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第20話:夫の体は燃えるように熱いのに、吐く息は凍りついています。彼を救うための「氷」を求めて地下へ走ったら、全ての始まりの記憶を見つけました

 夜明け前のとき

 世界が最も深く沈黙するこの時間、アイゼンシュタイン公爵邸の主寝室は、異様な光景に包まれていた。


「⋯⋯はあ⋯⋯っ、う⋯⋯」


 天蓋付きのベッドの上でギルバートが苦しげに喘いでいる。

 その顔は赤く火照り、大量の汗が玉のように浮き出ていた。見るからに高熱にうなされている状態だ。


 しかし、部屋の空気は極寒だった。


 彼が荒い呼吸を吐くたびに白い呼気が霧のように広がり、宙を舞う水分を一瞬にして凍らせていく。


 枕元の水差しは既に凍りつき、分厚い羽毛布団の表面には真っ白な霜が降りている。


「ギルバート様⋯⋯!」


 私は彼に駆け寄り、その額に手を触れた。


「ッ!?」


 反射的に手を引っ込める。


 熱い――まるで焼けた鉄板に触れたような、火傷しそうなほどの高熱だ。


 体の内側から人間離れした熱量が暴走している。


「どういうことなの? 体はこんなに燃えているのに、周りは凍りついているなんて⋯⋯」


 これでは温めればいいのか、冷やせばいいのかすら分からない。

 そばに控えていた老医師が、沈痛な面持ちで口を開いた。


「⋯⋯奥様。これは『魔力欠乏症』の末期症状だと思われます」


「末期⋯⋯症状⋯⋯」


「我々の生命維持には魔力が欠かせません。ですが何らかの理由でその魔力が足りない場合、魔力を生み出すため膨大なエネルギーを必要とします。その結果がこの発熱です」


「では、この冷気は⋯⋯」


「日頃からギルバート様は氷の魔力を制御しておられる⋯⋯が今はその制御を失い、溢れ出た残存魔力が周囲を凍らせている。ということだと思います。何にせよこのままでは命に関わる」


 私は息を呑んだ。


「どうすれば⋯⋯どうすれば止められますか!?」


「時間稼ぎですが熱を冷まさなければなりません。とはいえ普通の氷や水では、触れた瞬間に蒸発してしまいます。もっと強力な、魔力を帯びた純粋な冷気でなければ⋯⋯」


 医師が頭を抱える中、部屋の隅に控えていた老執事が、ハッとしたように顔を上げた。


「⋯⋯魔力を帯びた氷ならば、心当たりがございます」


「え?」


「この屋敷の地下深く⋯⋯かつて牢獄として使われていた場所に、古くから解けることのない『永久氷』が張り付いた一室がございます。あそこの氷ならば、あるいは⋯⋯」


 地下、牢獄⋯⋯その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に以前見た走馬灯のような映像がフラッシュバックした。


 暗い地下牢。鉄格子。そして手を伸ばす少女。


 ドクン、と心臓が早鐘を打った。

 私は知っている。あの場所を。

 なぜか分からないけれど、そこに行かなければならない気がする。


「⋯⋯私が行きます」


 私は立ち上がった。


「奥様? 地下は危険です、使用人に⋯⋯」


「いいえ。私じゃなきゃダメなんです。そんな気がするんです」


 私は制止を振り切り、サイドテーブルにあったカンテラ(ランプ)を手に取った。


 ベッドの上のギルバートを一瞥する。

 彼は苦悶の表情で、うわ言のように私の名を呼んでいた。


「待っていて。⋯⋯すぐに戻るわ」


 私は部屋を飛び出し暗い廊下を駆けた。

 屋敷の奥にある今は使われていない地下への扉。


 重い鉄の扉を開けるとそこには深淵へと続くような、冷たく湿った石階段が口を開けていた。


 ◇


 カツン、カツン⋯⋯。


 足音が石壁に反響する。

 地下へ降りるにつれて空気は冷たく、重くなっていった。

 カビと土の匂い。そして肌を刺すような鋭い冷気。


 カンテラの淡い光が、古びた石畳を照らし出す。

 ここは公爵家の「闇」が眠る場所だ。


 強力すぎる魔力を持って生まれた子供を幽閉し、世間から隠すための牢獄。


 突き当たりまで進むと、そこには錆びついた太い鉄格子があった。

 その奥の部屋は壁も床も、分厚い青白い氷で覆われている。

 執事の言った通りだ。数十年、いや数百年溶けることのない魔力を帯びた氷。


「⋯⋯っ」


 その光景を見た瞬間、私のこめかみに激痛が走った。

 頭が割れるようだ。


 視界が明滅し、封印されていた記憶の扉が、ギギギと音を立ててこじ開けられていく。


 ――思い出した。

 ここは、私が初めて彼と出会った場所だ。


 ・・・・・・・・・


 視界が低くなる。

 私は五歳の少女になっていた。


 十二年前――公爵家で開かれたパーティーの日。

 退屈した私は、親の目を盗んで屋敷を探検していた。


 そして迷路のような廊下を彷徨い、好奇心に引かれるままに地下へと降りてしまったのだ。


『だれか、いるのー?』


 幼い私は怖がりもせずに鉄格子の前に立った。

 暗い牢の中――氷の床の上に一人の少年がうずくまっていた。


 銀色の髪、青ざめた肌、手足には魔封じの重い鎖が繋がれている。十歳の頃のギルバートだった。


『⋯⋯っ! 来るな!』


 少年は私に気づくと、鋭く叫んだ。


『あっちへ行け! ここは立ち入り禁止だ! 僕に近づくと凍ってしまうぞ!』


 彼の周りの空気が凍りつき、ピシピシと音を立てる。


 彼は当時、魔力制御ができずに暴走を繰り返し「化け物」としてここに閉じ込められていたのだ。


 でも五歳の私は「化け物」なんて言葉を知らなかった。

 私に見えたのは暗くて寒い部屋で、一人ぼっちで震えている可哀想な男の子だけだった。


『おにいちゃん、さむそう』


 私は鉄格子にへばりついた。


『どうしてそんなところにいるの? おなかすいてない?』


『⋯⋯関係ない。早く逃げろ。死にたいのか』


 少年は必死に私を遠ざけようとした。

 私はそれを無視してポケットをごそごそと探る。そしてパーティー会場でこっそり貰ってきた、一つのお菓子を取り出した。


 赤い包み紙の、ミルクキャンディ。


『これ、あげる』


 私は鉄格子の隙間から、小さな手を差し出した。


『これね、すっごくあまくて、おいしいの。食べるとポカポカするの。おまじないよ』


『⋯⋯え?』


『だから、たべて? ね?』


 少年は驚いたように目を見開いた。

 誰もが彼を恐れ、遠ざけた。


 近づくのは食事を運ぶ使用人だけで、彼らもまた防寒具を着込んで怯えながら接していた。


 素手で、笑顔で、無防備に近づいてくる人間なんて彼の人生で初めてだったのだ。


 少年ギルバートは迷いながらも恐る恐る手を伸ばした。

 その手は震えていた。

 私を傷つけまいと冷気を必死に抑え込もうとしていた。


 そして⋯⋯彼の氷のような冷たい指先が、私の温かい指先に触れた。


 ――ピタリ。


 その瞬間、嘘のように冷気の暴走が止まった。

 部屋を覆っていた吹雪が消え、静寂が訪れる。


 キャンディを受け取った少年の瞳に光が宿った。

 それは凍てついた湖に初めて太陽が差し込んだような、鮮烈な光だった。


『⋯⋯温かい』


 彼がポツリと呟いた。

 キャンディのことなのか、私の手のぬくもりのことなのか。


 ドクン――彼の中で何かが生まれた音がした。


 魔力の制御不能による「冷気」を凌駕するほどの、強烈な感情の熱量。


 それはきっと初恋――無意識の、しかし魂を焦がすほどの恋心が、彼の暴走を止めたのだ。


『⋯⋯ありがとう』


 彼が初めて笑おうとした、その時だった。


『リリアー! どこにいるの!』


『いけない! こっちは地下牢の方だ!』


 大人たちが駆けつけてきた。しばらくすると私は父に抱き上げられ、引き離された。


『なんてことだ、化け物に近づくなんて!』


『すぐに記憶消去の魔法を! トラウマになったら大変だ!』


 私は泣き叫びながら連れて行かれた。

 そして私の記憶は魔法によって消された。


 鉄格子の向こうで、赤いキャンディを握りしめて立ち尽くす、銀髪の少年の姿と共に。


 ・・・・・・・・・


「⋯⋯っ、はぁ、はぁ⋯⋯」


 現在に戻る。

 私は地下牢の前で、膝から崩れ落ちていた。

 涙が止まらなかった。


「⋯⋯私だったのね」


 全部、繋がった。


 なぜ彼が私を「女神」と崇めるのか。

 なぜ「温かい」という言葉に弱いのか。

 なぜ私が「好き」と言っただけで、命を燃やすほどの熱を発するのか。


 私にとっては幼い日の気まぐれな施しだった。

 記憶にすら残らない、些細な出来事。


 でも孤独な闇の中にいた彼にとっては、それが世界で初めて触れた「人の温もり」であり、唯一の「光」だったのだ。


 彼はその一瞬の温もりを十二年間ずっと、宝物のように抱きしめて生きてきた。


 どんなに冷遇されても、手紙が届かなくても、私への愛が揺らぐことはなかった。


 彼の世界の全ては、あの日の「赤いキャンディ」から始まっていたのだから。


「⋯⋯馬鹿よ。本当に、大馬鹿よ⋯⋯」


 私は泣きながら笑った。


 たったそれだけのことで人生の全てを捧げ、時間さえも巻き戻してしまうなんて。


 愛が重いなんてレベルじゃない。これはもう、信仰だ。


 ◇


 涙を流していると頭の中にいつものノイズが響いた。

 でも、それは以前のような騒がしい叫びではない。

 昏睡状態にある彼に代わって、深層心理が漏れ出しているのだ。


『⋯⋯甘い⋯⋯』


 子供のような、無垢な声。


『⋯⋯あの味だけが⋯⋯僕を繋ぎ止めていた⋯⋯』


『⋯⋯リリア⋯⋯。また、笑ってくれ⋯⋯。そのためなら、僕は⋯⋯何もいらない⋯⋯』


『⋯⋯あの日くれた温もりだけで⋯⋯僕は、一生、生きていけるから⋯⋯』


 胸が締め付けられるほど切ない、本音。

 彼は何も求めていなかった。

 見返りなんて期待していなかった。


 ただ私が生きて、笑っていてくれるなら自分は燃え尽きても構わないと本気で思っているのだ。


「⋯⋯ふざけないで」


 私は涙を拭った。


 そんな悲しい自己犠牲、私が許さない。

 貴方は私を助けるために命を燃やしているけれど、私だって貴方に生きていてほしいのよ。


「もう十分よ。⋯⋯貴方はもう、十分に頑張ったわ」


 私は立ち上がった。

 目の前には壁を覆う「永久氷」


 かつて彼が、孤独の中で作り出した魔力の結晶。

 皮肉なことに彼の過去の孤独(氷)だけが、今の彼の燃える魂を救うことができる。


 私はハンマー(近くの道具箱にあった)を手に取り、氷の塊を砕いた。


 冷たく、重い氷の欠片。

 それをボウルに入れ、大切に抱きかかえる。


「帰りましょう、ギルバート」


 私はカンテラを掲げ、階段を上り始めた。

 この重すぎる愛を真正面から受け止めて、倍にして返してやる。


 だって、私は彼の「女神」なんでしょう?

 なら、信徒を見殺しにするなんてありえないもの。


 私は決意を込めて、愛する夫が待つ部屋へと急いだ。

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