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夫を洗って、鍛え直す。

作者: 瑠璃ひより
掲載日:2026/01/11

 ドクトル侯爵家の当主、ゼイアスは、自他共に認める「粋」な男であった。 銀の刺繍をふんだんに施したシルクの衣服、指に光る大粒の宝石。そして何より、すれ違うだけで人々が三歩下がるほどに濃厚な、最高級の香水の香り。彼は贅沢を愛し、洒落を愛し、美しい女との夜を愛していた。


「親父も粋なことをしてくれる。東方の小国から、絶世の美女が嫁いでくるというじゃないか」


 ゼイアスは鏡の前で前髪を整え、独り言ちた。 政略結婚には興味がなかったが、交易の利権が手に入り、おまけに美しい「人形」が手に入るというのなら、悪い話ではない。彼はそう高を括っていた。


 しかし、城の門前に現れた花嫁の姿を見て、ゼイアスは手に持っていた銀の嗅ぎ煙草入れを落とした。


 アジャ・ラシード。 彼女は馬車から降りるのではなく、漆黒の荒馬の背に跨り、砂塵を巻き上げながらやってきた。 背中には巨大な強弓を背負い、腰には研ぎ澄まされた曲刀。白い肌に映えるのは、宝石ではなく、戦場を駆けてきた者特有の精悍な眼差し。


「……あなたが、私の夫になるドクトル侯か。存外、花のような香りがする男だな」


 アジャは馬から飛び降りると、土足のまま大理石の床を鳴らし、呆然とするゼイアスの前に立った。


「あ、アジャ殿……。その、物騒な得物は……」

「これか? 道中で私の領民を傷つけた野盗を追い詰めていた名残だ。一ヶ月ほど山を駆け回っていたのでな。……さて、婚礼の儀だ。さっさと終わらせよう。私はこの領地の防衛と管理を早く始めたい」


 この時、ゼイアスは気づくべきだった。 自分の平和な「洒落男」としての生活に、最大級の台風が上陸したということに。


 ◇◇◇


 結婚して一週間。 ゼイアスの生活は地獄へと変貌した。 アジャが唱えるのは「質実剛健」。朝は日の出と共に叩き起こされ、アジャと共に馬を駆ることを強要される。食事は栄養価だけを重視した質素な肉と穀物。ゼイアスが愛した深夜の酒宴(ナイト・ファンタジー)(本人命名)は、「睡眠不足は肌と判断力を鈍らせる」というアジャの一言で禁止された。


「ああ、もう我慢ならん! あの女は妻じゃない、鬼教官だ!」


 ゼイアスはアジャが軍事訓練(領民を鍛え始めたのである)に出かけた隙を突き、裏口から脱出した。 向かった先は、彼が愛する秘密の遊び場。高級娼館『真紅の寝所』だ。 濃厚な香りと、美しい女たちの甘い囁き。それこそが、彼の乾いた心を癒してくれるはずだった。


「おい、いつもの部屋を用意しろ。今日は最高の酒を……」


 勢いよく扉を開けたゼイアスが目にしたのは、半裸の美女ではなく、白い布を頭に巻いて一心不乱に床を磨き上げる女たちの姿だった。


「……は?」 「あ、いらっしゃいませ、お客様。ただいま当施設は、アジャ様のご指導により『健全マッサージと薬草茶の館』にリニューアル中でございます。……あ、そこのお客様、背筋が曲がっていますよ! ほら、体幹を意識して!」


 かつての妖艶な娼婦たちが、今や軍隊のようなキビキビとした動きで掃除に励んでいる。 ゼイアスは逃げるように店を出て、馴染みの賭博屋『黄金のサイコロ』へと向かった。 だが、そこもまた、様子がおかしい。


「……三桁の掛け算! はい、次は分数! 答えなさい!」 「ひ、ひぃぃ! 八分の五です!」


 サイコロを振っていたディーラーたちは、今やアジャが派遣した東方の学者に、算術の猛特訓を受けていた。


「アジャ様曰く、『数字に強くなれば、運を天に任せるなどという愚かな真似はしなくなる』とのことです! さあ、次は微積分の基礎に入りますよ!」


「……狂ってる。この街は狂っちまった!」


 最後にたどり着いたアヘン窟は、見る影もなく破壊され、最新式の「通気性の良い屋内農園」へと改造されていた。そこでかつての中毒者たちが、アジャに教わったという「東方の栄養満点野菜」を、目に涙を浮かべながら植えていたのである。


 ◇◇◇


「アジャ!! 一体全体、どういうつもりだ!!」


 ゼイアスは領主館に戻るなり、執務室で地図を広げていたアジャに怒鳴り込んだ。 香水の香りを怒りの熱気で振り撒きながら、彼は食ってかかる。


「私の愛した街の『粋』が全滅だ! 娼館は掃除訓練場になり、賭博屋は塾になった! アヘン窟に至ってはただの畑だ! 貴様、私の趣味を根こそぎ奪う気か!」


 アジャは、視線すら上げずに地図に何かを書き込みながら、淡々と答えた。


「趣味? 閣下、あれは趣味ではなく『腐敗』という。金と時間を浪費し、体を壊し、精神を腐らせる。私の領地でそのような非生産的な活動を放置しておくわけにはいかない」


「私の勝手だろう! 私はドクトル侯だ! 粋に遊んで何が悪い!」


 その時、アジャがペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。 彼女の背筋が伸びた瞬間、室内の空気が戦場のそれに変わる。


「ゼイアス殿。あなたは、私の夫になる男だ。……東方の掟では、夫の不義理は一族の恥とされる。そして私の家系では、恥は『そぎ落とす』のが習わしだ」


 アジャはゼイアスの一歩手前まで歩み寄り、その鋭い双眸で彼を射抜いた。


「私は、不義理を許せるほど心の広い女ではない。……娼館に通いたい? 賭博に興じたい? よかろう。だが、それらが存在しなくなれば、あなたは不義理を働きたくても働けなくなる。……私は、夫が過ちを犯さないよう、その『芽』をすべて事前に摘んでおいただけだ」


「な、……あまりにも強引すぎるだろう……」


「婚約破棄など、お父様にも、あなたの顔にも泥を塗るだけだ。だから私は、あなたを完璧な夫にする道を選んだ。……文句があるか? 私の故郷では、夫が浮気をすれば、その相手だけでなく、夫自身の不必要な『肉の一部』を狩りの獲物と同じように切り落とすが……。あなたは、そうなりたいのか?」


 アジャは、腰の曲刀にそっと手を添え、にやりと残酷に微笑んだ。 その笑顔は、凛としていながら、どこか獲物を追い詰める狩人のような愉悦に満ちていた。


 ゼイアスは、背筋に走った強烈な悪寒と共に、悟った。 この女は、冗談を言っていない。 自分が「粋だ」と思っていた浮気も浪費も、この女の前では「討伐対象の害獣」と同じカテゴリーなのだ。


 ◇◇◇


 ゼイアスは、膝から崩れ落ちた。 彼女の行動は、暴虐ではあった。だが、その根底にあるのは(極めて物理的で暴力的ながらも)「この結婚を破綻させない」という、彼女なりの責任感であることを理解してしまったからだ。


「……わかった。私が悪かった。……私の『粋』は、君にとってはただの汚れだったわけだ」


 ゼイアスは、自嘲気味に肩を落とした。 香水の香りが、今の自分にはひどく虚しいものに感じられた。


 アジャは、そんな彼の肩にポン、と力強く手を置いた。 「わかればよろしい。……あなたは、磨けば光る原石だ。ただ、その表面に余計な装飾を塗りたくりすぎている」


 アジャは彼の顔を覗き込み、初めて柔らかな、ユーモアの混じった笑みを浮かべた。


「特に、その香水だけは許せないな。私にとっては、敵軍が放った腐敗毒と同じような臭いだ。……東方の姫として、その汚れは今すぐ私が流して差し上げよう」


「え? 流す? ……うわっ!」


 アジャはゼイアスの襟首を、まるで仔猫のように軽々と掴み上げた。


「さあ、湯殿へ。東方特産の、皮膚が剥けるほど洗浄力の強い石鹸で、あなたの『粋』を根こそぎ洗い流してあげよう。……安心したまえ、閣下。綺麗になった後は、私の隣で、誰よりも凛々しい騎士として鍛え上げてやる」


「待て! 自分で歩ける! ああ、私の特注香水が……! 助けてくれ、侍女たちよ!!」


 ゼイアスの悲鳴が廊下に響き渡ったが、誰一人助けに来る者はいなかった。 むしろ、使用人たちは「これで旦那様も少しはマシになる」と、清々しい顔で掃除に戻っていったという。


 数ヶ月後。 ドクトル領を訪れる旅人たちは、一様に驚くことになった。 かつて香水臭い色男と嘲笑われていたゼイアス侯爵が、今や見違えるほど逞しい体躯となり、泥にまみれて領地を走り回り、アジャ夫人の隣で爽やかな汗を流しているのだから。


「あの色男も、東方の姫君には敵わなかったか」


 領民たちは笑いながら、今日も元気に街をパトロールする夫婦の姿を見送る。 ゼイアスの体からはもう香水の匂いはしないが、代わりに、アジャと共に開拓した大地の香りと、確かな自信が漂っていた。


 東方の「蛮族姫」と、骨抜きにされた「元・色男」。 二人の新しい地図には、もう「不義理」という言葉が書き込まれる隙間など、どこにも残っていないのであった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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また別の物語でもお会いできることを、心より願っております。

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― 新着の感想 ―
>あなたは、磨けば光る原石だ そんな、旦那様を甘い言葉で堕とそうなんて‥ って本当に磨けば光る逸材でしたのね、お目が高いわ、夫人。
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