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第11話:使用人が夫を怖がっているので「夫は怖くない」と証明しようとしましたが『笑顔の練習』でホラー映画みたいな顔をするので、通訳が必要になりました

 横領事件が解決してから数日後。

 アイゼンシュタイン公爵家の屋敷には、重苦しい空気が漂っていた。


 廊下ですれ違うメイドたちは皆、青ざめた顔で俯き、私やギルバートの姿を見ると蜘蛛の子を散らすように壁際へ退避する。


 キッチンの方からは皿一枚洗う音さえ聞こえないほどの静寂が支配していた。


「⋯⋯空気が重いわ」


 私は自室で紅茶を飲みながら、ため息をついた。

 原因は明らかだった、先日の「不正職員の粛清劇」である。


 ギルバートが激昂し、観葉植物を瞬時に氷結・粉砕させたという噂は使用人たちの間で瞬く間に広まったらしい。


 さらにロドニーが衛兵に連行される際「公爵様に殺される!」と泣き叫んでいたのも悪影響だった。犯人が半殺しにあったらしい⋯⋯などという話も聞こえてくる。


 おかげで屋敷に残った真面目な使用人たちは戦々恐々としている。

 「次は自分が些細なミスで氷漬けにされるのではないか」という恐怖が屋敷全体を凍りつかせているのだ。


(これじゃあ、居心地が悪すぎる)


 私はカップを置いた。


 私の目的は「円満な逃亡」――逃亡資金は手にいれることが出来たが、私が去った後にこの屋敷が崩壊してしまっては寝覚めが悪い。(なお、私が居なくなった後のギルバートを想像すると目眩がするので考えないことにする)


 それに私がいる間も、ビクビクしたメイドにお茶を淹れられるのは精神衛生上よろしくない。


「⋯⋯あの人の誤解を解かないと」


 前世の私もそうだったように、ギルバートは無表情で言葉数が少ないため、どうしても「冷酷な人間」だと思われがちだ。


 実際には心の中で「リリアちゃん尊い!」と叫んでいるだけの、不器用でシャイなヤンデレなのだが、その声は私以外には届かない。


「よし。私が架け橋になってあげましょう」


 あくまで私が快適に過ごすため。そして逃げた後に彼が孤立しないようにするための善行だ。

 私は立ち上がり、ギルバートの執務室へと向かった。


 ◇


 執務室にてギルバートは真剣な表情で書類に目を通していた。

 眉間に深い皺が刻まれ、周囲の空気がピリピリと張り詰めている。


 これでは、お茶を持ってきたメイドが震え上がるのも無理はない。


「ギルバート様」


「⋯⋯ん? リリアか」


 私が声をかけると彼の表情が一瞬で緩んだ――ように見えたが、相変わらず無表情のままだ。

 

 ただし、心の声はデレデレである。


『リリアが僕に会いに来てくれた! 今日も可愛い! そのドレス、僕が選んだやつだ! 似合う! 天使! 仕事の疲れが一瞬で吹き飛んだ! 眼福眼福!』


(⋯⋯元気そうで何よりです)


「ご相談があります。⋯⋯使用人たちのことです」


「使用人? 何か不手際でもあったか?」


 彼の声が少し低くなる。

 瞬時に『リリアに不快な思いをさせたのか? 処刑か?』という物騒な思考が過るのが聞こえたので、私は慌てて否定した。


「いいえ、違います! 皆よく働いてくれています。ただ⋯⋯少し、あなたを怖がっているようで」


「⋯⋯私を?」


「はい。先日の件で少し畏縮しているようです。⋯⋯そこで提案なのですが」


 私は身を乗り出した。


「一度、使用人たちを集めて、労いの言葉をかけてあげてはいかがでしょう? あなたが彼らの働きを評価していると伝えれば、恐怖心も和らぐはずです」


 ギルバートはきょとんとした顔をした。

 そして、困ったように視線を逸らした。


「⋯⋯労い、か。私は口下手だ。上手く言える自信がない」


『無理だ! ハードルが高い! 大勢の前でスピーチ!? しかも「ありがとう」なんて恥ずかしくて言えない! 噛んだらどうしよう! リリアの前で恥をかきたくない!』


 この公爵、意外と小心者である。


「大丈夫です。私が隣でサポートしますから」


「⋯⋯リリアが?」


「はい。一緒に頑張りましょう、ね?」


 私が手を握ると彼の手は一瞬でカッカと熱くなった。

 単純な男だ。


「⋯⋯わかった。やってみよう」


『リリアが手を握ってくれるなら! 地獄の業火の中でも演説してみせる! よし、笑顔だ! 優しく微笑んで「いつもご苦労」と言うんだ! 練習だ! 口角を上げろ! 眼輪筋を緩めろ!』


 ギルバートは顔面の筋肉をピクピクと動かし始めた。

 しかし、出来上がった表情は「引きつった能面」か、あるいは「獲物を狙う猛獣」のようだった。


(⋯⋯前途多難ね)


 ◇


 その日の夕方、屋敷のメインホールに手の空いている使用人たちが集められた。

 

 メイド、執事、料理人、庭師――総勢三十名ほどが整列しているが皆の顔色は一様に悪い。


 「先日の件でお怒りの言葉があるんじゃないか」「処刑の宣告か?」「誰かがまたクビになるのか?」という不安が伝染し、ホールの空気は葬式のように重かった。


 そこへギルバートと私が階段を降りてきた。

 ギルバートは正装に身を包み、威厳たっぷりに歩いている。

 しかし、その顔はガチガチに強張っていた。


「⋯⋯皆、集まってくれたか」


 ギルバートが口を開いた。

 低い、地を這うような声だ。緊張のあまり、声帯が締まっているのだ。


 ヒィッ、と最前列のメイドが小さく悲鳴を上げた。

 室温が下がり窓ガラスに霜が走る。

 ギルバートの緊張が、そのまま冷気となって放出されている。


「今日は⋯⋯お前たちに、言いたいことがある」


 彼は一歩前に出た。

 そして、練習通りに「笑顔」を作ろうとした。


 ニィッ。


 口角が不自然に釣り上がり、目は笑っていない。

 頬の筋肉が痙攣し、まるでホラー映画の殺人鬼が「見つけたぞ」と笑う時のような、凄絶な形相になった。


「⋯⋯お前たちには、苦労をかける」


 ドスの効いた声と、般若のような笑顔。

 破壊力は抜群だった。


「ひぃぃッ⋯⋯! も、申し訳ございません!」


「命だけは⋯⋯! 家族がいるんです!」


「お許しをぉぉぉ!」


 数名のメイドが腰を抜かし、執事長ですらガタガタと震え出した。

 完全に逆効果だ。「苦労をかける(から死んで詫びろ)」と解釈されている。


 ギルバートは硬直した。


『えっ? なんで? なんで皆泣いてるの? 僕、今、最高に優しい笑顔を作ったはずなのに! 鏡の前で三十分練習したのに! このままじゃリリアに失望されてしまう!』


 彼の心の中はパニックだった。


『笑え! もっと笑うんだギルバート! フレンドリーさを出せ! ⋯⋯ダメだ、筋肉が動かない! むしろ引きつって威嚇になってる! 違うんだ、僕は君たちが淹れてくれるコーヒーが好きなんだ! 毎朝熱すぎずぬるすぎず、絶妙な温度で提供してくれる技術に感動しているんだ!』


 彼の思考は早口でまくし立てている。


『廊下もいつもピカピカだ! 僕が滑って転ばないようにワックスの量を調整してくれているのも知っている! 庭のバラも綺麗だ! リリアに見せてあげたいと思っていたんだ! ありがとうって言いたいのに、喉が凍って声が出ない! どうすればいいんだ! 誰か翻訳こんにゃくを持ってきてくれ!!』


 このままでは屋敷の使用人が全員ショック死してしまう。

 私はため息をつくと、ギルバートの隣に並び、彼の冷え切った手をギュッと握った。


「!」


 ギルバートがビクリと反応する。

 私の体温が伝わると彼の張り詰めた糸が少しだけ緩んだ。

 心の声のボリュームが少し下がり、パニックが落ち着く。


 私は使用人たちに向き直り、澄んだ声で告げた。


「皆さん、怖がらないでください。旦那様は、あなたたちを叱責しようとしているのではありません」


 私はギルバートを見上げ、ニッコリと微笑んだ。


「旦那様はいつもこう仰っています。『毎朝のコーヒーがとても美味しい。私の好みに合わせて温度調整をしてくれていることに感謝している』と」


 ざわっ、と使用人たちが顔を見合わせた。

 コーヒー担当のメイドが、信じられないという顔で顔を上げる。


「えっ⋯⋯? あ、あのコーヒーを⋯⋯?」


「ええ。旦那様は口下手でいらっしゃいますが、あなたたちの働きをちゃんと見ていらっしゃいます」


 私は続ける。ギルバートの心の声を、一つ一つ翻訳していく。


「『廊下もいつもピカピカに磨き上げられていて気持ちがいい。転ばないように配慮してくれているのも知っている』⋯⋯そうですね、あなた?」


 私が同意を求めるとギルバートは赤面(リリア視点)してコクコクと頷いた。


 その顔には「なんでわかったの!?」という驚愕と「そう! それ!」という安堵が浮かんでいた。


『リリア⋯⋯! 凄い! なぜ僕の言いたいことが分かったんだ!? 以心伝心か!? 前世で双子だったのか!? 愛してる! その通りです、君たちのおかげで僕はリリアとの愛の巣を快適に維持できているんだ! 神様仏様リリア様!!』


 さらに私は畳み掛ける。


「『庭のバラも見事だ。妻のリリアに見せてやりたいと思っていた。手入れをしてくれている庭師に感謝する』⋯⋯とも仰っていますわ」


 庭師の老人が、涙ぐんで帽子を取った。

 使用人たちの表情から、恐怖が消えていく。

 代わりに浮かんだのは驚きと、そして感動だった。


「旦那様は、そんなふうに思ってくださっていたのですか⋯⋯」


「俺たち、てっきり氷漬けにされるかと⋯⋯」


「なんてお優しい⋯⋯。ただ、顔が怖いだけで⋯⋯」


 誤解が解けていく。氷が溶けるように屋敷の空気が温かくなっていく。


 ギルバートも自分が受け入れられている空気を感じ取り、ようやく肩の力が抜けたようだった。


 能面のようだった表情が緩み、不器用ながらも穏やかな顔つきになる。


「⋯⋯妻の言った通りだ」


 彼は私の手を握り返し、低いけれど温かみのある声で言った。


「私は⋯⋯表現が下手だが、お前たちには感謝している。⋯⋯いつも、ありがとう」


 たどたどしい、けれど本心のこもった「ありがとう」。

 その一言が決定打となった。


 すすり泣く声が聞こえた。

 恐怖の涙ではない感極まった涙だ。


 これまで「冷酷な主人」だと思っていた人物から、初めて人間らしい言葉をかけられたのだ。そのギャップは計り知れない。


「もったいないお言葉です!」


「これからも精一杯お仕えします!」


「旦那様、万歳! 奥様、万歳!」


 ホールは拍手と歓声に包まれた。


 そして私はここで「ダメ押し」の一手を打つことにした。

 精神的な報酬だけでは人は動かない。物質的な報酬も必要だ。

 私は一歩前に出ると高らかに宣言した。


「皆さんの日頃の働きに感謝して⋯⋯。私から特別ボーナスを支給させていただきます!」


 どよめきが起きた。


「先日の不正発覚で回収した資金の一部を、皆さんに還元します。金貨一枚ずつ、受け取ってください!」


「うおおおおおおおお!!!」


 歓声が爆発した。


 金貨一枚――庶民の給料一ヶ月分に相当する大金だ。

 現金なものだが、やはり金は強い。

 恐怖政治は終わりを告げ、強固な忠誠心が生まれた瞬間だった。


『リリア⋯⋯! 君は天才か!? 僕のポケットマネーから出してもいいのに、わざわざ不正資金を使うことで「正義の分配」を演出するなんて! 経営の神だ! 僕の全財産を管理してくれ! 一生ついていきます!』


 ギルバートもまた私を崇拝の眼差しで見つめていた。


 ◇


 その日から屋敷の雰囲気は劇的に改善されていった。

 廊下ですれ違うメイドたちは、私を見ると満面の笑みで挨拶をしてくるようになった。


「奥様、おはようございます! 今日もお綺麗ですね!」


「奥様、何かご用命はありますか? 何でも言ってください!」


 彼女たちの目には明らかな「崇拝」の色があった。

 「冷酷な旦那様の心を溶かし、私たちの待遇を改善してくれた女神様」として認識されたらしい。


 一方、ギルバートに対しても以前のような過度な恐怖心はなくなっていた。


 彼が無表情でいても「ああ、今は緊張していらっしゃるんだな」「奥様がいれば大丈夫だ」と解釈されるようになったのだ。


「⋯⋯よしよし、計画通りね」


 私は寝室で今日の手応えを噛み締めていた。

 これでこの屋敷での私の地位は盤石となった。


 使用人たちは私の味方だ。ギルバートも私に頭が上がらない。

 私が「右」と言えばこの屋敷全体が「右」を向く。


「逃げる準備も整いつつあるし、もし逃げ遅れても、ここで快適に暮らせる基盤はできたわ」


 外堀は埋まった。

 あとは最後の大仕事(横領の全貌解明)を終わらせれば、心置きなく南の島へ行けるはずだ。


 ただし隣のベッド(壁なし)で寝ている夫の寝言(心の声)が、以前よりも重く、粘着質になっていることには気づかないふりをして。

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