乙女の秘密ーパンドラの箱ー
読んでくださりありがとうございます
五月、日曜
俺は上野公園に赴いていた。
そこでは芳子さんは社員――おそらく信者――と共に炊き出しをし、浮浪者や孤児、貧困層に食事を配っていた。
「安吾院さん、来てくださったんですね」
「えぇ。時間が空いたので何かお手伝いが出来たらと」
「まぁ、嬉しい!今社長をお呼びしますから、あちらでお待ちになってくださいな」
芳子さんは隣で一緒に味噌汁を配っていた女性に声を掛け、その場からいったん離れる。数分後、少しふくよかな中年男性を連れて戻ってきた。
「貴方が安吾院さんですか。私は光望会社で社長を務めております山之内と申します。中村から話は伺いました。中村がご心配をおかけしたみたいで…気を使っていただき、ありがとうございます」
お辞儀をすると、芳子さんも頭を下げた。
「いえ。偶然ですよ。数分遅ければ、俺は中村さんに声を掛けなかっただろうし」
「それも、何かのご縁です。今日はお手伝いをしに来てくださったとか?」
「はい。相談事があればと言われたんですが、生憎悩み事は抱えていないので、それなら別の形で参加しようと思いまして」
「嬉しい限りです。男手は多い方が良いので助かりますよ」
社長とやらは人の良さそうな笑顔に、柔和な声色だった。喋り方も穏やかで安心させる。
(こいつを教祖候補にしとくか)
暫く配膳や片付け、ゴミ処理をしていると、すすり泣く声が耳に入る。
芳子さんを含めた数名の女性が集まっていた。ヒソヒソ話をした後、芳子さんは顔を青ざめさせ、すすり泣いていた女性の肩にそっと手を添えると会社用バスの中に入っていく。その後を追う女性達。
本来ならそっとしておくべきだ。彼女達が自分達で解決しようとしているのだから、関わらないのが吉だ。
だが
(胸騒ぎがする)
出来るだけ影を薄くし、存在感を無くし、バスに近づく。
幸運なのか不運なのか。バスの窓が少しだけ開いていた。そこから彼女等の会話が漏れてくる。
「妊娠したって判ったのはいつ?」
芳子さんの声じゃない女性が話しかけている。
「二ヶ月前です。旦那様の子だって判ったら、奥様が男の子なら跡取りに、女の子だったら結婚の道具にしてやるって、なにがなんでも私から赤ん坊を取り上げてやると仰って…!」
多分、妊娠した女性は女中だろう。不倫関係にあったのか、それとも主人に無理矢理…
「妾にはしてくれないの?」
「お前は妾にもなる価値はないと言われました。子供を産む道具だって。男の子が生まれたら、また産めって…」
「貴女が奉公先の奥様にお子様は?」
「お嬢様が三人…それもあって、大奥様に嫌味を言われていて…。旦那様も男を産めない奥様が悪いような言い方をしていて」
「何それ、許せない」
跡取り問題か…。
こればっかりは性別なんて決められないんだからしょうがないだろうと思う。だけど父兄制度が根強い現代じゃどうしても男が必要になってくる。雅比古くらいの家柄なら一人娘だったとしても婿養子を取って結婚とか余裕なんだろうか。寧ろ、親父殿のお眼鏡にかなうような男を迎えるんだろうな…
(秀吉を思い出せ!茶々しか子供が出来なかったとかかなり怪しいだろ!茶々の息子は確実に織田と浅井の血は継がれているが豊臣の血は怪しい!)
など考えていると、とんでもない発言が耳に入り込んでくる。
「堕胎罪がなければ、堕ろしていたわよ!産みたくなんかないよ、好きでもない男の子供なんか!」
パチン、と誰かが妊娠している女性の頬を叩いた。
「そんなこと言っちゃダメ。口にしちゃダメ。赤ちゃんに伝わるわよ」
「でも、まだお腹だって大きくなってないし…聴こえやしないわ」
「聴こえなくても。伝わるの。赤ちゃんの味方は、今貴女しかいないの。そして私達は貴女の味方。貴女の選択を尊重します」
声の主は、芳子さんだった。
すぐに、嗚咽が中から聞こえてきた。
選択を奪われた女性が泣く。
(貴女の選択を尊重します…って、そういう意味だよな)
奉公活動が終わり、俺は喫茶海星で珈琲を注文したが飲めずにいた。ホットを頼んだのに、猫が飲めるくらい生ぬるくなっているだろう。
「どうした陵介。そんな渋い顔をしていると三十路を通り越して還暦になるぞ」
「そんな老け込みますかねぇ一気によぉ…」
藤志朗だ。相変わらず憎まれ口叩くな。
「で、なんだ。悩み事か?それともまた女に騙されたか」
「騙されるに一本化するの止めてくれねぇか?…まぁ、そのよ…」
ふと、出かけた言葉を飲み込む。
ここで、芳子さん達の件を相談したらどうなる?
光望会社を調べている雅比古に確実に話が上がる。そうしたら、あの妊婦も、芳子さんが言っていた選択が事実だとしたら。
藤志朗は黙って俺に協力してくれるか?コイツが、どう思っているか解らない。
「いや、今日上野に行ったら微笑ましくなるくらいおしどり夫婦を見かけて…嫁さんはお腹大きくてよ」
「なるほど。羨ましくなったのか。ならお前のご両親に見合いを設けてもらえばいいじゃないか。肝っ玉の良い女性を連れてきてくれるだろう。陵介は女性に立ててもらうよりも、尻に敷かれているくらいが丁度良い」
「藤志朗、お前…結構俺のこと考えてくれてんだな」
てっきり都合よく動いてくれるおっさんとして見られていると思っていたが、違ったようだ。
「ちゃんと首輪をつけてもらって管理されるといい」
「なんか違う方向に行ってるな!?」
結局。誰にも言えずに六月を迎え、梅雨を迎えた。
女性部に命令を承り大荷物になる買い出しに車を出していた。
しかし途中で雨に降られる。
「傘はっと…無い」
この車に傘は置かれていなかった。一気に気分が沈む。俺は濡れるのは雨で濡れるのは嫌いなんだ。
俺は車と店を往復する間に割と濡れる羽目になった。
光望会社を通り過ぎ、裏道を進むと会社の別館玄関先に着く。そこに、これから出かけようとする芳子さんが傘を差そうとしているところだった。
「あら、安吾院さん。お使いありがとうございます」
花が咲くような微笑に俺の心は晴れていく。雨なんかどうだってよくなった。
「いえ、男手が必要なら扱き使ってください!」
「安吾院さんは、なんだか不思議ですね。他の男性と違う感じです」
「え…」
それって。それってもしかして、脈ありってことか?彼女はまだ自覚していないけど、俺の事が気になっている…?!
「ここに居る男性って、女性部に指示されるの嫌う人が多いので。安吾院さんみたいに快く引き受けてくださる方って、貴重なんです」
語尾にハートが付きそうなほど嬉しそうに話す芳子さんに、思わずずっこけそうになった。
「いえ…これくらい、女性の頼みを聞くくらい出来ないと、いい男にはなれませんよ」
ちょっと意地をはって挽回を狙う。
「あはは!安吾院さんって面白い!今のセリフ、若い子達に聞かせてあげてくださいな」
面白そうに笑う彼女に、お手上げだった。白旗だ。
芳子さんの笑顔には敵わない。
「あ、荷物運ぶのに、また濡れちゃいますよ。傘、差すだけですけど…お手伝いします」
「あ、ありがとうございます」
新聞紙で大きく包まれた野菜を館内に運んでいく。そのたびに、芳子さんの肩に軽くぶつかったり、運ぶのを手伝ってくれて指先が触れた。嫌がるそぶりも見せない。
…脈ありかもしれない。
七月になり、夏になる。
「今日も暑いですね」
芳子さんが、白い日傘をさして歩いてくる。
「そうですね。これからもっと暑くなる」
「夏は嫌いですか?」
「正直嫌いです。秋が一番好きで…そうだ。よかったら、紅葉が綺麗な時期になったら箱根に行きませんか?」
「え?!」
おいおいおい!何しれっと逢瀬に誘ってんだよ!俺達はまだお付き合いもしていない、ただの信徒同士…芳子さんが驚くのも仕方がない。
「主語が抜けてましたね!皆で箱根旅行、行きません?みちちゃんも赤ちゃんが生まれたらなかなか遠出も難しくなるだろうし」
「あぁ…ですよね!ふふ、秋になったら皆に提案しましょう」
あれから俺は、一人で光望会社…宗教団体望ノ環教団に潜入していた。
みちちゃんとは、あの時の妊婦さんだ。逃げ込む形で奉公先から望ノ環に入信した。別に信仰はしていないようだが、今ではお腹にいる命を愛おしそうに撫でては会える日を楽しみにしている。
正直、産む選択をしてくれて安心した。
罪にならずに済んだ、というのもある。
無責任だが、この教団内に居れば女性一人でも子供は育てていける環境がある。みちちゃん以外にも、母子のみがここに住んでいる信徒も割といる。
だけど、入信したから見えてきた闇の部分もある。
(コイツ等…反抗的な信徒や脱走した信徒に暴力振るってやがる)
多分、いや。確実に命を落とした信徒もいる。この数ヶ月で見なくなった奴が何人かいる。支部とやらに派遣した…と説明されたが、実際どうだか。
教団に行くと丁度教祖――光望会社社長の山之内。読みは合っていた――が一人の女性と話していた。女性の後ろ姿に、見覚えがあるような、無いような。
「あぁ、中村に安吾院君。丁度よかった。こちら先日入信された鳥羽雪子さんだ。色々教えてやってほしい」
「初めまして、鳥羽雪子と申します」
鳥羽雪子は、烏丸雪乃進が女装したときの偽名だ。コイツ、ついに潜入捜査に駆り出されたのか。
笑顔のままの雪乃進が怖い。固まる俺。
「雪子さんね。私は中村芳子っていいます。これからよろしくね」
「お、俺は安吾院陵介です…」
「よろしくお願いします」
「えー!結婚が嫌で逃げてきたの?!」
寧々と同い年くらいの少女が雪乃進に向かって叫んだ。
「ほら、外面は良いけど、家の中じゃ…酷い人だって判ったから逃げてきたの。お見合いで相性良いって言われても、暴力振るう人とは嫌でしょ?それに…」
「それに?」
「婚前性交求めてくる人だったから」
少女の耳元とで、ひっそりと呟いた。
少女は想像したのか、赤面すると「変な事聞いてごめんね!」と謝り集いの間から飛び出していった。
「みちちゃん、お腹少し目立ってきた?」
「四ヶ月でもう少しで五ヶ月に入るの」
「じゃあ戌の日に腹帯貰いに行こう。安産祈願もして」
この光景だけ見ると、不遇な場から逃げてきた女性や、社会奉仕をして皆の幸せを願う男達といった平穏が広がるいい場所だ。家と言っても過言じゃない。
「安吾院さん、でしたっけ」
「…鳥羽さん。どうかしましたか?」
「ちょっとお面貸してくださる?」
雪乃進に人気のない場所に連れていかれる。
誰もいないか確認してから会話に入る。
「なんで陵介さんがいんですか…もしかして、ただの人間に縋りたくなるほど思い詰めていたんですか?」
「違う」と強調し、話を進める。
「偶然な。ここの信徒と知り合いになって…。お前と雅比古が会話してるの、立ち聞きしちまったからなりいきで入信して潜入中って訳よ」
「あぁ、芳子さんあたりですか?」
ぐうの音も出ない。
「それより、俺が見てきたことと予想を全部話す。それを雅比古に伝えろ」
脱走、反抗的な態度を取った信徒が消えること。そして無理矢理勧誘してきた者には洗脳し信じ込ませる非道を行っていることを伝えた。…堕胎の事は、伏せて。
「なるほどねぇ。俺は婚約者から逃げてきたって体で話したら、その男は悪魔憑きだ、連れきなさいって言われましたよ。…キナ臭いねぇ」
どうやって信者獲得をしているのか僅かだが予想建が出来るようになってきた。
・過労させ幻覚、幻聴を錯覚させる。
・悪魔憑きと呼ばれた人間を殺害、または拷問で信徒に改心させる。それを奇跡だと称して信仰心をさらに仰ぐ。
・逃走、反抗的な信者を暴力で見せしめ。他の信徒を恐怖で支配する。
・身寄りのない人達、母子のみの家庭を保護し、ゆっくりと洗脳していく。
メモをざっと書いてみる。
「こんな感じですかね」
「多分な」
「…なんでこんなに情報握っていながら黙っていたんですか?」
「うっ、それは…もうちょっと情報とか必要かなぁとか」
駄目だ。雪乃進から疑いの眼差しが突き刺さる。確実に芳子さんに理由があると思われている。いや、そうなんだけども!
言い訳をしようとした時だった。
「安吾院さん、雪子ちゃん…?こんな所で何しているの?」
芳子さんだ。運悪く、見られた。
「あぁ、中村さん!丁度よかった、鳥羽さんがなんか俺と中村さんの仲を勘違いしていて根掘り葉掘り聞いてくるんですよ!」
「そう…雪子ちゃん、そういうの、本当にやめてね」
能面のように、そして冷たく言い放った。明らかな拒絶の言葉。
俺の心に罅が入る。寧ろ折れそう。折れたかも。
「でも、そっか。そんな風に見えてたんだ。私と安吾院さん。そっか…それはそれで、嬉しいな。私、また恋をしているように見えていたんでしょ?…ねぇ、雪子ちゃん」
いつも明るくお淑やかな彼女から、光が消えた。
―過去囘想―
それは私が十九の時でした。
親が宗教に入信したのです。それが望ノ環教団でした。
見合いで決まった婚約者がいたのに、両親は私を教祖に捧げました。私の身体は教祖により穢されました。
婚約者は私を助けようと乗り込んできてくれました。
ですが、我が宗教を壊滅させようとする悪魔と呼ばれ、彼は捕らわれ拷問が始まりました。私が懇願しても彼を開放してくれませんでした。
二週間程に渡り、彼は苦痛の中、やっと命を落としました。
彼の目の前で教祖を含めた複数の男達に凌辱されました。人生で最大の屈辱でした。あの時の、彼の眼が忘れられません。私の身を案じる中に、軽蔑と汚物を見る様な眼。
私は、教祖の愛人の一人となりました。
ある日恐れていた事態が起きました。
妊娠したのです。
教祖の子が腹の中にいたのです。
ここは堕胎施術もしてくれる医者がいます。私は嘘を吐き、信徒の男に犯され出来た子を堕胎したいと申しました。
堕胎後、免罪を着せられた信徒は教祖の怒りを買い激しい暴行を受け死にました。いいザマだと思いました。
そして私は、罰が下ったのか、妊娠できない体になっていました。手術のせいでしょう。
それでも、望まぬ妊娠をした女性が駆け込んでくる場面をいくつも見てきました。その度にどう選択するのか考えさせ、出産を望んだら信徒にし世話を見て、堕胎を望んだら医者を紹介しました。二度と産めなくなる覚悟と、命を殺す懺悔を忘れずにと伝えて。
この秘密がバレたら、堕胎した彼女達が捕まるのは目に見えています。医者も逮捕されるでしょう。
産めよ増やせよと言われる今、選択肢を奪われた彼女達のために、私は秘密を守るために、ここに居るのです。
―囘葬終了―
「安吾院さんは、こんな穢れきった女を抱こうと思いますか?性の捌け口くらいにならなれますよ」
自虐し、自身を嘲笑う彼女を。俺は生まれて初めて、女性の頬を叩いた。
俺は雪乃進が住む集合住宅にいた。外装はコンクリート造りだが、中は木造となっている。
部屋ではちゃんと男性用の浴衣を着た雪乃進が険しい表情で外を眺めていた。
「…雅比古に言うのか」
「全部言う…予定だったけど、あの芳子さんが余計な情報言ったせいで計画変更しなくちゃいけなくなりましたよ。言えないでしょ…。まぁ、信者には悪いけどあと数ヶ月は犠牲になってもらって、俺が囮を見つけてどうにか暴いてやりますよ」
「意外だな。雪乃進は子供好きだから堕胎は絶対に許さないと思っていた」
「大反対!命が宿った時点で生きる権利があると思ってるんで。でも…堕胎するな、産んで育てろとは簡単には言えるけどさぁ。そう簡単に言えるのって、恵まれている人やお金がある人なのかなって、俺の足りない脳味噌が出した答えです」
「そうか。雅比古にいつ報告するかはお前に任せる。俺は…芳子さんを助けたい。みちちゃんも、身を寄せている母子も」
「だと思った。まぁ、上手く隠し通すんで待っていてください」
雪乃進ののし上がる姿は異常だった。
教祖に期待をさせておいて手は出させない。だけど思わせぶりをする。そして話術に、カマトト、舞子の真似事までして懐に潜り込んだ。
会えるけどそう簡単に抱かせない。まるで遊郭の太夫のような存在感を放っていた。
(遊郭に行けるほど金持ってないから想像だけど…)
―信者幹部ノ会話録―
「昨日警察が来てさぁ」
「子供を返せって親達が集団抗議したのを止めに来たのがきっかけだろ。入信したお前等の子供はもういい大人だってんだ」
「でももし捜査されたら…。暴行や死者を出したことまでバレる可能性があるぞ」
「その時は、黙示録を決行する」
―以上、記録終了―
後日。
芳子さんと、教団内の廊下ですれ違った。
あの会話のあとだし、頬を叩いた罪悪感からも、俺は視線を伏せて顔を合わせないように通り過ぎようとした。
「あの、安吾院さん!」
しかし、呼び止めてくれたのは芳子さんの方だった。
「その…この前は、大変失礼なことを言ってごめんなさい。自分でも、なんで自身を苦しめるようなことを言ったのか解らないのだけれど…その。多分、安吾院さんに、嫌われたかったんだと思うの」
「そんな、どういう意味ですか!俺は、何があっても中村さんのこと素敵な女性だと思っていますよ!軽蔑もしません!」
「それが、いけないのかも。貴方といると、甘えて、許されるような気がして…。婚約者を見殺しにしておいて、山之内の愛玩にされているのに…自分も、他人にも堕胎を勧めたのに。普通の女性として、生きて良いって、勘違いしたくなる」
それってつまり、俺も勘違いしていいってことか?
いや。それは置いといて。現に、どう声をかけていいか解らなくなった。
貴女はこの宗教…山之内の被害者だ。そして、現代の犠牲者だ。
彼女を肯定するべきか、否定するべきか解らない。
「中村さんは、自由に生きていいんです。自分の行きたい道を、歩いてください」
「ありがとう」
そして十月。
雪乃進が藤志朗の連れを囮にし、教祖山之内に悪魔憑きがいると囁いた。
山之内はそれを信じ、退治せよと命じ、雪乃進と数名の見届け人を務める信者を送り出した。
暫くすると、息を切らした見届け人の一人が教団に慌てて帰ってきた。
「け、警察が山田様を逮捕しました!」
教団内にいた信徒がざわめきだす。不安を口にするもの、なだめる者、経を唱える者…
ガコン―扉に重い鍵がかかる音が広間に響く。
「これで警察が突入してくる心配はありません。さ…皆さん。我らが神、山之内様の下へ行き祝福の盃を呑みましょう。子供にはジュースを用意しています。さ」
幹部が奥にある山之内専用の部屋『祝福の間』に先導する。
安堵を覚えた信者は皆ぞろぞろと祝福の間へ向かい歩く。まるで安寧の地を求めるように。山之内に縋るように。
(安寧の地…?まさか!)
芳子さんを見ると、着物の袖を握り震えていた。
「芳子さん、何か知っているんですか?!警察が来れば、保護してくれる…祝福の間で何が起きようとしているんです!」
俺の荒げた声に、母子、みちちゃんが不安そうに立ち止まりこちらを見ている。
芳子さんは歯を食いしばり、数秒黙った後、覚悟を決めたように教えてくれた。
「盃に注がれる酒とジュースには毒が入っています。集団自決を決行するつもりなんです」
まだ洗脳が行き届いていない者、信仰しておらず身を寄せていた者、無理矢理入信させられた者はどよめき始める。
しかし、純粋に山之内を信じている若者達は血気盛んに拳を上げる。
「教祖様のお導きだ!この邪気に溢れ腐敗した日本国に一撃を食らわす儀式になる!」
「そうだ!俺は行くぞ!」
「私も!」
「待て、冷静になれ!死ぬんだぞ!」
俺の声を無視し、彼等は先へ行く。
「行った方が、いいのかな…」
「お母さん、僕たちどうなるの?」
「行かなくていい!全部山之内に支配されるな!思考まで染まってないからどうしたらいいか解らないんだろ?!なら生きろ!死ぬのが怖いから戸惑ってんだ、何も悪いことじゃねぇ!」
俺が怒鳴ると、みちちゃんが泣き出す。
「私、死にたくない!この子のこと産んで、一緒に生きたい!」
大きくなってきたお腹を抱きしめ、泣き崩れる。
「そうだ…俺だって死にたくないよ!」
「私達は行き場が無いからここにお世話になっただけで、信仰なんてしていない!そうよ、指示に従う理由なんてないわ!」
みちちゃんが死を恐れ拒んだことにより、周りが同調し始めた。よかった…。だが、祝福の間には熱心な信者…中には家族そろって入信した人もいる。まだ幼い子供まで道連れにするつもりなんだ。
(両親揃って信仰しているのが厄介なんだよ…!)
「芳子さん、俺は心中を止めに行く。貴女はみちちゃん達と一緒に逃げてください」
「無理なんです…!あの扉、幹部しか鍵は持っていなくて、外からじゃないと開かないんです!内側にいる私達は逃げられないんです!それに、」
その時だ。祝福の間へ通じる廊下の扉が突如閉まる。
建物内に機械が動く音が地響きのように部屋を揺らす。
「毒ガスで私達のことを道連れにするつもりなの!アイツは絶対に私達を殺すつもりよ!」
周りが混乱し始め、扉を叩く。
ガスが噴出されている箇所は二ヵ所。男が肩車をすれば排気口を防げる。
「水と布は無いか?!」
「私の着物を使ってください!」
芳子さんが着物を脱ぎ、切り裂く。それを設置してあった手洗い場の水で濡らす。
「お前達もハンカチか服の袖を水に濡らして口と鼻を塞げ!あとそこのお前!俺のこと肩車しろ!排気口を塞ぐから手伝え!」
指名された男は拒みたそうな顔をしていたが、命に代えられないと判断したのか、俺を肩車し協力してくれた。
「床に伏せて、顔を上げるな。ここに電話があるはずだから、警察に連絡してくる。芳子さん、あとガスを止めたい。どこに管理室があるか解りますか?」
「知っています。こっち!」
祝福の間に通じる扉を開けようとするが、施錠されていた。
俺は背中に隠し持っていたリボルバーを取り出し、一発入れる。発砲音に周りが悲鳴を上げる。
施錠は壊れたお陰で扉が開く。
「開けっ放しにしておきましょう。少しでもガスを広間に留めたくないわ」
「それは同感です」
管理室の扉を開こうとするが、やはり開かない。発砲し、抉じ開けるが中では信徒の一人がすでに服毒自殺をした後だった。
俺達は絶句し、何も言えずにガスを止めるレバーを引いた。
そして無言のまま祝福の間へ向かう。
外からしか開けられない扉の仕組みは、ここでも同様だった。扉を開けると、地獄絵図のような光景が広がっていた。
若者が、子供もいる家族が、純粋に信仰していた者が、山之内の愛人達が、幹部が、すでに冷たくなっていた。苦しそうに、目を見開いて死んでいた。
しかし、山之内は玉座を模した椅子に座り、遺体を眺めていた。
「なんだ、芳子。来たのか。しかも最近一緒にいる男と来るとは…」
「何故アンタは生きているのよ!」
「私はこれから逃亡する。お前達も殺す。余計な荷物は捨て、新天地でまた教団を創る」
「そんなの許さない!」
すると芳子さんは、俺からリボルバーを取り上げ、山之内に向かい発砲した。しかし、素人が撃ったところで当たることはなく、逆に反動で転んでしまった。
「芳子さん!」
「許せない…!許せない!アンタのせいで、私は結婚も、ましてや子供を産めなくなった!」
「堕胎したのはお前の選択だろう」
「そうよ、アンタの子だったから、堕胎したの!お前の子孫なんか、残してたまるか!」
この発言に、山之内はみるみる顔に血が上り、激怒する。
「貴様!俺の子を、殺したのか!堕ろしたのか!」
「私だけじゃないわ。アンタの愛人皆よ。皆…好きでアンタの愛人になった訳じゃないからね…。アンタは寝とるのが好きみたいだからね。死んだあの子、今アンタの子を妊娠してたわよ。でも死を選んだってことは…解るわよね?仇になったわね」
山之内は立ち上がると芳子さん目掛けて走り、何かの液体を投げつけた。芳子さんが叫び声を上げ、掴みかかろうとする山之内の間に咄嗟に入りこみ、山之内を殴り投げ飛ばす。
「芳子さん、大丈夫ですか?!」
「えぇ…」
しかし、彼女の顔には火傷の痕があった。幸いに目には入っておらず、頬から首にかけて爛れていた。
「お前、硫酸なんか持ちやがって!」
「お前に何が解る。芳子は良い女だったよ!どんな辱めをさせても喘いで痴態を晒したんだから、」
ここで、俺は我慢できず山之内の向け銃弾を撃った。目を開いたまま、酷い面で死んでいた。
「芳子さん、手当てを…芳子さん!」
あろうことか。否、予測できたはずだ。彼女が、自決する可能性があることを。
芳子さんはもう毒入りの酒を飲み、藻掻いていた。
――『人生で最大の屈辱でした』
――『軽蔑と汚物を見る様な眼』
「わ、たしは汚い…でも、じゆ、に」
涙が滲み、呼吸が弱まっていく。
「そうです、自由になるんです!芳子さん、貴女の魂は穢れていない。今はこんな人生だったけど…生まれ変わったら、普通の女の子として育って、好きな人に巡り合って、恋をして、貴女が望む幸せな家庭を築くんです…。芳子さん、芳子さん…?」
もう、息絶えていた。
本音を言えば生きていてほしかった。だけど、彼女は逮捕される位置に居た。逮捕されれば、あることないこと新聞記者に書かれるだろう。過激に、男達の気を引くような。女から軽蔑されるような。
瞼を閉じさせて、俺は皆がいる広間へ戻る。
「皆、ガスは止めた。だけど念のためまだ布で口と鼻は塞いでおいてくれ。警察も、いずれ来る」
嘘だ。だが、いずれ雅比古達がやって来る。
この言葉に、安堵の空気がどっと生まれる。
「安吾院さん、無事だったんですね。芳子さんは?」
みちちゃんが安心した様子で尋ねてくる。
「山之内と二人で話したいって言うから、先に戻ってきたんだ」
「芳子さんって、ふわふわしていてお淑やかだけど、肝が据わっていて、かっこよくて素敵な女性だよね。私も、芳子さんみたいになれたら、この子の事、独りでも守っていけるのかな」
「…独りじゃないよ。それに、芳子さんはみちちゃんと生まれてくる赤ちゃんに希望を見ていた」
「希望だなんて、大げさだなぁ。うん、ここで出会った皆がいるもんね。…この先どうなるか不安だけど、私、負けないように頑張る」
それから三十分後。
警察が突入してきた。
俺達は無理矢理入信、或いは騙され、誘拐された民間人として保護された。
祝福の間で死んだ信徒のみが教団者として結論付けられた。雅比古の判断によって。
「お前が入信しているとは思わなかったよ」
雅比古が警察署内の大広間で保護された俺達から聞き込みをしていた。
「まぁ、惚れた女性が信徒だったので、あはは…」
「雪乃進から聞いている。中村芳子さんという亡くなられた方が随分協力してくださったそうだな。母子家庭や未婚の妊婦は俺達がどうにかする。珠子さんにも協力してもらうつもりだ」
「珠子ならいい案を考えてくれるよ。…頼んだぞ、雅比古」
俺の表情が気に入らなかったのか、雅比古から拳骨を食らった。
雪乃進がどこまで話したかは判らない。それでも、彼女達の件について警察が動くことはなかった。
公にはならなかったが、女性の間で噂が立つ。
――望ノ環教団の悪事を暴いたのは一人の女性がきっかけだった。
――死者がでた絶望の中でも、彼女がいたから逃げられずにいた信者が生きて帰れた。
――彼女のお陰で、助かった命がある。
――彼女のためにも、山之内は地獄へ堕ちるべき。
俺はそんな噂話を耳にしながら浅草を歩く。
暫くは上野に行くことはないだろう。
向かうは喫茶海星。そこで、藤志朗が拾ったという奇妙な少年に会う予定だ。
原作・ぱるこμ。原案・PaletteΔ