「えっ⋯⋯?」


 彼が目を見開く。

 そして次の瞬間、彼の顔が沸騰し、幸せのあまり卒倒しそうになるのを私は笑顔で支えた。


 ここには南の島以上の、いやどんな楽園よりも温かい幸せがある。


 元・氷の公爵とその心を溶かした妻、そして銀髪の小さな怪獣。

 アイゼンシュタイン公爵家の賑やかな日々は、これからもずっと続いていく。


 完

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