第四十五話 合間の霧と平野狼
「まずはエヴリ平野を抜けてティルヒースに向かいます」
王都ヴァシーリオを出て歩きながら、アスティは二人に言った。
「ティルヒースと言ったら、小麦の一大産地か」
「自由主義派の有力者が統治している街ですね」
ディナティオスとアネッサが答える。
「ええ、その後はいくつかの村を経由して港町リマーニでしばらく滞在する予定です」
「東側にある教会はまだ原理主義派の手が回っていないところが多いので、しばらくは安全でしょうか」
アネッサは足元に生える足首程の長さの草を踏みしめながら言った。
「教団は遠征軍を組織していました。今は混乱してまだ派遣までは至っていないそうですが、気は抜けません。こうして主要な道から外れて草原の中を歩いているわけですから」
アスティもまたゆっくりと歩きながらそう言った。「それにしても」とディナティオスが呟く。
「本当に歩いて行くんだな。これが地図作りに必要なのか?」
「ええ。本格的な測量は海岸まで出てからになりますが、王都からリマーニまでの距離も測りたいので。歩数を数えながら、太陽や星の位置で現在地を割り出して進んでいきます」
「それは重労働だ」
ディナティオスは革の手提げ鞄を肩にひっかけて言った。もう片方の手には荷物をいくつも載せた大柄な馬の手綱を握っている。黒のマントが風に翻る。騎士団の物ではないが、それを連想させる真っ黒なマントだ。中には革の薄鎧を着こんでいる。左側には剣を携えている。立派な剣だ。
「お嬢さんには過酷な旅になるな。疲れたら早く言えよ」
ディナティオスはアネッサに向かって軽口を叩いた。この二人はいつも嫌味を言い合っている。出会ってまだ日が浅いが、そうは思わせない息の合いようだ。アネッサはくすりと笑って答えた。
「ご心配ありがとうございます騎士様。ですが、私の故郷はトサナート山脈の麓にあります。旅は慣れているのでご心配なく」
アネッサはディナティオスとは正反対に、仄かに黄色がかった白いローブを身に纏っている。肩掛けの鞄には綺麗な細工が施されている。大きな旅用の鞄だが、それすら気品を感じる物だ。背には布に包まれた大きな物を背負っている。彼女の魔杖だろう。まだ見たことはないが、魔杖無しでも強力な魔法を行使できるのだ。魔杖があればどれほどの威力になるのだろう。アスティは想像しながら少し身震いした。
「僕が一番に歩けなくなるかもしれません」
アスティは苦笑いしながらそう言った。アスティは大きな背嚢を背負っていた。地図作りに必要な道具や紙、大きな羊皮紙が詰まっている。ソフィから貰った剣も布に包んで背嚢に入れていた。腰からぶら下げていたらいかにも山賊に狙ってくださいと言っているようなものだ。粗いウールの上下衣に革靴。薄茶色のフードが付いた上着を着ている。片手にはいつでも記録を取ることができるように紙の束と炭で作ったペンを持っていた。
「無理せず進むぞ。長旅は怪我や病気が一番の大敵だからな」
ディナティオスは意気揚々とそう言った。王城で旅の計画を練っている時に役立てなかったと思っているのだろう。自分の得意な分野では自信に溢れている。
「頼りになります」
アスティは微笑みながらそう言った。
途中、カマリエが持たせてくれた弁当を食べながら三人はひたすら草原を進んだ。夕刻までは何の問題も無く進むことができた。日がかなり傾き、平野が橙色に染まってきた頃。
「・・・霧がかかってきましたね」
「今日はここまでだな。野宿の場所を探そう」
ディナティオスはそう言うと、周辺を見回しながら歩き出した。アスティとアネッサは立ち止まり、ディナティオスの帰りを待つ。平野の向こうに白い靄がうっすらと見える。
「これが言っていた『合間の霧』ですか」
アネッサは荷を地面に下ろしながら言った。
「ええ。季節の合間、春と秋の夕刻に平野に発生する霧、『合間の霧』ですね。条件がそろわないと現れないそうですが、初日から見ることができるとは・・・。運がいいのか悪いのか分かりませんね」
アスティは軽く息を吐きながら答えた。しばらくしてディナティオスが戻ってきた。
「向こうに木が生えている場所がある。小川も近い。そこで野宿にしよう」
「ありがとうございます」
三人は歩いてその場所へ向かった。霧は少しずつ濃くなっていた。
荷を下ろし、火を焚く。ディナティオスは薪になる物を探しに行き、アスティは水を汲みに小川へ向かった。夕食を終え三人が一息つく頃には、まだ日が落ちていないにも関わらず濃霧で周辺は暗くなっていた。アスティは火の明かりを頼りに紙に記録を書いていた。ふと、どこからか獣の遠吠えが聞こえた。
「ちっ、平野狼か」
ディナティオスがそう呟いた。アスティも紙を鞄にしまう。
「霧でさえ珍しいというのに、平野狼なんて出てきたら誰かの悪運を疑いますよ」
平野狼。エヴリ平野に時折姿を見せる、群れで行動する灰色の狼だ。森狼ほど大柄ではないが、統率のとれた動きで獲物を追う。この時期は、冬があけて腹を空かせた平野狼に商人が襲われる被害が増える。しかし、実際に目にすることは珍しい生き物だ。何度か遠吠えが聞こえた後、ぴたりとその声が止んだ。周りは不気味なほど静かだ。アスティはそっと短剣を鞘から抜いた。ディナティオスも手を柄にかける。
「・・・気配がします」
アネッサが静かに呟いた。よく目を凝らすと小さな赤い光がちらちらと浮いている。狼の目だ。
「囲まれているな」
ディナティオスはそう言って鞘から剣を抜いた。鞘と刀身の擦れる音が響く。
「ディナティオス様は襲ってくる狼をお願いします。私は群れの長を狙います」
アネッサはそう言って立ち上がった。
「やれるのかいお嬢さん」
ディナティオスがそう言うと同時に、赤い目が動き霧の中から数頭の狼が現れた。アネッサに向かって駆けてくる。瞬間、ディナティオスの剣が舞った。美しく弧を描いた剣先は無駄のない動きで平野狼三頭の喉を切り裂いた。ばたばたと身を投げ出すように狼が倒れる。他の狼達は一瞬狼狽えた。
「見つけました」
アネッサはそう呟くと右手を地面と平行に挙げた。霧の向こうの何かに狙いを定めるように手を向ける。
『リノリティス』
アネッサがそう呟くと、掌に小さな火球が一つ浮かんだ。風が起こり彼女のローブがはためく。その瞬間、火球が真っ直ぐ前に、霧を切り裂いて飛翔した。そして何かに衝突し爆発した。爆風で霧が部分的に晴れる。周りの狼より一回り大きな狼がゆっくりと倒れた。それを見て他の狼は吠えながら走り去っていった。
ヒューと、ディナティオスが口笛を吹いた。アネッサは表情を変えないまま言った。
「狼達の亡骸を集めてください。祈りを捧げて肉をいただきましょう」




