第九話 大罪
神聖歴九六六年 紺の月
バセレシウ王国に夏が来た。テアディース大陸の中央に位置する王都ヴァシーリオは、北側にトサナート山脈がそびえ立ち、南側にはスコティの森がある熱がたまりやすい形状となっているため、夏はかなり暑くなる。
アスティとソフィは鋭く降り注ぐ太陽の光を浴びながら、王都城壁周りの測量を進めていた。四日目にして北側から東側を残すのみとなっていた。
アスティは北側の城門でソフィと待ち合わせ、城門を監視する衛兵に声をかけて城壁の外に出た。眼前には真っ直ぐに伸びる土の道があり、左右には草原が広がっている。所々背の高い木が立ち、何かの果実を実らせていた。道の向こう、遥か先にはテアディース大陸の北部を切り離すように巨大なトサナート山脈が広がっている。珍しく山頂に雲がかかっておらず、切り立った岩肌を見ることができた。山頂に雪が被っていないトサナート山脈を見ることができるのは紺の月と茶の月だけだ。赤の月の中頃からは北側には雪が降り始める。
「今日はフロガ―山もよく見えるな」
ソフィは目を細めてトサナート山脈の方を見ながら言った。フロガ―山とは、トサナート山脈の中にあるひと際大きな山の名称だ。山頂は常に雲に覆われていて王都からは見ることができない。教典の中では、女神テアディースが降り立った場所と言われている、神聖な場所だ。
「城壁周りが終われば、昼間に酒場通りや細い路地、夜に大通りの測量をしようか」
数値を紙に記録しながらアスティが言った。汗が滴り落ちて紙の色を変える。
「そのことなんだけどね、すまないアスティ。僕は夜に王城から出ることは難しいんだ」
ソフィはひどく言いづらそうな表情でそう言った。
「まあ、それは仕方ないだろう。誰かにお願いして手伝ってもらうか・・・」とアスティが言う。
「僕に仕えている人間で信頼できる人がいる。夜間の測量の時にはその人を寄越すよ」
「ああ、そうしてくれると助かるよ」
二人はその後も話しながら城壁周りの測量を進めていった。
数日後の夜、アスティは南側にある噴水広場にいた。ソフィが紹介してくれた手伝いを待つためだ。薄曇りで外は暗い。蒸し暑い空気が肌にまとわりつくようだ。
「こんばんは。あなたがアスティニース様ですか?」
後ろから若い女性の声が聞こえた。夜だからか少し低く、落ち着いた声だ。アスティは声の方へ振り返った。そこには背の高い女性が立っていた。夜に溶けるように黒い、足首まである長さのドレスを着ている。襟には白いレースがあしらわれている。艶のある長い黒髪の彼女は、まるで夜が連れてきた精霊のようだ。
「ソフィロス様の命で来ました。カマリエと申します。ソフィロス様のメイドをしています」
カマリエは丁寧にお辞儀をしながらアスティに挨拶をした。長い黒髪が彼女の動きに合わせて揺れる。
「カマリエさんですね。よろしくお願いします。何をするかはソフィから聞いていますか?」
アスティが問いかける。
「はい。測量をされているとお聞きしています」
カマリエは表情を変えずに答えた。
「そうです。まあ、細かなやり方については実際に測りながら教えますね。今日は南側の大通りを測ろうと思います」
「分かりました。よろしくお願いします」
二人は棒を持って測量を始めた。暗闇の中、二人のランタンの灯りがほのかに揺れている。アスティは目を凝らしながらランタンに照らされた羅針盤を見た。
「九十五、だな」
測量を開始してからしばらくして、アスティは驚いた。カマリエはアスティの方法をすぐに理解し、長さの計算の手伝いまでしてくれた。その計算もかなり早い。
「カマリエさん、計算早いですね」
アスティがそう言うと、カマリエは今夜初めて表情を崩した。少し微笑んで答えた。
「ありがとうございます。こういったことは好きなんです」
「そうなんですね。メイドさんも計算をされることがあるんすか?」
「いえ・・・。もちろんメイドとして財務管理も少々していますが、それはバセレシウ王家に仕えるようになってから学びました。計算自体はメイドになる前、ソフィロス様やアスティ様が今通われているヴァシーリオ学術大学に通っていたときにしていたのです」
アスティはまたしても驚いた。バセレシウ王国では、女性で大学に通う人はかなり珍しい。ましてや今王族に仕えるメイドが昔通っていたというのはそうあることではない。
「そうなんですね。なんの研究をされていたんですか?」
カマリエは口を開きかけ、少し黙った。何か逡巡しているようにアスティには見えた。
「・・・地質学です」と長い沈黙の末、カマリエが答えた。
カマリエの答えを聞いてアスティの表情も曇った。地質学の研究は数年前、教団から異端認定を受け全ての研究活動が廃止された。彼女の見た目からして、ちょうど異端認定を受けた頃と時期が被っていたのかもしれない。
「神の創りし世界を疑う学問・・・、か」
アスティは、苦虫を嚙み潰したような表情で言った。カマリエは何か、もう諦め切ったような笑みを浮かべて言った。
「私が大学にいたころに地質学の研究は廃止され、退学を余儀なくされました。異端といわれた地質学を研究していた私は行く当てを無くしました。そんなとき、ソフィロス様に声をかけていただいたのです」
カマリエは昔を懐かしむような口調で言った。
「アスティニース様、あなたは天文学を学んでいるとお聞きしました」
「ええ、そうです」
「気をつけてください。教団はあなたが思っているより陰湿で、執念深く付け狙ってきます。彼らにとって行き過ぎた知識欲は大罪なのです。この地図作りも教団に気が付かれたら何をされるか・・・。ソフィロス様は王族なので教団も手を出せないでしょうが、あなたは違う」
カマリエの顔からは笑みが消えていた。長い睫毛の下から黒い宝石のような瞳がアスティを捕らえる。
「心配してくださってありがとうございます。大罪・・・確かにそうかもしれまん。でも僕は真理が知りたい。この地図作りの中で近づける気がしているんです。真理を知るためならどんな大罪でも犯しますよ」
アスティは微笑んで言った。
「じゃあ、測量の続きをしましょうか」
朝、明るくなり始める頃に王城までの測量は終わり、二人はそれぞれ帰路についた。




