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月の蘇る-4-  作者: 蜻蛉
第十八話 戴冠
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5

 思えばあの瞬間から時は止まっていた。

 いきなさい、と母から告げられ牢を出された、あの瞬間から。

 あの後、薄暗い、煙の充満した小部屋に連れて行かれた。その澱んだ空気を吸う内に意識が酩酊していった。

 衣服を剥ぎ取られ、手足を縄に括られて、しかしそんな状況で何も考えられず、恐怖すら湧かなかったのは、あの薬のせいだろう。

 そして身体を切り落とされる痛みと共に意識は落ちた。

 あとは高熱に魘される日々で、はっきりとした記憶は無い。ただこんなにも苦しまなくてはならない意味が分からず、殺してくれれば良いのにとずっと思っていた。

 自ら死のうという意思を持てなかったのは、矢張り薬の煙に巻かれていたからだ。

 そう、ずっとこれを吸わされて、その痛みも苦しみも鈍麻させられていた。同時に思考力や意思も鈍っていた。

 自死を選べない代わりに、薬によって少しずつ殺されていく事は分かっていた。

 壊れていく身体と、頭と、閉じてゆく未来。

 でもそんなものはどうでも良かった。

 牢を出されたあの瞬間。そこでもう全ては終わっていた。


 天井をぼうっと眺めている。いつからこうしているかも分からない。

 きっとこの十数年、こうして過ごしてきた。

 意思の無い繰り人形。この身体が存在する事で得をする誰かの為に。

 いつかどこかで消えてしまえば良かったのに、それも出来なかった。それを決められる力も無かった。

 今、ほんの少しの自由が得られて。

 どうしてまだ死を選べないのだろうと、噛み切れもしない舌を噛んだ。

「龍晶、飯だよ」

 朔夜が覗き込んできて、肩を抱き起こす。

 為されるがままに起こされ、食べる気の無い粥を口に入れられて、仕方ないから飲み込む。

 それを繰り返し相手が満足したらやっと解放されて、また天井をぼうっと眺めている。

 無理矢理こうしてまた生かされている。

 こんな自分、死ねば良いのに。

 誰か、殺してくれれば良いのに。


「お前ら…どうかしてるよ」

 二人の意見に朔夜は憤慨し、しかし罵る言葉も浮かばずそれだけ言って黙り込んだ。

 目前の二人、まず燕雷は灌に帰ると言う。

 これ以上ここに居ても仕方ない、と。

 そして桧釐は十日後に戴冠式を行うと言う。

 民はもう待てない。今すぐにでもそれを市中に触れ回るべきだ、と。

 二人共、龍晶の病状を知っていてこんな事を抜け抜けと言える。その神経が信じられない。

 二人は口々に何か言い訳を並べていたが、聞く気になれず朔夜は背中を向けてその場を去った。

 誰も頼れない。追い詰められているのは自分も同じだ。

 ただ、友を守りたい。それがこんなにも難しいとは。

 龍晶の元に戻ろうとして、しかし足は鈍る。

 城の庭園を歩き、溜息を落として、池のほとりにある石へ座った。

 水面を眺める。何も考えたくない。

 出会った時、互いに己の事を語り合い理解したのはこの同じ場所だ。

 理解したーーそう思っていた。あの時から、今まで。

 自分と同じ傷を抱いて生きてきた、だから理解できる、俺だけは。そう思っていた。

 でも本当は全然違った。

 もっと厳しく寒く寂しい所にあいつは立っていた。

 それを解ってやれなかった。その罰だろうか。

 あいつが壊れていく様を、一人で見届けねばならないのは。

「朔夜」

 呼ぶ声に顔を上げる。於兎だ。

 大きな腹を抱えて、ふうと息を吐きながら目前にやって来た。

「良いのかよ?歩き回ってて」

「当たり前でしょ?運動しなきゃ体に悪いでしょ!もちろんこの子にも」

 そして顎でそこを退けるようにさり気なく指示する。

 呆気に取られながら立ち上がった席に彼女はよいしょと座った。

「あんたこそ暗い顔して大丈夫なの?あんまりそんな顔してるとね、幸運の方から逃げていくわよ」

「そもそも俺に幸運なんて居着いてないから関係無いよ」

「はぁん?何言ってるの、私に会えた事が幸運でしょ?」

「え」

「命の恩人」

 己を指差しながら言う厚かましい恩人に失笑して、ここは(うなず)く事にした。

「そうでした。その節はどうも」

「どうもじゃないわよ!そんな事より、悩み事は恩人にちゃんと話しなさい。あんたの足りない人生経験で悩むより、私に相談した方がずっと解決が早いわよ」

「…そういうもんかな」

 人生経験が足りないのではない。特殊過ぎるのだと思われる。

「で、何。王子様の事でしょ?」

「…いや…やっぱ良いよ。妊婦さんに聞かせる話でもないし、きっと解決しないから」

 途端に腕をがっしり掴まれて、逃げようにも逃げられない。

「そんなの許されると思ってる?」

「…そういう問題…!?」

 とは言え、この魔手から逃れられる方法は、素直に吐き出す事しかない。

「どうしたらあいつの病が癒えるのか…。いや…病が治るかどうかよりも、人としてちゃんと生きさせてやりたいんだ。誰かに利用されるんじゃなくて、あいつの意思で、やりたい事をやらせたい。解るか?」

 問うと、呆れたように微笑みながら於兎は返した。

「まるでうちの人が悪者のような言い方ね」

「え…いや、そんなつもりは無い…。桧釐に怒ってはいるけど」

「ま、解るわよ。それは。でもね、事を為すには憎まれ役って必要なのよ?」

「憎まれ役ねえ…」

 頭の上で手を組み空を仰ぐ。

 それを解って役割を演じているのなら、桧釐への見方を変えねばならないだろう。

 戴冠式を強行する意味も考え直さねばならない。

「あいつの為なのか、これが」

「この子の為でもあるのよ?」

 言われて、於兎が手を置く膨らんだ腹に視線を下ろす。

「仮にも親になる人に、しっかりして欲しいじゃない」

 言う顔に嫌味は無い。

 だからこそ朔夜は問うてしまった。

「良いのか?その子がどんな運命になっても」

「良いの。そんなの誰だって分からないわよ。私だって、あんただって同じ。運命なんて、生きてみないと分からない。明日にならないと天気が分からないのと一緒」

 そんなもんかなぁ、と天を見上げる。

 秋晴れの鱗雲が山の端まで続いている。

「俺には分からないな。誰もがそうやってどんどん龍晶を追い詰めているとしか思えない。今から戻って、俺はあいつになんて言ってやったら良い?」

「嘘の付けない子ね、あんたは」

 呆れて於兎は言い、それでも考えて。

「華耶ちゃんを連れて来る話、どうなったの」

「ん…燕雷が、あれは無しだって」

「どうして。良いじゃない、来て貰えば」

「今の姿を見られたくないだろうって」

「燕雷が?」

「うん」

「そんなの男のみみっちい意地じゃない。どうして私の意見を聞かないかなぁ?」

「はあ」

 そこまで言うなら意見を承ろうと先を促す。

「燕雷は華耶ちゃんにありのままを伝えれば良いのよ。その上で決めるのは彼女だわ。そうでしょ?」

「うん、まぁ…そうだね」

「何よその曖昧な返事は。あのね、女を舐めちゃいけません。覚悟を決めたら女は強いのよ?あんた達が心配する事なんて一つも無いんだから。あんたがくよくよ悩むよりよっぽど頼もしいと思うわよ?あんたも華耶ちゃんを頼りたいんでしょ?」

「…まぁ、うん、はい…」

 蚊の鳴くような声で応える。

「そこではっきりそうですと言えないのが男の駄目な所よね!もう私、燕雷に直接交渉してくるから」

 身重とは思えない機敏さで立ち上がり、さっさと歩き去っていく。

 確かに女は強い。その姿で体現している。

 残された朔夜はぽかんと見送って、我に返ると少し気分が軽くなっている自分に気付いた。

 一人で背負わなくても良い安堵。

 華耶ならきっと全て解ってくれる。

 そして魔法のように、龍晶の気持ちを解きほぐしてくれるだろう。

 きっと三人でまた笑顔で会える。

 いつか夢見たように。


 見張りをしていた衛兵に礼を言い、後は自分が見るから休むよう伝えると、彼は頭を下げて去って行った。

 誰かの目が無いと何をするか分からないのは確かで、それを監視だと言いたくはないが実際それだ。

 龍晶は鉄格子の嵌められた窓に向かっていた。

 相変わらず感情も生気も無い目で、緑を失いつつある秋の景色を見ている。

 若干浮かれていた心は、その光景でまた沈んだ。

 華耶が来るまでまだ日数は必要だし、そもそも本当に来るのかも分からない。

 そして今、彼と相対するのは自分一人である事に変わりない。

 誰もここに近寄らない。朔夜の本当の絶望はそれだ。

 こんなにも人とは無情なものなのか。

 二人きりになった空間で、朔夜は黙って友の後ろ姿を見ていた。

「もうすぐ冬だな」

 不意に龍晶の方から話しかけられて、朔夜は正直驚いた。

「あ…うん。寒い?雨戸閉めようか」

「このままで良い。日の光すら遮られたら…狂い死にする」

「ごめん。そんなつもりじゃなかった」

 監禁状態でここから出られない上に、雨戸を閉めたら外界を完全に遮断してしまう。

 ただ気遣っただけなのに、自分の考えの至らなさに悄げてしまう。

「謝るな。悪いのはお前じゃない」

 らしさの戻ってきた物言いに安堵して、踏み越えられなかった領域を超えて横に立った。

 人と人として並んで立つ、その当たり前を噛み締める。

「誰が悪い訳でもない…。だから為るに任せるしかない。ここで何かを無理に曲げたら、また流さずとも良い血が流れる」

 横顔を見、視線で意を問う。

 龍晶は端的に説明した。

「敵を作るな」

 人を憎み、恨んではならない。

 それは新たな悲劇の幕開けにしかならない。

「ただ…様々な要因が重なってこうなっているだけだ。誰もが善処しようとしている。だから俺は彼らの考えるまま動く気で居る」

「それで良いのか?お前にだって意志はあるだろ」

「こんな廃人にそんなものある訳無いだろ。お飾りでもまだ利用価値があるならそれに甘んじるよ」

「お前…」

 情けないが、それが正解なのだろうかという諦めが胸の内に渦巻く。

 有無を言わせず戴冠式をすれば後は何とかなると、皆そう考えている。

 そうなのかも知れない。朔夜にはその成否を理解出来ないし、判断する必要も無い。

 ただ友の苦しむ姿をこれ以上見たくはない。それだけだ。

「無理はするなよ」

 他に気の利いた事を言わねばならないとも思ったが、浮かばなかった。

 無理どころの話ではない。これは無茶だ。無茶苦茶だ。

 そう確信しているのに、どうしようも出来ない。

「別にもうどうなったって良いから」

 龍晶は言って、寝台の上に戻り膝を抱えた。

「一年前はもう死ぬと思ってた。だから今生きてるだけでも有難い話なんだよな、本当は。でも今は…死ねていたら良かったのにって…心底そう思う。だからもうどうでも良い。生きてても死んでも同じだ。それで誰かが良い思いをするのなら俺は傀儡で良い」

 どうだって良いんだ、と彼は繰り返して朔夜を見据えた。

 試されているような気がして、正面から叱れなくなった。

 そんな事言うなって、それこそ自分にそんな事を言える資格なんか無い。そう気付かされた。

「繍に居た頃の俺と同じだよ、それ」

 対峙する視線を和らげようと、横に座って。

「他人の意のままに動いて、自分がどれだけの罪を重ねてきたか…それを考える事すら放棄してるんだ。お前は手を汚す事は無いと思うけど、でも知らないうちに誰かを苦しめるかも知れない。悪い事に利用される可能性もある。そうなってもお前は耐えられるのか?」

 思い止める説教にはしたくなかった。ただ、彼自身が心配だった。

 しかし、相手はそれが通じる精神状態ではない。

「耐えられる?もう壊れているものが何を耐えられるって?」

 続く言葉を失う朔夜に、龍晶は皮肉に笑った。

「だからもう、どうでも良いんだよ。中身の無い空っぽの俺を、周りが善にしようが悪にしようが、俺にはどうだって良い事だ。放っておいてくれ…朔夜」

 悪いな、と毒の抜けた顔でぽつりと告げた。

 逃げるように毛布を被る。

 やり切れない思いで見つめる友の視線を遮りたかった。

「お前はきっと、悪にはならないよ」

 純真な、優しい声は変わらない。

 変わり果ててしまった自分に、ずっとこの声を聞かせてくれる。

 他の誰もが目を背け、忘れようとしているのに。

 何故だろう。

 答えは簡単だ。朔夜とて他に行き場が無い。

 生きる場所を失い途方に暮れた二人は、出会うべくして出会い、今ここに居る。

 だけど、本来生きる場所は互いにある。

 全く別の、交わる筈の無かった居場所が。

「お前は…灌に戻るべきだろ」

「え?」

 顔は見ないが、戸惑いは伝わった。

「華耶の元へ戻るべきだろ。彼女はそれを望んでる」

「だから、華耶をこっちに呼ぶって…」

「それは違う」

 語気を強めて言い、本当はこんな事口にしたくも無いのに、と思いながら。

「彼女の望みは、お前が灌に戻って平穏に暮らす事だよ。どうしてそれが分からない?この国に連れて来て危険に晒しながら働かせようとするお前は酷だよ。彼女の気持ちを踏みにじるだけだ」

「そんなこと…」

 朔夜は口をつぐんで言葉を探した。

 何か否定したかった。そうでなくては、龍晶の言った事実が、苦しい。

 だが、否定できる材料が無かった。

 困窮する朔夜を見越していたように、龍晶は駄目押しした。

「彼女はいつかお前と一緒になれると信じて疑ってないからな」

 それは分かっている。

 否、気付いてはいるが、応えられない期待なのだ。

 だから代わりに(そば)に居て欲しい。彼女を幸せにして欲しい。

 そんな、身勝手な願いなのだ。

 それを全部言えば怒られるだろうなと思った。

 だが、隠したままという訳にもいかない。それは裏切りにも思える。

「なぁ、龍晶…ちょっと外に出ないか?」

 面と向かっては言えない気がして、朔夜はおずおずと誘いを掛けた。

 龍晶は意外だったのか、被っていた毛布から顔を出した。

「良いのか?」

「大丈夫だろ。お前が無事に帰れば」

 監禁されているのは、些細なきっかけで自傷、下手をすれば自死に走りかねない龍晶を止める為だ。

 こうして普通に話すのは実は久しぶりで、容態が安定している証だと見える。なら、外に出しても問題は無いだろう。

「後で俺が桧釐に怒られるだけ」

「ああ、よくよく絞られて来い。その為の協力はしてやるよ」

 悪戯っぽく言って、龍晶は寝台から起き上がった。

「なんか、俺が怒られるのが嬉しいみたいに…」

 文句は呟いてみるが、隠せない嬉しさが頬を緩ませる。

 龍晶の目が生きている。それが無上に嬉しかった。

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