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月の蘇る-4-  作者: 蜻蛉
第十八話 戴冠
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2

 卓上の灯りが消え、はたと我に返った。

 深夜。城の中はおろか、喧しい都ですら寝静まる時間帯だ。

 灯りが消えた事で見えなくなった手元の文字。これでは仕事は続けられない。

 油を足して火を入れ直さねばならない。

 怠い溜息を落とし、手元で筆を弄んで、漸く席を立つ。

 窓の隙間から漏れる月明かりを頼りに歩を進める。

 が、廊下への扉を開けて面食らった。

 全くの闇の中へ放り込まれたかのような。

 そしてそれは、絶望の淵へ立たされたあの坑道の中を思い出させた。

 あれは終わった事。もう追われる事も無ければ命を投げ出す必要も無い。そう、自らに言い聞かせて。

 闇の中へと踏み入れる。

 数歩進んで、思わず歩みを止めた。

 存在を感じる。

 誰か、何かの。

 恐る恐る振り返る。何も無いと証明したくて。

 だがそこには、最期を看取ったばかりの兄が、居た。

 頭から血を流し、赤く染まった目を見開いた、死際の顔のまま。

 声も出せず、恐怖に身体は震慄(おのの)き、逃げようとした足は動かず後ろに倒れて。

 倒れたまま後退る。目を逸らす事が出来ない。目を逸らしたら、殺される。

 彼から逃げたら、独りにしてしまったら、殺されるよりももっと恐ろしい事が待っている。

 だから、逃げずに耐えてきた。ずっと。

 なのに。

「…兄上」

 こんな姿にしてしまった。

 彼一人だけ、地獄に落としてしまった。

「ごめんなさい…」

 許される筈も無い。だけど、何度も謝った。

 殴られ、殺されかけながら、何度も。

 死を持って償う気は無いが、殺されても仕方ないと思っていた。そして何処かでそれを望んでいた。

 自分が死ねば分かってくれるかも知れないと、淡い期待を寄せていた。

 居なくなって初めて気付く、その痛みに。

 彼にとって自分は、実は居なくてはならない存在だと知っていたから。

 肉親としての情を向けられるのは自分だけだと、知っていたから。

 だから。

 独りにしたくなかった。

「迎えに来たのですか」

 知らず、手を差し伸べて。

 共に向こう側へ行くべきなのかも知れない。

 同じ苦しみを、死して後も分かち合うべきなのだと。

「龍晶!」

 叫ぶ呼び声と共に視界が反転した。

 その場に引き倒され、引き摺られ、部屋の中に入れられると扉をきっちりと閉められる。

「何してんだよ!?」

 怒鳴る朔夜の声を聞きながら、今し方自分のしようとした事を思い出した。

 五階分はある吹き抜けの欄干を飛び降りようとしていた。落ちれば命に関わるだろう。

 呼ばれるまま、逝こうとして。

 今更ながら改めて恐ろしくなって、打ちひしがれた体が激しく震え始めた。

 怒った朔夜の顔が近付く。それすら怖くてぎゅっと目を瞑る。

 朔夜の手が額を押さえた。

「やっぱり。熱があるから一人で変な事言って変な行動してたんだろ。寝てないしさ。休めば治るから、そう怖がるなって」

 開いた目は意外を物語っていた。その中には理解されぬ落胆が混じっていた。

 朔夜は龍晶の身体を抱き起こし、身長を余らせながらも抱えて引き摺るように寝台へと運んだ。

 先刻まで自分が寝ていた寝台は、本来龍晶の使うものだ。隣室で仕事をする、その傍らに居てくれと龍晶自ら請うて朔夜の居室となっている。

 城内とは言え何があるか分からない、寧ろ城内だからこそ護衛が必要だと考えたのだろうと、朔夜はそう心中を察していた。

 だが、この様を見れば自分の役割は不届き者からの護衛だけではないようだ。

 友を寝台に押し込めて、布団を被せ、枕元を見下ろす。

 震えは止まり、力の抜けきった、ぼんやりとした視線を闇へと投げている。

 彼を亡き者にしようとしている、彼自身から、守ってやらねばならない。

 これは難題だった。そして朔夜自身が解決出来ずにいる問題でもあった。

「…兄上は矢張り無念だったんだ」

 ぽつりと龍晶は言った。

「怒っている。自分が死に、俺が生き残った理不尽に。逆であるべきだったのに」

「何言ってんだよ」

「…済まん。幻覚だって、頭では分かってるんだ…だけど」

 ただの幻だと、そう思いたくない自分が居る。

「だから…死のうとしたのか」

「分からない。無意識だった」

「それで…そんなことで済むかよ!?」

 怒鳴って、胸倉を掴んで。

「何の為に皆死んでったんだよ!?お前は皆の無念を晴らす義務がある!皆、お前に託して死んでったんだから!!」

 変わらない表情に、一筋落ちる涙が僅かな光を反射した。

 朔夜は手を離した。自分の役割は、彼に人間を忘れさせない事だと悟った。

 彼の兄が踏んだ轍へと迷い込ませない為に。

 朔夜の手を離れ、床へ落ちた人形のように、微塵も動かず龍晶は横たわっていた。

「…お前の兄貴は別にお前を恨んでなんかないよ。それにお前が殺した訳でもない。自分を責めるなよ。…仕方無かったんだ」

 その言葉が聞こえているのかすら不明だ。光の無い目は虚無の穴だった。

「もう、寝ろよ。何も考えずにさ。そしたら楽になるから。薬が要るなら貰ってくる」

 踵を返そうとした時、やっと細い声が聞こえた。

 朔夜、と呼んで。

「薬も医者も要らない。お前がここに居てくれ」

 振り向いた時にはもう、頭から毛布を被って顔を見せなかった。

 枕元に戻る。毛布の下の震えが見える。

 怖いのだろうと思った。一人になれば、現の中に悪夢を見る。それを恐れるから、ここに居てくれ、と。

「朝まで居るから…心配するな」

 声を掛けて、それを証明すべく毛布越しの背中を撫でる。

 震えが収まり、微かな寝息を聞いて、朔夜は横の長椅子に転がった。

 微睡みながら考える。

 孤独の寒さの中で目を瞑り、半信半疑なまま差し伸べられた手を掴んで、何処へ連れて行くべきなのか。

 生きる温かみを知らせて、目を開けさせてやりたい。

 そこまで考えて苦笑を禁じ得ない。

 俺もそんなもの、信じてもない癖に。


 目覚めると寝台は空だった。

 何故か焦りを感じて長椅子から飛び起き、その姿を探して扉続きの執務室へ飛び込んだ。

 冷めた視線を感じて安心したのも不思議な話で、寝ぼけ眼を擦ってどうしようも無く突っ立っているしかない。

 龍晶は一つ息を吐いてまた書面に向かう。

「…おはよ」

 朝の挨拶さえ間抜けに聞こえる。

 挨拶を返される事は無く、朔夜は間を持て余して室内をうろつき、卓上を覗き込んだ。

「そんなに急がなきゃならない仕事?」

 龍晶は視線もくれず口を開く。

「一刻を争う急務が山積状態だ。この国を立て直そうとするなら、だが」

「でも体が資本だろ?熱は下がったのか?」

「ああ」

 疑わしげに横顔を上目遣いに見て、おもむろに額へ手を伸ばす。

 急に伸びてきた手にぎょっとして龍晶は筆の穂先で止めた。

 掌に黒々と点が付く。

「うわ。ちょ、そんな事する?」

「お前が急に手を出すからだろ。洗ってこい」

「えー…」

 不満たらたらに外へ出ようと足を向けて。

 扉を開けて、ふと真顔になって向き直った。

「無理、するなよ」

 言い置いて、扉を閉めた。

 井戸のある外へ出る為階段を降りてゆく。

 都のどこからでも見えるこの背の高い城は、ここに暮らす者には時に不便だ。

 地上が迫り、昨晩の事を思い出して先程出てきた部屋の有る方を見上げる。

 整然と並ぶ欄干の柱がやっと見えるだけの位置。

 あそこから落ちたら余程の幸運に恵まれない限り生きてはおれないだろう。

 本当に死のうとしたのだろうか。否、死ぬ気は無かったと思う。

 やっとやりたかった、やるべき事に向き合えているのだ。今それらを全て投げ出して命を終わらせる理由は無いだろう。

 だからこそ、あの時あの目に見えていたものは、本物だと思う。

 前王はーー本人にその意思は無く死んでいったとしてもーー龍晶を呪う怨念となって彼を死へと惹きつける。

 悔やんでも悔やみきれない程の後悔が胸にある限り。

 そして、それでも保とうとしていた心の均衡は、皮肉にも探し求めていた母親の姿で崩されてしまった。

 今日辺り北州で執り行われるであろう彼女の葬儀に、息子はついに参列する事を選ばなかった。

 葬送すら今は辛いからだろうか。

 受け入れる事が出来ないから。

 あの瞬間から急に淡白になった龍晶の言動は、何か仮面を被って本心をひた隠しているような。

 そうせねば、自分で自分の心を隠して忘れてしまわねば、己が壊れると知っているから。

 だが無意識のうちに罪悪感と疲弊は心を食い荒らしているのだろう。

 どうすれば良いだろうか。

 救いはあるのか。

「朔夜」

 下から呼ばれる声に我に返る。

 階下に桧釐の姿を認めて、朔夜は残していた段を駆け降りた。

「おはよう桧釐」

「龍晶様はどうしている?」

 言うべき事を早速問われて、しかし答えるべき言葉は選ばねばならない。

「今は仕事してる…けど」

「けど?」

「昨晩は高熱を出してた。お陰で何日か振りに寝れたみたいだけど」

「だから言ったんだ、雨に濡れてまであの愚王を見送らずとも良いと…」

「その王様があいつには見えるようだ」

「何だって?」

 桧釐が目を剥く。無理も無い。

「幻覚が見えるんだと。恐怖に駆られて訳も分からずあそこから飛び降りる所だった」

 階上の欄干を指差す。

 桧釐は顔を顰めて朔夜の指の先を見上げた。

「本当か」

「俺が寝惚けてた訳でもないと思うよ」

「いや…お前を疑う訳じゃない。前にもそういう事はあった」

 国王の差し向けた軍に追われ逃げ込んだ洞窟の中で、自殺未遂をし、幻覚を見ていた。

 そこまで追い詰めた張本人は今目の前に居るが、桧釐は黙っておく事にした。

「だがその時はそうなる理由も理解出来たし一時的ではあった。今は…悪いが俺には全く理解出来ない」

「それはお前が王様を勝手に恨んでるからだろ。お前は王様を殺せて満足だろうけど、あいつには肉親だった」

「そんな事は分かっている。だがそうだとしても、反乱を始めたのは誰だって話だ」

「お前だよ」

 朔夜はそこに至る経緯の詳細を見ていないから、桧釐が始めたとしか思えない。

 それは事実でもあるが、桧釐として見れば龍晶の決意を信じていた。

 意見の齟齬に眉根を寄せつつ、朔夜は本来の目的を思い出して井戸のある屋外へと向かった。

 後ろから桧釐がついて来る。

「まだ何かあるのか」

「そう邪険にするな。人が折角相談しようとしてるのに」

「また?今度は人に聞かれて良い相談か?」

 少なくとも今、祥朗は北州に居り聞かれる心配は無い。

「いつになったらあの人は王になるか、だよ」

「ならないんじゃない?」

 簡単に切って捨てた朔夜に、溜息を吐いて苛々と桧釐は説明した。

「はっきり言って俺達は今、王城を不当に占拠している賊と変わらんぞ。政は空白になり、都の治安は日に日に悪化していく。反乱に加わった民も不信を抱いてゆく。これまでは前王の喪に服していたという言い訳が出来たが、今日で終いだ。急ぎ戴冠式をせねばならない」

 朔夜は井戸のほとりに取っ付いて、桶を落とした。

 納得し兼ねる顔付きで長い縄を手繰る。

「ったく、王も糞も無い山猿には理解出来ない理屈か」

「悪かったな山猿で」

 桧釐の悪言を受け流して、井戸の底から水を取りながら言ってやった。

「山猿でもあいつの気持ちなら理解出来る。あいつは家族をみんなその王冠に殺されているんだ。その座に自分が着くなんざ…恐怖でしか無いだろ」

「そんな事は民への言い訳にもならん」

「あいつはそれも分かってるよ。だから寝ずに民が納得出来る仕組みを考えてるんだろ。一番その事で焦って苦しんでるのはあいつだよ」

 墨のついた手を洗い、ついでに顔も洗って、濡れた顔を拭い空を見上げた。

 秋空は雨雲にどんよりと覆われている。

 木立がざわざわと不吉に音を立てる。

 ふと、城の一角に目を止めて。

 開かれた窓が何を意味するかーー深く考える間も無く朔夜は走り出していた。

 階段を一段一段上がるのがもどかしい。低身長の短い足を呪いたい気分で段から段へと跳んで昇る。

 それでも常人から見れば有り得ない速度と跳躍力なのだが、朔夜はいつもの戦闘時の速度が出せていないという(じれ)ったい感覚しかない。

 やっと昇り切って、廊下を駆け抜け、扉を体当たりでぶち破り。

 今にも宙に浮きそうな身体へ飛び付いて、腰を抱えて現実へと転び倒した。

 二人、縺れあって倒れたまま、動けず。

 息を乱し、かたく抱いていた腕を解いて、朔夜は龍晶の顔を覗き込んだ。

 目は薄く開き、口元にも力は無い。青白い顔で、震えるでもなく、ただそこに倒れている。まるで屍のように。

「龍晶…おい、しっかりしろ」

 頬を叩く。正気に戻った風も無く、ただ一言、ぽつりと言葉が漏れた。

「なんで止めた…」

 開け放たれた窓から乱暴な風が吹き抜けた。

 風は龍晶の辛苦を纏め上げた書類を巻き上げ、彼らの上に振り落とした。

 桧釐がやっとの思いで二人の元へ駆け付けてきた。

「どうしたって…一体…」

 彼からしてみれば、突然に朔夜が駆け出したのを追ってきてみればこの状況だったというだけで訳が分からない。

「なんでもない…桧釐、窓、閉めて」

 朔夜はそれだけ言うのがやっとで、のろのろと馬乗り状態だった龍晶から離れた。

 訝しみながらも桧釐は窓を閉める。そしてその目を朔夜へ向けた。

「何があった」

 朔夜は迷っていた。今あった事を言うべきか。

 言ったら、取り返しのつかない事になりそうな気がして。

 桧釐はそんな朔夜の迷いを捨て置いて、未だ倒れている龍晶の襟首を掴んで問うた。

「飛び降りる気だったのですか」

 首元だけ起こされた頭は頷いた。その顔は上がらず項垂れていた。

 桧釐は目で合図し、その身を朔夜に託して立ち上がった。

「陛下はご病気だ。戴冠されるまでご療養頂く」

「…桧釐…!?」

 信じられぬ言葉に朔夜の方が血の気が引いた。

 それ以上の言葉を許さず、彼は朔夜に言い下した。

「陛下には後宮の御殿にお移り頂く。特例として、お前がお(そば)に仕えるように手配する。異存は無いな」

 何から反論すべきか、言葉を詰まらせているうちに桧釐は去って行った。

 苛立ちを荒い声に変えて、とにかく冷静になれと自らに言い聞かせ、抱えているその人の事を思い出す。

 ここで何か言わせねば、状況は更に悪化する。

 だがその目を見て諦めた。

 自ら何かを見る目では無かった。

 全てを他に委ねた、操り人形のような。

 そして思い出した。こいつはそうやってこれまでの半生を過ごしてきたのだと。

 誰かに、また何かに操られるがままに生きる権利も死ぬ権利も奪われてきた。

 そう、それはーー戦の道具と言われてきた自分と同じだ。

 妙に冷えた身体を、一度強く強く抱き締めて。

 その耳元に言った。

「俺はお前の味方だ。何があっても、お前の生きたい道を行かせるから」

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