第一話 アスティニース・イオル
神聖歴九六六年 紫の月
草木が段々と緑を深め太陽はその光を強めていく、夏の始まる少し前の頃。ヴァシーリオ学術大学の神学講義室でアスティは微睡んでいた。一番後ろの端の席に座り、頬杖をついて講義を聞く。少し開いた窓から少し湿った風が吹き、アスティの雪のように白い髪を揺らした。遠く向こうの海と同じ深く碧い瞳に少しずつ瞼がかかっていく。
遠くから神学の講義をしているラクーセオ教授の声が聞こえる。いや、物理的距離が遠いわけではなくアスティの意識の方が遠のいているのだ。アスティは微睡みの中でそんなことを考えていた。
「アスティ―ニス・イオル!」
ラクーセオ教授の鞭を打ったような声が静寂の講義室に響く。アスティの意識は瞬時に現実世界へと引き戻された。
教壇より少しばかり高い背丈に、立派な所々金の刺繍が入った白いローブを纏っている。小太りで短めの金髪、しかし頭の天辺に毛の無い男がアスティを真っ直ぐ睨みつけていた。
「また居眠りかね、イオル君」
ラクーセオ教授は静かに、されど怒りのこもった声でアスティに問いかけた。
「すいません教授。どうにも神学の授業は眠たくなるのです。これはきっと女神テアディースが『頑張り過ぎるのはよくありませんよ』と言っているのでしょう」
アスティはにこやかな表情を浮かべて言った。
「異端の白狐が」
どこからか小さな声が聞こえる。他の学生が言ったようだ。アスティは聞こえない振りをした。
「女神の名を軽々しく使うのではない。まったく、試験の点が良いからといって受講態度が悪いと単位をやることはできんぞ。これだから天文学などという危険な学問をやっている奴はまともじゃないんだ」
ラクーセオ教授はアスティにそう告げた。アスティは表情を変えずにこやかなまま「気を付けます」と言った。
アスティの通うヴァシーリオ学術大学はバセレシウ王国王都ヴァシーリオに存在する『ヴァシーリオ魔法大学』『ヴァシーリオ騎士養成学校』と並ぶ三大学府と呼ばれるうちの一つである。ヴァシーリオ学術大学は他の二大学とは異なり、試験に合格できれば地位性別年齢問わず誰でも入学することができ、好きな学問を専修、研究することができる。アスティは一年前、難関と言われる試験を史上最年少で合格した。周りの人々はアスティを「神童」と呼び、その将来に大きな期待を寄せた。しかしアスティは入学後、バセレシウ王国内で危険視されている天文学を専修。その影響で周りの人々からは軽蔑や哀れみのこもった目で見られるようになった。また、心無い一部の学生からはその見た目から「異端の白狐」とも呼ばれるようになった。
ラクーセオ教授は講義を続けた。
「・・・こうして我が大国『バセレシウ王国』は九六六年前に、正円の大陸である『テアディース大陸』の上に誕生した。これも全て女神テアディースのお導きによるものである。そして、女神テアディースは我々バセレシウの民に三つの恩恵を与えてくださった。さて、この三つの恩恵が分かる者はいるかな」
ラクーセオ教授が講義室を見渡す。扇型の講義室には階段状に机が並んでおり、学生達が等間隔に座って講義を聞いていた。その中からまばらに手が挙がる。ラクーセオ教授はその中の一人を手で示した。
「では、ソヴァル君」
鉄のような黒く短い髪に曇天の色の瞳。目つきは鋭く一見して真面目そうな顔つきの男、ソヴァルが立ち上がった。
「はい。女神テアディースの三つの恩恵とは、一つ・聖なる魔法、一つ・約束された恵み、一つ、正円の大陸、です」
「素晴らしい答えだ、ソヴァル君。座りたまえ」
ラクーセオ教授に褒められソヴァルは少し微笑んだ。そしてちらりとアスティを睨んだ。アスティはソヴァルの視線に気が付いたが、目を合わせようとはしなかった。面倒くさいなと、アスティは思った。
ソヴァル・エピスコスはアスティより三歳上の同級生である。テアディース教団で司教を務める父を持つ彼は、女神テアディースに厚い信仰心を持っていた。そのせいもあり不敬な行動の多いアスティを目の敵にしていた。
ラクーセオ教授はソヴァルを席に座らせた後、話を続けた。
「女神テアディースは、我々バセレシウの民の発展のため三つの恩恵を与えてくださった。我々はこの三つの恩恵のもと、テアディース大陸の支配を広げていくことができた。異教徒である西の民、北の民を円環の端に追い、テアディース大陸のほぼ全土を支配するに至ったのだ」
ラクーセオ教授はそう言い終わると、鮮やかな装丁が施された分厚い教科書を閉じた。同時講義の終了を告げる鐘の音がコーン、コーンと鳴った。
「諸君、今日の講義はここまでだ。・・・イオル君、この後私の部屋に来たまえ」