第五十四話 一片
詰所を出るとすぐ前に馬車が一台止まっていた。作りはしっかりしているが飾りつけ等はなく、一見質素に見える。だが、丁寧に作られているとアスティは馬車を見て思った。中央には紋章が遠慮がちに描かれている。ギャシリーの馬車なのだろう。
ティルヒースは、街並みは美しく行き交う人々も街に見合うような美しい装いをしていた。この馬車はその中で少し浮いて見える。
アスティの視線に気が付いたのか、ギャシリーは苦笑いした。
「僕はあまり派手なのは好きじゃないんだ。これくらいが丁度いいんだよ」
ギャシリーに促され、三人は馬車に乗り込んだ。
内装も飾りつけはあまりされていなかった。ただ、座面は丁寧に処理された革に覆われている。天井は高く、外から見えた以上に広く感じた。四人で座っても余裕があるほどだ。
家来の二人のうち一人は近くにいた馬に乗り、一人は馬車の御者台に座った。
「では、私の館へ向かおうか」
アスティは、ギャシリーの言葉に少し高揚感を感じた。
ギャシリーが派手好きでないことをアスティは館を見て改めて実感した。広さこそあるが、華美な装飾の類は見当たらない。いたって普通の作りだが、注意深く見てみると柱の一本から瓦の一枚まで、丁寧に作られているのを感じる、腕のいい職人が建てたのだろう。
アスティ達は使用人に案内され応接室に通された。しばらくしてギャシリーが使用人を一人連れて入ってきた。
「待たせたね」
着替えてきたのだろう。ゆったりとした、紺色のチュニックを着ていた。表情も先ほどより柔和に見える。
ギャシリーは、三人の前のソファに腰掛けた。使用人はその後ろに立っている。何やら一抱えの木箱を持っている。ギャシリーは女中を呼んで茶を入れるよう指示を出し、三人に向き直った。
「手短にいこう。渡したい物はこれだ」
ギャシリーがそう言うと、後ろに控えていた使用人が木箱をテーブルに置いた。アスティが中を覗くと、そこには丸めて留められた羊皮紙が数枚入っていた。
「これは・・・?」
「これは、ここティルヒースとその周辺の村々の地図だ」
ギャシリーが中の羊皮紙を一枚取り出し、テーブルに広げた。これは、確かに街の地図だ。しかも僕が作った王都地図のように、比率がしっかりとした詳細な地図だ。
アスティは驚いた。が、隣でお手本のように驚いているディナティオスを見てすぐに冷静になった。隣で「どういうことだ」と騒いでいる。
「君達が旅に出る前からアレストシス殿下から書状を貰っていてね。そこには君が作った王都の地図と、その作り方が記されていた。できればこの辺りの地図を作って欲しいともね」
確かに、それならば地図を作ることもできるだろう。だが、ある程度の知識と技量が必要だ。特にここにある地図は街だけではなくその周辺の村や地形までもが細かく記されている。僕が王都で作った地図の知識だけでは難しいはず・・・。
「アスティニースくん。僕はね、天体観測が趣味なんだ」
「えっ」
アスティは思わず声を漏らした。そうか、それならばこの詳細な地図を作り上げたことも納得できる。測量において星々の観測は重要な要素の一つだ。僕も旅に出てからはほぼ毎晩観測を続けている。
東の街の領主で自由主義派、天体観測が趣味・・・。アスティは思い出した。
「もしかしてギャシリー様。あなたは・・・」
その言葉の続きは正解だと言わんばかりに、ギャシリーは笑顔を浮かべていた。
「そうだよ、アスティニースくん。君のことは最初ソフィロス殿下やヴァシーリオ学術大学の学長から聞いていた。その後、アレストシス殿下からもね。とても優秀と聞いたよ。共に天文学の研究ができないのは残念だが、こうして会うことができてよかった。時間があればもっと話がしたいのだが、あいにくそうもいかないね」
「僕も、あなたと話がしたかったです」
大陸地図作成の密命を受ける前、ソフィが僕を紹介してくれると言っていた天文学の研究者。それがこのギャシリーだったのだ。もしかすると、彼と共に天文学を研究していた未来があったかもしれない。
ギャシリーはテーブルの上の木箱をそっと持ち上げた。
「この地図は君に託そう。大陸地図の一片に、いや、王国を救う一助になってくれたら私も嬉しいよ」
ギャシリーは木箱をアスティに手渡した。アスティはそれにズシリとした重みを感じた。これは紙の重みではない。この街の、この王国のほんの少しの未来だ。
「・・・ありがとうございます。こちらの地図も書き加えます」
コンコンと扉が叩かれ、女中が茶と菓子を持ってきた。白を基調とした陶器のカップにはマブロ茶が湯気を立てて入っている。ギャシリーはカップをゆっくりと傾けた。眼鏡が湯気で曇る。ギャシリーはカップを置くと、そっと眼鏡を外した。
「いつか、完成した大陸地図が見たいものだ」
ギャシリーはどこか、遠い目でそう言った。
「完成したら必ずお渡ししに来ます。その時に天文学の話をしましょう」
アスティの言葉に、ギャシリーは微笑みながら「楽しみにしているよ」と答えた。アスティはその言葉に、ほんの少し、何か虚しさのようなものを感じた。




